オクサスの雪アフガヌスタン
  (報告書・《オクサスの雪」より抜粋)

                                                               記録:坂原忠清


アムダリアと名を変えて久しき今、
オクサスの舞台にもう1つの世界を求めるドラマは終わった。
だが私の胸の中では、遥けき地平線オクサスを求めて、
今ドラマが始まろうとしている。
狂おしい程に私の血を滾らせ呼び続ける次の地平線は、正しくオクサスなのだ。

海外登山記録

Contents  
   ヒマラヤ登山記録  チベット 1998~2006年
《A》 ヨーロッパ・アルプス(アイガー、マッターホルン、モンブラン) スイス、フランス 1975年7月~8月
《B》  コーイダラーツ初登頂(5578m) アフガニスタン 1977年7月~8月
《C》  ムスターグアタ北峰初登頂 (7427m) 中国 1981年7月~8月
《D》  未知なる頂へ (6216m) ビンドゥゴルゾム峰 パキスタン 1979年7月~8月
《E》  ヌン峰西稜登頂 (7135m) インド 1985年7月~8月
《F》  ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m) パキスタン 1983年7月~8月
《F2》  ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m)  その2 パキスタン 1983年7月~8月
《G》  ナンガ・パルバット西壁87 (8126m) パキスタン 1987年7月~8月

     中央アジア遠征峰



オクサスの雪


存在する事の重さと憂鬱さに気が付いた時、私に内在する世界は明確な最初の問いを自らに発していた。
問いは囁き続けられ累積しクレブスを作り生命を脅かした。
自らのカオスの認識を肯がしたものが、問いそのものである事を考えると、
問いは生そのものであり、ラジカルに我生命であった。
しかしクレブスがラジカルな生命の所産であっても私は少しも驚かなかった。
森羅万象の生命の法則の中に自分を見出しただけの事であり、むしろ自然に対して親近感をより深める結果になった。


生命の問いかけを初めて聴いたのはシュメール人であったろうか。
沖積土のもたらす豊饒と執拗な氾濫は、人類に初めての都市文明とペシミズムを彼等に与えた。
シュメールの英雄ギルガメッシュは豊饒と氾濫の中に生命の問いかけを聴いたにちがいない。
余剰価値の累積は、文明的進歩を通して必然的に問いかけを明確化し、もう一つの世界へ人類をかりたてる。

粘土板の世界には内なる荒野
が楔形文字によって展開され、
神々との交信を求めてジグラットやミナレットが空の高みに突き立てられ、
渺々とした時空の彼方へ旅立つ為の巨大な墓が作られる。
やがてもう一つの世界を地表の果てに求めたダリウスが、アレキサンダーが、
ジンギス汗が遥かなる地平線オクサス目指す。
夥しい血を流しながら、オクサスを舞台にして生命は問い続ける。

ヒンズークシュの峰々は朱に染まったオクサス河を静かに見つめながら、
幾重にも谺する生命の問いかけをやさしく抱きしめたであろう。

もう一つの世界とスビダーニア(めぐり会い)を求め、私は樹木や岩や氷の声を聴いた。
気の遠くなるような深い時の底から、かすかに聞こえる囁きは存在する事の重さと憂鬱さを忘れさせてくれた。
その時私は時を逆登り、確かにもう一つの世界を垣間見たような気がしたのだ。

しかしそれは内なる荒野の地平線を発見したにすぎなかった。
地平線を見たしまった人間は、地平線の呼び声から逃
れる事は出来ない。
地平線
を求めて山への放浪が続く。
自らの行為がシジフォスの
神話である事を予感しつつ、私は夢中になって地平線を追った。
アムダリアと名を変えて久しき今、オクサスを舞台にもう一つの世界を求めるドラマは終わった。
だが私は胸の中では、遥き地平線オクサスを求めて、今ドラマが始まろうとしている。

狂おしい程に私の血を燃え激らせ呼び続ける次の地平線は、正しくオクサスなのだ。

群青の空に光る頂を見つめ、太古の眠りを覚さぬよう、静かに、静かに、私はオクサスの雪を踏むであろう。
やがて未踏峰無名峰の山巓に立ち、
熱い想いを込めて豊饒と氾濫の描くゆるやかな波紋の広がりを私は見るであろう。


頂にて

含羞みながらピッケルに旗を結びつける。

アフガニスタンの国旗、日本の国旗、隊旗が風に舞う。

1977年8月5日午前11時30分登頂。

ヒマラヤ山脈西端ヒンズークシュ山脈にあるダラーツ谷源頭の最高峰5578mは巨大な針のような氷を身に纏い、今我々の足元にある。

トランシーバーでベースキャンプとキャンプ1を呼び出す。

「こちらアタック隊、こちらアタック隊、唯今登頂に成功、コーイダラーツと命名します。」

キャンプ1からキャンプ2に荷揚げをしている日下部の荒い息づかいが飛び込んでくる。

「おめでとうございます。こちらは、ハーハー・・・・・氷河上にいます。キャンプ2の見える氷河を登っています」

同時にベールキャンプの田中の声が入る。

雲海の彼方に瞳を凝らす。

谷を隔て北方にソ連、折り重なる雪の峰の向こうにインド砂のベールに包まれた西方にイラン東にはパキスタン、中国が控えている。

正に中央アジアの大パノラマである。岩にハーケンを打ち込み頂上を後にする。

忍びやかに雪が舞い始めた。


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姿なき山

 確かに私達は頂に立った。コーイダラーツと名前も付けた。それなのに私達の誰一人としてコーイダラーツを見てはいない。私達が見たのは頂に至る雪田と頂の花崗岩だけである。

この峰を目指して10日間歩き続けたのに、私はこの山の幻さえ見ることができなかった。こんな事がかってのヒマラヤ遠征にあったろうか?

 それなのに何の疑問も持たず私はコーイダラーツに別れを告げた。帰国して初めて、私達の登った山を一度も見ていない事に気づいた。この山に至る南のルートは、キシム川。コクチャ河を経てオクサス河(アムダリア)に注ぐダラーツ谷を縫うようにして氷河まで続く。
 
 谷は上部に行く程深くなり眺望がきかなくなる。一日目のキャラバンでは、はるか前方にわずかに雪山が見える程度でピークの選別はむずかしい。それに谷は東に大きく曲がり、更に南に延びその源頭にコーイダラーツがある為、1日目で見える白き峰は、方角も異なり私たちの登った山でないは確かである。

 二日目のキャラバンではアルジェンハの夏村で間近に雪山を見る。岩と岩の間に食い入る
支谷の奥に、ほとんど雪と氷だけの白い峰がかなりの量感を持って、そそり立っていたがこれはカリカウ山系の西に位置する5400mの未踏無名峰である。

 コーイダラーツから北に延びる長い岩稜は、5000m級のピークを幾つも連ね、ダラーツ谷を右俣、左俣の二つに分ける。ベースキャンプは左俣の中程にあるが。背後に急峻な、この岩稜がそびえているので、このキャンプからコーイダラーツを見るのは不可能である。

 この谷が氷河に連なる直前の標高4500mの地点にキャンプ1を置いた。ほとんど垂直の岩壁に囲まれたモレーン湖のほとりにあるテントからは、垂壁の上に、わずかに白い峰が突き出しているのを見ることができる。初めのうちは、これが主峰であると思っていたが、これはコーイダラーツの前衛峰であった。このモレーン湖の東側にある岩山に登ってみても、前衛峰にさえぎられコーイダラーツは見えない。

 湖の西のルンゼをつめ前衛峰から北に向かって広がる大きな氷河に出てからも、行手の空は前衛峰が立ちはだかりダラーツは見えない。5020mの氷河上にキャンプ2を設営する。東は大きくひらけ、コーイバンダコーが望まれ、西はダラーツ谷を右俣、左俣に分ける岩尾根がペニテントスノーをつけ北面に向かって落ち込んでいる。

 南はペニテントスノーと幾つもの深い条溝をつけた広大な氷河が前衛峰から東に延びる稜線まで突き上げている。
前衛峰のピークはせまい岩で高度計は5300mを示している。大きな雪のコルをへだて、目の前に真っ白なペニテントスノーをまとったコーイダラーツが見える。しかし近すぎて山を見ていると言う感じはしない。

 前衛峰と較べても標高差、わずか300mである。一つのルートに現れるルンゼやフェースやリッジと同じような部分を見ているだけで、それだけでは山全体のイメージは全く湧かない。頂に至る雪田を見ているだけの事なのだ。

  次の日,我々はこの雪田を登りつめ頂に立った。下山ルートも帰りのキャラバンも同じルートを通ったので結局,私達の誰一人としてこの山を見た者はいないと言う事になった。この山を見ることは可能なのだろうか?

 私が北面のダラーツ谷を左俣、ルートを選んだのは、東北に向かって延びる大きな氷河から朝日を浴びて光る頂が見られる唯一のルートであると判断したからである。しかし私は何も見る事はできなかつた。西峰も南峰も東峰も、雪と黒々とした岩のコントラストを鮮かにし夫々の姿で天を突いていたのに。

   この山へ登頂を決意してから、日夜思い描いていた映像は、登頂後の今も少しも修正される事なく生き続けていくのであろう。



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〔報  告〕

(1)遠 征 概 要

 私達スビダーニェ同人は、ヒマラヤへの仄かな夢を抱きつつ、日本アルプス、ヨーロッパアルプスで登山活動を続け、この度HEKT‘77(HENDU KUSH EXPEDITION KAWASAKI TEACHER’S PARTY‘77)をヒンズークシュ山脈に送る事が出来ました。

 HEKT‘77が多くの人々の温かい協力や励ましによって誕生し、具体的な活動を始めたのは、’76年の晩秋でした。推薦文を日本山岳協会の牧野文子さんにいただきました。
 
 資料、地図は日本ヒマラヤ協会の佐藤優氏、日本山岳会の雁部貞夫氏、ヒンズークシュカラコルム会議の高木泰夫氏、福岡高体連の竹内康氏、千葉大学の中馬敏隆氏等の提供を受けました。
 
 現地情報はファルシー語ではアフガンからの留学生アミール・モハバット氏、アフガン在住17年の橋本亮一氏、のお世話になり、HEKT‘77は、どうにか産声を上げることが出来ました。

《国内手続き》

 在日アフガン大使館に、登山申請を出すには、3つの推薦状が必要であった。推薦状を得る為には、地元の川崎市山岳協会、神奈川県山岳連盟に、加盟しなければならない。

 加盟後、まず川崎市山岳協会より県岳連あての推薦状をもらい、次に県岳連より日本山岳協会あての推薦状をもらい最後に日本山岳協会よりアフガン外務省あての推薦状をもらう。

 それが済んだならば、日本の外務省へ登山計画書、登山申請書のコピーを提出すると共にアフガン大使館へ登山申請書出す旨連絡する。外務省では、在アフ日本大使館へ登山計画書を送付し、登山隊の計画を連絡してくれるのである。

 ここで初めてアフガン大使館への登山申請が可能になる。1ヶ月後にアフガン本国からの許可がおり、すぐに入国査証(観光査証と異なる)をアフガン大使館に申請する。同時に別送荷物表を提出し、無税通関の手続きをお願いする。6月下旬、これらの書類受け取り国内手続きを終えた。

《装 備》

 別送荷物の運賃は、1㎏733円、往復で1500円と高いので、装備計画は軽量化を第一に考えた。食料は高所食とアタック食のみを日本から運び、大部分は現地調達とした。

 医療関係では手術用具、薬品の半分はHAJのカーブルデポを使うことにし、別送荷物の総量を250㎏に押さえる事ができた。梱包は飛行機、自動車、ドンキーキャラバンの往復の輸送に耐えられるよう全て麻袋で行った。

 結果は良好であった。カーブルでの現地調達品を加えると装備、食料の総量は約550㎏になった。尚、荷は在日アフガン大使館で書いてもらった手紙のおかげで、往復共に無税で通関できた。

 装備の主な物をあげると、ザイル約800m、ハーケン約80枚、トランシーバー3台、カメラ7台、8mm撮影機2台、テント5張、簡易ベット5台、フォエーブス3台、コッフェル2組、圧力釜1個、食料150㎏、医薬品25㎏、ガソリン40ℓ、各種フィルム合計200本、高度計、双眼鏡等である。



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《出 発》

 7月1日、前夜ようやく縫い上げた別送荷物(麻袋)を芝浦の倉庫に運び、国内での長く煩わしかった諸手続き、準備を終えた。荷を追うように先発の林田が7月10日に発ち、カーブルでの手続きの難航を知らせる手紙が舞い込む。

 17日に、本隊も家族、知人、卒業生に見送られて羽田を発つ。デリーで1泊し、カーブルへのチケットを購入する。
 
 アリアナ航空は、オーバーウエイトにはうるさく細工をする閑もなく、あっと云う間に手荷物まで一緒に計量され、40㎏、オーバー、80ドルをとられる。アミール氏を通して紹介してもらった通訳のカューンと先発の林田に迎えられ、7月18日、カーブルに着く。

《カーブルでの手続き》

 アフガン国内での登山許可を得るには、滞在査証と国内旅行許可書が必要である。まず日本大使館に行き、滞在査証発行依頼書をもらい、全員のパスポートを添えて、アフガン外務省文化局へ提出し滞在査証を得る。

 次に内務省で国内旅行許可書発行の許可証をもらうのだが、これには滞在査証とアフガンツアー発行のガイド雇用書が必要である。本年‘77年よりの新しい規定で、登山隊はアフガン指定のガイド(実は通訳)を1日20ドルで雇わねばならない。

 これはパキスタンのリェゾンオフィサーを真似て、数年前から予備的に実施してきたもので、去年’76年までは、私的に通訳を雇うことも許されていたが、今年からは一切認めない。
 アフガンツアーからガイド雇用書をもらう為には,私達が知人を通して雇った通訳をアフガンツアーのガイドとして登録しなければならなかった。これは隊にとっても通訳にとっても大きな損失になる。

 通訳とは1日400アフで契約をしたが、登録すると通訳はアフガンツアーから250アフしかもらえない。ところが隊がアフガンツアーに支払う金額は1日20ドル、葯900アフである。双方にとっての損失を防ぐため、私的ガイド雇用願い書を作成し、外務省へ交渉に行くが認められず。

 結局通訳をアフガンツアーに登録し、規定料金を支払い、ガイド雇用書を得る。内務省の手続きが終わると、警察署あての国内旅行許可書発行の許可書をくれる。

 この許可書とパスポート、各人の写真1枚を添えて、警察署で国内旅行許可書を発行してもらうと、やっとキャラバンに出発出来るのである。モタメディ夫婦の力添えで、外務省の査証はその場で発行してもらえたが、その後の手続きは「インシャーラー」でいつ書類が出来るのか見当もつかない。

 内務省では、サインするコマンダーが常に不在らしいし、警察署ではコマンダーが虫歯の治療に出かけるらしく、これ又不在、そのくせ次回の出頭時間は、きちんと指定するのである。ジャジン(独立記念日)の影響もあったが、この手続きに1週間を要した。


《キャラバン(往路)》

  24日12時50分、国内旅行許可書取得と同時、我々の車は550㎏の荷を積んでカーブルを出た。クンドウツのホテルでは最低気温36℃の暑い夜をすごし、次の日の未明、キシムへ向けて再び車を走らせる。

 キシムで世話役の兵士1人が乗り込み、夕方車の入れる最終部落カラステに着く。夜村長と懇談。ドンキー1頭1日200アフで8頭を雇う事で話がつく。27日朝、カーブルで用意しておいた英文とペルシャ語の契約書を馬方と交わし、ドンキーキャラバンは出発した。

 契約書の主な内容は、馬方、ドンキーに事故があった場合の保障は一切しない。荷の紛失、破損については、馬方が弁償する。

 その他、日程や賃金についてである。ところが、いざ出発してみるとどうもドンキーの数が多い。数えてみると10頭いる。契約と異なるので、8頭に減らす。

 現金収入の少ない彼等にとっては絶好のチャンスであり、申し出が多く8頭に絞れなかったのであろう。ソクドコンで谷は3つに別れ、徒歩を行う。水が冷たく、流れが早いので浅いにもかかわらず緊張を強いられた。カオリの部落では歓待され、村長じきじきのサービスで果物やチャイをごちそうになる。

 カトバラでは村長が夕食の宴を開いてくれた。翌28日夕刻、アルジェンハの夏村に着く。広い谷の中に牧場が拡がり、たくさんの羊や野羊が遊んでいる。村人は野羊の乳で我々を迎えてくれた。ここで2頭ドンキーを増やし、29日ダラツ谷左俣に入る。

 ドンキーの通過出来ぬ場所では、馬方が荷をかつぎ、3850mまで上がり、BCを設営する。アンジュマンでの公定賃金より大分安い契約であったが、心配していた馬方のストライキやトラブルは全くなく、村人もやさしく親切で楽しいキャラバンであった。




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 《高度順応と荷揚げ》

   キャラバン中、峠の通過が一度もなかった為、BCではいきなり3850mに飛び出たような感じで、全員が頭痛におそわれる。その後一週間程、隊員によって大きな差があるが、頭痛、顔のむくみ、脈の上昇、発熱、眠け、呼吸難、食欲の減退、ステップテストでの脈の急落、不整等があった。

 BC-C₁間の谷には、4つのモレーンとその上に4つのモレーン湖がある。下流から順に、第1モレーン、第1モレーン湖、第2、第3、第4と名付けた。第1第3のモレーンは小さいが、第2モレーンは標高差30m、第4モレーンは、200mとかなり大きい。

 モレーン湖は湖と呼べるものは第4モレーン湖だけで、あとはいずれも小さく、特に第1は午後の融雪量が多くなって初めて水が貯まる程度である。第4とモレーン湖のほとり、4470mにC₁を置き、4回の荷揚げをのべ13人で行い、200㎏の登攀具、食料、テント等を上げる。

 高所順応を兼ねての荷揚げなので、1回、ひとり20㎏前後とし、ゆっくり時間をかけてBC,C₁間を往復し、更に荷上げの翌日は休息日とした。第4モレーン湖の上部は、主峰(5578m)より流れる大きな氷河の舌端であり、岩と氷の急峻な崖になっている。

 C₁からC₂に至るルートはここを避け、湖の西にあるルンゼを選んだ。ルンゼを200m程つめると、かなり広いモレン大地に出る。そこから左にルートをとるとモレーン湖上部の氷河の広がる崖の上に出る。

 広大な氷河は岩尾根によって2分され、左の氷河は全く見えない。この岩尾根のルンゼを登ると岩尾根そのものが左氷河のモレーンの1部になっている事が解る。C₂は5020mのだだっ広い左氷河上に設営し、2回の荷揚げをのべ5人で行い100㎏を上げる。荷降ろしはC₂から2回、のべ4人で行い、C₁からは2回のべ9人で行った。


《登 頂》

 8月4日偵察、C₂からペニテントスノー雪原を南に登り、前衛峰(5330m)のある稜線に立つ。主峰5578mは、この稜線上西方に聳えているので、前衛峰を右に巻くルートを探すが、急な岩壁に遮られ抜けられない。

 稜線をそのままたどって主峰に迫るルートは、前衛峰のピークで切れる。ピークの西側はダラッ谷の右俣の氷河まで一気に落ち込んでいて、稜線を辿るのは困難である。残されたルートは稜線をそのまま越え南側の雪原に出、主峰と前衛峰の間のコルへ降り、東面から主峰に迫るルートである。

 これは、ほとんどペニテントスノーの雪原で問題はなさそうである。細い岩稜を辿り、前衛峰のせまい岩のピークに立つと、驚いた事にケルンが積んであった。事前調査では、登山隊がこの山域に入った記録は見当たらなかったが、下の村では8年前にドイツ隊が来たと教えてくれた。

 その頃はドイツ隊が、KM山群に入り測量活動をしていたので、ついでにこの谷にも入った事は考えられる。事実、c₁では錆びた空き缶を見つけたが、こんな高いピークまで足をのばしているとなると、主峰も登られているかも知れない。

 不安を抱きつつC₂へもどる。翌5日、1m余りもある大きなペニテントスノーのラッセルを続け、11時30分、坂原、林田の2名は主峰5578mの頂上に立つ。

 頂は雪稜の上に突き出た岩場であるが、ケルンはもちろんハーケンも見当たらない。前衛峰のケルンを積んだ測量隊がこの山域の最高峰に何のマークも残さないということは考えられない。どうやら初登頂らしい。

 ハーケンを1本、深々と打ち込む。ぐるりを見回すと、南にのびた稜線上に同程度の高さの岩場が突き出ている。気にかかるので登って確かめるが、人間がかつて訪れたような形跡はなかった。ダラツ川の源頭にある最高峰なのでコーイダラーツと命名する。C₁との交信で登頂成功を知らせるが、BCとの連絡が取れない。

 久しぶりに天気がくずれ出し、雪がチラチラ舞い始める。下山途中の雪田では、ガスにまかれ一時方向が解らなくなるが、無事C₂にもどる。

 翌日の再登頂を目指して、2名がC₁よりC₂に入りし、テントはにぎやかになる。夕刻、BCからC₁に向かった田中より交信で「C₁が見つからない」との連絡を受ける。
 BCにもどるよう指示するが、相変わらず雪がチラチラしている上に、気温が急激に下がりつつあるので心配する。6日、4500mあたりに雲海があるが天気は回復、11時30分日下部、尾上、林田の3名が主峰のピークを踏む。

 坂原はC₁への荷降ろしを兼ね、BCへの連絡に向かう。田中は第3モレーン湖でビバーク後、BCへもどる。BCでは日本への登頂を知らせる電文、速達を作成し、アフガン外務省、在アフガン大使館へのお礼と報告の手紙を書き、翌7日カユーンをメールランナーとしてカーブルへ向かわせる。


   《試 登》

 第4モレーンを超えると、バインターブラックのような急峻な岩と氷の山が、エメラルドグリーンの湖を従え、突然目前に飛び込んでくる。一瞬、息を飲むような美しい峰である。

 初めて見た時から、この未登無名峰(5200m)を秘かにコーイスビダーニア(めぐり会いの峰)と名付け想いを寄せていたが、主峰の登頂が早かったので、試登チャンスに恵まれた。

 コーイダラーツから直線距離にして東に約7㎞離れたところに、東面の最高峰(5335m)があり、その西の前衛峰として聳えるこの峰は、西側がスッパリ切れ落ち、岩壁は急峻な氷壁によって2分されている。

 この2分された岩壁の左側ルートを選ぶことにしてC₁を出る。湖の東にある岩山を超え、東峰(5435m)より長く尾を引く氷河をトラバースし、氷壁の基部に出る。

 C₁での観察よりも、はるかに急な岩壁に圧倒されながらも、氷壁を200m程つめ。左岩壁に取り付く。岩は花崗岩でシャモニーにあるミディの南壁に良く似ている。節理が大きく楔を持たない
我々には手が出ない。その上長距離を飛んでくる落石が、不気味な音をたてる。

 100mのザイルをフィクスしたまま登頂を断念する。湖のほとりの岩山で、ドイツ隊のケルンを見つける。我々も一段と高い岩の上にケルンを積み、日本の国旗を格納する。


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  《キャラバン(復路)》

   よほど嬉しいのであろう。馬方達はキャラバン出発の前日の午前中には、もうBCへ上ってきて、ニコニコしている。キャラバンの1日目はアルジェンハの夏村に泊まる。村の病人を看てやる。カラステから馬方2人、3頭のドンキーを連れてきている。

 別に頼んだわけではないが、せっかく来てくれたのだから雇う事にする。1日1頭、150アフに負けさせ、我々は馬上の人となる。カオリの部落では、是非泊まってくれと村長に頼まれているので、2日目のキャラバンはカトバラに泊まらず、カオリまで足をのばす。

 その夜はテープに吹き込むため、村人達に歌をうたってもらい、楽器を弾いてもらう。翌日は村の学校を訪問し、日本の生徒からのプレゼント、温度計、ノート、ボールペン等をわたす。この村でかわいらしい8才と12才の少年の馬方を更に雇い、計13頭のキャラバンを組んでカラステに向かう。

 カラステでも学校を訪問するが今日からラマザン(断食月)で学校は休みとの事、ここで2日待つがチャーターしてある車が来ない為、キシムまでドンキーキャラバンを続ける。

 ラマザンで馬方達は、朝4時から夕方7時まで水さえも口にしないので、キシムまでどうしても2日かかると言うが、1日で行ってもらう。1頭210アフで7頭を雇う。


  《ツアー》

 キシムからクンドウツまで2700アフで車をチャーターする。カーブルで契約した車は片道2日で26000アフであるから、ほとんど5分の1の値段である。車をチャーターする場合は、よく調べて選ぶべきであろう。

 クンドウツで我々を迎えに来たメールランナーのカューンと運転手に合う。契約してある残り3日間を利用して、カラステに行く代わりにバーミヤン、バンティアニールに回ってもらう事にする。

 かつてアレキサンダーが軍を進めたクンドウツを後に、玄奘三蔵を追うようにドシからバーミヤンへ出、ジンギス汗が皆殺しを行ったシャーリーゴルゴラ(沈黙の町)の丘に立ち、シャリゾハク(赤い町)の城寒に登り、世界史の英雄達に思いを馳せ、20日カーブルへもどる。

《別送荷物と出国の手き》

  荷物を税関に運び、別送荷物の申請をする。申請書にサインをもらって許可を受け取ると、荷物検査があり、幾つかの荷が開けられる。パスすると封印され計量される。税関の手続きはこれで終わり発送許可の書類を渡される。

 これをアリアナ航空へ提出し、輸送料金を払うと手続きは終わる。我々の荷は、8個200㎏で700ドルであったが、他に手続きを手伝ってくれた男に1600アフ(約1万円)をとらえる。

 税関の書類を相手が持っているので、払わざるをえなかった。代理店のないこの国では、飛行機会社の従業員がこれで大分稼いでいるらしい。

 尚、荷物検査では山頂の石は許可されなかったが、バダクシャンがラピスラズリと言う宝石の産地であるためかも知れない。飛行機の手荷物として運んだ時は特別にチェックされず、無事、日本に持ち帰る事ができた。

   出国査証を得るには、国旅行許可書と全く同じ手続きが必要である。カーブルへもどったらすぐアフガンツアーに行き、登山が終了した事を連絡し事前に支払っておいたガイド料の清算をする。清算が終わるとアフガンツアーから、外務省あての手紙をくれる。

 次に日本大使館でアフガンツアー外務省あての出国査証交付依頼書をもらい、アフガンツアーからの手紙とパスポートを添えて外務省に査証を申請する。外務省では内務省あてに出国査証許可書をだしてくれる。

 この許可書とパスポートを持って、内務省に行くと警察署あてに最終的な出国査証許可書を交付してくれる。これを警察署に提出し出国査証を得る。

 
 このように出国査証交付には4つの機関、アフガンツアー、外務省、内務省、警察署のチェックが必要であるが、許可書にサインするコマンダーや長官が不在との理由で、何度足を運んでも書類は出来ない。

出国手続きに1週間を予定していたが、出発前日になっても査証はおりない。若し間に合わなければ、飛行機の予約をやり直さなければならないが、8月の下旬から9月の上旬にかけては、ヨーロッパから日本へ帰る客でかなり混む。

 カーブル、デリー間は早い便が予約できても、デリー、東京間の予約はかなり遅くなる事が予想される。何としても明朝8時までに査証をとらないと9時30分の出発に間に合わず、大幅に帰国がおくれてしまう。

 しかし、もう明らかに不可能である。この不可能を可能にするためには、先進国の官僚が特に強く持つ特性を利用する以外に術は無かった。

  《帰 国》

 日本からの手紙には、我々の登頂知らせる新聞の切り抜きが入っていた。新聞の記事を目にした瞬間、我々の遠征が終わってしまった事、すでに過去のものとなってしまった事を強く感じさせられた。我々に残された仕事は、もう飛行機に乗る事しかない。

 8月27日朝9時30分、とりたての査証を手にカーブルを発つ。ふり返ると、きた時と同じ赤い砂のヴェールが、遥か上空から大地を包んでいた。デリーで、デリー、東京間の予約の再確認をし、飛行機の出るまでの1日半を市内見学ですごす。

 28日夜8時30分、デリーを発つ。荷物のオーバーウェイトでトラブルがあったが、8月29日昼12時20分、家族、友人の出迎えをうけ、予定通り東京に着く。広大な空間と、静止してしまったかのような時間の中で惚けた頭を出来るだけ早く文明用に切換えねばなるまい。



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