ナンガ・パルバット峰へ銀鞍1983年・・・ヘルマン・ブール初登ルート
その2
                                                               記録:坂原忠清

ジルバーザッテル・・・銀の鞍、
何と響きの良い美しい言葉であろう。
あの雄大な銀の鞍に跨るのは、ギリシャのデルフォイへ赴くアポロンであろうか、
それともペガソスに乗って天へ昇ろうとしたベレロフォンだろうか。

ベレロフォンはペガソスに振り落とされ銀の鞍から落ちた。
銀の鞍を目の前にして初登頂までに散った
31名のベレロフォンに私は想いを寄せる。

海外登山記録

Contents  
   ヒマラヤ登山記録  チベット 1998~2006年
《A》 ヨーロッパ・アルプス(アイガー、マッターホルン、モンブラン) スイス、フランス 1975年7月~8月
《B》  コーイダラーツ初登頂(5578m) アフガニスタン 1977年7月~8月
《C》  ムスターグアタ北峰初登頂 (7427m) 中国 1981年7月~8月
《D》  未知なる頂へ (6216m) ビンドゥゴルゾム峰 パキスタン 1979年7月~8月
《E》  ヌン峰西稜登頂 (7135m) インド 1985年7月~8月
《F》  ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m)  その1 パキスタン 1983年7月~8月
《F2》  ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m)  その2 パキスタン 1983年7月~8月
《G》  ナンガ・パルバット西壁87 (8126m) パキスタン 1987年7月~8月

中央アジア遠征峰

     



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≪26≫ 第一氷瀑下降点

 
氷瀑帯入り口であるここから
氷河の迷路が始まる。
7㎜のザイルを固定し
荷上げの通過を安全にする。

氷壁を30m程
アップザイレンで下ると
ラピネンツーク(雪崩の通路)に出る。
大小の氷塊がゴロゴロしている。
その上縦横無尽に
クレバスが走っており、
雪崩の真只中に居て、一瞬時間を
停止させたような風景である。

何かの拍子で氷全体が
一勢に動きだしそうなのである。
ラピネンツークを超え
反対側の氷塔を登ると
深いクレバスが縦に走り行手を阻む。

隣の氷塔に跳び移らねばならない。
1m程の幅なので
跳べないことはないが重荷を
背負っている上に
氷塔そのものが脆く、
今にも崩れそうである。
ここにも
ザイルを固定することにする。


降雪の氷瀑帯入口、固定ザイルを登る鈴木

氷塊を削り支点を造りザイルを結び、
おもいきって
向こう側の氷塔へ跳び移る。

そこで再び氷塊にザイルを結び
しっかりとザイルを固定する。

次に前方の巨大な氷塔を避け
右の氷塊の間を進み、
氷塔が縦に裂けた割れ目に入る。
割れ目の底は
新雪に覆われていて一歩踏み出した
とたん落下し胸まで沈んで止まる。

やっとのことで這い上がり
落ちた穴をのぞくと遥か下まで
暗闇が口を開いている。
隠されたクレバス
(ヒドンクレバ ス)
至るところにあるのだ。
そこからは更に慎重に
雪面に深くピッケルを刺し込み、
ヒドンクレバスを探しながら前進する。

やがて右も左も上も下も
氷に囲まれ完全な迷路になる。
氷に穴を開け赤旗マークを立てる。
だが数に限りがある。
やたらとマークを
立てるわけにはいかない。
さりとてマークがないと
吹雪になった時動きがとれなくなる。
慎重にマークポイントを選ぶ。


≪27≫ 氷瀑帯突破

確かに左側の氷瀑帯に
ルートはあった。
オーバーハングした氷瀑帯に
近ずくには
一度氷塊の底に降りねばならない。

70㎝のスノーバーを氷に
打ち込みアップザイレンで下る。
巨大な無数の氷塊が
急峻な岩壁に危うくとどまっている。
ほんのちょっとしたショックで
氷瀑帯全体が
大音響と共に崩れ落ちそうである。

実際、降りた地点の
30m下方は氷塊が崩れ去り
岩壁が剥き出しになっている。
氷塔の間のトンネルをくぐり、
クレバスにザイルを張り
迷路のような氷瀑帯の中に
ルートを拓く。

絶望的だと思われた左の氷瀑帯は
突破できた。
氷塊の下部がキーポイントであった。
ここを抜けると広大な雪原に出る。
雪原右の空高く
ジルバーザッテルの入り口が見える。

 


第一氷瀑帯中央、氷塊の上に立つ松井

何度も目にした、なつかしい
写真の通りのジルバーザッテルが
そこにある。
撮影場所は氷瀑帯のほぼ中央である。
危険にみちてみちてはいるが
氷瀑帯の中は美しい。
生きている氷の世界である。

一瞬を無限大に引き延ばして
ほとんど動きの止まった滝の中を
想像したら、氷瀑帯の世界が
理解できるかも知れない。
目に見えぬ力がゆっくりと移動し
巨大な氷塊のバランスを
一刻一刻と崩していく。

そしてある瞬間、力の集積は
頂点に達しカタスタロフが生じる。
静止していた世界は突如
大音響をたて砕け散る。
カタスタロフは繰り返され
氷河は流れる。

何千トンもの氷塊が
カタスタロフを起こす瞬間に
出会ったら最後、
肉体は影も形もとどめないであろう。
それゆえに氷瀑帯は
かくも魅力的であるのかも知れない。


≪28≫ カタストロフィの海

10年間履いた革の二重靴が
古くなったのでプラスチックの
二重靴スカルパを
小西政継氏のすすめで準備した。

こいつがなかなか足になじまず
連日私と松井は靴と格闘していた。
キャンプ3建設のため
キャンプ2に入った松井は、
足の痛みについに耐えきれず
荷上げ隊の博夫と急遽交代、
キャンプ1へ下る。

翌8月6日私と博夫は
氷瀑帯の偵察に出かけたのだが
ルートは発見できず。
この夜は
博夫の虫歯が痛み出し眠れず。
日数は残り少ない。

ハイポーターはいない。
隊員はダメージを受けている。
しかし休むわけにはいかない。
ルート工作と
荷上げに今日も出かける。
晴れた日の荷上げは実に暑い。

ヘルメットをかぶっていると
頭が蒸し焼きになる。
氷の崩壊を考えるとヘルメットを
脱ぐわけにはいかないのだが
暑さにはかなわない。

 


第一氷瀑帯上部、空中に浮いた氷の上を進む坂原
手拭を二枚重ね間に雪を入れて
海賊巻きにすると
頭が冷たくて調子が良い。
愛用の赤いヘルメットは

氷瀑帯の出口に置いて、
氷瀑帯の通過時のみに着用する
ことにしたが
最後は氷河に置いてきた。
私のささやかなナンガーへの
プレゼントである。

この写真は氷瀑帯の上部である。
よく見ると氷塔そのものに
無数の穴が開いており、
氷河自身の重みによってプレスされて
できた初期の氷塊でないことがわかる。

何度も崩壊した氷が
積み木細工のように盛り上がり、
危ういバランスを保って再び
崩壊する瞬間を待っているのである。
したがって足元も
安定しているように見えるが
実は穴だらけで
空中に浮いているようなもんである。

正しく「カタスタロフの海」である。
常日頃、無神論者の私も、
この時ばかりは神も仏も
大歓迎であった。



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≪29≫ キャンプ3  

8月9日、キャンプ3を求めて3度目のアタック。
7日の2度目のアタックで上部クレバス帯5790mまで達し荷上げ品をデポしているので、
キャンプ3設営の目途は立っている。
本日は4人で荷揚げを行い私と博夫でルート工作を行い、松井と釣部を後続にして一気にキャンプ3を目指した。
途中ザイルを張り8ミリカメラを回しラッセルを切る。

テント設営可能な第二プレートに出たのが17時05分、早速キャンプ2にもどる時間はない。全員ビバークを決意。
テント、ガスはあるものの羽毛服、寝袋はない。着のみ着のままの寒くて眠れぬ夜をすごす。
翌10日、ビバーク後の疲労した肉体に鞭打ち
第二氷瀑帯を超え、北東稜下部の大プラトーに出るため荷をかつぎキャンプ3を後にする。


クレバスの幅が大きくなり
巨大なビルディングのような
氷塊が累々と重なり、
一歩ルートを誤ると最初から
ルートファインディングを
やり直さねばならず神経を使う。

標高6050mにキャンプ4設営。
ザイル、ガス、スノーバー、
マーク、食糧等をデポし
疲労困憊した肉体に
キャンプ2へ下る命令を下す。
日没直後にキャンプ2に着く・・・

C3への荷上げを終え熱いミルクを沸かしている釣部
キャンプ3(5940m)は
ラキオトの右氷河と
中央氷河の分岐点より上部に懸かる
ラキオト上部氷河の
ほぼ中央にある。

キャンプ2のある下部氷河の
上部にある氷瀑帯を
第一氷瀑帯と名付けたが、
キャンプ3のすぐ上にも
氷瀑帯があり、
これは第二氷瀑帯と呼んだ。

第二氷瀑帯を超えたところに
キャンプ4を設営し、
ルート工作を終えてから
キャンプ3は撤去し
キャンプ4に上げた。


≪30≫ 第二氷瀑帯の逡巡  

8月13日、キャンプ4設営後3日目に再び氷瀑帯に入る。
巨大な氷塊の間に立てられた赤いマークを追って、忠実に前回拓いたルートをたどる。
高さ2、30mのアイスビルディングの底をしばらく進むと、大クレバスに行く手を阻まれる。
そこから空中に浮いたような大セラックの上部へ出るのだが、
何と3日前通過できたセラック基部のクレバスは2m以上開いてしまった。

今日からキャンプ4に入るため私と松井のザックは個人装備と荷上げ品がたっぷり詰まっている。
荷を背負ったままこのギャップを跳べるか。うまく飛べたとして固定ザイルをどうセットしたら良いか。
失敗したら松井がザイルをスライドさせて止めても20mは落ちる。
跳ぶ以外の方法があるか。


しかし我々はクレバスに架ける
梯子を持っていない。
幅3mというのは
飛ぶのに絶望的な距離である。

平地ではとても跳べない。
まして思いザックを
背負っているのである。
しかしクレバスの場合は
成功の可能性はある。

クレバスはV字に切れているため
下にいく程幅が狭くなる。
両手にピッケルとアイスバイルを
構え両足の先に突き出た
アイゼンの爪を利用して
一気にジャンプするのだ。


第二氷瀑帯、クレバスの縁に立ち逡巡する坂原
たとえ飛び移れることが
できなくても両手両足の4点の
鋭利な金属は、しっかり
氷に食い込みV字に切れた氷壁に
身体をとどめてくれることもある。

4年前の遠征でもこれを
数回試み
失敗したのは1度だけであった。
やってみるだけのことはある。
だがもし落下し骨折したら
少人数隊の我々は
登頂を断念せねばなるまい。

クレバスの端に立ち
意を決しかね苦慮する。
クレバスの深みが青黒く輝く。


≪31≫ クレバスの底から

飛ぶのを断念した。
クレバスの底に降りて反対側の
垂壁を登りセラックの上に
出ることにした。
重いザックを背負っては
とても登れない。

ザックを下に置いて氷の垂壁を登る。
ワンタッチバックル式の
アイゼンをけり込む。
氷壁の角度が急で12本の爪の
うち先端の2本しか刺さらず、
残りの爪は宙に浮いてしまう。

アイスバイルとピッケルを
交互に打ち込み、
じりじりと高度を稼ぐ。
手袋をせずに登りだしてしまった為
カッティングした氷の粒が
手にふりかかると
冷たいのを通り越して痛い。

両手をマッサージしながら
セラックを登る。
セラックの中段で松井と
アンザイレンしているザイルが
足りなくなる。


第二氷瀑帯上部、セラックの垂壁を登る坂原

確保点を作らねばならぬが
スノーバーがないので
氷に直径2m程の丸い刻みを入れ
ザイルを入れ固定する。
氷茸と呼ばれるビレーポイントである。
まず私のザックの吊り上げを行う。

1度目はクレバス壁の
オーバーハングした部分に引っ掛り
うまくいかず2度目に成功する。
このクレバスかの底から
セラック上部に出るだけで
1時間以上を費やしてしまった。

しかし結論として2m以上ある
クレバスを飛び越す試みを
実行しないでよかった。
もしやっていれば今頃、
血みどろになってクレバスの底で
うなっていたかも知れない。

剃刀の刃のような
セラックの上部を這っていく。
上部プラトー手前のクレバスに
架かるアイスブリッジが崩壊している。
今にも落ちそうな崩壊ブリッジの
氷の先端に立ち
反対側のセラックにジャンプする。

ジャンプと同時に
乗っていた氷が崩れ落ち
クレバスの深みに吸い込まれる。
かろうじてアイゼンとピッケルが
氷に食い込みセーフ。



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≪32≫ キャンプ4へ  

右のテントはC3に設置したものである。ルート工作が終わった後、このテントをC4に上げ、
キャンプ数を3つに減らしC4をABC(アタックベースキャンプ)にした。
左のテントには「PEKT'80」、右には「KEKT'81」とマークが吹き付けてある。
1980年のペルーアンデス、1981年の崑崙山脈・ムスターグアタ遠征時に、夫々使用したテントである。

思い出深いテントではあるが悪天の退却時に撤収できず、この場に残されたのである。
テントよ安らかに眠れ。

標高6050m、キャンプ4の
雪原は素晴らしい。
南西の空高く雄大な2本の角を
突き立てたジルバーザッテル。
真南にピラミダルな
ラキオト峰7070m。

北東に連なる
純白のチョンラ山群6830m。
真北の下方にかわいらしい
ブルダール山群5602m。
北西の遥かなる眼下に
巨大なS字を描いて
蛇腹を見せるラキオト氷河。


あまりにもばかでかい空間と
壮大な地表の起伏

純白の雪が薔薇色に染まり
夕闇の紺青と微妙な
コンツラストを見せ、
壮大な地表全体が神秘的な
光に包まれる。

ただうっとりとながめる。

「素晴しいなー。
これを見ただけで苦労して
都合した数百万円の価値あり」
と松井と話す。
何を考えたか突然、松井が
服を脱ぎ上半身裸になる。


キャンプ4

写真を撮ってくれと言う。
ジルバーザッテルをバックに
ヌード撮影会となる。
その後2人で新雪を
タオル代わりにして
体を部分的に雪浴させる。

氷の硬い粒が
鳥肌のたった皮膚に鋭く食い込む。
標高6050mの暮色迫る
雪原氷河の真只中で2人を
狂気にかきたてた物は何か。

2つの氷瀑帯を突破して
北東稜線下部のプラトーに
設営されたキャンプ4。
本日より人間が入り、いよいよ
チョンラ峰、ラキオト峰、
ナンガー主峰へと攻撃が開始される。

とてつもなく遠く困難であった
我々の夢、
ナンガーパルバットの頂が
我々の射程距離に入ったのだ。

小さなテント内は
軽い興奮に満たされる。
写真下のピークはラキオト峰。
長い影を曳いて
キャンプ4へ向かうのは坂原。
撮影は松井

 


第二氷瀑帯を抜けてC4へ向かう坂原
 


≪33≫ 交信 キャンプ4より  

不可能を可能ならしめるための作戦はただ1つしかない。
ママリーの初挑戦より58年間、国をあげての本格的なドイツ隊の攻撃が始まって21年間、ナンガーは初登頂を許さなかった。
ドイツの執拗な7回にわたる攻撃と31名の犠牲者の果てに、北面のルートはやっと征服された。
このルートをポーターなし、わずか4人の隊員で荷上げし、
2週間で登頂しようという今回の計画は、どう考えても痛快である。
高所順応期間とナンガー特有の悪天のリスクを考えただけで、攻撃日数2週間では不可能である。


低圧室利用の積極的な作戦を立て、
不可能を可能に近ずける
努力をしてきたが
最後のタクティクスについては
1人の胸に秘めておいた。

機は熟した。
今こそ全キャンプの隊員に
最後の作戦について
同意を得なければならない。
この長大なルートを
ベースキャンプから
アルパインスタイルで登るのは
不可能である。

作戦はただ1つ。
チョラン峰のある北東稜まで
4人でルート工作と荷上げを行い、
キャンプ4をABC(前線基地)とし
最強の2名を
アタッカーとし、ABCより
アルパインスタイルで
一気にナンガー頂を目指す。

キャンプ4で下部キャンプと交信する坂原
この2名のため
苦しく困難な氷河の荷上げと
ルート工作をすることが
最初からわかっていては、
遠征計画は成立しない。

もちろん全員登頂が
ベストであり今までの遠征では
それを実行してきたが、
今計画では不可能である。
誰をアタッカーにすべきか、
私は告げなくてはならない。

「松ちゃんと
博夫に行ってもらいます。」

ここキャンプ4からなら、
天候さえ良ければ
90%以上成功まちがいなし。


≪34≫ ラッセル  

高所では常に苦痛と困難がつきまとう。
雪崩、ヒドンクレパスへの転落、氷壁での滑落、強風、吹雪、低酸素による脳浮腫、肺水腫、そして重い荷、ラッセルの苦しみ。
数え上げればきりがない。
それらの苦痛と恐怖を自分の意志で完全に掌握しコントロールできないと前進は不可能である。
もちろん我々は多くの経験と実践を通して、少なくとも自分のコントロールはできるよう訓練はしている。

しかし自分のコントロールはできてもザイルを組み共同で行動し、苦痛と困難に立ち向かう時、新たな問題が生じる。
2人が一体となって行動できれば作業能率は2倍以上になるが、
2人の意志かみ合わないと非常に危険な状態になる。


時にはザイルシャフトの全滅
という結果をもたらす。
その点アタッカーに選んだ
松井と博夫は申し分ない。
2人で組めば2人以上の力を
発揮できるザイルシャフトである。

松井はアンデス、中国、
アフリカの山々を登り
ベストコンディションにある。
ただ今まではあまりにも
容易に登頂し、
死を直前にした
困難を経験していない。

そのため危機に直面した時
判断に甘さが生じる可能性がある。

第一氷瀑帯の上、トップでラッセルする博夫、重い荷に喘ぐ松井
博夫は遠征2度目だが
最初のパキスタン遠征では、
ラキオトの氷瀑帯より
はるかに困難な氷瀑帯の中で
行動し何度か死と対峙し、
かろうじて初登頂をはたしてしる。

だがこの貴重な経験を生かして
積極的な判断を下すには、
あまりにも博夫の性格はやさしすぎる。
最悪の場合は
どちらか一方がサポートに回る
単独登頂を指示しておいたが、
博夫にはできないであろう。

体力、技術共にベストにある
2名が登頂に成功するためには
事故を起こさないことである。


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≪35≫ 山頂の2人の翳  

深い霧と降雪。進むにつれて視界は閉ざされる。
雪と氷だけの白い世界を白一色の濃密なガスがすっぽりと覆い尽す。完全なホワイトアウトだ。
現在位置の確認もできないままヒドンクレパスに脅え、うろうろとザイルを引きずり回る。
午前10時半、更に降雪量が増してきたので帰幕すら危うくなってきた。今ならまだラッセルルートがあるのでキャンプ4に帰れる。

意を決しチョラン登頂を断念し、消えつつあるラッセルを追う。
午後1時、キャンプ4のテント内が明るくなった。「チャンスだ」我々には時間が無い。
今日チョランの頂に立ち北東稜の偵察をしておかないと、今後の作戦決定ができない。

再びキャンプ4を後にし
チョラン南峰に向かう。
余りにも時刻は遅いが飛ばせば
夜までには山頂に達するであろう。

しかし太陽が雲間に
姿を見せたのはほんの一瞬で、
出発と同時に再び
深いガスに捕らえられる。
クレバスを右に左に避けながら
コンパスと直感を頼りに
北東へ進む。

西壁下部で下部キャンプと
交信を試みながら、
アタックすべきか退くべきか迷う。
迷いをふっ切り前進続行。
ルートがわからず
北東に直進すると氷壁にぶちあたる。

山頂の雪庇に落ちる松井と坂原の翳(左の雲の中にK2)

氷壁は上部にいく程傾斜が強くなる。
アンザイレンはしていても
確保せずコンテニアスで登る。
ダブルアックスで
ぐんぐん高度を稼ぐ。

アイスバイルで割られた氷が
すごいスピードで
足元の空間に吸い込まれていく。
突然視界が開けた。
雲海上に出たのだ。

雪と氷の山頂は、たおやかな
ふくらみを見せ急峻な
氷壁の上部に連なっていた。
山頂に立つ。
落日寸前の太陽が2人の影を
頂稜の雪庇上に長く落とした。


≪36≫ チョンラ登頂  

深い霧と降雪。進むにつれて視界は閉ざされる。
雪と氷だけの白い世界を白一色の濃密なガスがすっぽりと覆い尽す。完全なホワイトアウトだ。
現在位置の確認もできないままヒドンクレパスに脅え、うろうろとザイルを引きずり回る。
午前10時半、更に降雪量が増してきたので帰幕すら危うくなってきた。今ならまだラッセルルートがあるのでキャンプ4に帰れる。

意を決しチョラン登頂を断念し、消えつつあるラッセルを追う。
午後1時、キャンプ4のテント内が明るくなった。「チャンスだ」我々には時間が無い。
今日チョランの頂に立ち北東稜の偵察をしておかないと、今後の作戦決定ができない。

再びキャンプ4を後にし
チョラン南峰に向かう。
余りにも時刻は遅いが飛ばせば
夜までには山頂に達するであろう。

しかし太陽が雲間に
姿を見せたのはほんの一瞬で、
出発と同時に再び
深いガスに捕らえられる。
クレバスを右に左に避けながら
コンパスと直感を頼りに
北東へ進む。

西壁下部で下部キャンプと
交信を試みながら、
アタックすべきか退くべきか迷う。
迷いをふっ切り前進続行。
ルートがわからず
北東に直進すると氷壁にぶちあたる。

山頂に立つ坂原

氷壁は上部にいく程傾斜が強くなる。
アンザイレンはしていても
確保せずコンテニアスで登る。
ダブルアックスで
ぐんぐん高度を稼ぐ。

アイスバイルで割られた氷が
すごいスピードで
足元の空間に吸い込まれていく。
突然視界が開けた。
雲海上に出たのだ。

雪と氷の山頂は、たおやかな
ふくらみを見せ急峻な
氷壁の上部に連なっていた。
山頂に立つ。
落日寸前の太陽が2人の影を
頂稜の雪庇上に長く落とした。

山頂に立つ松井
 


≪37≫ チョンラ稜線  

あれ程威圧的であったチョンラ山群も上から見ればかわいらしいものである。
山巓に立つと非情な山塊が一瞬にして、親しみのある箱庭の風景になる。
鋭い寒気と風雪によって削り取られた山稜は、ひらひらと宙を舞うように自由自在な曲線を描き地表の高みの限界を示す。
手前の雪ピークがチョンラ中央峰(6455m)、奥がチョンラ主峰(6830m)である。

更にその先、北方にはインダス河があり、カラコルム山脈があり、更に北に
2年前我々が登ったムスターグアタがあり、
シルクロードのオアシス都市カシュガルがあり、天山山脈があり・・・・・・
思いは全方位に広がり瞬時、追想に襲われる。


西方には悪戦苦闘して
初登頂したビンドウゴルゾムがあり、
我々が登頂し命名した
アフガニスタンの山があり、
更に懐かしい
ヨーロッパの峰々がある。

南には楽しい山旅をしながら
登ったキリマンジャロや、
陽気で明るい南米にそびえる
アンデス山脈の
氷の山・ワスカラン峰もある。

絶頂に立ったこの瞬間は
何と満ち足りた
贅沢な濃密な一瞬であろうか。
遠征遂行のため
累積された長大な時間と努力が、
この一瞬に開花し
静かな感動が幾つもの輪を
描きながら波動する。

チョンラ南峰から北北東を望む
とらえどころのない自己の実在感が、
この時ばかりは
くっきりと鮮明な像を結ぶ。
不可思議な快い瞬間である。


それにしても
チョンラは不遇な山である。
巨峰ナンガーパルバットの手前に
あるため常にナンガーを
登るついでに、
ウォーミングアップするような
気持で登頂されるのである。

ドイツ隊もチェコ隊も
我々日本隊もそうであった。
せめて山頂に居る間は
ナンガーへの想いを断とう。


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≪38≫ ナンガ・パルバット主峰見ゆ  

チョンラ山頂より見た長大な北東稜全景である。
左手前の稜線がラキオト氷河の源頭であり、穏やかにラキオト峰へと延び上がっていく。
ラキオトの頂上には明瞭なオベリスクが見える。一見、人間の建てたモニュメントのようである。
北東稜はここで大きく右に折れ真西に向かい、ジルバーザッテルへと連なる。

写真右の岩峰はジルバーザッテル入り口の左に立つ南東峰である。
この南東峰の左にやや丸みを帯びたナンガーの主峰がようやく顔を見せる。
北面からナンガーに入るとここまで登らないと主峰はみえないのである。
何ともはや遠い山である。ジルバーザッテルに入るとルートは南西に折れ、穏やかなスロープが2.5㎞続く。

ジルバーザッテルの出口
バツインシャルテから
真南に約1㎞岩稜がせり上がり、
8070mの肩を形成した後、
長大なルートはついに
主峰8126mの山巓に至る。

技術的には大した場所は
ないのだが標高7000mを
超えてから頂上までの6㎞もの
長い稜線上に身を晒し、
希薄な大気に耐えなければならない。

8000mを超える
ヒマラヤの巨峰
14座中、
これ程までに過酷で
長大なルートは
ナンガー北東稜以外にはない。

チョンラ南峰から南南西を望む
酸素ボンベを使わない我々に
とっての最大の課題は
低酸素との闘いである。

出発直前に名古屋大学の低圧室に
5日間入り8000mの高度まで
圧力を落とし、
体力トレーニングを行い
このルートに耐えるための
肉体改造を試みた。

ムスターグアタ短期登頂の時も
同じトレーニングを行い成功している。
勝算は充分にあり。
後は天候だけである。

長大なルートが吹雪に襲われたら
生還できる見込みは
極く少ない。


≪39≫ 八ミリ動画撮影  

チョンラ登頂を終え、日没と競うようにして氷河上のキャンプ4に向かう。
最後の太陽を八ミリに収める。少人数短期遠征で八ミリを回すのには大きな困難がつきまとう。
ハイポーターがいないので必要最小限度の物資の荷上げさえ充分にはできない。八ミリや八ミリのフィルムは余分なものである。
八ミリを上げる代わり何を削るかまず問題になる。次に撮影時間をどうとるかである。

ルート偵察、ルート工作、荷上げに精一杯で八ミリカメラを回すゆとりが無いのである。
3番目には疲れていて撮影意欲を掻き立てるのはむずかしい。カメラのようにハイ、パチリでは済まない。
八ミリを固定し息を止めてシャッターを押し続ける。空気の薄い高所では大変苦しい作業である。

それでも私はこの八ミリを離さず、
遠征の度に頂上まで
持ち上げ撮影を続けてきた。

3回の初登頂を含め
多くの登頂を共にしてきたが、
遠征の度にダメージを受け
カバーを風にさらわれ、
フードが飛ばされ今は
本体しか残っていない。

今回も頑張って撮影し
40本、
2時間分、600m以上の
フィルムを回し続けたのである。

撮影するため
パートナーとのザイルを
はずさねばならぬことも
しばしばあった。

寒くて旗の結び目が解けず旗を付けたまま撮影機を回す坂原
キャンプ2下の
大きなヒドンクレバスが断面を見せ、
撮影にもってこいのチャンスが
あった時もザイルを解き
ヒドンクレバスの通過を
とらえたことがあった。

雪崩を撮るには常に
八ミリを持っていないと間に合わず、
1日中手に持って
行動することもある。
総ての苦労は素晴らしい編集が
完成すれば吹き飛ぶのだが、
映像が悪かったり
音入れがうまくいかなかったり、
落胆することばかり。

それでも撮る。



≪40≫ ナンガ主峰への準備  

キャンプ4からナンガー主峰を踏んでキャンプ4にもどるまでを私は4日間と計算した。
高所用テントとガス、食糧を持ってここからアルパインスタイルで進む。
1日目はややハードであるがラキオト氷壁を超えてモレーンコップまで。
二日目は余裕を持たせ行動時間を4時間としてジルバーザッテルまで。3日目はジルバーザッテルより主峰往復。

4日目はジルバーザッテルよりキャンプ4まで下山。
ドイツ隊、チェコ隊の記録を暗記してしまう程読み研究した結果、これで充分と私は判断した。
もちろん天候が悪化しないこと。途中で事故を起こさないこと。
アタッカーの体力気力がベストであることを前提としてはいるがこれ等の危惧を考慮して
更に2日の予備日を加えれば充分である。


アタッカーの生還を
フォローアップするため
キャンプ4に1名、
ベースキャンプに1名を配し
正確な気象観測と予測を行い
アタック隊の行動を指示すれば
最悪の事態は避けられるであろう。

2日目のモレーンコップから
ジルバーザッテルまでの
ルートは特に楽である。

ヘルマンブールはアイゼンも
穿かず稜線を歩き3時間で
ジルバーザッテル下に達している。
作戦に無理はない。

キャンプ4のテントの前に装備を出し点検する坂原
あとはアタッカーの体力の消耗を
防ぐため1gでも多く、
荷の重さを減らすことである。
食糧、装備をテントの前に広げ
入念にチェックする。

酸素は最後まで迷ったが
重いボンベはキャンプ4に残し
軽いキャンドル式を
持参することにした。

酸素は行動中はもちろん睡眠中も
吸わぬ計画であるが、
登頂後の高度障害が心配なので
医療用にのみ持参する。

この作戦はやり直しがきかない。
日数も食料も
1回の攻撃で尽きる。

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≪41≫ 銀鞍(ジルバーザッテル)  
北東稜稜線直下。右:鈴木 左:釣部

ジルバーザッテルー銀の鞍。
何と響きの良い美しい言葉であろう。
あの雄大な銀の鞍に跨がるのは、
ギリシャのデルフォイへ赴く
アポロンであろうか?

それともペガサスに乗って天へ
昇ろうとしたベレロフォンだろうか。
ベレロフォンはペガサスに振り落とされ
銀の鞍から落ちた。

銀の鞍を目の前にして初登頂までに
散った31名のベレロフォンに
は私は想いを寄せる。

内側から突き上げ、
込み上げる生の激情に身を委ね
闇雲に突っ走り、
自らのテリトリーを押し広げようと
地表の果て,銀の鞍にやってきた男達。
そして銀の鞍に触れることもなく
散っていた男達。

銀の鞍にたとえ触れたところで、
更にその先には広大な空間が深遠な口を開いて
いるのを知りつつ銀の鞍を目指した男達。

生きるという行為は畢竟、
そういうものであろう。
最初に銀の鞍を超えたヘルマンブールも登頂後、
チョゴリザ(7665m)であっけなく死んだ。

私達がたとえ東の国からやってきた
ベレロフォンになっても、
ほんとうは悔いることはないのだ。
銀の鞍が、かくも美しく雄大であれば
それだけで充分なのだ。
天空に架かる銀の鞍の彼方を目指して、
いよいよ闘いが始まった。
自己の肉体と精神が
極限まで追い詰められても尚、登高意欲を
持ち続けられる者だけが山頂に立てる。

ブ-ルは極限状況下で
麻薬ペルベティンを飲み続け
山頂に立ち生還した。
ここから1㎞稜線を進むと
ラキオト氷壁の下部に達する。

標高差500m程のラキオト氷壁を超え、
右にトラバースすると
モレーンコップに通ずる
北東稜上部に出られる。
ブ-ルの最後のキャンプ地である。



≪42≫ 北東稜上の雪原  
朝日を浴びる北東稜上の雪原


北東稜は予想外に複雑なクレバスを
多数擁した起伏の激しい稜線であった。
メルヘンビーゼやベースキャンプから望むと、
斜度の緩い単純な稜線に見える。

稜線上は鼻歌でも歌いながら
歩けそうであるが、
アイスビルディングの隆起にさえぎられ、
北東稜線下の雪面しかルートは採れない。

つまり稜上には出ず
ラキオト氷河源頭部の急斜面を
トラバースしながら
北東稜に平行に進むことになる。
写真は北西の雪面から
北東稜を見上げたものである。
朝日を浴びてアイスビルディングが
長いシルエットを落し、何とも穏やかで美しい。
初登頂までに多くの
命を奪った魔の山とはとても思えない。

しかし確かに一たび吹雪になれば、
独立峰であるためすさまじい風が吹き
10㎞を超える長大な氷のルートを
地獄に変えるであろう。
吹雪のもたらした地獄が一夜明けると
快晴の空の下、こんなにもやさしい顔を見せる。

この女神のような微笑みに魅せられ、

1
人又1人と生命を失っていった。
ベースキャンプには風向計、
気圧計等が定点セットされている。
女神が夜叉になる瞬間は予測できる。
2人のアタッカーは
何としてでも生還させねばならない。
だがハイポーターなし
2人の支援隊員では
救出作業は不可能である。

ベースキャンプから指示を出しても、
指示を実行できるだけの力を
持っていなければ
アタック隊は自滅する以外にない。

この方法は何も今に始まったことではない。
我々の今までの遠征は
総てこの方法であった。
少人数短期遠征を余儀なくされている
我々にとって避けられない道である。
幾多の危機に直面してきたが、
今までは、この方法で一度も我々は
失敗していない。さて。



≪43≫ ラキオト前衛峰  

北東稜のラッセルは、せいぜい膝くらいまでであったが重荷と高度、ラッセル距離の長いことなどから
決して楽なアルバイトではなかった。
ラキオト峰の2㎞手前にラキオト峰とよく似た標高6300m程のピークがある。
ラキオト峰はこのピークに隠れていて見えない。ベースキャンプから観察する限りこんな立派な突起があるとは予想できない。

ラキオト峰そのものでさえベースキャンプから見ると、
長大な北東稜の彼方に消えてしましそうな小ささに見えるのだから予想できないのが当然かも知れない。
このピークを右に巻いて左の北東稜に出ると、すぐ目の前にラキオト峰が大きく立ちはだかる。
ピーク右の肩に向かって標高差500mのラキオト氷壁が延びている。前剣の雪壁と良く似ている。

現代の登攀技術をもってすれば
快適なダブルアックスで
2時間もあれば突破できるであろう。
前衛峰を右に巻いて
北東稜上に出ると穏やかに上る雪原が
ラキオト峰基部へと続く。

総ては予定通りであり今日の行動は、
このラキオト峰を超えれば
終わりである。
何の緊張感も無く
アンザイレンしたまま松井が
トップで博夫がその後を歩いた。

事故は何の前触れも無く、
この時、突然起きた。

 


ラキオト前衛峰下部から望むとこの写真のように峰に観える。
上部から観ると稜線の一部であり峰には観えない。
ラキオト前衛峰とラキオト峰間の
雪原状の稜線が陥没したのである。
幅10m横に
30m程開いた
大きなヒドンクレバスであった。

松井はクレバスに落ち
氷雪に埋没し姿は見えない。
雪の中から延びるザイルだけが
松井の存在を示している。
幸い博夫はクレバスの縁に居て
落下を免れる。

ピッケルを打込みクレバスの底への
下降を試みるが
ピッケルが抜け博夫もクレバスに
落下し、一瞬失神する。



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≪44≫ 事故現場手前のラッセル  

「こちらアタック隊。ベース感度ありますか」
8月16日朝の交信後、ブッツリと絶えていた無線を夜の定時交信でやっととらえた。

「こちらベース。感度良好、現在位置と2人のコンディションをどうぞ」
「松ちゃんがヒドンクレバスに落ちて雪崩の下に埋まってしまいました。
鈴木はクレバスに下降しようとしましたが、支点のピッケルが抜け落下し気を失いました。
気がついてから埋まったザイルを引いて松ちゃんの顔を掘り出しました。

ほっぺたをひっぱたいたら唸ったので全部掘り出し救助しました」
「現在の松井の状態はどうですか」「テントの中で寝ています。生命に別条はないと思います」
ヒドンクレバスを踏み抜くというのは私の計算では1%以下の可能性でしかなかったが事故は起きてしまった。

クレバスは幅10m横30m程の
大きなもので
雪崩が同時に発生したという。
博夫自身も動転しているし、
失神していたこともあり、発生状況が
正確に把握できないようである。

松井の埋没していた時間は
最初30分ぐらいと伝えてきたが、
その後10分となりそれも
自信が持てないようであった。

酸素欠乏による脳障害を最も恐れ、
酸素吸入を指示し今夜は
松井の様子を見ることにした。

いムルデと呼ばれている北東稜稜線下部。
このラッセルの先で事故が起きた。
事故はラキオト峰手前、
写真にある
ラッセルトレールの先でおこった。
翌朝、松井の容体をチェックするが
口の中が切れていて食物が
とりにくいことを除けば、
ほぼ正常であるという。

しかし事故のショックからか
下山を希望してくる。
「この程度の危機は
今まで乗り越えてきた
One of them
です」

との交信に対し2名は
しばらく相談し、考え、悩み、
ついに前進を決意する。
私としても苦悩の一瞬であった。



8月16日夜9時、モーレンコップ着。
降雪始まる。
昨日留守本部への手紙と
帰りのキャラバン準備のための
テレグラムを持たせ、
メールランナーをチラスへ走らせる。

我々に残された日数はもう無い。
あと12日以内に
日本に帰らねばならない。
キャンプ1まで
何度か登り荷下げを行い、
ベースキャンプの
荷の整理と梱包を行う。

アタッカーが返り次第
キャラバンに出発せねばならない。

風がゴーゴーと吠え、
ラキオト谷から上空へ吹き上る。
気圧計は下り、キャンプ1でも雪が舞う。
今日が太陽を見る
最後のチャンスかもしれない。

事故後、行動を開始したが、
スピードが遅く17日には
ラキオト峰を超えることができず、
18日の夜にやっと
モーレンコップに辿り着いた。

≪45≫ モーレンコップ


最終キャンプから見上げる銀牙(左:鈴木 右:松井)
ムーア人の頭とも呼ばれる
モーレンコップの長い岩峰の基部に
ドイツ隊の銅板の墓碑が
埋め込まれている。

初登頂を果たしてブールが
戻ってきた1953年7月4日、
フラウエンベルガーが
嵌め込んだものである。

ブールはここから食糧も持たず
アタックし、1日で山頂に達し、
山頂直下でビバークし下山した。
無事もどってきたブルーをむかえて
フラウエンベルガーは、
ここで抱き合って泣いた。

長い長いドイツ隊の闘いは終わったのだ。
天候が悪化した今、一刻も早く
下山させねばならない。
この稜線で吹雪にやられドイツ隊は
8人の命を失ったのだ。

4人そろってベースキャンプから
攻撃を開始して17日目、
よくぞこの短期間にここまで達したものだ。
晴れさえすればあと2日で
確実に登頂できる地点である。

「ごくろうさんでした。
慎重に下山して下さい」この瞬間
我々の短期速攻計画は
失敗に決定した。

モーレンコップ(中央の黒い四角)



≪46≫ 氷瀑帯下降

長く苦しい下降が始まった。
ザイルにつながったまま滑落したり、
ルートファインディングに
迷ったりして1日でキャンプ4まで
戻れなかった2名は、
翌20日夕刻、釣部の待つ
キャンプ4に無事帰幕。

ここから先の氷瀑帯には
固定ザイルが張ってあるが、
5日前に通過した時は
氷塊の崩壊が激しくルートは
著しく変化し
ザイルも寸断されていたので、
充分にザイルとスノーバーを持って
下るように指示する。

特にキャンプ2上部の悪戦苦闘して
拓いた第一氷瀑帯は、
完全に崩壊し
前のルートは消失している。

 

ザイル、スノーバー、を持たず
単独下降した私は
何度も下降不能になった。

その都度、垂直に近い氷の壁を
ピッケルとアイスバイル、
アイゼンに頼り、一歩一歩
慎重に降りねばならず精神的にも
肉体的にも疲労困憊した。

ザイルで確保してくれる仲間が
いれば滑落が即、死につながることは
ないが、1人で行動している限り
小さなミスも許されない。
死に直結するのである。

写真は問題の第一氷瀑帯を
下降中の博夫である。

アタック失敗で疲労した肉体を
引きずりながら重荷に耐え、
ひたすらベースキャンプへと
下降を続ける。
彼等のせめてもの慰めは
充分に用意したザイルとスノーバー。

これさえあれば氷瀑帯も
恐るるに足らずである。
その上キャンプ1まで頑張れば
食べきれぬ程の
桃と蜜柑の缶詰がある。
しかし行動は遅々として進まず。

ベースキャンプに彼等が着いたのは
夜中の12時を回っていたのである。
再び全員がメステントに集結し、
無事を祝してビールで
カンパイをし仮眠をとる。
明日はキャラバンを
組まなくはならいのだ。



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≪47≫ ベースキャンプ撤収  

ナンガーパルバット短期速攻計画は失敗した。
だがベースキャンプに集結した各隊員の表情は明るく一片の敗北感も見い出すことはできなかった。
あれ程までに恐れていたナンガー北面の初登ルートが少人数短期速攻という不利な条件を持った我々の隊でも
充分に登れることが証明されたのである。実に痛快な敗北だ。

持てる力の総てと持てる時間の限界まで使い、最後の最後まで一瞬のチャンスを追い求め続けたからであろう。
連日夜間まで行動し慢性的な睡眠不足と過労に苦しんでいるが8月中の帰国を実現するためには、
本日中にキャラバンを組まなくてはならない。昨夜も3時間の睡眠である。

眠いのを通り越して
意識も肉体も宙に漂い出し、
ハシシを吸っているような気分である。
1ヶ月間ベースキャンプに
翻り続け黄ばんだ国旗を降ろす。

1トン近くある荷を
ポーターの背負う25㎏に
調整し梱包する。
1週間分の仕事を数時間で
片付けねばならない。

風力計や寒暖計は
タトーの小学校に寄附する.
余った食糧はポーターに分けてやる。
このくそ忙しいのに
役立たずの連絡官の面倒まで
みなければならない。
「タバコをくれ」だの
「シュラフとテントをくれ」だの
うるさくまとわりつく。
「うるさい、今はだめだ」
と断るとむくれて
「ポーターの賃金を上げる」と
勝手にわめく。

ポーター頭さえ、あまりの
ガメツさに苦笑している。
遠征期間中我々の邪魔をし続けた
連絡官の顔ももうすぐ
見なくても済むようになる。

この年ナンガーでは
更に
4人死んだ。
生きて戻れたことを
神に感謝せねばなるまい。
小さな隊のささやかな試みは
こうして幕を閉じた。




素描終章

あらゆる行為が手段でしかないことを知った時、人間は自らの行為の彼方にある世界を模索し始める。
登山という行為は時として自らの存在の総てを賭さねばならぬため、より一層行為の彼方にある。世界が気になる。
したがって「何故山に登るのか」という問が、行為者のみならず傍観者にまで生ずるのである。
当同人名の「スビダーニェ」は自らの行為の彼方にあるもう一つの世界とのめぐり会い(スビダーニェ)を意味している。
登山行為それ自身を目的としたスポーツとしての登山の魅力には限界がある。

しかし一たび登山を媒体としてもう一つの世界を垣間見ることのできた人間は、失われてしまった確かな生を行為の彼方に見出すことができる。
登山の魅力が質的な変換を遂げる瞬間であり、筋肉の躍動が哲学に昇華される一瞬である。
この瞬間を実現するためには行為を極限まで追い詰めねばならない。
肉体的苦痛との安易な妥協、困難からの日常的逃避に精神が支配されている限り、行為を飛び越えることはできないのである。
スビダーニェに込められた願いは行為を超える登山を実現することである。

 今回のナンガー北東稜からの短期速攻は行為を極限まで追い詰めねば成就しないという点で、
スビダーニェのテーマを追求するのにふさわしい計画であった。
だが私達の行為は挫折し、一夏の夢が行為の彼方で鮮明な像を結ぶことはなかった。
ペガソスに振り落とされ銀鞍から落下したベレロフォンになることを免れたかわり、
「べるぐ」を精神の深奥から描くことができず、行為周辺の素描に甘んぜねばならなかったのである。



 
えぴろーぐ

「命が私に問いかけてくる。その問に答えるために私は出発せねばならない」

 あれから10年の歳月が流れた。
アイガー、マッターホルン、モンブラン、等を登り、始めての氷河に触れ快い興奮の余韻に浸りながら私は機上にあった。
アムステルダムを発ち、アンカレッジを経由しやがて機は羽田に着こうとしていた。
その時突然、冒頭のモノローグが体内を満たした。存在と意識の構造があまりにも明確に提示されたため、一瞬私は面食いうろたえた。
グワン、グワンと鳴り響くモノローグの嵐に翻弄されつつ、しかし私は確実に飛び越えてしまった自分を感じた。
何と長い初期カオスの時代であったことか。ずいぶんと久しい間、私はこの言葉を待っていたのだ。
生命がどのような問を発し、それに対し私がどう答えようとしたか。

 この10年間に発刊した4冊の報告書「ハイジのくにへ」「オクサスの雪」「未知なる頂へ」「シルクロードの白き神へ」
の巻頭言や編集後記、あるいは本文中に私は“存在との対話”を書き続けた。
特に「シルクロードの白き神へ」には心象スケッチとして、“存在との対話”のみを書き綴った。
反響は様々であったが、幸い私の元に寄せられた読後文は好意的なものが多かった。
読後文がかなりの量集まったので読後文集を発刊しょうかとも考えたのだが、さしあたり当報告書に2編を選び掲載した。

 タンザニアのオルドヴァイ谷で受けた衝撃は、そのまま「2億年の須臾」に引き継がれ更に私を根底から揺さぶり続けた。
衝撃の波紋は私をカフカスへと導いた。旧石器中期、アシュール文化は南からやってきてカフカスを満たし西へ流れクリミア半島で花開いた。
当時主人公であったネアンデルタール人は、その後ビュルム氷期に入り忽然と姿を消し、クロマニョン人が登場した。
ジーン・アウルはカフカスから西クリミア半島を舞台にして、ネアンデルタール人に拾われたクロマニョン人の少女エイラを描いた。
エイラは消えたネアンデルタール人の子を生み、ガリレー、タブーン、スクール、クロマニョン人と移行する人類史を象徴する。
黒海とカスピ海に挟まれた山脈カフカスにも人類の壮大なドラマが秘められている。

当時は火を吹いていたであろうカフカスの最高峰エリブールス(5633m)の山巓に立ち、
消えたネアンデルタールと架空の少女エイラに思いを馳せようと思って、私はエリブールスへ向かった。
だが私はエリブールスで予想外の猛吹雪に遭い、山頂には立ったものの荒れ狂う雪と風に出会っただけで下山せねばならなかった。
当日は他の総ての外国隊は登頂を断念し、我々日本隊だけが前進を続けた。
山頂直下で松井の鼻が凍り呼吸難に陥り松井もこの日の登頂をあきらめ、私一人が山頂に達した。
「7月31日。吹雪の中たった一人の登頂」とノートに書いてから、報告書の最後の原稿「えぴろおぐ」を私は徐に書き始めた。
ナンガー遠征のピリオドであると同時に、これは私の10年間のピリオドなのかも知れない。

 

1984年8月3日

 カフカス チゲットホテルにて






講演の記録
山は逃げる
1984年3月11日 於横浜山岳会総会

(A)講演

「山は逃げる」

 今紹介されました坂原です。
今日は私達の隊の海外遠征の8ミリを
2本観ていただいて、その後で他のいくつかの
遠征の話も交え、
「山は逃げる」という話をしたいと思います。

8ミリはビデオに較べると、軽くて小さく
扱い易いので、ここ8年間程、
私達の海外遠征の記録は
全て8ミリに収めてきました。
今日持ってきたのはそのうちの2本ですが、
まずその時の遠征の概要をお話しします。

 最初に観ていただくのは
1979年7月~8月にかけて行った
パキスタン遠征の時のもので、
「ヒマラヤ17」と言うタイトルがついています。
“17”と言うのはBCから頂上アタックまでの
日数を意味しています。

17日間で登れたのではなく、
最初の計画段階から攻撃日数は
17日間しかないと言う意味です。
私達は国内での登山活動ではスビダーニェ同人として
動いていますが、海外遠征時は
川崎市教員登山隊として行動しています。
教員集団として遠征を行う限り、
夏休みの40日間が活動日数の総てです。
この中から、フライト、ブリーフィング、
キャラバン等に必要な日数を差し引くと、
BCから頂上アタックまでに使える日数は
ギリギリで17日間しかありませんでした。
そして「ヒマラヤ17」では
限界の17日目に登頂に成功しました。

この時登った山は、ヒンドゥークシュの最高峰
ティリチミールの東どなりにあるビンドウゴルゾムⅡ
と言う6216mの未踏峰でした。
パキスタンには3つの登山基地があります。
西からチトラル、キルギット、スカルドと
東西に並んでいますが、
ビンドウゴルゾムⅡはチトラルから
キャラバン日数4日程の近いところあります。

チトラル周辺にはワハンとの国境に
ノシャック、サラグラール、イストルオナール、
ティリチミールという7000m級の山があります。
ティリチミールはチトラルに最も近く、
最高峰だということもあって
早くから調査探検が行なわれ、
多くの遠征隊がこの山域に入っています。
しかしビンドウゴルゾムには
誰も近づくことができませんでした。
ティリチミールには8つの氷河があり、
そのうち6つの氷河はティリチへの登路として
トレースされましたが、
ビンドウゴルゾムをはさむ2つの氷河、
ロアーティリチ氷河と北バルム氷河は
標高差1000mの急峻な氷瀑帯があり、
どの遠征隊もここを突破することは
できませんでした。

1938年には英国隊、49年アルネネス隊、
64年アメリカ隊、最近では
新貝さんの隊がこの氷河に入っていますが、
いずれも標高差1000mの氷瀑帯を前に
敗退しています。

ビンドウゴルゾムは、
この2つの氷瀑帯にはさまれているために近づくことができないだけでなく、松本征夫さんや白川議員
さんの写真で調べると
グランドジョラスを3倍ぐらいにした南壁と
懸垂氷河を幾重にもかけた北壁とから
構成されているんですね。

とても短期間、少人数、ポーターなしの
我々の隊で登れる山ではないと実感しました。
実際、私のもとへ寄せられてくる手紙は
絶望的な内容ばかりでした。
全福岡ヒマラヤ遠征隊の新貝さんは
「ロアーティリチ氷河からの登頂は
かなりきびしいと思います。
私はロアーティリチ氷河の内院に入って

ルートを探したのですが、ありませんでした。」
と述べ、ヒンカラ会議事務局の高木泰夫さんは
「ロアーティリチ氷河は
非常に悪くてとてもとりつけず、
雪崩と氷河移動がひどくてどうしようもない。
御計画を変更された方が
賢明かと存じます」
こんな内容のものばかりでした。

ここで簡単に計画を
変更することはできたんですが、
何日も何日も考えました。
それじゃ登る前から敗退だ、
登るためにどういうトレーニングや
調査研究をするか考え実行すべきで、
今ここで計画を放棄したら
これから先永久に満足のいく登山はできない。
という結論に達し、実行に踏み切りました。

 たった5人の隊員、17日間という限られた日数、
更にポーターなしという条件での
8ミリ撮影はいつも困難で、
私達が直面した苦しい氷壁や岩壁での映像は
ほとんどありません。
とても満足のいく記録ではありませんが、
素人なりの迫力もあるいは
感じていただけるのではないかと思います。

この79年には横浜山岳会が
ムスカリに入った年ですので、
参加された方には懐かしいパキスタンと
云うことになりますね。

もう1本は1981年、中国の
ムスターグアタ遠征の時の8ミリです。
これは前の79年の遠征と
異なった困難性をかかえていました。
2週間程度の攻撃日数で
7500mの未踏の北峰に立とうというものです。

はたして7500mという高高度の未踏の山を
2週間で落とせるのか?
今までそんな記録はないわけですから、
これ又大変面白いんですが、
実行する当事者としては不安で一杯でした。

普通に勝負したんでは不可能ですので、
原さんにお願いして、
名古屋大学の低圧室に入れてもらいました。
4日間、8000mまで高度を上げて
トレーニングしました。
低圧室は4畳半ぐらいの広さで、
負荷をかける自転車エルゴメーターが
置いてあります。

高度を4000.5000,6000、7000、
8000mと上げ各段階で
エルゴメーターの負荷を0.5キロポンドずつ
1.5キロポンドまで上げて
心拍数、心臓の拍出量、心拍数に対する仕事量等を調べ、
肉体を訓練すると同時に我々の肉体、体力での
7500mの短期速攻の可能性を
模索したわけです。

現在まだ8000mで
完全にエルゴメーターをこぎ続けることの
できた人はいません。
去年ナンガーパルバットに入りました。
その時も連続5日間低圧室に入りましたが、
この時も8000mでの負荷を
クリヤーすることはできませんでした。

ダウラに単独登頂した禿さんが
1度8000mでクリヤーしましたが、
翌日はできなかったそうです。
昨年は8000mの第3段階まで
私はクリヤーしましたが、
最終負荷でチアノーゼと激しい全身の
しびれを起こし、瞬間的に失神しました。

いかに高高度での運動が危険なもの
であるかをいやという程知らされました。
これを毎日5日間も
泊まり込みでやるわけですから、
山に行く前にやんなっちゃうわけです。

しかし、そのおかげかどうか、
7427mのムスターグアタ北峰に
7日間で初登頂することができました。
これはかなり余裕がありました。
C2から標高差1200mを
一気に頂上まで登ったわけですが、
まだ500mぐらいは登れそうだ。


つまり8000mまで無酸素短期速攻は
可能だと感じました。
この成果が低圧室の効果によるものかどうか、
まだ私にもわかりませんが、
大変興味ある問題だと思います。

ムスターグアタ登頂の問題点は、
もう1つ風の問題があります。
北緯36°近辺の上空10000mには
ジェットストリームが吹いています。
これが独立峰の
ムスターグアタ山頂を直撃するんですね。
C1のテントが荷物ごと吹き飛ばされ、
影も形もない。

登高中も突風で身体が
持ち上げられそうになり、
前進不可能になるんですね。
ベースキャンプのメステントも風で
ズタズタに裂けました。
広い谷を隔ててコングールがありますが、
この頃京都カラコルムの
3人が
山頂付近で消息を断ちました。
一般的には雪崩だと言われていますが、
私は風で吹き飛ばされた
可能性もあると考えています。

 私達にとってムスターグアタ登頂の問題点は
短期速攻と強風の2つだったわけですが、
当然この
2つは撮影チャンスをうばうわけです。

強風低温下で手袋をとり8ミリを回すのは
相当な
決意が必要になります。
時間的にも隊全体の動きを収めることは
不可能なので、私個人の目を通して観た
ムスターグアタを描いてみようと考え、
BGMやナレーションを
工夫して編集してみました。

 この2つの遠征の他にヨーロッパアルプス、
アフガニスタン、アンデス、アフリカ等の
山々を登ってきました。
国内の冬期山行で滝谷や北鎌尾根、鹿島槍北壁等を
トップで何回か登るようになると、
当然興味の的は海外に移されるわけです。

ヨーロッパでは密かにマッターホルン北壁を狙い、
10年程前に2年続けて入り、
アイガー、メンヒ、マッターホルン、モンブラン、モンテローザ、ツールロンド、等を登りました。
アイガー西壁を下降中、パートナーが
「もう山はやめた」と言い出し北壁は断念しましたが、
この時はヨーロッパにぞっこん惚れ込みまして、
今後次々に壁を登ろうと思いました。

次の年には未踏の地を求めて、
アフガニスタンの北、オクサス河、
今はアムダリアと呼んでいますが、
この上流に入りました。

中央ヒンドゥークシュと言われている地域で
最高峰はコーイバンダカー6843mで
これは登られていますが、
5000m級の山々はほとんどが
未踏峰でもちろん名前もつけられていません。

首都カーブルからサラン峠を越え、
砂漠の中ジープを飛ばし
クンドゥーツに出ました。
この夜は気温37℃で体温より高くて
部屋の壁やベッドをさわると
熱く感じるんですね。
とても眠れるもんじゃありませんでした。

昼は暑いので、夜半にジープを出し、
生命の影の絶えた広大な大地を飛ばす。
時々ラクダの群れに会ったりするだけで、
実に壮大な気分になれるキャラバンでした。
ポーターも純朴で
我々を大喜びでむかえてくれました。

パキスタンやネパールでは
ポーターに保険をかける義務がありますが、
その時は反対の保険をかけ
ポーターに拇印を押させました。
つまり、この荷をなくしたらポーターが
責任を持って保障すること。
という今では信じられないことですが!

この時はカリヤウ山系の最高峰5578mに
7日間で登り、
コーイダラーツと命名してきました。


 次に先程話ましたパキスタンに入り、
翌年にはアンデスに向かいました。
氷の女王アルパマヨを目指し、
まず最高峰6746mのワスカラン南峰を
9日間で登り高所順応を終え、
ワラスの町にもどりますと、
チャクララフで日本人パーティーが
遭難したので救助して欲しいとの要請を受け、
アルパマヨを断念して救助活動を行い、
この年は終わりました。

アンデスから帰ると、中国登山協会、
CMAより1981年の
ムスターグアタ登山を許可する用意が
あるとの連絡を受け、
至急ムスターグアタ登山の準備に入りました。

その後キリマンジャロやオルドバイ谷を訪れ、
昨年は31名の命を奪った
ナンガーパルバットの初登ルートに入り、
チョラン峰6448mに登り、
ラキオト峰7070mを超え、
ヘルマンブールがアタックした最終キャンプ、
ジルバーザッテルの下まで迫りましたが、
吹雪で登頂を断念しました。

 さて本題の「山は逃げる」
に入りたいと思います。
これらの登山活動を通して、
最近強く感じることがあり
ます。

「山は逃げない」と登山を安全にするため
よく言われますが、
あれは嘘であるということです。
「山は逃げない」と言うのは敗者の弁であって、
そんな気持ちを持っていては
きびしい山は登れないとしみじみ感じます。
「山はにげるんだ」という意識を持って
行動しないと、自分の前にぶらさがっている
登山を完成させるための多くの困難を
乗り越えることはできないのではないか。

 人間はいつでもいろんな言訳を用意しています。
行動しないための言訳は山程あるわけです。
その中からその場と自分に都合の良い
言訳を選び出し、
こういう客観的条件があるからだめなんだと
自分にも回りにも納得させようとし、
自己欺瞞を完成するわけです。

こういうことを繰り返している限り山は
登れないだろうと思います。

で、具体的に申しますと「山は逃げる」と言うのは
2つの意味を持っています。
1つは技術不足、訓練不足から
登れるべき条件にある山を逃がしてしまう場合。
もう1つは年令の問題です。
誰しも年をとります。

どんなに訓練しても、ある年代
登れる山には限度があります。
25才から35才ぐらいの年代では、
トレーニング次第で
ヒマラヤでも不可能な登攀は
ないと言っても良いでしょうが、
この期間はたったの10年間しかありません。

この10年を逃がしたら、
自分で登りたい山とルートを
自由に選ぶことはできません。
つまりこれ以降、困難な山は
年令と共に
11つ逃げていくわけです。

もちろんある年代での限界への挑戦
という登山はいつでもあり、
それを求めることはベストエイジの若者が
不可能に挑戦するのと
同等の価値を持っているわけですが、
確かに年と共に
その活動対象は逃げていくのです。

 訓練不足の者から
山は逃げるという事について、
例を用いて話してみます。
今、風速40mの強風化、頂上を眼前にして
退くか登るかという判断を迫られた場合、
常識的には退くという
決定を下すのは正しいわけです。

40mでは身体が浮きますから
高所では大変危険です。
しかし風速40mぐらいの風は
冬富士やヒマラヤではよく吹くわけです。
その中で行動し、
登頂してる人間は何人もいます。


訓練しだいでそのくらいなら動けるわけです。
したがって退くという判断は
正しいかもしれないが、
その人間からその時
山は逃げてしまったわけです。

そしてその判断が正しいと思ってる限り、
その程度の条件の山は
彼から永久に逃げてしまうということになります。
もし彼が今までのトレーニングの過程で
それなりの努力をし、
それなりの覚悟をし、体験をしているならば
かならず「
go」のサインを出すはずです。

もしかすると事故に繋がるかも知れませんが、
その「
go」というサインが
自分の準備段階の中で消化されているものならば、
たとえ事故を起こしても
その判断は正しいと思います。

そういうことの積み重ねによって、
人間は自分の限界と
人間自身の持っている限界を、じりじりと
押し広げてきたんじゃないか。
したがって今、退き下るべきか、
登るべきか、という問題は、
常に自分の山に対する情熱
が問われるとても大切な瞬間だと思います。

 

山は、技術、訓練不足の者から逃げ、
老いと共に逃げるわけです。
「山は逃げる」
という明確な意識を持って
行動しないと、充実した山行、自己実現を
可能ならしめる登山はできないと思います。

 では話と映写が逆になりましたが、
8ミリを観ていただきたいと思います。

 *本講演は3月11日横浜山岳会の58年度総会で行ったものである。



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