ナンガ・パルバット峰へ銀鞍1983年・・・ヘルマン・ブール初登ルート
記録:坂原忠清
ジルバーザッテル・・・銀の鞍、
何と響きの良い美しい言葉であろう。
あの雄大な銀の鞍に跨るのは、ギリシャのデルフォイへ赴くアポロンであろうか、
それともペガソスに乗って天へ昇ろうとしたベレロフォンだろうか。
ベレロフォンはペガソスに振り落とされ銀の鞍から落ちた。
銀の鞍を目の前にして初登頂までに散った
31名のベレロフォンに私は想いを寄せる。
Contents | |||
ヒマラヤ登山記録 | チベット | 1998~2006年 | |
《A》 | ヨーロッパ・アルプス(アイガー、マッターホルン、モンブラン) | スイス、フランス | 1975年7月~8月 |
《B》 | コーイダラーツ初登頂(5578m) | アフガニスタン | 1977年7月~8月 |
《C》 | ムスターグアタ北峰初登頂 (7427m) | 中国 | 1981年7月~8月 |
《D》 | 未知なる頂へ (6216m) ビンドゥゴルゾム峰 | パキスタン | 1979年7月~8月 |
《E》 | ヌン峰西稜登頂 (7135m) | インド | 1985年7月~8月 |
《F》 | ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m) その1 | パキスタン | 1983年7月~8月 |
《F2》 | ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m) その2 | パキスタン | 1983年7月~8月 |
《G》 | ナンガ・パルバット西壁87 (8126m) | パキスタン | 1987年7月~8月 |
中央アジア遠征峰
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≪1≫ 二億年の須臾 何の潤いも無い赤茶けた大地。 ラキオト氷河上部標高6000mの |
ヌン峰ベースキャンプにて (左から田村、坂原、山口隊員) |
下方にて氷河は融け 氷塊の上の束の間の休息を終え |
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≪2≫ インダス河 カラチを飛び立ち、しばらくするとやっと太陽が昇ってきた。カラチからイスラマバードへの空の旅は、パキスタンの中央を北西に貫くインダス河の流れと共にある。 |
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すさまじいエネルギーを秘めた急流が、 地表を鋭く切り裂き 深い谷を形成する。 激突する水の轟音に混じって 不気味な低い音が大地をゆさぶる。 強力な水のエネルギ―が 川底の巨石を引きずり、 押し流す音である。 赤茶けた濁流の底から ドロドロと湧き上る音は、 呪文のように聞こえる。 この谷の絶壁の上に細々とした 道が北へと続く。 パキスタンと中国を結ぶ カラコルムハイウェーである。 |
インダス川(カラチからイスラマバードへの機上より) |
凸凹のひどいこのオンボロ道は、 ナンガ―パルバットの 山麓をかすめ、クンジェラブ峠を 経てムスターグアタ(7546m) からカシュガルへと通ずる。 長安とローマを結ぶ かつてのシルクロードの 最も困難な部分である。 一年中氷雪に覆われた高地では 幾多の旅人が帰らぬ人となった。 それでも勇敢な商人は 夢を抱いて紀元前より、 この道を歩んだ。 そして玄奘三蔵やマルコポーロも。 この金色の流れの遥か彼方に、 我々の一夏を賭けた夢があるのだ。 |
≪3≫ ウィスキーとハルブザ
懐かしいMrs.DavisPrivateHotelに泊まりたかったのだが、 |
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せめてエアコンが付いていれば 毛布をかぶることも可能なのだが、 天井がやたらと高いこのホテルには 付けても効果はない。 そこで今回はマラリヤ予防の ダラプリムを飲み、 ハマダラ蚊のいない イスラマバードを選び、 更にエアコン付の ホテルを希望したのである。 この夏はマラリヤのかわり肝炎が イスラマバードやピンディを襲った。 最初の予定宿も肝炎に汚染され 隊員の一人が倒れ 急遽Inns Gardenに変更したのである。 |
左:永山ドクター 右:坂原隊長 |
ここでは厨房の冷蔵庫に いつもビールを冷やしておき、 ウィスキーも飲み放題。 ハルブザを食いながら ウィスキーを飲む。 なかなかイケル。 この部屋だけは禁酒国パキスタンとは 無縁の治外法権エリアであった。 ちなみに今遠征で 飲んだアルコールは、 ビール60ℓ、ウィスキー10本、 ブランデー10本。 言うこと無し |
≪4≫ さあ、出発
7月24日、15時59分、肝炎のため遠征参加を断念し |
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しかしこの車の装飾は 比較的あっさりしている。 7月20日朝、本隊がピンディに 到着してからツーリズムディビジョンとの 交渉、空港での隊荷通関、 日本大使館での絵画交換会の打合せ、 遭難救助のためのヘリフォームの作成、 その他外人登録や保険手続き、 バザールへの食糧の買出し、 荷の再梱包とフル回転で行動し、 5日目の夕方にようやく 出発できることになったのである。 |
左から永山ドクター,坂原隊長、釣部、鈴木隊員, |
この間イスラムの休日がはさまり、 |
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≪5≫ バス故障 オンボロ車の氾濫と到るところで目につく働く少年達・・・・・ |
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座席にしがみつき危うく難を逃れた。 したがって故障して動かなくなる なんてのは、日常茶飯事。 アフリカでは真夜中、 ハイエナのうろつく森の中で 故障した車を押したこともあったし、 カシュガルの奥地では ヤクの群れが走り抜ける深夜の谷で 車を押したり。 あの時はウィグル語しかわからない ウィグル人の運転手を相手に キリギス語、漢語、日本語が 飛び交い故障した車を動かすまで 大変愉快であった。 この車も予想した通り、 走り出して1時間もしないうちに故障。 |
修理工は10歳のジャニー君 |
ラジエターに穴が開いているらしい。 この先、急峻なインダスの谷を 400kmも登らねばならぬのに、 いったいどうなることやら。 バスはしばらく走り アドベで作った家並みの、 修理屋らしきところで停まる。 修理工は10歳の少年ジャニー君。 数人の大人や子供を顎で使い 2時間程で直した。 ラジエターに水をかけ、口で 空気を吹き入れ穴を探す。 油で黒く汚れたほっぺを 真黒にして何度も 空気を吹き入れる。 立てかけた大きなラジエターと 少年の背の高さが ほぼ同じであった。 |
≪6≫ 砂漠の山羊 |
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ラクダは3日間食べずに
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山羊のお尻は貯蔵庫じゃ! |
この山羊の脂肪のかたまりは |
≪7≫ チャイハナ インダス河のほとりにあるチャイハナ。 |
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「手を洗え。生水を飲むな」と |
コラン村のチャイハナでナンを食う隊員(右から坂原、長山、釣部、鈴木) |
このチャイハナは パキスタンと中国を結ぶ カラコルムハイウェイの路傍にあり、 この界隈では立派な 一流レストランなのである。 天井からは色つきの ビニールテープが垂れ下がり、 一応装飾されている。 もっともそんな薄汚い ビニールはない方が さっぱりしていて、 よほど良いと思うのだが。 椅子はどこのチャイハナでも この写真と同じ大きなもので、 夜になるとベッドになるのである。 極めて合理的である。 |
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≪8≫ のびたドクター 脱水症状を起こしてドクターがのびてしまった。
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もう1人の少年は杏子の黄色い実を |
ラキオト橋を少し登った尾根上で延びた長山ドクター |
小学校と言っても小さな部屋が 4つあるだけで、 椅子も机も何もない。 我々の今夜の宿である。 ドクターがカメラを放り出し 岩の下の日影に倒れている という連絡が夜の9時に入る。 松井にヘッドランプ、 水、食糧を持たせ、ポーターに 一緒に迎えに行ってもらう。 夜になれば気温も下がり 動けるはずである。 ドクターが無事村に着いたのは 夜中の1時であった。 帰りのキャラバンでも ドクターはこの岩尾根でダウン。 |
≪9≫ タトー村
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数少ない村の樹木は ヒンドゥークシュのカラコルム山麓の 村でよく見られる杏子が多い。 今が盛りなので腹いっぱい食べた。 種を割って中の実も食べる。 ココナッツのようでなかなかおいしい。 写真右の溝は カーレーズと呼ばれている。 引水溝である。 砂漠地帯の農業には 欠かすことのできない水路である。 農業の規模が土地の広さでなく 所有できる水の量で 決まるほど水は重要である。 手前の少年が持っているのは水壺である。 |
ラキオト谷の右岸にある標高2300mのタトー村 |
後にたたずむ老ポーターの白髪と カミーズ姿は、確かにこの村も 中央アジアであることを感じさせる。 この村には温泉がある。 硫黄の臭いを追って源泉まで 行ってみたが、 風呂らしいものは何処にもない。 ラキオト谷に流し放しである。 1ヶ所小屋の中に引いてあったが 洗濯場程度の 湯だまりでしかなかった。 温泉があっても 風呂に入る習慣をもたないとは、 流石に砂漠の民である。 |
≪10≫ バヤルキャンプ
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メルヘンビーゼから針葉樹の森を 更に登り続けると、標高3400m バヤルキュンプに到る。 何とここには半砂漠地帯では 珍しい木の家があるではないか。 ナンガ―の氷河の水が一度地下に潜り この地で再び湧き出し、 森と牧場を出現させたのである。 この森の木を使い家を作り、 刳り貫いて食器を作る。 家は丸太を積み重ねるだけの 素朴な作り方。食器は水車で作る。 板羽根を付けた丸太を 小川の中に突っ込み、 丸太を水車のように回転させ 丸太の先の刃物で木を刳り貫く。 |
バヤルキャンプの夏家で休むポーターと彼の子供達 |
バヤルキュンプの ポーター達の夏家である。 雪の消える6月下旬、 山羊や牛や馬を連れてここまで上り 放牧し家畜を太らせミルクを搾り チーズを作る。 10月初旬にはタトーの村に下る。 森の中央を透き通った水が 豊かに流れ、その小川を囲むように 家が点在する。 家々から子供達が出てくる。 顔立ちのしっかりした金髪の女の子。 すごい美人だが顔には うす黒い垢がこびり付き動物臭がする。 小川で顔を洗えば美人なのに。 |
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≪11≫ チョンラ山群
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足を折った驢馬に用はない。 ポーターはその場で驢馬を見捨た。 あとは死を待つばかり。 生きるか死ぬかギリギリの 苦しい生活をしているポーターは 驢馬への愛情なんぞという 閑なものは持ち合わせていないのだ。 だが彼等にとって驢馬が 貴重な財産であることは確かである。 あとで弁償してもらうために 私に現場を見せておこうと いうことらしい。 後に連絡管を通して高額な 補償を要求してきた。 驢馬が使えるならば キャラバンの費用は うんと安くなる。 |
ラキオト氷河下流より望むチョンラ山群 |
一頭でポーター2人分の荷を運び その上速い。 靴やサンダルや食糧を 支給する費用もなくなる。 できることなら驢馬を雇いたいのだが ポーターの方はそうはさせない。 荷の総てをポーターが 運ぶとしてポーターの装備と食糧を 要求しておいて 驢馬を使うのだ。 我々はポーターには保険を かけてあるが驢馬にはかけていない。 払う義務なし。 写真の正面はチョンラ南峰、 左が中央峰、左端が主峰、 右端はラキオト峰、 この長大な稜線を辿り ナンガーに達する。 つまりこのルートはヒマラヤ縦走を 要求するのだ。 |
≪12≫ エーデルワイス 岩と氷だけの巨大な無機質の塊り |
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連日氷河の中のルート工作に 明け暮れ、青白く光るクレバスの断面と 雪崩の轟音だけの世界に 慣らされた肉体と精神は、 ベースキャンプで甦る。 生命の溢れ出ずる世界。 ただ寝そべっているだけで 豊かな満ち足りた想いが広がる。 小さな草花の生命体としての親和性が、 直接心に飛び込んでくる。 花々の咲き乱れる緑の海の 真只中に座し、氷河で よく冷やしたビールを飲む。 世界中で一番美しいビアガーデン。 |
BCのエーデルワイス |
この美しいビアガーデンも 日中は営業できない。 強烈な陽射しが大気を熱風にかえ、 大地を熱する。 標高4000mの高度だというのに 日中の気温は30度Cを超える。 朝夕はほとんど0度Cまで下がり寒い。 ビアガーデンを開くベストタイムは この中間、つまり緑の牧場が 朝日夕日に赤く染められ、1日で 最も美しい光に満たされる時である。 さわやかな大気。 薔薇色に燃えるナンガーの雪。 そして太古からの静寂。 |
≪13≫ ベースキャンプ |
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この岩塩を使って 牛や馬をつかまえるようだ。 この牛は風力計に 非常に興味があるらしく、 いつも風力計のまわりを うろうろしている。 体当たりをくらい、しっかり固定した 風力計が何回か倒された。 遠征が終る頃には かなり変形してしまった。 最後にタトーの村の学校に 寄付された風力計。 今もナンガーを見ながら 動いているだろうか。 |
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ドイツ隊は1934年の |
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≪14≫ ドレクセルの墓
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山に登っているか 下界で本を読んでいるか いずれかであり、下界で 他の作業をせねばならぬ時も 山のことばかりを考えていた。 片端から読んだ山の本の中で ヘルマンブールの 「8000mの上と下」は 私を夢中にさせた。 その中にブールの登頂前と 登頂後の写真が 対比させてのせてあった。 登頂前の若々しいエネルギーに 満ちた顔に較べ、登頂後は 皺だらけで目や頬は落ちくぼみ、 よぼよぼの老人顔になっていた。 |
ドレクセルの十字架 |
人類の肉体と精神の極限に達し かろうじて生還に成功したブール。 不世生の登山家と騒がれた ブールはその後 ブロードピーク(8047m)の 初登頂にも成功したが、 帰路に登った チョゴリザ(7665m)で 雪庇を踏み抜き 帰らぬ人となってしまった。 ブールがナンガーに登ってから 今年は30年目にあたる。 その間、このルートに入り 成功したのはチェコ隊だけである。 十字架は我々のテントの すぐ後ろの小高い丘の上にある。 墓標の背景は、 正に壮麗な伽藍である。 |
≪15≫ トシュン 大きな声で鳥が鳴いている。しかし何処を見廻しても鳥の影は無い。 |
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普通は雌雄2匹で 一緒に行動していることが多い。 夏毛は上面が赤褐色で冬は 灰褐色になる。 冬の生活のためは秋には 干し草を集め 巣穴に蓄えるようである。 ベースキャンプ建設の日、 ポーターのジュマグルが 旧式のソ連製散弾銃で トシュンを撃ってきた。 白樺の皮で火薬を包み 薬莢の中に押し込み 鉛の粒を幾つか込める。 私も撃ってみたが なかなか命中率は良い。 |
上:BC近くで鳴くトシュン 下:トシュンの巣穴 |
ジュマグルにしては ベースキャンプ開きのお祝い として最大の好意を示した つもりなのだろうが、 どうもこのかわいらしい奴を 食う気にはなれない。 ジュマグルが川をはぎ ドクターが手術用のメスで きれいに肉をとる。 胡椒と塩をかけてフライパンで ジュージューと焼く。 肉は柔らかくうまい。 雪渓の中の天然冷蔵庫の中から よく冷やしたビールを出しカンパイ。 アッラーよ 罪深き我々を許したまえ。 |
≪16≫ ナンガ・パルバット峰北東稜 手前の黒々した丸い丘はグレートモレーンと呼ばれる氷河が削り取った堆積の巨大な集積である。
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左へぐっと高度を落として グレートモレーンの遥か後方に そびえる三角形の雪のピークが ラキオト峰(7070m)。 その左に続く稜線の彼方に チョンラ山群がある。 このチョンラ山群よりラキオト峰を超え、 ジルバーザッテルを縦断し ナンガー主峰に到るのであるから、 このルートはヒマラヤに於ける 縦走を行い更にもう一度 逆縦走を強いることになる。 |
北東稜上部の銀鞍 |
その距離は往復で 50㎞にも達するのである。 これを高所ポーターなしの わずか4隊員で2週間程で登頂しようと いう計画なのである。 成功したら痛快である。 私の立てた作戦では12日間で モレーンコップに達し、 モレーンコップに達した日から 3日間天気が持ってくれれば、 この計画は99%成功するはずである。 最大の問題はモレーンコップに 達した時の天候であるが、 これだけは「神の頬笑み」に 頼る以外術なし。 |
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≪17≫ チョンラ南峰
東の空が白み始め、ぐるりを白銀の峰に囲まれた緑の丘ベースキャンプに朝が訪れると、 |
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ビンディーに着くと福岡登高会の 隊長新貝さんから雪崩の発生場所と 行方不明隊員の埋没推定場所等を メモした遺体捜索依頼の 手紙が私を待っていた。 雪崩にやられたもう1隊の 徒歩渓流会隊は、40日間で 晴天はたった1日だけだと嘆いていた。 私もそれなりの覚悟をして ナンガーに入ったのである。 快晴の朝は思わず アッラーの神に感謝してしまう。 しかし日の出と共に 雪崩の轟音が激しく響き始める。 我々のルートは雪崩の真下にある。 本日の命運はいかに? |
懸垂氷河で覆われたチョンラ鞍南峰(6448m) |
チョンラ南峰(6448m)は 我々の最初の目標である。 まずはこの山頂に立ち 北東稜全景を望み観察し、次に ラキオト峰(7070m)を超え ナンガー主峰(8126m)へと 至るのである。 山頂は丸みを帯び一見 やさしそうであるが、山稜直下は 急峻であるため雪面は ズタズタに裂け、巨大な 懸垂氷河を形成している。 下部の氷河も急激に高度を落とすため、 崩壊が激しく、裂けている。 この山稜に近ずくだけでも大変である。 |
≪18≫ ラキオト氷河下流 標高6000mの氷瀑帯上部から北方に目をやると、蛇行するラキオト氷河のS字が眼下にはっきり見える。 |
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右のカーブした左岸に黒い森が見える。 標高3300mの メルヘン・ヴィーゼである。 標高1200mのラキオト橋から 始まるキャラバンは、 ラキオト氷河の流れを遡り南下し メルヘン・ヴィーゼを経て そのまま左岸を進み標高3976mの ベースキャンプへ3日で到達する。 世界の8000m峰14座の中で 最もキャラバン日数の短い山であり、 1ヶ月足らずの遠征日数で 攻撃可能な唯一の巨峰である。 |
ラキオト氷河下流(後方:左ラカポシ峰 右ディラン峰) |
本年度1983年は ナンガーに世界中から14隊の 希望が提出され、内10隊が訪れた。 南西稜のシュルルートに 日本隊2、オーストリア隊、西ドイツ隊、 の計4隊。 西側のディアミール壁にフランス隊2、 日本隊、スペイン隊、アメリカ隊の 計5隊が入山した。 しかし北面の北東稜に挑んだのは 我々だけであり、 山は終始静寂に包まれ、 他のパーティとの わずら |
≪19≫ ディアマコル 1895年8月23日。ママリーは2人のグルカ兵と共に |
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ドイツ隊の地図には Diama Scharteと記されている。 現在の技術と装備をもってすれば 下降も容易であるが、 初めてアイゼンが使われた 90年も前の話である。 当時としては下降は不可能であったろう。 それにしても1世紀も前に ママリーを巨峰へと 駆り立てたものは何であったのか?・・ ナンガーの計画が 現実化した当初は日本山岳会の 市ケ谷のルームでしばしば会合を持った。 |
残照を浴びるディアマコル |
その夜も資料室で ナンガーの記録を調べていたのだが 何やらルームが騒がしい。 顔を出してみると芳野満彦氏がいた。 シャモニーで会って 以来数年ぶりである。 芳野氏に聞いてみると日本に 招待されたグルカ兵の 歓迎パーティーだとのこと。 ママリーと共にナンガーに消えた 勇敢なグルカ兵の末裔。 何たる奇遇。 |
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≪20≫ キャンプ1 7月29日、グレートモレーン4468mの頂上にキャンプ1を設営した。 |
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ここからは北壁と我々のルート 下部氷河の全貌が見渡せる。 キャンプ2は 写真中央の氷瀑帯に設営した。 テント2張りと荷物置場よりなる キャンプ1にはたくさんの桃と蜜柑の 缶詰を上げてある。 ここに来る度、缶詰に雪を入れ シャーベットを作り舌鼓を打った。 雷を避けるため大きな岩の下に テントを張ったが、 今にも岩が倒れそうなので その後位置を移した。 |
雪の消えたキャンプ1、後方氷河はラキオト右氷河 |
移すと言ってもモレーンの累積上に 平坦な場所は無く、 ムスターグアタの時と同じように 岩を動かし組み合せ土木作業を行い 平坦部を作った。 居心地はあまり良くないが 近くの雪渓から水もとれるし 何よりも雪崩の心配が無いのが良い。 ここから南へモレーンを下り 北壁基部に達し氷河に入る。 上部キャンプから帰ってくると ここの登りが辛く苦しい。 |
≪21≫ 雪崩 標高差3000mを 一気に落ちる巨大な雪崩。 ナンガーパルバットの北壁は 絶え間なく雪崩を起こす。 ものすごい轟音と 雪崩の爆風が我々のルートを襲う。 北壁の真下、 雪崩の直撃するところに 我々のルートはあるのだ。 ここを避けて ルートを拓くことはできない。 雪崩にやられるか、 生きてベースキャンプにもどれるか。 それは「インシャーラー」 神のおぼし召すがまま 第3回ドイツ遠征隊は |
銀鞍より北壁を落下する巨大な雪崩 |
事故が発見されたのは 標高8000mに近い 天空の大雪原ジルバーザッテルの 大氷床は出口を求めて 北壁に落下する。 遠雷のような音を響かせ 白煙が岩壁を走る。 北壁を飾る無数の懸垂氷河を 次々にたたき落とし、 岩壁を削り取り、何の意志も持たず ただ無心にすさまじく 破壊し尽くし再び一瞬にして 静寂に戻る。 何事もなかったかのように。 |
≪22≫ ラキオト氷河源流 写真中央右がチョラン南峰、 左がチョラン中央峰。 稜線までルートを拓き このピークに達する だけでも大変なのに、 ナンガー主峰までの全ルートを 考えるとここは高々 玄関程度なのである。 ナンガー北面のルート北東稜は 何ともはや長大である。 このルートの核心部分は ズタズタに裂けた氷瀑帯を突破して 稜線に出るまでである。 右側のナンガー北壁から 雪崩に威嚇されながら、 私と博夫とで この氷瀑帯にルートを拓いた。 8月11日キャンプ1から キャンプ2への荷上げをしていると 下部の緩やかな氷河から声がする。 ナンガーには世界各国から 14隊が入山する予定であるが、 北面を希望しているのは 我々だけである。 「待ってくれ」と言っている ようであるが荷が重くて とてもそんな余裕はない。 |
ラキオト中央氷河を従えたチョンラ南峰 |
やがてドイツ人が1人追いついてきて 握手を求めた。 彼はドイツのガイドで客をつれて ブルダール峰(5602m)を 登りにきたらしい。 「日本隊のベースキャンプの 荷物テントで寝かせてもらった。 あなた方の写真を撮らせて欲しい」 とのこと「そうですか、 どうぞお使い下さい。 写真もどうぞ」と答えると 何枚かの写真を写し、 お礼だと言ってナンガーの 大きな地図をプレゼントしてくれた。 1934年第2回のドイツ遠征隊が 測量し作成した5万分の1の 精巧なカラー刷りの地図である。 事前研究で我々もすでに なじみ深い地図である。 氷河上のこんな場所で名刺の交換を したりプレゼントをもらったり するとはヒマラヤならではのことである。 アルノルド・ハツセンコッフ 「心からあなた方の 成功をお祈りします」 「ダンケシェーン」 |
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≪23≫ キャンプ2 |
キャンプ2の頭上を圧する北壁の懸垂氷河 |
松井にキャンプ2設営を まかせることも考えたが、松井は 氷瀑帯に入った経験が無い。 突然のセラックの崩壊、 ヒドンクレパスやスノーブリッジの 踏み抜きの危険性も体験してない。 たった4人しかいない貴重な隊員を 偵察に出して 1名でも失うわけにはいかない。 北壁直下、クレバスが 幾重にも発達した右氷河の中央部に 設営したキャンプ2は、 上部に雪崩を吸い込む大きなクレバスを 備えてはいるものの、 テントサイト自身がいつ雪崩るか 予測できない位置にある。 20日程の登攀活動の中で 1日だけ休養日をとった。 8月12日、2張りに増えたキャンプ2に 5人全員が集結し、 氷河上にマットを敷いて寝そべり のんびり1日を過ごした。 食事、音楽、日光浴、 そして氷河の氷でオンザロック。 |
北壁直下のキャンプ2、青テント右横の赤は隊員 |
≪24≫ 原人回帰 |
キャンプ2の坂原 |
餓鬼大将のグランナビー(9才)が |
キャンプ4の松井 |
≪25≫ 氷瀑帯の絶望 キャンプ2上部の氷瀑帯は |
第一氷瀑帯。覆い被さる氷壁を相手にルートを拓く坂原 |
中央を断念し右側を調べると |