ナンガ・パルバット峰へ西壁1987年・・・キンスホッファー・ルート
                                                               記録:坂原忠清


神の微笑

1987年8月19日午後7時42分、松井、岡林の2名が、ナンガ・パルバット峰(8125m)の山頂に立ちました。
北面のモーレンコップまで達しながら、吹雪のため、たった一度のアタックチャンスを失い敗退してから、
4年と1日、ついに私達の宿願は達成されました。

この間、カフカス山脈、ヌン峰(7135m)、ブータンの未踏峰(6150m)へと遠征を続け、
短期速攻によるナンガ・パルバット峰の登頂を実現するため努力を重ねてきました。
天候にさえ恵まれれば、今度こそ2週間で登れる自信は,充分にありました。

しかし本年のパキスタンヒマラヤは半世紀ぶりの悪天で、連日午後は雪。
悪天を衝いて坂原、松井、岡林、山口、田村が交互に3回頂上攻撃を行いましたが、総て失敗。
パキスタンのラジオはモンスーン宣言まで出す始末で、登頂の望みは絶たれました。
しかし最後のチャンスを求めて4回目のアタックを敢行しました。

奇跡的にその日は1日中、雪が降らず山頂に達することが出来ました。
BC建設後22日目にして、初めて訪れた晴天、そして登頂。
アタックの日は下山予定日でもあり無理を押しての決断でした。
「神の微笑み」があったとした思えませんでした。

連日の降雪のため胸までのラッセルを強いられ、アタックは困難を極め4名が凍傷にやられ、
現在が治療中ですが、短期速攻を果たし全員が生還でき、更に日パ絵画交換展も
予定通り実施出来ました。
これは皆さまの暖かいご支援があってのことと感謝しています。
ありがとうございました。

1989年10月20日 川崎市教員登山隊 隊長 坂原忠清 隊員一同 



海外登山記録

Contents  
   ヒマラヤ登山記録  チベット 1998~2006年
《A》 ヨーロッパ・アルプス(アイガー、マッターホルン、モンブラン) スイス、フランス 1975年7月~8月
《B》  コーイダラーツ初登頂(5578m) アフガニスタン 1977年7月~8月
《C》  ムスターグアタ北峰初登頂 (7427m) 中国 1981年7月~8月
《D》  未知なる頂へ (6216m) ビンドゥゴルゾム峰 パキスタン 1979年7月~8月
《E》  ヌン峰西稜登頂 (7135m) インド 1985年7月~8月
《F》  ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m)  その1 パキスタン 1983年7月~8月
《F2》  ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m)  その2 パキスタン 1983年7月~8月
《G》  ナンガ・パルバット西壁87 (8126m) パキスタン 1987年7月~8月

中央アジア遠征峰


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BCから仰ぎ見る西壁
 
 

≪序≫ サールナート

菩提樹を見上げる。大きな心臓形の葉が、無数に重なり、
幾重にも空間を仕切り、果てしない天空の高みへ空間を連らねる。

焼けるような褐色の大地の中にあって、
菩提樹の木陰のみが、安息の場であった。

 しばらくその場に止まり、ぼんやりと菩提樹の群葉が作る空間を眺めていた。
無数の葉と果てしない天空が、どちらも認識し得る
量であることは確かである。
 

菩提樹の葉、高々数万枚であろうし、
天空もせいぜい成層圏までの500㎞程でしかない。
たとえ天空が、秒速30万㎞で遠ざかる宇宙の地平線であっても、
充分認識し得る無限なのだ。

 量としての無限空間には意味が無い。
菩提樹はもうこれ以上高くなる必要はないのだ。

今、菩提樹にとって必要なことは、質的変換、新たなる空間への旅立ちである。
未来への空間を見い出せぬ菩提樹には滅亡あるのみ。

新たなる空間とは「n次元多様体」のことであろか。

 


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雪崩

夢の中の明瞭な意識は、唐突に切断された。漆黒の闇の中で、大気を劈く高所風の音がヒルヒルと流れる。まだ夜は明けていない。

釈迦の初転法輪の地、サルナートに居るのではなかった。岩尾根に、かろうじて引っ掛る。今にも落ちそうなビバークテントの中に私は居るのだ。

知っているつもりであったが、又もやヒマラヤのスケールの大きさに、欺かれた。標高6000mの雪稜は、すぐ目の前にあり、1日で充分達することが出来ると判断し、登り続けたが、いくら登れども蜃気楼のように近づかない。

ラッセルは深くなり、しばし腰に達する。極端に登高スピードが落ち、稜線の蜃気楼は更に遠のく。デブリが多くなり、身の危険を感じ左の岩稜にルートを変更する。

50mのザイルいっぱいに登ったところで、後続の中島に合図を送る。
「よし良いぞ。登って来い」
ゆっくり中島が動き始める。右前方で「シュルルル」という激しい緊迫した摩擦音が発生する。雪稜を飛び越えて、大量の雪が瀑布のようにルンゼに突進する。

つい先程まで、我々が登っていたルンゼを猛烈なスピードで、氷塊の激流が直撃する。僅か10mと離れていない岩稜下部で、荒れ狂い、狂奔する氷塊の流れを愕然として見つめる。

2つの生命が、今あの雪崩の中に消えたのだ。岩稜にルートを変更した私の判断は、その直後に生じる雪崩を確信したものではなかった。

午後の気温の上昇とデブリの新しさから、直感的に危機感を抱いていたものの、ルート変更を決断したその時刻の選択は、偶然である。

私と中島は10数分前に死んだのだ。

数百トンの雪の下に埋没し、何十年と言う歳月を経て、ディアミール氷河の末端まで流され、初めて土と遭遇し大地に還るのだ。偶然によって命拾いした私は、岩稜の上から自らの死を見つめる。

あの厖大な雪氷の下に、2つの死体があるとしても、ルンゼは今と同じ表情をしているだろう。

私は既に、何度も死んでいる。今更驚くべきことではないのだ。どんなに経験を重ね、トレーニングを積んでも、自然の脅威、雪崩、落石、強風、雷、突然の荒天等には手も足も出ない。

エキスパートの山での生死を、最後に決定するのは偶然なのだ。弟ギュンターを雪崩で失った時も、アルプスの山稜で雷に打たれ、もう1人の弟を失った時も、一緒にいたメスナーは、僅かな距離差と僅かな時間差で命拾いをしている。

その距離差と時間差は、メスナーの経験と技術に無関係なのだ。メスナーは、偶然の集積を「神の微笑み」に変えた。そして生きて還った。もちろんメスナーは、その神が次の危機に対して微笑むとは限らないことを充分に知り尽くしている。

次の弾倉に実弾が詰まっている可能性を認識しつつ、メスナーは、ロシアンルーレットを続けた。そして生きて還った。ヘルマンブールやニコラ・ジャジェールや植村直己は死んだ。

1つの偶然を生み出すために、厖大な試行錯誤の集積の中から、極く少ない一定の確率で未来が生み出され、その未来に、人類は必然をみてきた。

「誰かが必ず、総ての8000m峰を無酸素で登ることは、分かっていたのだ」と今なら言える。

たとえメスナーが失敗して、途中で死んでいたとしてもククチカがいる。ククチカが死んでも、誰かが必ず達成する。しかし、偶然を生み出すため、厖大な試行錯誤がそれまでに要求され、多くのクライマーがロシアンルーレットの餌食になる。

1つの偶然が、必然として生み出されるためには、無数のシジフォス達が、時間のスープの中で煮立てられねばならない。



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ビヴァーク

「こんな近くで、雪崩を見たのは初めてですよ」中島が呟く。しばらく登り続けると、今度は反対側の左のルンゼに雪崩が発生する。唯一安全な岩稜も傾斜が強くなり、しばしば前進が困難になる。

直立する岩壁にチムニーを見つけ、チムニー下部の雪田へ入ると、再びラッセルは腰までに及び、踏み込んだ足が抜けなくなる。必死に抜き、踏み下ろした左足のアイゼンが右の大腿に突き刺さる。二重のズボンの外側に、血の黒い染みが広がる。鈍痛が右足の自由を奪う。

 時刻は午後4時を回った。行動の限界である。だがビヴァーク出来そうな緩斜面は、何処にも無い。このチムニーを超えれば、テントサイトを見つけることが出来るかも知れないとの私の希望は、裏切られた。チムニー上部も急な斜面が続く。

 

 驚いたことに、朝から1日中登り続けても、このルートには僅かなビバークプラッツすら発見出来ない。こうなったら、テントを被って、座ったままのビヴァークを覚悟せねばならない。1日で稜線に達するというのは、とんでもない誤算であった。

 今は稜線に出るどころか、暗くなる前にビヴァークプラッツを探すことすら難しい。チムニー下部の岩稜に僅かに傾斜の緩い部分があったが、そこまで戻りビヴァークするのが最良である。

 クライムダウンし、ビヴァークプラッツ予定地点に下り、中島と2人でプラッツ作りを始める。岩を動かし、氷を削り、2人で座れるスペースを確保するため、平坦部を広げる。岩にザイルを巻きつけ、落ちないようテントを固定する。

 日没、降雪、寒気が、傾いた小さなビバークテントを同時に襲う。どうにか一夜を過ごすための場所を得ることが出来た。膝を抱き、身を縮めたままのビヴァークの浅い眠り。

 意識が冷酷な寒気と希薄な大気に痛めつけられ、現実と夢の間を彷徨する。肺に痛みが走り、呼吸が詰まる。呼吸の度に痛みと呼吸難が、際限も無く繰り返し襲う。

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リーマン空間

 痛みと呼吸困難の中に、彷徨する意識が混入し、一つの像を結び始めた。やや苦しそうに、患っている鼻を庇う鈴木敬信が、何か喋っている。耳を傾け意識を集中する。

 「マイケルソンとモーリーの実験結果は、エーテルの存在を否定するものでした。中学生にも理解出来るこの簡単な階分数の式こそ、
 +C=C
であることを世界に投げかけた最初の衝撃だったのです」

 私が鈴木敬信教授の名を知ったのは、中学1年生の時であった。その頃、私は暇さえあれば図書館に入り浸り、天体写真集を片端から読み漁っていた。

 何がそんなにまで私を惹付けるのか理解出来ぬまま、ただひたすら銀河にのめり込んだ。机の上に広げた白黒の宇宙が、広大無辺な本物の宇宙と化し、本の中の宇宙へ落下していく自分をしばしば体験した。

 奇妙なことに、それは同時に自分自身の内部への落下であった。その何冊かの写真集に鈴木敬信の名があった。 意志の強そうな、彫の深い顔は、高い鼻を中核にして静かな情熱と知性を漂わせていた。教室の最前列の席で、その鈴木先生の顔を真近に見、講義を聴き、話を交わすようになったのは、それから7年後であった。

 彼は東京学芸大学の教授で、自主講座「人間と自然」を週1回金曜日の朝1番に開いていた。8時半ぴったりに始まるその講座に、1年間出席しても単位は与えられない。

 「本当に学びたい者だけが来い」
と無言で語りかけている講座であった。内容は、アインシュタインの相対性理論を中心に据えた自然論であり、人間論であり、格調高い講義であった。

 5月当初、50人近く居た学生も1月、小金井が寒気にすっぽりと包まれる頃には、私と友人の笠井を含めて10人程しか残らなかった。当時、相対性理論を理解出来る者は、日本に10人は居ないであろうと囁かれていた時代であり、その講義には「人類の叡智の総てが込められているに違いない」と私は期待した。

 アインシュタインの重力場に於ける光の偏倚を実証したロンドン王立協会会長のタムソン卿は、「アインシュタインの一般相対性理論は人類の思考の歴史に於ける、最大の業績の1つである」と称えた。

 

高所風が、ヒルヒルと流れる、まだ夜は明けていない。雪は止んだのだろうか。宇宙に突き出したヒマラヤの小さな突起に身を晒し、眠れぬままに、

+C=C

を示した階分数の式を追い求める。 あの日の図書館での宇宙への落下が30年後のこの瞬間、再び甦る。

私がナンガーパルバットの山稜でビヴァークしながら、30年後に再び宇宙への落下を開始するのは、必然であった。

厖大な偶然の集積は、『自然界が持っている作為的ふるまい』により1つの場を選び出し、ヒマラヤの小さな突起に私を拉致し、宇宙の海へ放り出そうとしている。

ヒマラヤの小さな突起は、 地球表面のオアシスから隔離され、生命のバリアーを失った宇宙ステーションなのだ。小さな突起から始まるこの壮大な宇宙不毛空間こそ、知的存在のハイマー(故郷)であり、知的存在は本能的に、この過酷な空間に回帰しようと欲している。ハイマーは
+C=C
となる光速不変の法則や、ローレンツ短縮や、時間の遅れや、
E=mC²
や、光の偏倚を日常風景とする5次元リーマンなのだ。

 リーマン空間からやって来て、生命のバリアー、緑のオアシスで、しばし保育された知的存在は保育器である細胞を捨てて、リーマン空間へ回帰しようとしている。回帰への意図は潜在したまま、知的存在を操る。芸術や宗教や科学を育み、「出発せよ」
と囁き続ける。

中島が苦しそうに、立て続けにゴボゴボと咳をする。目を覚ますと思ったが、そのまま眠り続ける。

アタックコートのポッケより取り出した手帳に、幾つか数式を書いてみる。昨夜の交信で指示した、C2からC3へ上げる荷のリストの横に、すっかり忘れていた

  

の式を完成するまでに1時間以上かかったような気がする。この階分数が、ニュートンの世界でも成立するかどうか考えてみる。

ガリレオとニュートンは緑のオアシスに歪まぬ空間を見い出し、暗黒の中世の物理学に革命をもたらした。

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ジルバーザッテル

 岩稜から落ちることも、雪崩に直撃されることもなく、ビヴァークの夜は明けた。昨夜の雪は止み、新雪の山稜上に群青の空が広がる。遥かなる宇宙の闇は、恒星の光と大気とのカクテルの背に隠れ、荒々しい地表に払暁が訪れた。

 蛇腹のような黒い横縞をうねらせ、ディアミール氷河が西の大地へ延びる。赤茶けた大地の隆起は漆黒の影を伴い、インダス河の下流へ連なる。東方の空に掛かる銀の鞍、ジルバーザッテルの後方が光に満ち、銀鞍の縁が輝く。

 逆光の中にシルエットを描く鞍の上部が一気に光を吐き出す。ジェット気流に吹き上げられ、宇宙に舞う微細な光の粒子が群青の中で光を捕らえ、散乱し七色の光彩を放つ。

 オーロラのような壮大な光のラオフェン。4年前のこの日、8月7日、私はあの光の後ろに居た。そして、この瞬間と同じように銀鞍を反対側から見つめていた。

ジルバーザッテルー、銀の鞍。何と響きの良い、美しい言葉であろう。あの雄大な銀の鞍に跨るのは、ギリシャのデルフォイへ赴くアポロンであろうか。それともペガソスに乗って天へ昇ろうとしたベレロフォンだろうか。

 ベレロフォンはペガソスに振り落とされ、銀の鞍から落ちた。銀の鞍を眼の前にして初登頂までに散った31名のベレロフォンに思いを寄せる。内側から突き上げ、込み上げる生の激情に身を委ね、闇雲に突っ走り、自らのテリトリーを押し上げようと、地表の果て、銀の鞍にやってきた男達。

 


 そして銀の鞍に触れることもなく散っていった男達。銀の鞍に、たとえ触れたところで、更にその先には広大な空間が、深遠な口を開いているのを知りつつ、銀の鞍を目指した男達。生きるという行為は畢竟、そういうものであろう。

 最初に銀の鞍を超えたヘルマンブールも、登頂後チョゴリザ(7665m)で、あっけなく死んだ。私達が、たとえ東の国からやってきたベレロフォンになっても、ほんとうは悔いることはないのだ。

 銀の鞍が、かくも美しく雄大であれば、それだけで充分なのだ。天空に架かる銀の鞍の彼方を目指して、いよいよ闘いが始まった。自己の肉体と精神が、極限まで追い詰められても尚、登高意欲を持ち続けられる者だけが山頂に立てる。ヘルマンは極限状況下で麻薬ペルベティンを飲みつつ、山頂に立ち生還した。

 ここから1㎞稜線を進むと、ラキオト氷壁の下部に達する。標高差500m程のラキオト氷壁を超え、右にトラバースすると、モレーンコップに通ずる北東稜上部に出られる。ヘルマンの最後のキャンプ地である。

 4年前ラキオト峰(7070m)を超え、モレーンコップまで達し、銀鞍を目前にして私達は敗れた。 唯一度のアタックチャンスは、吹雪に阻まれた。この年ナンガでは、日本人4人が死んだ。

 ママリーの挑戦から初登頂されるまでの60年間に31名の生命を奪い、更に墓標を積み重ねる魔の山、ナンガーパルバット。

 銀鞍に跨がり、遥かなる漆黒の宇宙へ出発せんとし、振り落とされたベレロフォンは、この年(1983年)で44人に達した。風雪のモレーンコップから、生還出来ただけで、神に感謝せねばなるまい。


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メルクルの悲劇

 その日。彼等は銀鞍上に最終キャンプを設け、山巓に立つための総ての準備を終えた。誰もが明日の初登頂を信じた。宇宙の闇と混ざり合った8000mの空は、時空の大海原となり、メルクルに
「出発せよ」
と熱く囁く。

 1934年の第二ドイツ隊の遠征隊の隊長メルクルは、7月6日、5人の隊員と11人のポーターを銀鞍に上げた。銀鞍上にC8を設営し、明日山頂に達し、メルクルは人類として初めて8125mの高みから時空の海へ、第一歩を記すはずであった。

 2年前の敗退がメルクルの胸を過ぎる。2年前、遥かスリナガールから、37日間もかけて辿り着いたナンガ・パルバットで、彼を待っていたのは、幸運にも連日の快晴であった。

 僅か1ヶ月間で、ラキオト峰下部のムルデの先にC7を設営し、早いピッチで頂稜に迫った。しかし何とその夜から吹雪になり、15日以上も荒れ狂い、ナンガは地獄と化した。一瞬にして地獄と化すナンガの恐ろしさをメルクルはこの時、しっかりと胸に刻みつけた。

 標高7480mの銀鞍上のC8で、メルクルは薄い大気を通して、漆黒の宇宙を見つめる。薄い大気の中に僅かでも、水蒸気の白いヴェールを見い出したなら、地獄との対決を覚悟せねばならない。

 だがその心配はなさそうである。大きく張り出した高気圧は、連日快晴をもたらしメルクルに
「出発せよ」
と囁き続ける。

 一瞬にして地獄と化すナンガの恐ろしさを充分に知りつつ、メルクルは大胆な作戦を取った。アタック隊を地獄から救い出すサポート隊を待機させなかったのだ。

 当時、ヒマラヤで取られつつあった。極地法登山では、最終キャンプに入れる23名のアタック隊をサポートするため、各キャンプに残りの隊員やポーターを配置するのが定石であった。

 メルクルは敢えてこの方法を取らず、C7、C6、C5の下部キャンプを空にし、銀鞍上の最終キャンプC8に16名を上げ、総力を結集した。それは正に「背水の陣」であった。メルクルにとって、最早撤退はあり得ない。

 宇宙の渚が、45億年も繰り返し繰り返し、囁き続けた波の音は、彼に
「出発せよ」
と告げる。

 その囁きには、帰ることがプログラムされていないということを、メルクルは無意識に自覚していた。登頂に成功して、新たなる旅人として時空の海へ旅立つか、はたまた山巓に達することなく、ベレロフォンとなって散るか、いずれにしても撤退はない。
 ― 出発せねばならないのだー
 
 1934年77日、地球の生命バリアーはメルクルを裏切った。漆黒の宇宙を隔てる薄い大気のヴェールは荒れ狂い、怒号し銀鞍上の16人を急襲した。

 標高7480mの小さな暴風テントは、強暴な高所風によって支柱を折られ、引き裂かれ、16人は死の世界へ放り出された。飲む、食べる、眠る、体温を維持する、酸素を確保する。

 それら、生きる為の最低条件が奪われた銀鞍上の生命は、にもかかわらず登頂への意欲を捨てず、7月7日の嵐を1日中耐えた。雪の降りかかる凍ったシュラフの中で、メルクルは真正面から地獄と対峙した。「背水の陣」には撤退はないのだ。

 しかし、暴風雪は時と共に更に激しくなり翌8日、メルクルは隊員のアッシェンブレンナーとシュナイダーに、脱出路を拓くよう命じざるを得なかった。

 メルクルは地獄から顔を背けた。その瞬間に彼の死は決定した。一瞬の隙を衝いて、地獄はメルクルに侵入し、肉体と精神をズタズタに引き裂くであろう。

 銀鞍が地獄ならば、遥か下方の有人のC4までの長い稜線と氷壁は、死そのものである。誰よりも彼はそれを良く知っていた。メルクルは死の世界へと作戦を変更した。

 最強3名のポーター、ニア、ピンツォ、パサンが11名の中から選ばれ、2隊員と共に無人のC7、C6,C5へのラッセルを開始した。

 ラッセルを追って、メルクル、ウェルツェンバッハ、ヴィーラントの3隊員と、残り8人のポーターが「背水の陣」に反逆すべく、死の世界へと撤退を決意した。

 7月9日、まず隊員のヴィーラントがC7の手前で死んだ。その後、ポーターのタクシーが死に、続いてC7のテントまでどうにか達したウェルツェンバッハが絶命した。

 先発のポーター、ニマと後発のポーター、タシがラキオト峰の下りで息絶え、C5の近くで先発のポーター、ピンツォも死んだ。

 荒れ狂うナンガの嵐に、次々と命を奪われつつも、メルクルは自らの「背水の陣」に必死の反逆を続けた。

 2人の隊員を失い生き残った最後の2人のポーターと共に彼は猛吹雪の中でC6を目指した。手足を凍傷に冒されながらも、腰までの雪に屈せず、食糧も寝袋もない状態で、ビヴァークを続け、6日目にようやく辿り着いたモレーンコップには、最早テントは無かった。


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 C6はナンガの強暴な嵐に吹き飛ばされてしまったのだ。7000mの風雪の夜、鋭い寒気と高所風から彼等3人の命を守る物は、たった2枚の毛布だけであった。

 撤退開始後7日目の714日の朝、それでも3人は、モレーンコップでまだ生きていた。生の望みの絶たれたメルクルは不可能を承知でポーターのアンツェリンに、連絡係として単独下降を命じた。

 アンツェリンは奇跡を実現した。生きて救助隊の待つC4に達したのだ。酷い凍傷にやられ、飲まず食わずの1週間を経て尚、吹雪の山稜を下り、ラキオト峰を超え、無人のC5を超え、人間の居るC4に辿り着いた。

 モレーンコップに隊長メルクルと、ポーター頭のゲーレーが生存していることを、救助隊は初めて知ったが、この暴風雪の中を遥かなるモレーンコップまで登ることは不可能であった。なす術はない。2人は捨てられた。

 モレーンコップに残された2名は、死の真只中に孤立したまま、それでも下降への意欲を捨てなかった。

 凍りつき動かなくなった手と足の激痛、一週間もの空腹で、総てのエネルギーと水分を失った肉体の呻吟、荒れ狂う高所風と次々に死に絶えていく仲間、僅かな希望すら完全に欠如した地獄の苦痛を真正面に見据え、メルクルは最後まで目を逸らさなかった。

 僅かなモレーンコップへの登りに渾身の力を振り絞り、ヨロヨロと歩み、這いずり続け、やがてピクリとも動かなくなったメルクル。出発しようとしたメルクルの作戦「背水の陣」に対し、ナンガは8名の死を要求し、生命の最後の一滴まで吸い取り彼を嬲り殺しにしたのだ。

 メルクルはリーマン空間へ回帰する前に息絶えた。ドイツ、ミュンヘンの鉄道員メルクルは、ベレロフォンとなって銀鞍に散った。メルクルは「背水の陣」により、一つの偶然をより高い確率で必然に転化しようと試み自らの作戦に死した。

 1つの偶然が必然として生み出されるために、無数のシジフォスの1人となって、メルクルは時間のスープに飲み込まれてしまった。必然の累積の彼方にあるリーマン空間へのメルクルの旅は、永遠に切断された。

 この年、ヒトラーはヒンデンブルグ大統領の後釜に座り、総統と称し狂気の独裁者となって、ドイツを反理性の世界へ放り込んだ。トーマスマン、ヘルマンへツセはこの狂気の地を脱出した。

 リーマン空間の彼方をしっかり見据え、統一場のり理論を完成させたばかりのユダヤ人、アインシュタインも又、ドイツを離れアメリカのプリンストン高級研究所へ亡命した。

 だがメルクルは狂気の支配する母国ドイツへ戻る必要はなかった。遠征前のように、民族社会主義専門指導員と斗う必要もなくなった。それは彼の作戦「背水の陣」がもたらした唯一の成果であったかも知れない。


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   ママリーを追って

 七色に、煌く雪煙を吹き上げる銀鞍を右に見ながら、ガナロ峰に向かってラッセルを切る。メルクルの悪夢の最終キャンプ、C8の雪原に朝日が反射する。

 右の銀牙(ジルバーザッケン)が逆光の中で、漆黒の陰影を直立させ、柔らかな雪原とコントラストを描く。あの陰影の後に、モレーンコップがあるのだ。映像が動かぬように息を詰め、8ミリカメラを回す。銀鞍から北峰へ、更に台形の主峰へ15mのフィルムを一気に回す。美しいシーンが撮れそうだ。

 ナンガの映画製作を担当する私にとって、銀鞍の映像は不可欠である。高所順応を兼ねて、ガナロ峰に入った最大の目的は、4年前の我々の北面ルートと銀鞍の撮影にある。これで目的の半分は達成された。

 昨日の雪崩が通過した稜線直下の急な雪面に出る。新たに降り積もった雪が表層雪崩を起こしそうで緊張する。

 一刻も早くこの危険な雪壁を抜け出さねばと気は焦るが、目も前の稜線は一向に近づかない。パートナーの中島の調子は、相変わらず良くない。

 私のラッセルの後を着いてくるのが、精一杯のようだ。このままでは今日中にガナロ峰の山頂に立つのは、難しい。

 4年前の我々のBCを、ガナロ峰から撮影することは断念せねばならない。だが山頂に達しなくとも、ガナロ峰とナンガ北峰のコルに出れば、ママリーに会える可能性がある。

 ガナロ峰に入ったもう一つの目的は、ママリーが消えたコルに立ち、強靭な意志と肉体を持ち、卓越したクライマーであったママリーが、最後に見た同じ光景を目にすることである。

 ヨーロッパアルプスやコーカサス(カフカス)山脈で活躍し、ナンガ西壁の中央岩稜を6100mまで登り、世界で初めて真剣に、ヒマラヤの巨峰に立とうとした男、ママリー。ガナロ峰のコルに達し、死の寸前に彼が見たものは何であったのか。

 それは今から93年前、1895年8月のことであった。まず彼は、魔の山ナンガの最も困難なルート、南壁にやってきた。標高差4500m、世界最大の岩稜、ルパル壁は、1世紀後の現在でさえ容易に人を近づけない。

 初めてこの壁を完登したメスナーは、同ルートを下降することが出来ず、西壁を下り、雪崩で弟ギュンターを失い、自らも凍傷にやられ指を切断した。

 登山の技術と用具の発達した現在でも、南壁はクライマーを拒否する。登山用具としてアイゼンが初めて登場したという1世紀前にこの絶望的な壁の前に立ち、ママリーは闘志を(たぎ)らせた。

 しかし間断なく雪崩の落下する急峻な南壁に、登頂可能なルートを見い出すことは、出来なかった。だがママリーに撤退は無かった。即西壁に移動し、雪崩から唯一安全と考えられる中央岩稜(ママリーのリブ)に勇猛果敢なグルカ兵のポーター2人と登攀を開始した。

 アルプスにもコーカサスにも無い高度6100mまで登り、登頂の可能性を確信しつつ下降した。その先に広がる、標高差2000mもある急峻な氷壁の世界が、希薄な酸素、極寒、高所風の支配する地獄であることに気付かず、ママリーは、巨峰に立てると信じた。

 ママリーの確信は、更に容易なルートを求めて、2名のグルカ兵と共に北面にに移動した。

 8月23日、ママリーは北面のラキオト氷河に出るため、ガナロ峰とナンガ北峰のコルを目指し、2度と帰らぬ人になった。確信は無残にも打ち砕かれ、人喰い山、ナンガ・パルバットの最初の犠牲者として、ママリーは消えた。

 すぐ目の目に稜線が迫る。あの反対側に何が見えるのか、胸が躍る。ママリーが最後に見た、ラキオト氷河へ落ちる絶望的な氷壁が見えるのだろうか。であるならば、4年前の我々のBCを設営した緑の台地も見えるはずである。

 2つの氷河が押し出す堆石によって作られたモレーン台地。2つの白い氷河の間にあって、奇跡的に緑を保つ生命の台地。馬や牛や羊が放牧され、鳥のような声を出して鳴くモルモット・トシュンの住む我々のBC。

 北壁に雪庇を付けた細い雪稜に立つと、目の前に開けた北側のパノラマは、ラキオト氷河ではなかった。ディアミール氷河の源頭であった。ガナロ峰は北峰と南峰。2つあったのだ。

 ラキオト氷河から見ていたガナロ峰は北峰で、ディアミール氷河から見ていた峰は南峰であったのだ。何ということだ。稜線の反対側に4年前のBCがあると信じ、再会の親近感を抱いて眺めていた山頂は、別の峰であったのだ。

 やっと登り詰めた稜線は、南峰から東へ延びる尾根で、末端は北峰近くのディアミール氷河へ、急角度で落ちている。そのためBCから見ても西壁から見下ろしても、尾根が氷河によって切断されていることに気が付かなかったのだ。

 この東尾根から遠望する両ガナロ峰をつなぐ稜線は、槍の硫黄尾根から見る北鎌尾根と良く似ている。独標から槍へ至る岩稜とガナロ北峰への稜線が、特に良く似ている。

 ここからガナロの最高点、北峰へ出るには、どうみても3日はかかる。BCから優美に見えた雪稜は、起伏の多い雪庇だらけの稜線で、ラッセルによる体力の激しい消耗が予想される。


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 眼下のディアミール氷河は、多数のクレヴァスを擁し、源頭は急峻な氷河となっており、氷河からガナロ峰とナンガ北峰のコルへ、直接出るのは難しい。 

 となるとママリーも私と同じ東尾根を登った可能性が高い。ママリーが見た最後の光景は、この絶望的な地形であったかも知れない。それからママリーと2人のグルカ兵はどうしたのか。

 ガナロ南峰を目指して前進を続ける雪庇を踏み抜かぬよう雪稜の左、南側にラッセルを切る。左に寄りすぎると足元の斜面が真横に切断され、表層雪崩が発生する。

 表層雪崩は、昨日我々が登ってきたルンゼに向かって美しいカーテンを開き、消えてゆく。右に逃げると雪庇が崩れ、雪稜に穴が明き、一瞬緊張する。

 しかしいずれも危険性は少ない。この雪稜が雪崩の出発点であり、生まれたばかりの雪崩に力は無い。雪崩に引きずり込まれないよう注意さえすれば良い。

 昨日アイゼンを突き刺した右足が痛む。再び出血したようだ。2日間トップでラッセルを切り続けた足は、鉛のように重くなりつつあり、出血の痛みと共に前進にブレーキをかける。

 ザイルを手操る。遅々としているが、確実なペースで中島がラッセルを追ってくる。新雪の細い雪稜上に立つ赤いヤッケが朝の光を浴びて鮮かに輝く。

 この太陽も、もうすぐ陰り昨日のように、一昨日のように午後からは、また吹雪になるのだ。入山以来、夕刻まで晴れた日は1日も無いのである。

 この雪稜で吹雪に襲われたら、帰路は吹雪を覚悟せねばならない。昨日のルンゼは降雪直後から活動を開始し、我々もママリーと同じく帰路を断たれる可能性がある。前方に巨大なモンスターのような雪庇が立ちはだかる。悪質な両雪庇となって、鋸歯状の稜線に危ういバランスで乗っている。

 雪庇の上に乗るわけにはいかない。氷塊と共に落下することは明らかである。雪庇に穴を明けて通過するとしても、同じ危険は避けられない。

 雪庇の先のルートは、しばらく鋸歯状の稜線が続き、アップダウンが多くなり、この雪庇をうまく処理したとしても困難は続く。93年前のママリーはここで更に前進を決意したのであろうか。それとも撤退したのであろうか。

 コリーとヘイスティングの2名と待ち合わせをしたラキオト氷河に向かって、この稜線を進み続けたなら、ママリーは雪庇と命運を共にしたであろう。

 風雪の中を撤退したなら、雪崩に巻き込まれた可能性が高い。同じこの場所で、私のように決断にとどまったであろうママリーに想いを馳せる。

 ママリーの遺品があるような気がして、雪稜をキックステップし露出した岩稜を注意深く観察し、8ミリカメラで撮影する。

 当然ながら、かつて人間が通過したらしい痕跡は全く無い。若し何かがあったとしても、総てを消し去るに、1世紀という時間は充分なのだ。

 ヒマラヤ地図の空白時代に、8000mの頂に立とうとしたママリーを、激しく衝き動かし続けた回帰への意図は、この地でママリーを冷たく突き放した。ママリーはヒマラヤの山稜で、壮大な時空の海を見ることなくして死んだ。

 午前11時17分、ガナロ南峰の頂上まであと600mを残し、雪庇の手前で撤退することにした。いつものようにガスが広がり、午後からの降雪を告げている。

 ガナロ峰の山頂から、ラキオト氷河を見たいという気持ちはママリーと同じだが、明日から西壁の本隊に合流し、ナンガ・パルバット山頂へのルートを拓かねばならない。これ以上、危険な稜線でビヴァークを続けるわけにはいかない。ママリーが最後に見たで

あろう光景に未練を残しながら、雪崩で様相を一変したデブリのルンゼを、一気にディアミール氷河のBCへ駆け降りる。


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風雪の西壁

 BC建設後15日目、午後は毎日、雨か雪という悪天の中でルートを拓き、3名で第一次アタック隊を行った。

 山口は凍傷と高山病で、頂上台座に取り付く前にリタイヤ―、そのままC3へ向かい行方不明。他の2名はバッインシャルテ手前の北肩へ出るルンゼを間違え、登攀不能になり凍傷を負いつつ撤退。第一次攻撃は失敗。

 中島は鷲の巣岩壁で墜落後カンバックし、再びC2へ向かうが力尽き、氷壁の途中に荷をデポしBCへ下る。

 更に大谷は鷲の巣岩壁上部のC2から、キャンスホッファー氷原のC3への荷上げで疲労困憊し、よれよれになって夜、かろうじてC3に着く。大谷もC3より上のキャンプではもう使い物にならない。

 これで7名中の3名が潰れた。残るは4名。1名又1名と倒れていく隊員を目の前にして、第二次アタックを行うべく、私は田村と共に前進を続けた。若しかすると私は、ドイツ隊の隊長メルクルと同じ途を、突き進んでいるのかも知れない。

 あの日のように今、暴風雪に襲われたら、たぶん私もメルクルと同じくビヴァークしているであろう。山口を始めとし、疲労の激しい隊員から次々と高所キャンプで息絶えるであろう。

 だが暴風雪がやってくるまでに3時間あれば、死の高所キャンプからの脱出は不可能ではない。総てを捨て全力を尽して、スピーディーにアップザイレンを行えば、表層雪崩に襲撃される前に、急峻な西壁から逃れることは出来るだろう。

 暴風雪による撤退の判断を、一瞬誤れば、いつでも私はメルクルの悲劇を繰り返すことになる。そしてその正確な判断は、偶然に支配される可能性が高いとなると、もう既に私はメルクルなのかも知れない。

 キンスホッファー氷原へ出る岩と氷のミックスした岩稜は早々とガスに包まれ風雪がハミングを始めた。

 入山以来1日として午後まで晴れた日はない。朝方の僅かな晴れ間を利用して行動を開始するが、どうしても雪の始まる時間帯を避けることは出来ない。

 しかし今日は特にひどい。まだ午前10時前だというのに、もう風雪がハミングを始めたのだ。ガスに包まれ、雪が舞い始めると急激に温度が下がる。頬が凍り、髭に雪が付き氷柱になる。眉や睫も凍り、瞬きすると互いにくっつき合い視界が閉ざされる。

 風が雪を吹き上げブリザードになると、天地の区別が曖昧になり、雪面と空間がつかなくなる。風雪の白と雪壁の白とが作るホワイトアウトの視界は零に近い。形と色、距離と時間さえも失せた奇妙な空間は、視界零でありながら、無限の広がりを持つ。

 どんなに必死に登り続けようが、決して抜け出すことが出来ない絶望感を突きつけ、我々をパニックに陥れる。

 確実な方向を示す唯一の固定ザイルは、昨夜の雪に埋まり、更に今日の新雪に覆われ姿を見せない。今日も1日中ザイルを掘り出しながら、前進せねばならない。

 岩稜から雪稜に変わり、キンスホッファー氷原直下の雪壁に出ると、間断無く表層雪崩が流れ始めた。雪稜が急峻なため、降った雪は即雪崩となって落下する。

 流れ続ける塵雪崩の落下距離を考えると、ぞっとする。このホワイトアウトの上部は、標高差700mの広大な氷雪壁が立ちはだかり、我々の頭上を圧しているのだ。

 氷雪壁に落ちた雪が風によって舞い上げられず、そのまま積り始めたら、表層雪崩は強大な威力を発揮し、700mを一気に落下し、一瞬にして我々を吹き飛ばすであろう。

 塵雪崩が流れ続けること、それが我々の安全を保障する、1つの目安になる。しかしその塵雪崩が、次の瞬間に突然規模を変え、雪の津波となって我々を襲う可能性も又充分にある。

 正確な予測は誰にも出来ない。

 こんな危険な状態の雪壁では、行動しないことが一番安全なのだ。だが我々は一定のリスクと困難を甘受し、敢えてナンガへやってきた。

 一番安全な状態を求めるならばヒマラヤへなんぞやって来るはずがない。撤退には何の意味もないのだ。私の理性は表層雪崩の真只中で「GO」のサインを出し続ける。

初めてではない。何度か同じ状況下で私は登り続けてきた。そして生きて還ってきた。決して私の理性が狂っているわけではないのだ。私の理性は最良の結論を下し、「出発せよ」と熱く囁く。

 かつて凍傷にやられた手の指の痛みが酷くなる。両手の小指全体と他の指の第二関節から上が、切断寸前の凍傷にかかり、以後この部分が特に寒さに弱くなっている。又痛み出したのだ。

 標高はまだ6600m程だが、手袋を二重にせねばならない。
「田村、悪いがザックの天蓋からオーバーミトンを出してくれ」

 固定ザイルに確保を取り、天蓋のチャックを明け、ミトンを取り出さねばならない。この状況下では大変面倒な作業を田村がやってくれる。

 ミトンを出した瞬間、9000mまで計測出来る高度計が、天蓋から落ちる。雪面に落下すると同時、右手のストックで反射的に押さえるが、急峻面なので、すぐ滑り出す。





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 更にストックを延ばし止めようとしたため、ストックが手から離れる。転がったストックは一時停止するが、塵雪崩で浚われ高度計と共に消えた。この間僅か10秒足らず。

 この先、蟻地獄の高所雪田、バッインムルデが控えている。幾つかの登山隊が、この雪田でラッセルに苦しめられ、アタックに失敗している。

 標高7500mの腰までのラッセルに立ち向かうには、ストックは欠かせない。高度計にしても、単に高度を測るだけでなく気圧計としての重要な意味を持っている。

 気圧がぐんぐん下り出したら、総てを捨てて即下降を開始せねば、ナンガの地獄の嵐に捕らえられ、全滅する恐れがある。

 困難な状況下では小さなミスが致命的な結果を生む。たかがストック、高度計では済まされない。この苦しい風雪と表層雪崩の中で、田村にミトンを出してくれと頼んだ私が悪かったのだ。

 風雪と塵雪崩との斗いに1名が敗れ、私と田村の2名がC3に達した。C2を出て5時間後の13時50分に、巨大雪庇の上に着きテントを張り、C3とする。標高6800mである。

 危険ではあるが、キンスホッファー氷原の中で、唯一ヶ所この雪庇上のみがテント設営可能な平坦部なのである。この巨大雪庇は氷床の押し出しによって生じたセラック状の氷で形成されており、極めて安定している。

 過去、数隊が利用しているが、まだ崩壊の例は無い。その初めての例に我々がなるかも知れぬが、上部の岩壁直下のC3に較べると居住性が良いので、敢えてここをC3とする。

 翌日、行方不明になっていた山口が、C4でビヴァークしているのを発見され、C2の荷上げで力尽きた中島が、無事BCへ下降したことを定時交信で知る。

 C3への荷揚げで消息を断った大谷も、我々より6時間遅れ夜になってC3へ転がり込む。疲労困憊し動けなくなり、風雪の中で固定ザイルにジッヘルを取り、眠っていたという。大谷の体力も最早限界である。これで潰れた3名の隊員の安全が確認された。闘いは残された4名の手に委ねられた。

 雪は降り続き、キンスホッファー氷原は大量の雪に覆われた雪壁に変わった。1日停滞したが天候は回復せず、行動を決意する。

 急峻な氷原を左上し、北峰の北北西岩壁に出、ここから北西岩稜まで長いトラバースを行い、上部雪田バッインムルデに出ねばならない。

 だがこの雪の状態で、2度トラバースを行うのは自殺行為である。雪崩を誘発することは目に見えている。北西岩稜を目指して直上する以外のルートは考えられない。

 早くも降雪の始まった雪壁に腰までの猛烈なラッセルを開始する。北西岩稜の手前では10m進むのに30分を要するという悪戦苦斗が続く。

 身体を前に倒し、膝で雪を固め、更に足で雪をプレスする。目の前の雪の壁では雪が胸までの高さに達し、不気味な重量感を共なって私を威圧する。

 轟音をたて、一瞬にして雪崩れる光景が浮かぶ。湧き起こる恐怖を、冷静な理性が押さえる。
「うろたえるな、確信を持って前進せよ。総ては予測していたことだ。後を振り向いた瞬間に死は決定する。今は一刻も早く上部雪田へ出ることだ」

 敢えて過酷な条件を求める理性は何処からやってきたのだろう。冷静な理性はしばし自らの死さえ平然と受け入れようとするのか。

 

 無限に錯綜する危険な事象の中に僅かな安全性と可能性を見い出し、未知な領域に突き進もうとする理性は、常に自己崩壊の瞬間を覚悟している。

 冷静な理性は必要とあらば、そのカプセルでもある肉体をも超え。激しい苦痛を冷ややかに見つめつつ「GO」のサインを出し続ける。

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