ヌン峰西稜インドヒマラヤ・・・劫の彼方へ
  (報告書・ヌン峰より抜粋)

                                                            記録:坂原忠清


鮮烈な存在感

1985年8月15日、12時35分、標高7135mヌン峰の山巓に4名全員が立ちました。
急峻な南西壁上部のトラバースを終え、標高7000m地点で西陵に出ました。
細い雪稜が群青の宙空で白く輝き遥かなる高みで突然プツンと切れています。
そこがインドカシミールの最高峰ヌンの頂上でした。

両側が深く切れ落ちた雪稜に一歩一歩ラッセルを切り山巓に肉薄する瞬間、
そして一瞬の登頂。
時間が鮮烈に存在感を浮彫にする稠密な一刻であり、
そこには確かに生きていることのへの素朴な感動がありました。


8日間の短期速攻

ABC設営後8日間の短期速攻登頂であったため全員高山病に苦しめられ
起床安静時心拍数100前後での行動が毎日続きました。
アタック前に一度BCに下り休養をとらねばと思いつつも、
高所ポーター無し隊員4名のみの荷上げではそうもいかず連日行動を余儀なくされ、
疲労を蓄積したまま雪の舞い始めた最終キャンプC3(6400m)に入りました。
「いよいよ悪天周期突入か」と一時は長期戦を覚悟しましたが、
どうにか翌15日登頂を果たすことが出来ました。


日印絵画交換会

又、登山活動のみならずデリーに於ける日印絵画交換会も大成功を収め、
インドの子供達の素晴らしい作品327点を持ち帰ることが出来ました。
近日中に子供達や一般市民を対象にしての絵画展を開く予定です。
昨年度から交渉を続けてきた「ブータン計画」の許可が下りず急遽変更、
正味2ヶ月の準備期間で実施した今回の遠征が、かくも充実した実りのあるものになったのも
多くの方々の御支援、御援助があってのことだと隊員一同感謝しております。
ありがとうございました。

  
インドヒマラヤ川崎市教員登山隊

          隊長 坂原忠清

海外登山記録

Contents  
   ヒマラヤ登山記録  チベット 1998~2006年
《A》 ヨーロッパ・アルプス(アイガー、マッターホルン、モンブラン) スイス、フランス 1975年7月~8月
《B》  コーイダラーツ初登頂(5578m) アフガニスタン 1977年7月~8月
《C》  ムスターグアタ北峰初登頂 (7427m) 中国 1981年7月~8月
《D》  未知なる頂へ (6216m) ビンドゥゴルゾム峰 パキスタン 1979年7月~8月
《E》  ヌン峰西稜登頂 (7135m) インド 1985年7月~8月
《F》  ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m) パキスタン 1983年7月~8月
《F2》  ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m)  その2 パキスタン 1983年7月~8月
《G》  ナンガ・パルバット西壁87 (8126m) パキスタン 1987年7月~8月

     中央アジア遠征峰


1 劫の彼方へ



仏教を生んだインド亜大陸は、地球上の地理的条件を総て備えた世界のニミチュアであった。
ヒマラヤの極寒から南の熱帯雨林まで広がる亜大陸は、
大陸との境界を高峻なヒマラヤ山脈によって遮られ、ベンガル湾とアラビア海に行手を阻まれた人間界の小宇宙であった。
小宇宙には多種多様な民族が雑居し、彼等の生活を支える大河は、
いずれも遥かなる高み、神々の住むヒマラヤを源泉としていた。

インドヒマラヤこそ神々の座であり、仏教宇宙の出発点であった。
インドヒマラヤの北西部、カシミール地方の最高峰ヌン(7135m)の短期速攻による全員登頂を終えた今、
鮮やかに、神々の座よりもたらされた思惟の波紋が私の胸に甦る。


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  (1)山麓へ

 ヌン峰の魅力は、バニカルで遠望する雪と氷を纏った孤高の容姿から始まり、やがてそれはタンゴールからの草原キャラバンルートの山麓美へと引き継がれる。

 エーデルワイスやシオガマの咲き乱れるタンゴールの草原はそのまま標高4200mのベースキャンプまで続く。4時間の急な登りで、センティック氷河の下部にあるキャンプサイトに着く。

 まず氷河から流れ出る透明な水に歓喜する。しばらくの間インダス河の濁った水しか飲んでいないので、安心して冷たい透きとおった水を腹一杯飲む。

 残念なことにキャンプサイトの見晴らしは良くない。南北に走る尾根に遮られ、南はセンティック峠の雪山がわずかに見える程度である。時たまピアと呼ばれる鳴き兎が、甲高い声で鳴く。キャンプサイトには、石を積んだポーターの無蓋キッチンが作られている。

 ここは先に入ったフランス隊がテントを張り使用していたので、その百m  程上流の小高い丘の下にベースキャンプを設置する。
ここから更に4時間氷河を登り、90度東に折れた標高4800m地点にABC(前進基地)を作る。

 このABCの景観は壮絶である。南の目の前にD41峰(5813m)の雪と氷の三角形が聳え、後は赤い岩壁が垂壁を成し、虚空へと際限も無く延び上がる。その最先端は標高6000mを越えんとし、先端は鋭いニードルになっている。

 落石の巣でもあり、岩壁直下は大小の落石が累々としている。落石の音が響く度、テントの中に居ると、ギョッとする。少し規模の大きい岩なだれが生じたならば、テントが直撃されることは間違いないであろう。

(2) 悠久の断層

 ABCの東は上部雪原へ出るアイスフォールに遮られ、西はセンティック氷河下流となって落ち込んでいる。このアイスフォールの中からABCを取り囲む岩壁群を眺めると、壮大な地表が刻む悠久の海に飲み込まれてしまう。

 センティック峠の稜線から赤い岩壁まで、堆積の縞がぐるりと取り囲む。荒々しい地表が刻む数億年の時を、その縞は無防備なまでに露出しているのだ。2年前、ナンガ―パルバットの断層に接し、「2億年の須臾」を眼前にした衝撃を受け、報告書のトップに同名の心象スケッチを載せたが、その時の断層の比では無いのである。

 ヌン峰の魅力は、この断層のダイナミズムで極点に達する。広大な空間を押し潰さんばかりに剥き出しの岩壁が拡がり、明瞭な幾筋もの堆積の縞が,水平に走っているのだ。

 一見廃墟のようでありながら、それは生々しい地球の生理の息吹であり、激しくのたうち、呻きながら時を累積していく地表の生の姿であり、形而上の存在である時が、形而下の地表をさいなむ姿でもある。

 形あるものは滅びる。存在の行末は無に回帰することであるという、明白な事実を認識してしまった存在が、あえて自らの存在の意味を問う。問いかける無声のエコーを広大な岩壁群が次々に響かせる。


(3)閻浮提(えんぶだい)

 エコーはエコーを呼び、加速され渦を巻き、星雲となり、インド亜大陸をコアにした宇宙創造のドラマを語り始める。「閻浮提(Jamba-dvipa)と呼ばれる人間の住む世界あり。その北に雪山(Hima-Vat)あり。

 雪山の更に北に無熱悩池(Anavatapla)ありて、この地よりガンジス河、オクサス河、インダス河、シータ河が東西南北の流出口、銀牛口、瑠璃馬の口、金象の口、玻瓈獅子の口から流れ出ず」(具舎論)

 創造のドラマは、5世紀のインド人が認識していた地理的世界から始まる。閻浮提は逆三角形をしており、インド亜大陸そのものといえる。

 無熱悩池はマナサロワル湖がモデルになっている。雪山とはもちろんヒマラヤ山脈である。インダス河はこの雪山を貫き、閻浮提を南下する。人間の住む世界には河が必要であり、その河を生み出す場所こそが世界の根元であると考えたインド人は、その根源をヒマラヤに置いた。

 ヌン峰が、インダス河最上流に属する雪山の一つである事を考えると、創造のドラマは正しくインドヒマラヤのこの地、インダス河の流出口、金象の口から始まることになる。金の象の口から,人間の住む世界が生み出され、更に金の象が住む広大な世界が、創造される。

インド亜大陸である閻浮提は、金輪上の八つの海の一つに浮かぶ、東西南北四つの島のうちの一つで、南に位置する。金輪は巨大な水輪によって支えられる。水輪は更に巨大な空間、風輪によって維持される。

 金輪とは何か、風輪とは・・・そしてその先どうなるのか、5世紀の仏教徒は、インドヒマラヤを発端にして認識の翼を広げ、宇宙を掌握しようという、途轍も無い企みを抱いた。

 その結果、仏教徒は何処へ行き着いたか?繰り返される赤い岩壁のエコーを鮮烈に感じつつ私は、白き神々の座よりもたらされた思惟の波紋を追う。


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(4)三阿僧祇劫

 まず彼等は途方もない宇宙を捕えるため、そのメジャーである時間を認識の支配下に置こうと試みた。
 
/75秒という極小の単位時間、刹那を考え、その120倍の(だつ)刹那、更にその60倍の臘爆(ろうばく)、臘爆の30倍の須臾(しゅゆ)を設定し、更に日常の感覚を遥かに越えた無限の時間「劫」を考え、時の計測化を計った。

 1劫とは、一辺一()(じゅん)(7.4km)の立方体に芥子粒を満たし、百年に一粒づつ取り出し、全部取り出してもまだ終わらない(・・・・・)時間であるという。一体、その長さはいか程なのか?一劫がそれで終わる(・・・)と考えて私は計算をしてみる。

 1億年を数えるには100万個の芥子粒が必要になる。平均的な大きさの芥子粒ナガミヒナゲシの直径が0.8ミリであるから、100万個の芥子粒の体積は100万の立方根の0.8倍の3乗、およそ512㎠となり、7.4×10÷5127.9×1014億年 つまり7.9×1022年となる。

 ビッグバンで生み出された宇宙の歴史150億年の5兆2600億倍になる。つまり一つの宇宙の生命を仮に、今までの歴史の20倍、3千億年とすると、約2630億個の宇宙が孤独な単独生殖を繰り返し、生成と消滅を行ったことになる。

 それだけでも途轍もなく長大な時間なのだが、彼らは劫に止まらず、更に認識の限界を押し広げるべく、劫を80集めた大劫を考え、大劫を64倍にした64転大劫を作ったのである。

 しかしそれでも時が認識下に収まるはずがなく、更に超現実的な時の単位を考えた。劫を10の59乗した「阿僧祇劫(あそうぎごう)」、そしてそれを3倍した「三阿僧祇劫」・・・・。

 しかし時を走り抜け、時を認識下に入れようとしたランナーは、ここでついに倒れた。まだその先に広がる渺々たる深遠な虚空を見てしまったのだ。仏教が持つ本質的な虚無感は、常にこの、認識への絶望が根底にあるのであろう。


 
(5)風輪

 三阿僧祇劫まで認識の翼を広げ、初めて為す術のない虚空を見たのと異なり、空間に関しては、最初に手の届かぬ異次元を仏教は設定した。

 これは天空に広がる空間が、地球上のそれと根本的に異質なものであると見抜いていたからであろう。世界はせいぜい認識不能な虚空に浮かぶ一塵でしかないという発想は、閻浮提なるインド亜大陸と、夜の天空に広がる闇の深さを比較すれば、充分理解出来ることなのかも知れない。

 5世紀の小乗仏教の綱要書「俱舎論」は、異次元の虚空に風輪を浮かべた。円盤状のこの世界は、円周が「阿僧祇」由旬、つまり10の59乗由旬、厚さが160万由旬ある。

 時間の認識限界に用いた阿僧祇を風輪に適用したのは、風輪が、認識し得る最大の空間であることを示している。阿僧祇とは仏教にとって、認識の地平線なのであろうか。

 この風輪の直径を計算し、光の速さで飛ぶと何年かかるかというと、
7.4×1059÷3.14÷(3×10÷(60×60×24×365)≒2.5×1046

 となる。現代の科学では、宇宙の果てが150億光年、直径が3.0×1010光年とされているので、この風輪の直径は光を手段として認識し得る宇宙の直径の8.3×1035倍ということになる。

 風輪を現在認識している宇宙と同じ大きさと考え、宇宙の直径を求めると、
3×10×(60×60×24×365)×3.0 ×1010×10÷(8.3×1035)≒34×10-8㎜となる。

 つまり風輪の大きさを現在の宇宙と同じ大きさに縮小して考えると、ほんものの宇宙は1億分の3.4㎝にしかならないということである。

 いかに阿僧祇で示した風輪が巨大であるか、驚くべきものである。この途轍もないものを、あえて虚空に浮かべた認識の深さ、それが仏教の宇宙観であることに思いあたる時、最早私には、仏教が宗教であるとは思えないのである。

 
仏教が認識の彼方で遭遇した虚空とは、何であったのか?

 (6)虚空

 生物は、その種が持っている観測手段によって、認識限界を決定する。従って当然、アミーバ、アリ、イルカ、ノスリ、人類等の認識世界は、各々異なる。

 一部の深海魚や、鍾乳洞に住む生物を除いて、ほとんどの生物は、観測媒体として光を用いている。太陽の光が世界に反射し、生物の観測手段に引掛り、像を結んで世界が決定される。

 観測媒体には、光の他に音波、電波等もあるが、光程の強烈な媒体とはなり得ない。つまり、世界は、光によってもたらされると考えて良い。「世界は光を通してしか認識できない」と言うことの真の意味は、光の速度を秒速30万㎞と計測した時、明瞭になった。

 光が明らかにすることの出来る世界は、光よりも遅い速度で運動し、光を捕えてしまわない程度の弱い重力しか持たない空間である。光よりも速く運動する空間は、光を発することも、光を反射することもない。

 光を捕えてしまう程の強い重力を持つ空間は、光を使者にしてメッセージを送ってくることは、決してない。光では決してとらえることの不可能なそうした空間が、わずかな、小さい、光の世界を押し包むように、宇宙の地平線に
瀰漫(びまん)している。

 光さえ存在し得ぬ世界。仏教が1500年もの昔、認識の彼方で遭遇した虚空とは、これであったのだ。

 光の世界を一億分の3.4㎝に閉じ込めた巨大な風輪。その風輪を浮かべた、超巨大な虚空。我々が、無限と認識している光の世界は、実は、点以下の存在なのであろう。科学の発達を待たずして、時を越えて認識した虚空に、仏教は何を見たのであろう。


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 (7)他化自在天

 「俱舎論」は、風輪の上に水輪を乗せた。水輪は、直径120万3450由旬、厚さ32万由旬の円柱である。その上に厚さ32万由旬の、同じ直径の金輪を乗せ、その表面に、海、山、島を作った。

 その金輪上には8つの回廊状の海がある。一番外側の塩水海に、4つの島があり、そのうちの南に位置する島が、人間共の住む世界、インド亜大陸なのである。風輪が、空気の存在する天空を象徴し、水輪が、無限に広がる海を表わし、金輪が、地上空間を意味することは容易に推察出来る。

 しかし、何故、それらは円柱なのか。回転させ、空間に時間を導入して、更に無限の彼方へ飛翔することをもくろんだのであろうが、球でないのが面白い。5世紀の彼等の知性では、曲面の一部を無限大に拡大すると、平面が得られるという発想は無かったのであろう。

 平面である金輪上には9つの山があり、中央に須弥山(しゅみせん)がある。高さは16万由旬で、半分が海中に没しているので、標高は8万由旬、約59万㎞である。エベレストの60万倍以上の高さであり、地球の直径の47倍にも及ぶこの山は、到底地球上の存在とは考えられない。

 塩水海の南に位置する人間界の島と異なり、この山には神々が住んでいる。須弥山の頂上には三三天(神)が、帝釈天の住む殊勝殿を中心に生活している。殊勝殿を取り囲んで、飲食市、衣服市、戯女市、公巧市等があり、更にその外側に、音楽天、如意地天、月行天、佳輪天、光明天、上行天、山頂天
等の三三天が住んでいる。

 これ等の神は地上に住む神で、地居天と呼ばれる。

 須弥山の山頂から8万由旬上空に空中宮殿があり、夜摩天が住んでいる。更にそこから16万由旬に天空があり兜率天(とそつてん)が住み、その2倍の32万由旬上空に楽変化天の天空があり、そこから更に2倍の64由旬の上空に他化自在天が登場する。

 かくして「俱舎論」の説く神々の世界は終わる。地上8万由旬、そこから宙空へ120万由旬、計128万由旬、約948万㎞が、仏教の地上から天空までの世界である。この高さは、地球から月までの距離の約25倍である。

 光速で31秒程で達する距離だ。予想外に神々の座は近いのである。地下の大きさを計算すると、地上を支える金輪が32万由旬、水輪が80万由旬、風輪が160万由旬、計2013万㎞の深さである。地球から金星までの距離の約半分に相当する。

 つまり、虚空に浮かぶ仏教宇宙の上下は、風輪から他化自在天の住む天空まで400万由旬、2960万㎞、光速で100秒ほどの距離内に収まるということになる。風輪の直径に較べると、ほとんど無に等しい厚さである。

 仏教宇宙を虚空の無限遠点から眺めると、厚みの無い巨大円盤の中心部分に、点のようにへばり付いた水輪、金輪があり、その点の周辺に陽炎のように、神々が漂っているのである。



 (8)

 スタテックで虚無的な、認識への絶望を抱きつつ、あえて仏教は虚空に対決しようとした。風輪を回転させ、無限の時間を与え、仏教宇宙の生成流転を計ったのである。

 風輪が無限の時間をかけて動き続ける限り、虚空に呑み込まれることはあるまい。この発想は、巨大重力場を形成する天体への落込みから、逃れる惑星や、衛星の企みと同一である。

風輪の回転は、4つの段階を経て一回転を終わる。各段階は「劫」という時間の単位で呼ばれる。ビッグバーンによる宇宙の誕生、風輪の発生を「成劫(じょうごう)」という。

 膨張を続け、拡大していく宇宙の生成期を「
住劫(じゅうごう)」と呼び、老いた星々が超新星となり、パルサーやブラックホールを生み出し、宇宙そのものが墓標となる期間を「壊劫(えごう)」と呼ぶ。そして次のビッグバーンに至るまでの、収束する宇宙を、「空劫」という。

 この4つの生成と消滅の各段階は、20劫(1杼5800垓年)の時間を必要とし、80劫で、生成と消滅の
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サイクルを終える。風輪は、物理的に空間で回転し、更に無限の時間「劫」の中を回転する、という二重回転によって、虚空と対決したのである。

 それは、あくまで認識不能な恐ろしい虚空に対する守備であって、やがて、虚空の漆黒の闇にいとも簡単に呑み込まれてしまう、という予感のなせる業なのである。

 57億7千万年後に、仏陀の次の救世主として兜率天から下るという、弥勒菩薩の出現の真の意味は、森羅万象の彼方にチラチラと見え隠れする虚空への恐怖を塗り潰し、偽りの、一時の平安を得るためのものではないのか。

 いずれにしても、現代の最先端を行く科学理論ですら予想をためらっている、ビッグバーンとブラックホールによる宇宙の生成と消滅の構造を、仏教は、1500年も前の5世紀に認識していたのである。これだけでも、仏教が本質に対する鋭い透視力を持つ、得体の知れぬ知性であることに、気が付く。


 (9)劫の彼方へ

私の登山は、恐ろしい深遠、虚空の呼び声を聴いた時から始まったような気がする。もちろん最初は、その声の正体が何であるのか見当もつかなかった。青春前期の、誰もが陥るひどく虚無的な感覚の中で、総てを越えて尚真実たり得るものを求め、より遠くへ視線をさまよわせた。

 総てを越えて尚真実足り得るものが、虚空でしかないという確信は、その時点で芽生えており、遠くへ投げた視線が常に捕え続た地平線に、何等の希望も抱いてはいなかった。

 にもかかわらず、私は内なる地平線を求めて歩き続けた。長く苦しい準備期間を経て一つの遠征が成立し、山巓に立った瞬間に、新たなる地平線をみてしまう。

 大岩を山巓に押し上げた瞬間、落下する岩を、再び押し上げねばならぬ「シジフォス」。山巓に立った瞬間程、自らがシジフォスであることを強く感ずる時はない。本来地平線は認識の限界であっても、世界の果てではないのだ。

アレクサンダー、ダリウス、ジンギス汗といった世界史の名優達が目指していたものは、内なる地平線であり、その行為こそ正しく生命の軌跡であると強く実感したのは、初めて中央アジアに足を踏み入れた1977年のオクサス河(アムダリア)上流に遠征した時であった。

「人類は個体を越えて次々と、虚しく地平線を目指し、何処かへ行こうとしている。」この発見は私の登山体験とオーバーラップし、奇妙な興奮を私にもたらした。

 登頂時の充ち足りた自己実現の瞬間に、同時に内在し、その後絶望感を生み出し、更に激しい行動に駆り立てるカオスの正体を見たような気がしたのだ。地平線を目指して騎馬を進めるジンギス汗の像が、彼自身の心象風景の中を進む。

 その二重映像の更にその彼方に、確かに何かが見えたような気がしたのである。世界の果てでないことを認識しつつ地平線を求める行為に、虚空の呼び声を感じたのはこの時であった。

 激しく山に惹かれるのはこれだったのかという深い感慨に打たれ、私はしばし、オクサスの源流に佇んだ。虚空は、恐ろしい深遠でもなければ暗黒でも無かった。ある種の親和性を持って、絶対的平安を約束してるかのようにも思えた。

更に数回、アジアの山々を訪ね、虚空の呼び声を聴き続けた。アフガニスタンで聞いた呼び声は、チトラルやカシュガルでエコーし、ナンガーパルバッドの断層で視覚化され、今回のインドヒマラヤで、仏教宇宙の彼方へ帰結した。

 深遠な虚空と対決しようとした、得体の知れぬ知性としての仏教を、私が見いだすのは時間の問題であったのだろう。

激しくのたうち、呻きながら、時を累積していく地表の生の姿を目の前にして、「劫」の意味するものがなんであったか、今こそ明瞭になった。1劫、790垓年という、途轍も無く長大な時間は、やがて虚空に吸い込まれ、無に帰してしまう、宇宙の虚しい守護神であり、仏教宇宙論の最後の足掻きであった。

光すら存在しない虚空の呼び声というのは、総てのエネルギーが平衡状態になる熱エントロピーの死への誘いであり、森羅万象にささやかれる終焉へのサインなのだ。

 未来永劫に
亙る(わたる)平衡こそ人類が求め得ずして尚求め続けてきた絶対的平等と平安である。この虚空の本質、絶対的平等と平安をエネルギー充ち溢れる光の宇宙で実現しようと、人類は長い間その思想と社会システムを模索してきた。

 異邦人玄奘はこの根本的な矛盾に気付いていたのかも知れない。エネルギーの偏差こそが不平等、不安を決定する。つまり、人間の理想、絶対的平等とは、虚空の中にしか存在しないのである。

 エネルギーは光の宇宙に存在する者に課せられたカルマ(業)であり、カルマは行為(運動)として発現する。クオークしかり、天体しかり、超銀河しかり、人類しかり。このカルマの終結が我々を絶対的平安の世界へ導く。

 課せられたカルマを、肉体は本能として知覚しているが由に、激しく地平線を求め狂奔するのであろう。肉体を司る鮮烈な精神は、激しく闇雲に行為する肉体を静かに眺め、行為の意味を問い続ける。

劫の彼方への出発こそ、生命が真に意図するものなのかも知れない。



2 ヌン峰への経緯

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 (1)3月槍合宿談義 

まだ3月だというのにドシャ降りの雨。ゴアテックスの上下を着て傘をさして新穂高温泉を出発したのは朝の8時。雪に埋もれた槍平の冬期小屋を掘り出し、やっともぐり込んだのが夕方の5時。

 連続9時間の雪中の行動で全身ぐっしょり。パンツまでビチョビチョ。何が理想防水のゴアテックスだ。シーム止めをしていても何の役にも立ちはしない。防水効果があったのはせいぜい歩き出して2時間。あとは濡れ鼠。

 いつ雪に変わるかと期待を込めて高度を稼いだが、とうとう標高
2千ⅿの槍平までドシャ降りの雨。冬山でパンツまでぐっしょり濡れたのは数年前の1月の剣岳早月尾根以来である。

 西高東低の寒気がやってくれば一発で全身が凍りつき凍死の恐れがあるだけに、あまり雨は歓迎できるものではない。小屋の中でパンツの水を絞り出す。合宿は始まったばかり。貴重な着替えを使うわけにはいかない。着たまま乾かすしかないのだ。

 これが「ブータン計画」3度目の合宿のスタートであったが、まさかこれが今計画最後の合宿になるとは夢にも思っていなかったのである。最高峰であり未踏峰でもあるガンケールプンズム(7541m)への登山許可の申請をブータン政府に出したのは、ブータン登山解禁の2年前にあたる昨年である。

 その後ブータンとの交渉を続けたが許可が下りず。本年1月、ブータン政府の要職にある人々と接触のある小方全弘氏宅を訪ね観光大臣のサンギョピンジョ氏への直訴をお願いする。

 都市部の住宅では珍しい囲炉裏を囲み、高知の地酒をごちそうになりながら、十数年前の小方氏のブータンの想い出を交え話を進める。「来月2月の17日に東京で、日本ブータン友好協会の総会があるので、会長の桑原武夫さんから直接推薦状をもらえるよう私が働きかけてあげよう」との好意を示される。

 京大の名誉教授である桑原先生とは京都のヒンズークシュ・カラコルム会議で一緒になったこともあり、登山の理解の深い方でこれ以上有力なコネクションは考えられない。

 当日、ブータンの美しい衣装キラで着飾った女性達の侍る総会に出かけると、桑原先生の他「秘境ブータン」の著者、中尾佐助氏、当会の隊員の凍症でお世話になった聖マリアンナ病院の長尾梯夫氏達が役員会を開いていた。

 我々があらかじめ用意していた英文の推薦状に目を通し、その場ですぐに桑原先生はサインをくれた。推薦状の内容は小方氏の協力を得て、形式的な文書でなく、今年度中に小方氏一行も久しぶりにブータンを訪れる計画があるとの内容を含んだ私信に近い、返事のもらい易い文書であった。

 しかし、3月いっぱい待ったが、返事なし。今秋にはアメリカ隊と北海道HAJ隊の2隊にガンケールプンズムの許可が下りているのでその前の8月に許可をもらうのは困難であると予測していた。

 (2)ブータン計画頓挫

 第2希望としてガンケールプリズムの近くの山も申請しておいたのだが全く返事なし。昨年12月の赤石、荒川三山、2,3月の八ヶ岳と続けてきたブータン計画の合宿に引き続き、何の希望もないまま予定通り3月の槍ヶ岳合宿に入る。そして出発早々、ドシャ降りの雨という訳だ。


高山駅で買ってきた「生酒」を一気に飲み干し身体を暖める。「生酒」は火を通していないので何とも香りが良い。東京では味が変わらぬよう凍らせて「凍結酒」として売っている。

 日本酒は甘くてべたべたしているので私は飲まないのだが、「凍結酒」だけはさっぱりして香りが良いので時々、飲みに行く。まさか雪の槍平で「生酒」が飲めるとは思っていなかった。うまし。

 翌日、やっと雨が上がり滝谷が朝日を浴びて眩しく光る。穏やかな槍沢と異なり飛騨沢はデブリが山を成している。雪崩の通り道は高さ2、3mの氷の垂壁両側にできている。この壁を越えて中崎尾根に取り付く。

 雨の後の稜線はカチンカチンに凍りつき、ラッセルがないので歩き易いが、一歩スリップすれば下の谷まで一直線に落下する。槍の肩の小屋は冬期の入口が完全に雪の下に埋もれてしまい、どこが入口かわからず30分以上もウロウロする。

 どうにか掘り出し中に入る。北鎌尾根から登ってくるはずの松井と定時交信するが応答なし。昨日の大雨で早々に断念して大町へ戻ったのかもしれない。

 槍の穂先は昨日の雨でヴェルグラが張り付き、岩という岩は総て氷と化している。ピッケルでぶったたき氷を剥がしながら登る。途中で道無き岩場を下降してみたが、とても悪く絶妙なアイスクライミングを強いられ、久しぶりに冷や汗をかいてしまった。

 夜には風がゴーゴー唸り、小屋がギシギシ音を立てる。翌日、下山せねばならぬ山口に合わせ槍沢から横尾に下る。山口はそのまま沢渡へ向かったが、槍沢からのラッセルが予想外にひどく一日で下れず大正池の先でビバーク。

 我々は横尾の小屋に泊まる。北鎌尾根との交信を試みつつ、合宿の残りの日数で何処を登ろうか考えながらのんびりと小屋でウィスキーを飲む。

 停滞を希望する深瀬に、徳沢までのビールの買出しを頼んで岡林と涸沢へ出かける。誰もいない雪の涸沢カールは素晴らしい。北尾根の岩稜も奥穂の胸壁も北穂の東陵も、まるで小さなヒマラヤである。

 3日前の雨の後、雪が降ったので堅い氷の上に新雪が20㎝程積もり至る所で表層雪崩が発生している。ふんわりとした表層の雪を掻き氷の上にザックを敷いて涸沢中央にある台地に寝ころぶ。何度来ても陽光に包まれた3月の涸沢は良い。静寂と光の海。海に浮かんで微睡みつつ岡林と話す。

「どうもだめだ。今夏ガンケールプリズムが我々に許可される可能性は、もうほとんどない。中国解禁の時は、この春の合宿が終わり帰京するとすぐ北京に来いとの連絡が来ていたのだが、今度はだめだろうな。となると次の手を打たねばならない。どうする?」

 (3)インドヒマラヤ検討 

 「まだ私は高峰登山の経験が無いので、できれば7千mのピークを踏みたいですね。」「夏までに残された準備期間は3ヶ月しか無い。この短期間で登山許可のとれる7千m峰といえば、パミールのレーニン峰、コミュニズム峰、コルジュネフスカヤ峰の3峰か、やや低いがアラスカのマッキンレーぐらいだろうな」

 「インドヒマラヤのヌン峰なんかどうでしょうね。7千m峰にしてはアプローチも短いし、ルートも比較的良く知られていますし。5年前にヌンの近くに私、入ったことあるんですよ」IMFは日山協の推薦状を必要としないから、今から手続きをすれば間に合うかもしれんな。やってみるか?」

 予期した通り帰京してもブータンからは何の返事も来ていなかった。雪焼けで皮の破れたひどい顔でHAJの事務所に顔を出すと、吉田憲司氏が居た。イスラマバードのサミー氏の所で働いているはずなのにどうしたのか聞いてみると、あそこで働く話はだめになって今HAJの事務局で働いているとのこと。

 又しばらく顔を見ない当会会員、ナンガーの遠征隊員でもあった安里と一緒に先日、ブータン人を見送りに成田に行ってきたとの話を聞き、もしやブータン観光省のジグミ氏かと思い尋ねると、登山研修に来ていたブータン人だとのことであった。

 
IMFへのアプリケーションのコピーとヌン峰の報告書を吉田氏からもらい早速IMFとの接触を始め申請書をインドに送る。

 IMF手続きの中で最大のネックは入国査証である。査証の取得までにふつう3ヶ月かかるらしい。今4月である。3ヶ月後というと7月になってしまう。査証申請の前にIMFから登山許可をもらい登山料をインドに払い込まねばならない。

 それに1ヶ月かかると査証が下りるのは8月になる。8月の下旬には帰国せねばならないので実際上、遠征は不可能になる。いくら短期速攻がヒマラヤ遠征のテクニックの主流を占めるようになったとはいえ、それはある程度の高所順応を終えてからの話である。

 7千
m峰を高所順応なしで10日間で登ろうなんて自殺行為に等しい。問題は、いかに早くヌン峰の登山許可を取得するかにかかっている。査証の問題はその次である。

 ヌン峰は最近、特に脚光を浴びるようになった人気のある山なので、各ルート共すでに他の登山隊に許可されている可能性が高い。そうなると1ルート1隊許可制のIMFが許可を出すはずがない。

 ただ幸か不幸か、本年度よりヌン峰の登山料が900ドルから1500ドルに値上げされたのでチャンスはある。だが、次にルートが空いていたとして
IMFが至急返事をくれるかどうかが問題になる。

 実際ブータンは何の返事もくれないのである。返事が遅れれば査証の申請が間にあわなくなる。ことは深刻である。涸沢での判断は甘かったか?


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 (4)インド登山協会との交渉

 IMFのボス、ジョギンダーシンと直接交渉できれば許可も査証も一挙に解決する。かつて神奈川県の海外委員をやっていた中川氏の紹介で山渓の社長川崎吉光氏に会うと「ナリンダークマールに言えば、ジョギンダーシンは動くだろう」とのこと。この二人はインド軍の遠征隊では中心的な役割を果たし、エベレスト遠征の時は隊長、副隊長の関係にあった。

 「今月(5月)の中旬にダージリンで会議があって私も丹部さんも呼ばれている。私は行けるかどうかわからないが、丹部さんは出席するので私から丹部さんに許可と査証の件を話してみよう」

 丹部氏は日本山岳協会の副会長で私も何度か会っているが、あまり良い印象を持っていない。中国のムスターグアタ北峰(7427m)を2週間で登る計画を立て、名古屋大学の低圧室でトレーニングをしたり、ステップテストの効果的な方法を研究したり、悪戦苦闘している最中に丹部氏より電話がかかってきたことがある。

 「2週間で7500mの山が登れると考えているのか。最近ヒマラヤの死亡事故が非常に多い。高山病による滑落や初歩的なミスが多い。外務省からも文句を言われている。高所順応はどうするのか? 原さんに相談して名古屋大の低圧室に入ったらどうか」

 というような内容であった。カチンときたことは言うまでもない。1979年の遠征では隊員の一人が高山病で倒れ、パキスタン軍のヘリコプターを要請したが事故地点が高く役に立たず、危機一髪で我々だけの力で救助したり、アフガニスタンやアンデスでも苦しい体験を重ねている。

 海外登山研究会のパネルディスカッションでは山岳同志会の坂下氏や
HAJの尾形氏たちと共に私もパネラーとして参加し、ヒマラヤでの事故を防ぐにはどうしたらよいか、傍観者としてではなく実行当事者として真剣に考えている。

 その研究会の席にも丹部氏は主催者側として参加しているので、私の新しい試みには充分理解があると思っていたのだ。
「出来る限りのことはやっています。名古屋大の低圧室にも入っていますのでご心配無く」

 と答え電話を切った苦い思い出がある。したがって川崎氏より丹部氏の話が出ても乗気にはなれなかったのである。この後、私は丹部氏への認識が誤っていたことに気付かざるを得なかった。

 岡林が登山許可の件でお願いに行ったその日に、丹部氏はクマール氏の勤めるマーキュリー社にテレックスを入れてくれ、翌日にはヌン峰許可の返事をもらい、私に電話を入れてくれたのである。

 その後も査証の件や遠征終了後のポータートラブルの件でも積極的に動いてくれ、その仕事の早さと面倒見の良さに驚かされた。あの電話の真意は持前の面倒見の良さから出たもので、山岳協会の推薦状を必要としない中国遠征に対しての副会長の権力的介入ではなかったのである。

 後日、一緒に飲んだ時、丹部氏にこの話をして誤解していたことを詫びたのだが、かなり酔っていたので、はたして丹部氏は覚えているかどうか?

 ダージリンの会議ではインドのクマール氏とブータンのジグミ氏の二人に会い、ヌン峰とガンケールプンズム峰の件について丹部氏は我々の意向を伝えてくれた。その結果、ガンケールプンズムは来年以後にならざるを得ないが、ヌン峰については査証の件を含めてどうにか今夏実行の目途が立ったのである。

 それは雪の涸沢で岡林と二人で話し合ってから1ヶ月後のことであった。さあ、出発まで残りは2ヶ月。ガンケールプンズムからヌン峰への転進なるか?



3 アタック前夜

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 アタック前夜

 雪が舞う
風がテントを叩く
クレバス帯上部南西壁下部
標高6400m最終キャンプ、C3

 群青の高みに輝く山巓の光を求めて、ひたすらに登りつめた七日間。明日は山巓の光にめぐり合うことができるだろうか。不安と期待の交錯する雪と氷の上の小さなテントの夜。 

 起床安静時心拍数が100を越えた最悪状態の田村がつぶやく。

「そろそろ食糧制限を始めた方が良いんじゃないでしょうか」

 確かにABC(前進基地)を出てから好天が続き過ぎた。久しぶりに振り出したこの雪が天候の悪天周期を告げるものである可能性は高い。しかし午後になると、いつも山頂付近を覆う南からやってくる雲、モンスーンの切れ端なのかもしれない。

 ザンスカールの南を隠す一面の雲海はヌンを境にして、スッパリと断ち切られる。ヌンから北の空はいつも明るく、北西にナンガ―パルバット(8126m)、真北にK2(8611m)が白く輝いている。

 カラコルムに進入するベンガル湾のモンスーンを遮り、ヒンズークシュやカラコルム、そして中央アジアを砂漠化する巨大なヌン山塊。風に舞う雪がその最後の巨壁を乗り越えられず、ヌン上空で低迷する一片の千切れ雲である事を祈りたい。すぐ北の空は晴れていると信じたい。

 そうなると数日間は風雪に閉じ込められ、西稜核心部に張った固定ザイルは総て雪と氷の中に消えてしまう 胸ポッケの気圧計の針を確かめる。6400mをわずかに越えている。気圧が下がりつつある。

 やはり悪天周期突入なのだろうか。南の山脈上に広がる雲海が一斉に高度を上げ、風を孕みヌンを越え、北へと進路をとり始めたのかもしれない。


。雪崩も降雪直後から牙を剥いて、テントを襲い始めるであろう。一日毎に最終キャンプからの脱出は困難になる。低気圧襲来ならば食糧制限どころの話ではない。

 一刻も早く安全地帯のベースキャンプまで、戻らねばならないのである。
私が正確に判断し行動を決定せねばならぬことは、天候の他にもまだある。田村の体調である。先発としてインドに入り、1週間目に嘔吐と発熱。

 ベースキャンプに入る日の朝再び発熱、39度8分で動けず、タンゴールの村に止どまる。回復して
ABCまで上がったものの、次は高山病の洗礼を受け起床安静時心拍数が異常に高い日々が続いている。

 1979年の遠征では隊員の岩野の起床安静時心拍数が100を越えた次の日、彼は行動中にパッタリと倒れ昏睡状態に陥った。ヘリコプターの救助を要請したが、標高が高過ぎてヘリコプターが近づけず、一時は絶望視せざるを得なかった。覚醒後も酸素欠乏のため手足の痺れがひどく歩行困難。リハビリを毎日行い、14日後、隊員の決死の救助作業によって、どうにかベースキャンプまで降ろすことが出来た。


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 田村が岩野の二の舞を、踏む可能性は高い。田村は岩野の場合と同じく高峰登山は初めてで、高所に於ける生理データーが無く予測が難しい。

 常識的にはドクターストップをかけるべきであるが、私としては安易なストップはかけたくなかった。わずか23歳という若さの田村が、初めてのヒマラヤで山頂に立つ意義は大きい。

 登ろうとする意志と力がある限り頂上に立たせてやりたい。その力を判断するため、私は出来るだけ田村と一緒に行動し観察に努めてきた。動きは確かに遅くなってきているが、食欲と荷を担ぐ力はそう衰えていない。

 判断の最終ポイントとしてこの二つのどちらか一方でも弱まった時点でストップをかけるつもりであった。しかしそれを田村に告げてはならない。岩野は頂上へ向かう前夜、異常に高くなった心拍数をあえて異常無しと答えている。

 頂上を目前にしたクライマーの心理は複雑である。不利とあらば、簡単に心拍数の2,30は下げて報告できるのである。

 

 田村に余分な心理的負担をかける必要は無い。弱音を吐かず荷を担ぎ、人の2倍近く食べる田村には、まだ頂上に立てる力は残っているだろう。私はそう判断し、アタックには田村の大学の先輩でもある、面倒見の良い岡林とザイルを組ませることにした。

 実は私自身に対しても切実な問題がある。日本を発つ3日前、トレーニング中に激しい腰痛に襲われ階段を登るのさえ難しくなってしまったのである。軽い腰痛は今までも時々生じたが、トレーニングを強化したり山に登ったりするときれいさっぱり消えてしまう。

 したがって腰痛はいつも全く問題にしていない。今回も軽い腰痛が起ったのでトレーニングを強化し、いつも走る6つの坂を2倍の12に増やし距離も長くしたのだが、登り坂を走り上がる毎に腰痛が激しくなり、ついにダウン。かつてない強烈な痛みに唖然としてしまった。

 私のトレーニングは山行直前に行うインスタントトレーニングではない。年間を通じて走る。

 山に入っている日以外は雨の日でも走る。雨の日は10階建てのマンションの階段を10往復走る。通常は約4㎞のコースに6つの坂を加えて走る。

 目白台と坂下の早稲田の間を縫って登下降しながら4㎞走るのである。休日はコースを6㎞に延ばし、坂の数を2倍の12に増やす。そして毎日タイムを測り記録をとり、週に1度はタイムの短縮に努力する。

 9年前の荷を背負って階段を走るハードトレーニングでアキレス腱を痛めて以来、今もアキレス腱痛に悩まされ、痛みと相談しながら走らねばならない。今回も出発2週間前から両方のアキレス腱に副腎皮質を注射しながら走り続けている状態で、これ以上トレーニング量を増やすわけにはいかない。

 飲み会で遅くなり二日酔いで身体に酒が残っている朝なんぞ地獄の苦しみである。それでも5時20分には起きて走る。錆びた5寸釘を足の裏に、深さ2㎝程刺した時も1日休んだだけで2日目からは、傷口から血を流しながら走った。この程度のトレーニングが毎日持続できぬような薄弱な意志では所詮、たいした山登りが出来るはずないのである。


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 したがって決して無理なトレーニングを急に始めたわけではなく、この突然の激しい腰痛の原因に思い当たることは全く無い。放って置けば、いつものように自然に治ると思い1日待ってみたが回復せず。

 翌日はインドへ出発せねばならず、東大分院の整形外科へ、致し方なく行く。8年前北岳バットレスで右脚に裂傷を負い手術をしてもらって以来である。

「明日からヒマラヤへ行くので何とか痛みを取って欲しい」とお願いしたらドクターはこう言った。
「あなたは腰を治しにきたのですか、壊しにきたのですか」なかなかユーモアのあるドクターである。私はこう言った。

「もちろん治しに来たのですよ。ヒマラヤに登りながら治すにはどうしたらよいか。大変興味あるテーマだと思いますが」

 痛み止めと消炎剤をもらって次の日、飛行機に乗り込んだのである。この最終キャンプに入るまでも、いつ爆発するかわからぬ爆弾を抱えているようなもので、アキレ

ス腱と腰に神経を集中させ、びくびくしながら上ってきたのだ。登山に最も重要なアキレス腱と腰の痛みに耐え7千mの山巓に立てるかどうか私にとって今回の遠征の最大のテーマである。

 しかし今までのところ、どうにかドクターに宣言したようにヒマラヤに登りながらの腰痛の治療に私は成功したようである。ABC(前進基地)からの連日の荷上げ、ルート工作にも耐え頂上までの残り7百mの標高差も気にならない。

 ムスターグアタ北峰の時は標高7427mの頂上まで、標高差1400mを1日で往復したのである。ヌン峰の頂上までは、わずかその半分である。明日は確実に登頂できるであろう。

 アタックを明日に控え、考えねばならぬことはまだある。今まで実施してきた遠征は時間が無いため総て短期速攻スタイルで、前進キャンプから一気に頂上に迫る方法をとっている。

 多くの遠征隊は最終キャンプ設営後アタック隊員を一度ベースキャンプに戻し休養させ頂上へ向かわせる。高所順応の点から考えても、それは理想的な方法である。

 我々はその部分をカットし、全遠征期間40日という短期遠征を成功させてきた。成功の一因は隊員の高所に於ける生理反応のデーターが、何回かの遠征を通して蓄積されていることにある。

 しかし今回の隊員にはそれが無い。ブータン計画のために集まった高峰登山の経験の無い、新しい隊員だけで編成されている。3隊員の高所に於ける生理反応は、全くの未知数である。

 ABC
から8日目の明日、7135mの高さへ突入させることへの不安はどうにも拭いきれない。ベースキャンプまでは絶好調であった山口も、ABCに入ってから高山病の影響を受け始めペースが落ちている。

 岡林はカルギルで発熱しダウン。回復後ABC
への荷上げ中に、ふらふらになり意識を失う寸前までダメージを受けベースキャンプで寝込んでしまった。その後、仮キャンプ2とキャンプ2を設営し頑張ったが、キャンプ2(5800m)に入った夜は眠れず、一度高度を下げABCあたりで休養させる必要が岡林にはあった。


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 本人もそれを希望しているようなので、岡林のメンバーチェンジも考えていたが、交換相手の田村の調子は悪い。私は風邪と高山病の影響で発熱し一度ベースキャンプからタンゴールの村へ下り、再び上へ登ってきたばかりでこれ又ベストではない。

 だが、最悪の場合は私が岡林と交代するしかないであろう。
この先、岡林が動けるか否かは更に少し高度を上げてみるとわかる。山口と岡林にキャンプ3用のテントを持たせ6400m地点まで登り、テントをデポしキャンプ2まで1日で戻るよう指示したが、予想に反してデポ後もまだ動けそうだという。

 そこで岡林を休養下山させることは見合わせることにし、この日キャンプ2に4人全員集結させた。さてこのまま全員で前進を続けアタックするか、それとも安全を計って高度を下げるか?

 隊員の高所に於ける生理データーが無いので判断の難しいところである。決断を下す前にそれとなく3隊員のテント内の様子を観察する。

 高山病の典型的な症状、顔面浮腫はほとんど無い。各人共、頭痛は有るもののそうひどいものではないという。日中の安静時心拍数は私が65、山口、岡林が85。田村が100を越えているのを除けばたいしたものではない。

 高山病自覚症状も5段階で2か3程度であるという。アンデスのワスラカン峰(6768m)でチェーンストーク呼吸に陥り自覚症状5を私は体験したことがあるが、2や3程度ならまだ充分に動けるであろう。

 しかし高山病悪化の徴候は一瞬にして出現し、意識不明に陥るので油断は出来ない。一番重要な食欲は全員、大いにある。単純な理屈ではあるが、ヒマラヤでは食糧は自動車のガソリンそのものであり、食べる量によって行動の量が決まる。

 「食べる奴ほど、よく動ける」のである。高山病のダメージを一番強く受けている田村が、それでも行動出来るのは彼の食欲が旺盛だからである。高度を下げるべき決定的な要因は無いと私は判断し、キャンプ2より更に最終キャンプ、キャンプ3まで全員を上げたのである。

 小さなテントの中で歌が始まった。静かなどことなく哀調を帯びた山の歌が次々と流れる。高山病の不安を抑えて大学5年生の田村が歌う。

 憧憬のヒマラヤをやっと実現した小学校1年生の担任教師、山口が歌う。部員の集まらない大学山岳部のリーダーとして苦労してきた定時制高校教師の岡林が歌う。

 8か月前、ブータン計画で初めて顔を合わせた新メンバーによる隊編成であったが、違和感が全く無い。何年も前から合宿を重ねてきた古い山仲間と一緒にテントに居るようである。冬の赤石岳、荒川三山、2月の八ヶ岳、3月の槍ヶ岳と3回の合宿経験だけとは思えない親しさが、テントに満ち満ちている。

 多くの困難な山行を通して培われた山男の強靭な精神力が、いつも親密なパーティを生むとは限らない。自己主張の激突で空中分解する隊も多い。しかしこのテントの仲間は、強靭な精神力で自己を抑える術を知っている。それが苦しい高所テントの中でさえ、親しさを生み出せる原動力になっているのだろう。


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 素晴らしい仲間が、加わったことを喜ぼう。そして若い彼等が私達の山行を乗り越えて、更に深遠な世界とめぐり会えることを期待しよう。

 これからの私には衰退する肉体と精神との闘いが新たに加わる。アキレス腱の痛みと同じように、たぶん今回生じた腰痛も慢性化し、次々と私の肉体は弱体化し、壊れていくであろう。

 そしてかつて口笛を吹きながら、飛ぶようにして走り抜けた山々が、ある日どっしりとした重さで再び私を迎えてくれるのだろう。昔の山々との再会は、若き日の激しさと異なる静謐に満ちた感動を生み、私を包むであろう。

 その瞬間に初めて私は山と同化し、山を理解するのかもしれない。もうすぐ41歳になろうとする多くの年を重ねてしまった私は、改めて多少のうろたえと深い充足を覚えながら、彼等の歌を静かに聴く。


 寒気が肉体に忍び寄る。高山病が脳と肺に断続的な苦痛を与える。眠れぬアタック前日の夜は長い。

 さあ、明日は7135mの
     白い光の頂点に立とう


4 アタック

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 雪が止んだ。払暁の空には星も煌いている。首から下げたバロメーターを見る。気圧に変化なし。少なくともこの時点では、神は我々に味方している。アタック決行。

 雪を融かし、水、紅茶、スープを飲めるだけ飲み大量の水分を採る。同時に糖分の多いヨーカン、甘納豆、蜂蜜を胃袋に放り込む。何も食べなくとも一日中動き続けられるカロリーを確保せねばならないのだが、高山病で眠れぬ夜を続けている肉体の食欲は細い。

 無理して詰め込む。1.5リットルのテルモスに行動用のプレーンの紅茶を詰める。行動食を分け、ザイルを確認しインド・日本両国の国旗、オーバー手袋や細々とした装備をザックに入れる。八ミリ映画用の撮影カメラ、カートリッジを点検する。テープレコーダーを山口に持ってもらう。

 今回の映画は今までとパターンを変え、できる限り隊員の生の声を収録し画面に入れようと考えているのでテープレコーダーも頂上まで上げる予定である。数多くの海外登山隊の撮影でもテープレコーダーだけは頂上に荷上げしていない。今回が初めての試みである。

 オーバーズボンをはくか、はかずにザックに入れるか瞬時迷う。薄いタイツ1枚と毛のズボンをはいているが、このままでは7千mの冷酷な風は耐え難い。だが、行動さえしていれば寒気そのものは、耐えられぬものではない。

 ビバークするようになったらザックから出してはけば良いと判断し、オーバーズボンもザックに入れる。眠れぬ夜を過ごしたにもかかわらず、各隊員の顔は生き々としている。最終キャンプで迎えるアタックの朝は、強い意志と激しい生命力を寡黙に秘めた硬質の空間に支配される。

 群青の高みに光る一点に立つため、ただそれだけのために男達は最後の決意をする。不思議なことに、その時だけは行為が死に優先する。ヒマラヤに登る男達の死の臭いに対する嗅覚は鋭い。

 嗅覚の鋭さのみによって生命は維持される。雪崩、ヒドンクレパス、ブリザード、高山病、あらゆる場所、あらゆる時に張り巡らされている死の臭いを逸早くキャッチし死を回避する。

 それなくしてヒマラヤの山巓に達することは出来ない。常に死の臭いは行為に優先する。しかしアタックの朝だけは死と行為が逆転する。下界の日常性の中では決してあり得ぬことである。私はたまらなくこの瞬間が好きだ。

 アタックにはやや遅い6時30分、最終キャンプを出る。私と山口、岡林と田村でザイルを組む。大きなクレバスを迂回しながら南西壁に近づく。左の西陵と右の南西稜に挟まれた三角形の南西壁は、頂上にヌンの山頂を抱く雪壁を形成している。

 上部はかなり急で西稜側から雪庇が張り出しているので、南西壁の直登は困難を伴うが、積極的にこの壁を利用し高度を稼げば、岩の露出した西陵にルートを採るより、早いかもしれない。

 そう私は判断し南西壁にラッセルを切り始めた。今までの海外登山ではトップに立ちルートを拓いてきたが、腰痛とアキレス腱痛に悩まされ今回は、後方で荷上げとルート工作をしてきた。トップに立ってきた山口・岡林も疲れが出ている。


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 今日ぐらいは私がトップでラッセルを切らねばなるまいと決意し出発したが、高々15㎝の深さのラッセルが腰痛を刺激するのである。いたしかたなく1時間程でトップを山口に代わってもらう。

 右の南西稜寄りのクレバスで小休止する。小さなヒドンクレバスがあり、腰まで落下する。帰路ホワイトアウトでルートを見失うが、このヒドンクレバスを踏み抜いた跡が目印となって無事、キャンプ3へ戻ることが出来た。このヒドンクレバスにも感謝せねばなるまい。

 南西稜の中央寄りにラッセルを切り続ける。岡林・田村のザイルペアーが遅れがちになる。田村の調子が悪いようである。時々立ち止まっては岡林が田村に声をかけている。壁の傾斜が強くなり、堅い氷の上に新雪を乗せた南西壁に雪崩の恐れが出てきた。

 そろそろ雪崩から安全な西稜か南西稜に出ねばならない。しかし斜度が強く、直上も左へのトラバースも危険を感じる。ルートに行き詰まったので、後から追い着いた岡林に右の南西稜にルート偵察に出てもらう。

 南西稜へのトラバースを見ていると、雪崩が発生する限界点に、傾斜も雪の状態も達していると感じる。一刻も猶予できない。雪崩の危険地帯からいかに早く脱出するか。

 南西稜の岩稜に固定ロープを発見する。
「よし、行けるぞ」
 一瞬、希望を抱くが易しそうに見える岩稜が意外に難しい。ヒマラヤ等の高所に於ける岩稜は、難しい登攀を強いられることが多いのだ。

 雪の付かない岩稜は、垂直以上の角度を含む急な岩場で構成されている。下から仰ぐとこの黒々とした部分が、安易なルートに見える。騙されて岩稜に取り付くと進退極まってしまうことがよくある。

 固定ロープがあったので易しいルートかと思ったが、どうやらアップザイレンの残置ロープのようである。たぶん、登ってはみたものの難しくて動きがとれなくなり、下降を余儀なくされたのであろう。

 もたもたしていると雪崩に巻き込まれ南西壁直下のクレバスに吸い込まれてしまう。岡林の下降を待たず、山口に西稜へのトラバースを指示する。西稜と南西稜の間の短い雪

壁が、ほとんど垂壁を成している。雪崩を誘発しないようにラッセルを切る。西陵稜に飛び出すと白い雪稜が、緩やかに延び上がっていた。

 信じ難い近さにピラミダルな山頂があった。この瞬間、私は全員登頂を確信した。
「オーイ、ルートはこっちだ。山頂が見えるぞ」

 岡林・田村のザイルペアに声をかけ、標高7千mの碧空に浮かぶ純白の雪稜を辿る。両側がスッパリ切れ落ちた細い1本の稜が、鮮やかに上昇する。風が怒号し白い稜の雪を叩き落とし、ラオヘンを上げる。山頂に至るあまりにも美しい雪稜を前にして、思わず私は叫ぶ。
「イョッホー」

 
嬉しい。何という喜びであろうか。厳しく美しい7千mの紺碧の煌きの中で、この瞬間に邂逅し得た歓喜に私は酔い痴れる。一歩又一歩、より高みに向かって最後のラッセルが切られる。西陵の北側寄りに巻くと北西稜が一気に山頂目指して迫るのが見える。


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 北西稜と西稜の二本の白銀のスカイラインに支えられた山頂が光る。今まで数多くの山巓に立ち、その都度新たなる感動を咬みしめてきた。三度に亘る初登頂の瞬間。

 苦しく困難な登攀を強いられた登頂の瞬間。高山病に苦しみ抜いた果ての登頂の瞬間。いずれもが、キラキラと輝いた貴重な自己実現の一刻であった。それらのいずれとも異なる興奮がヌンの山頂にはある。

 西稜から真近に見える山頂が実に美しいのだ。優美に屹立した山頂。最高点には、人間が一人立てるかどうかのスペースしか許さないであろう峻厳さ。この白い一点に向かって鮮やかに舞い上がる白いレースのような西稜。

 山頂を目の前にして、その美しさにうっとりしたのは初めてである。
恍惚と歓喜の中で、目の前の山頂がいくら進んでも近づかないことに気が付いた。もう30分もラッセルを切ったはずで山頂に達する頃である。

 さては短期速攻による急激な低圧暴露の影響が出たか。オーバーミトンをめくって時計を見る。西稜に出てから十分しか経過していない。高所の酸欠と疲労が重なり、時間が位相変換し始めたのであろう。

 登高時の短時間が無限に長く感じられ、立ち止まっている休息の一瞬のうちに数時間が経過する魔の時間帯に突入したのだ。あえて深く激しい呼吸を意識的に行う。

 低温と低酸素、過呼吸による痛みが気管支に走る。同時に肺腑を抉るような咳の発作に襲われる。繰り返し繰り返し止めども無く執拗な咳が続く。ここ2・3日、田村の咳が一番激しい。後のパーティを見るとやはり田村が立ち止まり、苦しそうに咳き込んでいる。

 山口の足もスピードが落ちた。一歩一歩必死に足を上げている。雪稜が一層傾斜を増し、2つのザイルシャフトが水平でなく上下に並ぶ。北西稜が左手からぐ~んと迫り、西稜との間の西壁が巾を失い最高点を飾る純白のレースになる。

 美しい雪稜の均衡を破るように北側に向かって水平に柱状岩が突き出ている。雪稜のやや下から羅針盤の針のように突き出た岩は北を示したまま動かない。これを越えると美しい雪稜が突然終わる。南に張り出した雪庇を付けて山頂が目の前にあった。最高点の一歩手前で山口と握手する。

「ごくろうさんでした」

 12時35分登頂。岡林が10分遅れて、疲労困憊した田村と共に上がってくる。北側のバルカティック氷河源頭の谷にガスが渦巻き、速い速度で西へ流れる。ガスの切れ間に氷河のセラックが見え隠れし、ガスの上には7077mの岩峰、クン峰が聳える。

 我々の視野の下に山巓を空け渡した総ての山々が、下から仰ぎ見ていた時の迫力を失い、おとなしく眼下に鎮座する。最高峰の頂点にだけ、許された景観である。北西の空に山塊総てが雪で覆われたナンガ―パルバット山群が光る。

 中央正面に8126mのナンガ―主峰から落ちるルパル壁が立ちはだかり、右に延びる稜線にチョンラ山群が連なる。2年前の昨日、8月14日私はあのチョンラの頂に立っていたのだ。

 まさかそのピークを遥かインドの地から、7千
mの山頂から再び見ることになろうとは、夢にも思っていなかったのである。自分の登頂したヒマラヤの高峰を他の山頂から眺める。何という贅沢であろうか。


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 下降の不安はあるものの山頂に立ってみると予想外に、あっけ無く終わってしまったという実感に捕らわれる。テープレコーダーをザックから出し登頂の瞬間を録音する。
「1985年、8月15日、12時35分、ヌン、えーと、7315mに登頂しました。メンバーは坂原・岡林・山口・田村の4名です」

 怒号する激しい風に声が千切られる。それにしてもおかしい。ヌンの標高がすぐ出てこない上に、7135mを7315mと間違えてしまった。低酸素の障害だろう。

 再び咳き込みながら音を入れ直し、各隊員の感想を録音する。7千
mの登頂成功に胸踊らせた隊員の感激の声が高所風の中に散る。

「岡林です。初めての7千m峰、ついにやりました。頂上に着いた瞬間思わず涙ぐんでしまいました」
「山口です。ヤッターという気持ちで一杯です。とにかく寒い。早く下山したいです」
「田村です。高山病に苦しみ抜きましたが、とにかく7千m、ヒマラヤの一角にどうにか立てました」

 

 半分以上は風に吹き飛ばされてしまい、何を言っているのかよく聴き取れない。

 八ミリの映画製作を担当する私としては、八ミリも回さねばならないし、音も取らねばならぬし、スチール写真も撮らねばならない。日本、インド両国の国旗と隊旗を出し、ピッケルに結び付け撮影を開始する。

 一人がやっと立てる雪庇の張り出した最高点へ恐る恐る乗り、一人ずつ写真を撮り八ミリを回す。山頂に達する最後の西稜を再び登り直し八ミリを回し続ける。剃刀の刃のように美しく鋭利な雪稜が、群青の海に浮かぶ。白光に輝く雪稜の上をザイルに結ばれた隊員が歩む。

 テルモスの紅茶を飲む。コップに落ちる前に紅茶が水平に飛ぶ。強風に打ち勝ってコップに入った液体を飲み干し、時計を見ると山頂に着いてから40分が経過している。

 風が強いためひどく寒い。もうこれ以上は耐えられない。特に私は、いつもの海外登山と同じように、オーバーズボンをはいていない。限界である。下らねばなるまい。

 私がオーバーズボンをはかないのは、耐寒訓練の意味も少しはあるが、むしろ登高時のスピードアップと発汗による体力消耗を防ぐためである。速く登り速く下降する。

 高峰登山ではこれが一番安全である。速く登るためにはオーバーズボンは邪魔である。それに速く登ると発汗度が高まり、オーバーズボンをはいていると更に発汗の可能性が高くなる。

 高所に於ける発汗が、どれ程の体力消耗と寒気に対する危険性を孕んでいるかは言うまでもない。しかし稜上に出て、激しい風に身を晒された時には、体感温度は一挙に20℃以上も下がることがあり、オーバーズボン無しでは極めて危険な状態になる。

 急激な体温低下は、筋肉の麻痺を起こし行動不能に陥らせる。更に思考力の低下、凍傷の促進を生ずる。

 着脱可能なオーバーズボンを用意し、情況に応じて着脱するのが一番良いのだが、現在使用しているゴアテックスのズボンは、裾の開閉度がやや小さく、二重靴をはいたままでは、着脱できないのである。ザックの中のオーバーズボンを恨みながら寒気に耐える。


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 坂原・山口・岡林・田村の順で下り始める。長く感じられた西稜も下ってみるとわずかである。西稜から南西壁に移る急な雪壁で、氷上の雪がスライドし足を取られ転倒する。

 そのまま雪崩に巻き込まれそうになり、一瞬緊張する。毎日、午後になると南の山塊から上昇してくるガスが南西稜を覆い始め視界を失う。登高時のトレールを見失うまいと、ホワイトアウトの中で必死にトレールを追う。

 南西壁上部は氷の部分が多く、アイゼンのツァッケの跡がわずかに残るのみで、努力の甲斐なく南西壁に入って40分もすると完全にルートを失う。南西壁下部のヒドンクレバスと二つの大クレバスの存在が気になる。何としてでも、あの場所は避けねばならない。

 左へ左へルートを取り、南西稜の位置を確認して高度計と照らし合わせ、現在位置を割り出そうと試みる。しかし左へのトラバースを始めると、雪壁の部分が雪崩そうになり、結局一直線に真下に下る。

 ヒドンクレバスに落ちた場合のことを考え、山口との間を5m以上空けザイルの弛みを最小限にする。

 広いプラトー上の小さなテント、キャンプ3をこのホワイトアウトの中で、果たして見つけることが出来るか。ルートファインディングに失敗し、ビヴァークを余儀なくされる場合もチラチラ考えつつ下り続ける。

 下るに従い雪が深く、重くなり疲労が激しくなる。山口にトップを代わってもらう。頻繁に高度計を見、キャンプ3のある標高6300mより下に下り過ぎないように、又、岡林・田村とあまり離れぬよう、後方に気を配りながら登高時のトレールを探す。

 ガスさえ晴れれば、登頂後の満ち足りた気分で光だけの雪の海に浮かぶカラフルなテント、キャンプ3を目指すことが出来るのに、何ということだ。

 尚も何も見えない白一色のホワイトアウトの中を進む。右のガスの中に、うっすらと見覚えのあるセラックが見える。近づくと登高時に落ちたヒドンクレバスがあった。

「これで助かった」

 下降中、抱き続けていた不安が一度に消えた。あとはラッセルトレールの導くまま下れば、キャンプ3に出るはずである。

 安堵と共に急に疲労が重く伸し掛かり、腰痛が始まる。ザイルが重い。肉体が重い。全身の筋肉内に乳酸がぎっしり詰まった感じになり、動きが鈍くなる。

 二つのクレバスを越えると、緩やかな登りになる。身体が上に上がらない。一歩一歩が苦しみとの闘いになる。

 このような苦しい疲労を想定して、日本の山では実験を兼ねた幾つかのトレーニングを行っている。飲まず食わずに、汗をかき続ける激しい運動を続行するトレーニングである。その結果、肉体はどう反応するか。

 結論から言うと、私の場合5時間で脱水症状を起こし手足の痺れが始まり、目の前がぐるぐる回り出す。下降は出来るが登高は不可能になる。現在の私の条件、身体171㎝体重60㎏で余分な脂肪を蓄えていない状態では5時間が限度のようである。

 (身体に脂肪を付けている者程この限界時間は、もっと延長されるが逆に余分な脂肪が負荷を増大させるので、運動そのものが続けられない。激しい運動をする者にとって、やはり余分な脂肪は禁物である)症状の解消は極めて容易である。


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 運動を停止するか、水分とカロリーを補給すれば、2、3分で嘘のように症状が消え回復する。カロリーと水分を補給すれば、3分後には再び登り続ける事ができる。

 このことに最初に気付いたのは、穂高の屏風岩東壁雲稜ルートをトップで登っていた時であった。前夜、酒を飲み過ぎ、朝、食欲無く何も食べず屏風に取り付いていたのだがルートを抜ける頃になって、全身の痺れと眩暈に襲われた。

 考えてみたら朝から何も食べていない。最後のオーバーハングを乗り越え、ジッヘルしながらチューブの蜂蜜を口の中に入れると、2,3分で回復した。初めての屏風岩をトップで登り精神が高揚しており、空腹に気付かなかったのである。

 ずいぶん昔のことである。それ以来意識的にハングリー登山を行うようになった。3月の北アルプス朝日岳の登頂後、蓮華温泉への最後の登りで体内のエネルギーを使い果たし、スキーが一歩も上がらなくなる。いつもの症状が始まる。

 ポッケからチョコレートを取り出し口に放り込むと3分で回復。あまりにも正直な肉体に思わず笑ってしまった。

 低酸素条件が加わっているため症状は異なるが、まだ充分動ける。下降開始後、3時間半が経過。やがて白いガスの彼方に、仄かにキャンプ3が現れた。

 翌日、キャンプ3、キャンプ2を撤収し、キャンプ2に入ったフランス隊と別れ、全員キャンプ1に集結。キャンプ1の広大な雪のプラトーにマットを敷き、酒盛りを始める。 
 極北の大地を思わせる果てしも無く広がる雪原。雪原の上にそそり立つ、氷の芸術品のようなヌン峰が、不可思議な非対称の姿態を午後のけだるい陽光に晒す。

 ヌン峰の雪を浮かべたウィスキーを飲み干す。重い荷と長い距離の下降で、疲労困憊した肉体に心地良くウィスキーが染み透る。肉体と精神の激しい酷使ほどウィスキーの味を高めるものはない。

 長い時を累積して生み出された琥珀の液体が、時の歌を囁きながらヌンの雪と共に、酷使された肉体を緩やかに巡る。終わってしまった哀しみを引きづりながらも、登頂後の豊饒な情感に包まれ、肉体の隅々で囁かれる熱い時の歌を私は楽しむ。

 この一瞬のみ、私はヌンと呼応し共感する。50年後、私はもうこの世に存在しない。ヌンは何も変わらず、このままの姿で、この瞬間のように50年も存在しているだろう。

 しかし、そのヌンも僅か5億年後には存在しない。50億年後には地球すら存在しない。我々の太陽は赤色巨星となり強力な太陽風を地球に吹きつけ、地球を蒸発させてしまう。

 存在のエレメントは再び宇宙空間へ旅立つであろう。地球が誕生する46億年前と同じように。

 存在は悠久の時の海に漂う木の葉ですら無い。その木の葉より小さい二つの存在がここでめぐり合った。ヌンと邂逅し得た、この貴重な一刹那を私は感謝せねばなるまい。


5 絵画交換展

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子供達の国際絵画交換展は今回で8回目になる。アフガニスタン、パキスタン(チトラル)、ペルー、中国(カシュガル)、タンザニア、パキスタン(ラワルピンディ)、ソ連(グルジア)、そして今回のインド。

相手国で絵画展を開催出来たのは、パキスタン、ペルー、中国、ソ連、インドである。各国の文化に対する方針や、在日本大使館の協力の程度により絵画展が開けるかどうかが決まる。

 更にその国の子供達の絵を日本に持ち帰るとなるとクレームの付く事が多く、絵画展交換展の実現はなかなか難しい。自国の文化レベルを誤解されたくないとの理由で絵の国外搬出を拒否されることもしばしばある。

 アフガニスタンとタンザニアでは、絵画展とせず、小規模な文具のプレゼントの形をとったので、日本の子供達の絵の展示は行っていない。特にアフガニスタンでは、日本での展示会も計画していなかったので、持ち帰った絵画は数点のみである。

関係諸機関に何度もお願いしたにもかかわらず、絵画の持ち帰りが出来なかったのはソ連である。他の国もスムーズに応じてくれたくれたわけでなく、登山隊の帰国後、大使館を通して絵画を送ってくれた例もある。

 日本での展示会は作品出品校を中心に何回か開かれているが、一般市民を対象にした絵画展は過去2回開いている。本年度(1986年)の6月に第3回の絵画展を開く予定である。この3回目の絵画展でアフガニスタンとソ連を除いた国の子供達の絵の展示が終わる。

 絵画展は登山隊が相手国に到着した時から登山終了の8月末まで開かれる。絵画展を開く学校を訪問し、日本の子供達の絵を展示し100人分の絵の具やクレヨン、パレット、画用紙等を贈呈する。

 登山が終了してその学校に戻ってくる1ヶ月程の間に、贈呈した文具で絵を描いてもらう。それを日本に持ち帰り絵画展を開く。登山中遭難事故があったりするとスケジュール通りにはいかず苦労する。それでも尚、登山活動と同じ比重を置いて私達は絵画交流を続けてきた。

物質の豊饒がもたらす貧困の中で生活する日本の子供達と、物質の欠如した辺境の地で自然と共に生活する子供達は、現代文明の両極端に位置する貧困の犠牲者である。

 この両極端に何等かの糸を、継続的に懸けることが出来るのは私達教員登山隊以外にはないであろう。

今回インドから持ち帰った作品は327点で、内訳は絵画303点、ローケツ染め6点、焼物18点である。そのうちの16点を白黒の写真にして次頁に収録した。

 一目見ただけで色彩の微妙な美しさに感心させられたのは、「子守をする少女」と「聖なる河、ガンジスの沐浴」である。ヒマラヤ山麓で生活する少女と子供の頬が実に美しい。

 沐浴の色彩は繊細な中間色で構成され哲学的なイメージを一層高める。カラーでないのが残念である。インドは宗教の国でもある。子供達は宗教に関する絵もたくさん描く。「多宗教の国インド」ではヒンドゥー教のシバ伸、キリスト教のイエス、イスラム教のモスク、仏教のシャカが同じドームの下に描かれている。


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破壊の神シバも子供達は好んで描く。インドでは飢えた人々が路上で寝転んでいる姿をよく見かける。空の食器を前に泣く子供、為す術の無い父親。これ等を冷静に描きながら同時に、「未来を支えることを誓う」といった類のポスターを描く。

 作品の大半は生活画である。路上に犇めく露店。蛇使い、マジシャン、芸人を子供達は描き、更に農家で働く女達を描く。「狩りを出かける男達」は油絵のような強烈な色彩効果を上げている。

 「夕日のシルエット」は極めて印象的な作品でインドの多様性の一環を見せられた感じがする。「宇宙旅行」。貧困であるが故に夢が必要になる。子供達の宇宙への夢は、世界中何処でも変わらないようである。インドの国旗が月に立つのは近いのだろうか。



6 ポーター変じて強盗に
IMFへの提訴

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IMFへの提訴

ポーターの強盗的行為について

 ヒマラヤに於ける、ポータートラブルは大なり小なり遠征につきものであるが、今回のトラブルは、強盗に近い悪質なものであり、黙認すると、今後インドヒマラヤを目指す世界の登山隊の被害も考えられるので、事実を公表し、IMFにしかるべき処置をお願いするものである。

(1)  場所・インドヒマラヤカシミール地方

  ヌン峰(7135m)山麓

タンゴールの村

(2)  期日・1985年8月19日

   午前9時~10時

(3)  被害隊名・インドヒマラヤ川崎市教員登山隊 1985年

     隊長 坂原忠清(40歳)

     隊員 岡林良一(33歳)

        山口 均(28歳)

        田村大作(23歳)

(4)  ..・Capt.GURVINDER SINGH(27歳)

(5)  加害ポーター・ポーター頭
オラム・ムハマッド・ハッセン(35歳)
ポーター所属 全員タンゴール村
ポーター数 約20人(契約したポーターは10人だが、遠征後の残った食糧や装備をねらって総数20人程のポーターが集まった。)

(6)  荷下げルートーヌン峰 センティック氷河BC(4200m)よりタンゴール村(3400m)まで標高差800m

(7)  事故の概要

一日一人40₨で契約したポーター達が、荷運びの途中で突然一人200₨を前払いせよと言い出す。拒否すると、「払わないなら、お前達を殺す」と脅迫する。結局契約の4倍近い一人150₨を強奪される。

(8)  事件発生までの経緯

8月18日ABC(4800m)より、BC(4200m)まで7人のポーターを使い荷をおろす。一人350₨(前払い分50Rs)で契約し荷下し後BCで契約通り350₨を支払う。

が、ポーター頭のハッセンがポーターのまとめ役として、更に50を₨請求したので計400₨を支払う。一人分の荷が30㎏前後になったので、バクシーシとしてポーター一人に付き8mmのザイルを20mずつ与える。

 

支払後明日19日のポーターの給料について話し合う。カルギルのJK政府で発行しているレギュレーションでは、ポーターの一日の給料は35₨となっている。

荷上げの時我々はレギュレーション通りの35₨を主張した。しかし先に入ったフランス隊が40₨を支払ったとのことなので、ポーターの食糧、装備込みで一日40₨で契約し支払った。

帰りの荷下しは、不要になった食糧、装備等がたくさんあるので、それ等をポーターに与えるという条件で、一人30₨で契約したいと申し入れるが、ポーター頭のハッセンは、お金が欲しいので、40₨にしてくれという。

そこで「一人40₨、12人のポーターを明朝7時までにBCに上げる」との契約をLOを通して行った。

 翌8月19日朝7時、我々の余った食糧、装備等をねらって契約より多い20人程のポーターが集まる。梱包の結果ポーター10人で足りることがわかったので、LOを通して2人分の解雇を申し入れる。キャンセル料としてザイル50mを要求されたので2人に50mのザイルを渡す。

10人分の荷と背負うポーターを確認して荷を渡すが、契約していない残りのポーター達と、荷を分けて背負うポーターが数組あったので、LO、ポーター頭を通して10人分の給料しか払わぬことを確認する。

ポーター頭は「10人分で良い。2人で背負う場合は40₨を2人で分けるので問題はない」という。かなりのスピードでポーター達は下山を始める。ほとんど走っている。このスピードなら1時間と少しでタンゴールに着くであろう。

我々も、先頭、中央、後部に分かれ、一緒に走る。村まであと10分程のスル河支流の渡河点まできた時、突然先頭のポーター頭が止まる。「ここで先に金を払って欲しい我々の何人かはこれからフランス隊の荷下しのため、また、BCに登らねばならない。」

「タンゴールに着くまでだめだ。もうすぐじゃないか。」
「どうしてもここで支払ってほしい。200₨だ。」という言葉が出た時、我々は勘違いをした。

食糧や装備をたくさんポーターにプレゼントしたので、ポーター達は自主的に給料を契約の半分の20₨にし、10人分として200₨を請求したものと考えた。そこまで考えているなら、先払いしても良いかなと考えた程であった。しかし次にLOが通訳した言葉は信じられぬものであった。

「1人200₨だ。」

LOはすました顔で言う。昨日LOを通して一人40₨と契約したはずである。給料の値上げやストライキなら、どんなに多くても契約の2倍を超えることはない。何かの間違いだろうと思い、LOに確認すると「確かに一人一日200₨だ」と言う。

「いったいどうしたんだ、何が起こったのだ」と
LOにたずねると、「俺にはわからない。俺の力ではどうしようもない」と言う。「契約は40₨だ。そんな5倍もの金は払えない、我々がここから荷を運ぶから、荷を置いて帰れ」と、私は断固として200₨を拒否した。しばらく、ポーター、LO、隊長の私と

のやりとりが続くが、やがて激したポーターは、「もし、支払わなければ、お前達を殺す」と言い始めた。

あまりにも信じられぬセリフだったので
LOに確認すると、間違いなく「We shall kill you」と言っているとのこと。LOはポーターに対して何も抗議せず、それ以後は交渉の場から離れて小川のほとりに座りこんだままであった。

しかたなく、若いポーターの中に英語のわかるのが一人いたので、彼を通訳にして話をする。

「200₨を要求する理由は何だ」

「今日は麦刈りや収草刈りがあるのでとても忙しいから特別料金だ」

「そんなのは理由にならない。もし本当にそうなら、昨日の契約の時、申し出るべきで、きょうになって一方的に突然200₨を要求するのはおかしい、約束の40₨を守るべきである。」

登り荷上げのキャラバンでポーター頭だったタケが今度のポーター頭、ハッセンに「早く金を払え。お前の責任だ。払えないなら時計をよこせ」と言ってハッセンにとびかかり腕から時計をはずす。

他のポーターも口々に金を払えとハッセンに迫る。この臭い芝居によって200₨要求があらかじめ仕組まれたものであることが、はっきりするが、行動することによって更に激してくるポーター達を前にして身の危険を感じる。

明らかに無法な要求をしているのだから、私としてはもっと強い調子で拒否したかったのだが、まずポーター達を冷静にさせるため、時間稼ぎをせねばならなかった。

「一人に200₨も払える程、たくさんのルピーを持ってない。」

「それなら靴とクライミングコートと寝袋を置いていけ、置いていけば150₨でよい」

殺すと脅した後のセリフが追いはぎ宣言である。話し合いの出来る状態ではない。岡林が一歩ゆずって、「靴もコートも今使っているものしかないので、やるわけにいかないが靴一人分なら自分のをやっても良い」と言っても「だめだ、全員分よこせ」「早くせよ、そうしないと、荷を全部谷に放り投げるぞ」

すぐ目の下はスル河支流の激しい流れが渦をまいている。もしデモンストレーションで1個でも投げ込まれたら回収は不可能である。

これはストライキでもなければ賃上げの話し合いでもない。完全な強盗行為である。生命の危険をかけて契約の40₨を主張し続けるか、生命の安全をはかって、強盗集団の要求に屈するか?

他の隊員にも相談するが、ポーターの背信行為に激しい怒りを感じつつもなす術なし。今までヌン峰周辺のポータートラブルの報告は聞いたことがない。ポーターが法外な、契約の5倍もの賃上げを考え
つくだろうか?

高山病にかかりハッセンの家に一晩泊めてもらった時も、親身になって家族ぐるみでめんどうをみてくれたのに。


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ポーターが要求を始めてから1時間が経過し、ポーター達が殺気立ってきたこともあり、金を払うかはっきりと対決姿勢を打ち出すか結論を迫られる。

対決した場合、彼等が暴力行為に出たら勝つ見込みは全くない。荷を谷に投げられた時の損失は致命的に大きい。やはり金を支払う以外にはなさそうである。最後の交渉をする。

「金は払う。しかし多額のルピーは持っていない。一人70₨なら支払える。装備は渡さない。これ以上の譲歩はできない」

更に20分を要し、すったもんだした結果一人150₨11人分を支払うことで話が決まる。隊のルピーでは足りず、隊員個人のルピーを集め、やっと支払い、キャラバンを再開する。

 金を手にしたポーターは、ここからタンゴールまで走る。わずか10分で着いてしまう。タンゴールに着くと、それまで黙っていたLOは、ポーター頭と連れそって村に入り、しばらくしてから、彼等の織った絨毯を手にして帰ってきた。「彼等から買った(・・・)のだ」と言う。

(9)  事件の推察

第一に我々は事件の首謀者としてLOを疑った。IMFレギュレーションには「LOはポーターの雇用や登山隊が病気や事故に遭遇した場合等には隊を助成する」と明確にうたわれている。

その
LOがポーターと40₨の契約を行っておきながら、200₨の要求に対して、我々に何の助成もしなかった。それどころかキャラバン終了後には、ポーター頭と共に、不審な行動をとっている。

隊員全員が今度の事件でまず
LOに疑いを持ったのはこの行為からだけではない。LOが我々の遠征チームの中でどう行為したかを、述べないと、理解されないので以下簡単に記す。

   物品の要求・・・「LOには隊員と同様な装備を与える。ただしピッケル、アイゼン、ユマール寝袋のような装備は遠征終了後、隊に返還される」とレギュレーションには明記されているが、これを返却しないどころか、この他にテント、背負子を要求する。

拒否し、レギュレーションを示し返還するべきと述べると、「このレギュレーションは古い。今はちがう、装備をよこせ」とせまり、テント、背負子を勝手に自分のザックにつけてしまう。

このザックにしても隊で支給したものでは気に入らず、隊員のなかで一番良い岡林個人のザックを「俺の権利だ」といって自分のものにしたのである。我々に寛容の心と争いをさける気持ちが無かったら、一日として平安は保たれなかったであろう。

万事がこの調子で、次々と物品を要求したが、高額なカメラだけは再度の要求に対しても与えなかった。ちなみに隣にテントを張ったフランス隊の
LOはレギュレーションどおりの装備しか与えられていない。
  
金銭の要求・・・登山期間中の費用は全額こちらで負担することになっているが、それ以外は支払う必要はない。しかし自分一人の個人旅行に対し、旅費を要求し使っている。(スリナガールからグルマルグへの旅)

   その他・・・下山のための梱包作業中、ポーターに食糧や装備を勝手にやってしまう等、多くの問題があり、常に隊の行動をみだす原因を作っていた。

これらの行為は直接ポーターの事件と結びつくものではないのだが、一日遅れで下山したフランス隊は一人45₨払っただけで何のトラブルもなかったという。

前日には200₨を要求し150₨をせしめた同じポーターがおとなしく45₨でがまんするだろうか?この事実をフランス隊の隊長ベルナールから聞かされた時、我隊の
LOへの疑いは一層強いものになった。

後日LOに200₨を要求した時、どうして黙っていたのかと聞いたら、「3年前、ザンスカールでポーターに口出ししたLOが竹の棒で殴られたことがあったからだ。」と答えた。

しかし、それにしてはおかしい。殺気立ったポーターとの話し合い中に一度だけ
LOが怒って口を出したことがあったのだ。自分のザックを付けていた背負子を、ポーターが勝手に外して使っていたのを知った時である。とてもポーターを恐れていた態度ではなかった。

スリナガールで観光局のアシュラにこの事件を訴えるべく、LOを伴わずに出かけたが、不在で会えず、IMFではLOと共にデブリーフィングを行ったので、事件の概要のみを伝えるだけにとどめた。当初は第2にポーター達だけの共同謀議も考えたのだが、フランス隊の話を聞いてから、その可能性は薄いと考えるようになった。

 あくまでも、これは我々の推察でしかなく、あるいはLOは事件と何の関係がない可能性もある。いずれにしてもIMFは事件の背景を明らかにし、今後このようなトラブルが生じぬよう、しかるべき処置を講ずるべきである。



7 えぴろーぐ

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眩惑・スリナガール

 玄奘三蔵はスリナガールで2年間を過ごした。
死の砂漠タクラマカンを渡り、サマルカンド、バーミアンを経、ヒンドゥークシュ山脈を越え、ようやく辿り着いた北インド、スリナガール。
西暦628年、玄奘27才の冬であった。

 ヒマラヤの水を集めた美しい森と湖の地スリナガールで、玄奘は法師サンガヤサスに師事し、仏教を深めた。
当時の知性を総動員して「生」の意味を、「宇宙」の意味を解き明かそうとした壮大なプロジェクト、仏教。
広大な不毛の空間を飛び越えてやってきた異邦人玄奘は、仏教への疑義の彼方に何を見たのか。
今はイスラム化され仏教の面影の薄いスリナガールも、当時は壮大なプロジェクトの中心地であった。
スリナガールは仏教を生んだ神々の白き座、ヒマラヤに抱かれた山麓の町であり、プロジェクトの基地として最も相応しい町であった。
釈迦没後600年、ガンダーラに都したカニシカ王は、この地スリナガールに500人の学者を集め第
4回の「結集(けつじゅう)」を行った。
インド亜大陸の総ての知性を結集し「存在」の意味を明らかにすべく、500の頭脳は宇宙の彼方へ思惟を巡らせた。
そして200年後「具舎論」は完成した。

 玄奘が称えたように、確かにスリナガールは光と水と森に満ち溢れた美しい町であった。
町の中心に透明な水を湛えた湖、ダル湖が広がり湖上にはハウスボートと呼ばれる舟のホテルが浮かんでいる。
ハウスボートや陸を結ぶ、小舟シカラが、のんびりと湖上を行き交う。
ベッドのようなゆったりとしたシカラの座席に寝そべり、澄んだ水と大気に身を委ねていると、そのまま大気や水の中に溶けてしまうような透明な解放感を味わう。
明るい光の中を鮮やかな原色が音も無く滑って行く。シカラのベッドでうっすらと目を開くと、色とりどりの花を積んだ花売りのシカラであった。
優しい鳴き声に再び目を開くと、山羊や羊を乗せたシカラが悠然と流れて行く。カシミールの宝石やショールを積んだ商人の舟も通る。
シヴァ寺院のあるシャンカラーチャールヤの丘に登り、アクバル帝によって築かれたハリパルバットの城塞に登り、
光と水と森に満たされたスリナガールを、私は毎日飽かず眺めた。

陽光を浴びて煌く湖が眼下に広がり、緑の森に光を乱反射し眩惑を誘う。
あの日も目映い光の矢は、深い緑の上空に飛び散り、異邦人玄奘の瞳を射たのであろう。
広大な赤茶けた死の大地から生還した玄奘は、シャンカラーの丘で、
風輪、水輪を経て金輪の須弥山麓へ通ずる宇宙を見たのであろうか。
緑の上空に放散する光の矢は、生命力に満ち溢れたカシミール盆地を鮮やかに映し出し、果てしも無い死の大地を旅してきた玄奘の目に奇跡を告げた。
確かに生命は、絶望的不毛の彼方に存在したのだ。

 ヌン峰遠征を終えた今、私の胸に津波のように激しく押し寄せるのは、500の頭脳のエコーであり、異邦人玄奘の叫びである。
ヌン山巓から私にもたらされたものが、こんな結果になるとは予想もしていなかったことである。
登頂をはたしたヌン峰そのものへの思慕が色褪せたわ
ではない。
登頂の瞬間を想うと今でも自己の存在感が鮮明になる。
しかしインド亜大陸の巨大な隆起は、思惟の波紋を十重二十重に投げかけ、山巓そのものへの思いを忘れさせる程、激しく私に迫った。
スリナガールの至る処で陽炎のごとく立ち登る思惟の波紋は、ヌンの悠久なる断層で再生され、私の内部で「劫の彼方へ」と結実した。
眩惑に満ちた鮮やかなスリナガールの夏は終わったのだろうか。それとも始まったのであろうか。




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