ナンガ・パルバット峰へ銀鞍1983年・・・ヘルマン・ブール初登ルート

                                                               記録:坂原忠清

ジルバーザッテル・・・銀の鞍、
何と響きの良い美しい言葉であろう。
あの雄大な銀の鞍に跨るのは、ギリシャのデルフォイへ赴くアポロンであろうか、
それともペガソスに乗って天へ昇ろうとしたベレロフォンだろうか。

ベレロフォンはペガソスに振り落とされ銀の鞍から落ちた。
銀の鞍を目の前にして初登頂までに散った
31名のベレロフォンに私は想いを寄せる。

海外登山記録

Contents  
   ヒマラヤ登山記録  チベット 1998~2006年
《A》 ヨーロッパ・アルプス(アイガー、マッターホルン、モンブラン) スイス、フランス 1975年7月~8月
《B》  コーイダラーツ初登頂(5578m) アフガニスタン 1977年7月~8月
《C》  ムスターグアタ北峰初登頂 (7427m) 中国 1981年7月~8月
《D》  未知なる頂へ (6216m) ビンドゥゴルゾム峰 パキスタン 1979年7月~8月
《E》  ヌン峰西稜登頂 (7135m) インド 1985年7月~8月
《F》  ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m)  その1 パキスタン 1983年7月~8月
《F2》  ナンガ・パルバット銀鞍 (8126m)  その2 パキスタン 1983年7月~8月
《G》  ナンガ・パルバット西壁87 (8126m) パキスタン 1987年7月~8月

     中央アジア遠征峰


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≪1≫ 二億年の須臾 

何の潤いも無い赤茶けた大地。
剥き出しの地表を熱射が焼く。
大気は
寡黙(かもく)に燃え上がり、ゆらめき、
大地を位相変換し地平線を歪める。

 大地の隆起断面に生じた海の断層が、
かつて生命が存在したことをわずかに示す。
何の救いもない無機質だけの赤茶けた
この大地は、ついこの間、
そう二億年程前まではティティス海だったのだ。
『二億年の
須臾(しゅゆ)目前にして
肉体の存在感が、ゆるゆると拡散していく。

 希薄になり透明になり、
やがて大気の熱いゆらめきの彼方へ
消失してしまう。
たかだか百年の存在でしかない肉体が
『二億年の須臾』を実感するのは不可能だ。
しかし広大無辺の荒涼たる空間に
肉塊が放散してしまえば、
もう私は永遠の時空を
流離(さすら)う流砂なのだ。

 二億年の瞬時の眠りから覚め
熱風にあおられ、
断層のベッドから舞い上る一粒の流沙
内なる世界を西域の高峰に求めて
(たび)流沙となって今
私は懐かしい地に帰ってきた。

 ラキオト氷河上部標高6000mの
巨大な氷塊の上から私は
インダスの大地を見おろしていた。
垂直に5000mも離れた地表は細かい表情を失い、赤茶けた色調とわずかなうねりだけを見せている。
 干からびた地表の隆起を切り裂いて
一条の光の帯が走る。
ハラッパーを生みモヘンジョダロを
築いたインダス文明の光の帯だ。
北緯35度29分、東経74度36分
インダス河上流、
ナンガ―パルバッド(8126m)直下、
インダスの光の帯にかかるラキオト橋。

 初登頂までに31人の生命を
奪った魔の山ナンガ―北面の
キャラバンルートは、
この橋から始まり煌く谷の流れを
追ってラキオト氷河に至る。

大気の底に眠る単調な広漠たる大地に
S字形の氷河が迫る。
自らの重圧で雪が氷と化した氷河は
すざましい力で山稜を刻み、
累々たる氷の巨塊を
遥か下方まで連ねている。


ヌン峰ベースキャンプにて
(左から田村、坂原、山口隊員)

下方にて氷河は融け
荒々しく猛り狂うインダスの水となり、
砂漠の中を南へと流れ
アラビア海に注ぐ。

 アラビアの太陽に熱せられ
海の水は雲となって宙に漂い、
北上してヒマラヤにぶつかり
再び氷河となる。
一回の大循環を時の最少単位として、
何の潤いも無い大地に
インダスは時を刻み、
生命の歌を歌い続けた。
歌はインダスの岸辺に流れ生命を育み、
やがて人類に文明の火をともした。

 巨大な氷塊の上で私は
何も考える必要がない。
インダスの地表を見おろすだけで
全身が激しく感じるのである。
かつて私は一粒の流沙であった。
そしてこの瞬間正しく私は
流沙に回帰しているのだ。

 大地の語りかけが聴こえる。
インダスの歌が私の内的世界を
やさしくゆさぶる。
ゴンドワナ大陸と北の陸塊の
褶曲活動によって生み出された
ティティス海底の突起が、
純白のドレスを身にまとい
流沙となった私を招く。

 あの白く輝く峰に
チョンラという名前をつけたのは
インダスの民パルティー人だろうか。
それとも東より騎馬に乗って
やってきた遊牧民だろうか。

氷塊の上の(つか)の間の休息を終え
更に上部の氷壁にザイルを固定し、
クレバスにザイルを渡し
チョンラ峰に近づく。
急峻な氷の壁にピッケルとアイスバイ
ルを
交互に打ち込む。
両足の間に広がる空間に、
砕かれた氷片が音も無く吸い込まれる。

 凍てついたガスの乱舞に襲われながら
シジフォスとなって、
氷壁にアイゼンを蹴り込み
ピッケルを打ち込み続ける。
標高6400m、薔薇色に染まる
雲海上に出る。
ティティス海底突起の頂稜部は
すぐ目の前にあった。

 北から南側に張り出した
白鳥の翼のような巨大な雪庇に覆われて
かつての海底が残照を浴びていた。
6448mのチョンラ頂点に立ち
全身が
(しび)れるような寒気に
抗いながら、沈みゆく
赫奕(かくやく)たる
太陽を私は見た。

 それは確かに二億年前の太陽であった。


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≪2≫ インダス河  

カラチを飛び立ち、しばらくするとやっと太陽が昇ってきた。カラチからイスラマバードへの空の旅は、パキスタンの中央を北西に貫くインダス河の流れと共にある。
東の地平線より現れた光が、大きく蛇行するインダスの黄土色の流れに反射し金色に輝く。
数千年前のインダス文明の栄光を象徴しているかのようである。この近辺はハラッパーやモヘンジョダロを生んだインダス文明の中心地。
人類の知性は砂漠を流れる金色の水の恵みによって芽をふいたのである。
氷河の水を集めて激しく流れるインダスの源流は、地表の彫刻家である。


すさまじいエネルギーを秘めた急流が、
地表を鋭く切り裂き
深い谷を形成する。
激突する水の轟音に混じって
不気味な低い音が大地をゆさぶる。

強力な水のエネルギ―が
川底の巨石を引きずり、
押し流す音である。
赤茶けた濁流の底から
ドロドロと湧き上る音は、
呪文のように聞こえる。

この谷の絶壁の上に細々とした
道が北へと続く。
パキスタンと中国を結ぶ
カラコルムハイウェーである。

インダス川(カラチからイスラマバードへの機上より)
凸凹のひどいこのオンボロ道は、
ナンガ―パルバットの
山麓をかすめ、クンジェラブ峠を
経てムスターグアタ(7546m)
からカシュガルへと通ずる。

長安とローマを結ぶ
かつてのシルクロードの
最も困難な部分である。
一年中氷雪に覆われた高地では
幾多の旅人が帰らぬ人となった。
それでも勇敢な商人は
夢を抱いて紀元前より、
この道を歩んだ。

そして玄奘三蔵やマルコポーロも。
この金色の流れの遥か彼方に、
我々の一夏を賭けた夢があるのだ。
 




≪3≫ ウィスキーとハルブザ  

懐かしいMrs.DavisPrivateHotelに泊まりたかったのだが、
今回はイスラマバードのInnsGardenに居を構えることになった。理由はマラリヤである。
ラワルピンディの中心部にあるM・Dホテルの建物と庭は、イギリス植民地時代のゆったりとした広さと格調を備え申し分無いのだが、
冷房は高い天井で回る扇風機だけ。バザールの汚い溝で発生した大量の蚊がこのホテルのベッドの下に住んでいて、夜になると活動を始めるのだ。

一晩で百か所も喰われ4年前、私は高熱を発し倒れた。
マラリヤである。殺虫スプレーをいくら撒いても、しばらくすると何処からともなくやってくる。
蚊の襲撃を避けるため毛布をスッポリかぶりたいのだが、裸のままでも暑いのに、毛布なんぞをかけたらとても眠れたもんじゃない。


せめてエアコンが付いていれば
毛布をかぶることも可能なのだが、
天井がやたらと高いこのホテルには
付けても効果はない。

そこで今回はマラリヤ予防の
ダラプリムを飲み、
ハマダラ蚊のいない
イスラマバードを選び、
更にエアコン付の
ホテルを希望したのである。

 この夏はマラリヤのかわり肝炎が
イスラマバードやピンディを襲った。
最初の予定宿も肝炎に汚染され
隊員の一人が倒れ
急遽
Inns Gardenに変更したのである。

左:永山ドクター 右:坂原隊長
ここでは厨房の冷蔵庫に
いつもビールを冷やしておき、
ウィスキーも飲み放題。

 ハルブザを食いながら
ウィスキーを飲む。
なかなかイケル。
この部屋だけは禁酒国パキスタンとは
無縁の治外法権エリアであった。

ちなみに今遠征で
飲んだアルコールは、
ビール60ℓ、ウィスキー10本、
ブランデー10本。
言うこと無し



≪4≫ さあ、出発 

7月24日、15時59分、肝炎のため遠征参加を断念し
帰国する安里と
PK6885に挑む京都隊の見送りを受けイスラマバードを出発。
キンキラキンに飾られたバスに荷を積み込む。トラックやバスはほとんどサイケデリックに塗りたくられ、飾りをつけている。
強烈な太陽は海の中では色鮮やかなサンゴや熱帯魚を生み、地上では色彩豊かな数多くの鳥を作った。

イスラムの民は強烈な太陽のもとで、自らの皮膚の色を変えるかわりに車を塗りたくるのであろうか。
アフガニスタンで初めてこの車を見た時は、単調な砂漠に生きる民の願望が、ご
ちゃごちゃした複雑な絵模様にこめられているような感じもしたのだが。


しかしこの車の装飾は
比較的あっさりしている。
7月20日朝、本隊がピンディに
到着してからツーリズムディビジョンとの
交渉、空港での隊荷通関、
日本大使館での絵画交換会の打合せ、
遭難救助のためのヘリフォームの作成、

その他外人登録や保険手続き、
バザールへの食糧の買出し、
荷の再梱包とフル回転で行動し、
5日目の夕方にようやく
出発できることになったのである。

左から永山ドクター,坂原隊長、釣部、鈴木隊員,

この間イスラムの休日がはさまり、
事務手続きができなかったり、
無能どころか
居るだけで有害な
LO(連絡軍人)
の子守りがあったり大変であった。
いつものこととは言え、
少人数の隊が短期間に
仕事を処理するためには一人が
何役も演じなければならない。

 強烈な太陽のもとで
汗を吹き出しながら朝早くから
夜遅くまで頑張る。
しかしとにもかくにも12
トンの
荷は積み込まれたのだ。
あとはインダスの流れを追って
一路ナンガ―パルバットへ。




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≪5≫ バス故障

 
 

 オンボロ車の氾濫と到るところで目につく働く少年達・・・・・
パキスタンだけでなくペルーでもアフリカでもインドやアフガニスタンでもよく見られる光景である。
貧しさは物を大切にする精神を育てる。壊れても壊れても修理し、使える限り使う。動きさえすれば立派な自動車なのである。
フロントガラスの無い車、車の床に穴が開いていて、ぬかるみに突っ込むと床から水が吹き上がる車。
前の遠征で乗ったタクシーは、カーブを曲がったとたんドアーが自動的に開き、車の外に放り出されそうになった。


座席にしがみつき危うく難を逃れた。
したがって故障して動かなくなる
なんてのは、日常茶飯事。
アフリカでは真夜中、
ハイエナのうろつく森の中で
故障した車を押したこともあったし、
カシュガルの奥地では
ヤクの群れが走り抜ける深夜の谷で
車を押したり。

あの時はウィグル語しかわからない
ウィグル人の運転手を相手に
キリギス語、漢語、日本語が
飛び交い故障した車を動かすまで
大変愉快であった。
この車も予想した通り、
走り出して1時間もしないうちに故障。

修理工は10歳のジャニー君
ラジエターに穴が開いているらしい。
この先、急峻なインダスの谷を
400kmも登らねばならぬのに、
いったいどうなることやら。
バスはしばらく走り
アドベで作った家並みの、
修理屋らしきところで停まる。

 修理工は10歳の少年ジャニー君。
数人の大人や子供を顎で使い
2時間程で直した。
ラジエターに水をかけ、口で
空気を吹き入れ穴を探す。

油で黒く汚れたほっぺを
真黒にして何度も
空気を吹き入れる。
立てかけた大きなラジエターと
少年の背の高さが
ほぼ同じであった。


≪6≫ 砂漠の山羊 

過酷な砂漠地帯に住む動物は、生き延びるために過酷な条件に徐々に適応していく。
ラクダの瘤に詰まっている脂肪は、食糧の無い砂漠の長い旅に耐えられるよう適応した結果である。

同様な脂肪のかたまりを座布団のようにおしりに付けた山羊を初めて見たのは
アフガニスタンの北、クンドウーツであったろうか。

車の前に群れる瘤付き山羊を見た時は、瘤の意味が理解できなかった。
しかし草木のほとんどない半砂漠に草を求めて大移動している山羊の群れを何度も目にしているうち、
なるほどなと納得できたのである。

ラクダは3日間食べずに
行動を続けると瘤が縮小し始めるが、
山羊はこの脂肪のかたまりで
何日生き延びることが
できるのであろうか。

中央アジアの民は昔から調理に
山羊の油ギーを使う。
ギーの強烈な匂いは彼等の服や家、
更には車や道路までにも染み込み、
村全体町全体が
羊臭に満たされる。

ギー抜きにしては彼らの生活は
成り立たないし、ギーを
供給する山羊を除いては
中央アジアは語れない。


山羊のお尻は貯蔵庫じゃ!

この山羊の脂肪のかたまりは
過酷な自然条件から
自らを救うだけでなく、
砂漠の民に生きる術を与え、
広大な砂の海への
航海を可能にした。

黒海の北の民スキタイが、
動物の群れを舟として
東へと大航海をはたしたように、
砂漠の民は山羊と共に
中央アジアを
自由に航海したのであろう。


ジャーニー君が
ラジエーターを直す間、
そんなことを
考えながら山羊と遊んだ。
おしりの瘤にさわってみると、
ブヨブヨした脂肪の感触と共に、
山羊独特のやさしい温かさが
伝わってきた。


≪7≫ チャイハナ 

 インダス河のほとりにあるチャイハナ。
チャイとはウルドゥー語で紅茶のことであり、ハナとは家、つまりチャイハナとは喫茶店という意味である。
しかし実際は食堂でチャイの他ナンと呼ばれるイースト菌の入っていない堅パンと、
ゴーシュと呼ばれる羊の肉を煮た料理がおいてある。

ゴーシュにナンを浸しながら食べ、チャイを飲んで終わり。
1人10ルピー(200円)もあれば腹いっぱいになる。
水はインダス川の濁り水。食器はどれもこれも薄汚れ油ぎっている。
その上蠅は至るところブンブン飛び、どこでも止まる。


「手を洗え。生水を飲むな」と
口うるさい文明国から
飛行機でやってきて、突然
この世界に入るとギョッとする。

しかしすぐ慣れる。
人間とはかくも素朴に飲みかつ食い、
他の動物と
同じように生きてきたのだ。
これに耐えられないひ弱な個体は
自然淘汰され、この世から
去れば良いという仕組みになっている。

我が隊の運転手に
煮干しをやったら、苦笑いしながら
おそるおそるかじってはみたものの、
すぐ口から出してしまった。

彼等にとっては
文明人の食う物の方が、
よっぽど信用ならないのであろう。


コラン村のチャイハナでナンを食う隊員(右から坂原、長山、釣部、鈴木)
このチャイハナは
パキスタンと中国を結ぶ
カラコルムハイウェイの路傍にあり、
この界隈では立派な
一流レストランなのである。

天井からは色つきの
ビニールテープが垂れ下がり、
一応装飾されている。

もっともそんな薄汚い
ビニールはない方が
さっぱりしていて、
よほど良いと思うのだが。

椅子はどこのチャイハナでも
この写真と同じ大きなもので、
夜になるとベッドになるのである。
極めて合理的である。



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≪8≫ のびたドクター 

 脱水症状を起こしてドクターがのびてしまった。
ラキオト橋からタトーの村までの岩尾根には水も緑も日影さえもない。ただあるのは激しい日射だけ。
ポーターの背負うダンボールに「ミスター坂原へ。水と食料をポーターに持たせて下さい」と書き、
先に着いた私にドクターが救いを求めてきた。

残念ながらポーターには、自分の荷に何が書かれているのかわからない。
私がこのポーターの荷のメッセージを発見したのは、ドクター救助後
2日目の氷河上だった。
午後3時過ぎタトーの村に入ると、汚れた空缶に濁ったインダスの水を入れて少年が私を待っていた。


もう1人の少年は杏子の黄色い実を
たくさんお盆に入れて
歓迎してくれた。
タトーの少年達は知っているのだ。

ラキオト橋から村までの岩尾根で、
どの旅人も
水不足に苦しむのを。
砂の混じったインダスの水を
ゴクゴクと飲む。
口の中が砂がジャリジャリする。

風呂に入ったことのない少年が
もいできた杏子を、
洗いもせずガツガツと食う。
これで腹痛を起こすようでは、
とてもヒマラヤは務まらない。
やがて次々にポーターや隊員が
村の中央にある、
小学校に集まってくる


ラキオト橋を少し登った尾根上で延びた長山ドクター
小学校と言っても小さな部屋が
4つあるだけで、
椅子も机も何もない。
我々の今夜の宿である。

ドクターがカメラを放り出し
岩の下の日影に倒れている
という連絡が夜の
9時に入る。
松井にヘッドランプ、
水、食糧を持たせ、ポーターに
一緒に迎えに行ってもらう。

夜になれば気温も下がり
動けるはずである。
ドクターが無事村に着いたのは
夜中の
1時であった。
帰りのキャラバンでも
ドクターはこの岩尾根でダウン。



≪9≫ タトー村

 標高1179mのラキオト橋から2300mのタトーまでがキャラバン第1日目のコースである。
ポーターと荷物の調整に手まどり、午前
10時頃に最後のポーターが橋を出発した。
1日中で一番暑くなる時刻と、キャラバンがぴったり一致してしまった。
ポリタンの水はあっという間に無くなり「水、水」と叫びながらタトーの村を目指す。

右の断崖絶壁の遥か下ではラキオト谷の水音が聞こえると言うのに、何と言うことだ。
それだけにタトーの緑を目にした時はほっとした。
脱水症状が先か、村に着くのが先か競争であった。
村は急峻な岩尾根の側面にへばりつくようにしてできた猫の額程の畑の中にある。
家はアドベを使わずほとんど石を積み重ねたものである。


数少ない村の樹木は
ヒンドゥークシュのカラコルム山麓の
村でよく見られる杏子が多い。
今が盛りなので腹いっぱい食べた。
種を割って中の実も食べる。
ココナッツのようでなかなかおいしい。

写真右の溝は
カーレーズと呼ばれている。
引水溝である。
砂漠地帯の農業には
欠かすことのできない水路である。
農業の規模が土地の広さでなく
所有できる水の量で
決まるほど水は重要である。
手前の少年が持っているのは水壺である。

ラキオト谷の右岸にある標高2300mのタトー村
後にたたずむ老ポーターの白髪と
カミーズ姿は、確かにこの村も
中央アジアであることを感じさせる。
この村には温泉がある。
硫黄の臭いを追って源泉まで
行ってみたが、
風呂らしいものは何処にもない。
ラキオト谷に流し放しである。

1ヶ所小屋の中に引いてあったが
洗濯場程度の
湯だまりでしかなかった。
温泉があっても
風呂に入る習慣をもたないとは、
流石に砂漠の民である。


≪10≫ バヤルキャンプ

  アドベ・・・・・・・・・・土をこねて直方体に切り太陽で干しただけの素朴な煉瓦。
雨の降らない砂漠地帯の家はアドベで作られる。
樹木も岩山も無い砂漠に家を作るとしたら土を利用する以外に術はないのだろうが、このアドベの家が
中央アジアだけでなくアンデスにもたくさんあったので驚いたことがあった。

直方体のアドベを積み重ね直方体の家を作る。長方形の窓を作り長方形の堀で家を囲む。土の箱が大地に無造作に転がっている感じである。
大雨が降ったら総て泥水になって融けてしまう。
パキスタンもアドベの家が多いのだが、インダスの上流に行くと河の石を使った石の家が増えてくる。

メルヘンビーゼから針葉樹の森を
更に登り続けると、標高3400m
バヤルキュンプに到る。
何とここには半砂漠地帯では
珍しい木の家があるではないか。

ナンガ―の氷河の水が一度地下に潜り
この地で再び湧き出し、
森と牧場を出現させたのである。
この森の木を使い家を作り、
刳り貫いて食器を作る。
家は丸太を積み重ねるだけの
素朴な作り方。食器は水車で作る。

板羽根を付けた丸太を
小川の中に突っ込み、
丸太を水車のように回転させ
丸太の先の刃物で木を刳り貫く。

バヤルキャンプの夏家で休むポーターと彼の子供達
バヤルキュンプの
ポーター達の夏家である。
雪の消える6月下旬、
山羊や牛や馬を連れてここまで上り
放牧し家畜を太らせミルクを搾り
チーズを作る。

10月初旬にはタトーの村に下る。
森の中央を透き通った水が
豊かに流れ、その小川を囲むように
家が点在する。
家々から子供達が出てくる。
顔立ちのしっかりした金髪の女の子。

すごい美人だが顔には
うす黒い垢がこびり付き動物臭がする。
小川で顔を洗えば美人なのに。


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≪11≫ チョンラ山群

 針葉樹の美しい森を出ると荒々しい剥き出しの氷河に出る。ラキオト氷河下流である。
氷河が削り取った断崖の上で森は突然終わる。2人のポーターがウルドゥー語で何やらわめいている。
「ガーター、ガーター」と言う言葉だけはどうにか聞き取れる。

我々が作った日本語―ウルドゥー語辞典ではガーターとは驢馬のことであったはず。
いったい驢馬がどうしたのか。やがてポーターは私の手をとり断崖を下り始める。
谷の底には血まみれの驢馬が倒れていた。キャラバン中の驢馬がこの谷に荷物ごと落ちて足を折ってしまったのだ。

足を折った驢馬に用はない。
ポーターはその場で驢馬を見捨た。
あとは死を待つばかり。

生きるか死ぬかギリギリの
苦しい生活をしているポーターは
驢馬への愛情なんぞという
閑なものは持ち合わせていないのだ。
だが彼等にとって驢馬が
貴重な財産であることは確かである。

あとで弁償してもらうために
私に現場を見せておこうと
いうことらしい。
後に連絡管を通して高額な
補償を要求してきた。
驢馬が使えるならば
キャラバンの費用は
うんと安くなる。

ラキオト氷河下流より望むチョンラ山群
一頭でポーター2人分の荷を運び
その上速い。
靴やサンダルや食糧を
支給する費用もなくなる。
できることなら驢馬を雇いたいのだが
ポーターの方はそうはさせない。

荷の総てをポーターが
運ぶとしてポーターの装備と食糧を
要求しておいて
驢馬を使うのだ。
我々はポーターには保険を
かけてあるが驢馬にはかけていない。
払う義務なし。

写真の正面はチョンラ南峰、
左が中央峰、左端が主峰、
右端はラキオト峰、
この長大な稜線を辿り
ナンガーに達する。
つまりこのルートはヒマラヤ縦走を
要求するのだ。


≪12≫ エーデルワイス

    岩と氷だけの巨大な無機質の塊り
 荒々しくうねり、大地を削りとり雪崩の音を響かせる氷河
 氷河と氷河の間に奇跡的に広がる緑の絨毯
 ベースキャンプは一面に広がるお花畑の中にある。
 赤紫のシオガマ、ミヤマフウロウ草、ミミナグサ、ハクサンコザクラ
スイスのアルプで顔なじみのジョウバブルアトワレダレーニェ、アンドロサス
無数に咲くプリムラ、そしてエーデルワイス

 連日氷河の中のルート工作に
明け暮れ、青白く光るクレバスの断面と
雪崩の轟音だけの世界に
慣らされた肉体と精神は、
ベースキャンプで甦る。

生命の溢れ出ずる世界。
ただ寝そべっているだけで
豊かな満ち足りた想いが広がる。
小さな草花の生命体としての親和性が、
直接心に飛び込んでくる。

花々の咲き乱れる緑の海の
真只中に座し、氷河で
よく冷やしたビールを飲む。
世界中で一番美しいビアガーデン。

BCのエーデルワイス
この美しいビアガーデンも
日中は営業できない。
強烈な陽射しが大気を熱風にかえ、
大地を熱する。
標高4000mの高度だというのに
日中の気温は30度Cを超える。

朝夕はほとんど0度Cまで下がり寒い。
ビアガーデンを開くベストタイムは
この中間、つまり緑の牧場が
朝日夕日に赤く染められ、1日で
最も美しい光に満たされる時である。

さわやかな大気。
薔薇色に燃えるナンガーの雪。
そして太古からの静寂。


≪13≫ ベースキャンプ

 7月28日、標高3967m、2つの氷河にはさまれたモレーン大地にベースキャンプ設営。
写真の右側がメステント。左が荷物テント。この他、隊員用テント、連絡官用テント、コック用テントを張り
風力計をセットし国旗を立て、残雪に穴を掘り天然冷蔵庫を作りハルブザやビールを収める。
ここは夏の間の牧草地になっており、山羊、馬、牛が放牧されている。塩を求めて牛が集まる。

ベースキャンプで好評な食べ物の一つに生若布がある。
こいつを酢醤油と七味唐辛子をふりかけて食べるのだが、この生若布には大量の保存塩が使われており、
若布を洗った後に残る塩をねらって牛や馬が集まる。
ポーターが持ってきた岩塩は直径30㎝程でピンク色をしている。

この岩塩を使って
牛や馬をつかまえるようだ。
この牛は風力計に
非常に興味があるらしく、
いつも風力計のまわりを
うろうろしている。

体当たりをくらい、しっかり固定した
風力計が何回か倒された。
遠征が終る頃には
かなり変形してしまった。

最後にタトーの村の学校に
寄付された風力計。
今もナンガーを見ながら
動いているだろうか。
上:風向風速計 下:BCに集う牛

ドイツ隊は1934年の
第二回遠征の時、山稜上で嵐に襲われ、
8名が吹雪の中で退去中息絶えた。
この長大なルートで
悪天に見舞われたら最後、
引き返すことは不可能に近い。

いかにして正確な天気予報を行うか、
私を悩ませた問題の
1つであった。
8月に於けるベースキャンプの
風向と晴天の関係を調べると、
ほとんど晴天時は
南西風であることがドイツ隊の
気象記録から読めた。

この風力風向計と気圧計で
ナンガーの恐ろしい嵐を
予想しようというわけである。  


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≪14≫ ドレクセルの墓

初登頂までの60年間に31名の命を奪った「魔の山」ナンガーパルバット。
この十字架は1934年第2回ドイツ隊遠征の隊員アルフレッド・ドレクセルのものである。
ドイツ隊はドレクセルを弔った後でナンガーに再び向かい更に8名の命を失い敗退した。


朝日を浴びるドレクセルの墓

その後7回まで国をあげて遠征隊を送り続け、31名の命と引きかえに1953年7月3日、ドイツはかろうじて初登頂に成功した。
超人ヘルマンブールの単独登頂であった。
ブールは登頂後に人類として初めて標高8000mのビバークに耐えた。
もちろん酸素、テント無しである。山に登り始めた高校1年の時、私の生活は山一色に塗りつぶされた。

山に登っているか
下界で本を読んでいるか
いずれかであり、下界で
他の作業をせねばならぬ時も
山のことばかりを考えていた。

片端から読んだ山の本の中で
ヘルマンブールの
「8000mの上と下」は
私を夢中にさせた。
その中にブールの登頂前と
登頂後の写真が
対比させてのせてあった。

登頂前の若々しいエネルギーに
満ちた顔に較べ、登頂後は
皺だらけで目や頬は落ちくぼみ、
よぼよぼの老人顔になっていた。

ドレクセルの十字架
人類の肉体と精神の極限に達し
かろうじて生還に成功したブール。
不世生の登山家と騒がれた
ブールはその後
ブロードピーク(8047m)の
初登頂にも成功したが、
帰路に登った
チョゴリザ(7665m)
雪庇を踏み抜き
帰らぬ人となってしまった。

ブールがナンガーに登ってから
今年は30年目にあたる。
その間、このルートに入り
成功したのはチェコ隊だけである。
十字架は我々のテントの
すぐ後ろの小高い丘の上にある。
墓標の背景は、
正に壮麗な伽藍である。


≪15≫ トシュン

大きな声で鳥が鳴いている。しかし何処を見廻しても鳥の影は無い。
湖のほとりのキャンプ1へ荷上げを繰り返しているうちに、その声の主が岩の上に直立して鳴いている兎であることに気が付いた。
1977年のアフガニスタン遠征の時であった。それ以来毎夏、遠征先のベースキャンプ付近でこの鳴き兎君に会う。
中国ではハンタ、パキスタンではトシュンと呼ぶ。
トシュンは岩の下に穴を掘り、通路を作り何ヶ所も出入口を造る。

岩の上に直立し前脚を胸の前にそろえて下に折り、おいでおいでをしているような格好で甲高く鳴く。
仲間を呼んでいるのか、テリトリーを主張しているのか、はたまた自らの美声を楽しんでいるのか。
一説には日光浴をしてビタミンDを吸収しているなんてのもあるが定かではない。


普通は雌雄2匹で
一緒に行動していることが多い。
夏毛は上面が赤褐色で冬は
灰褐色になる。
冬の生活のためは秋には
干し草を集め
巣穴に蓄えるようである。

ベースキャンプ建設の日、
ポーターのジュマグルが
旧式のソ連製散弾銃で
トシュンを撃ってきた。

白樺の皮で火薬を包み
薬莢の中に押し込み
鉛の粒を幾つか込める。
私も撃ってみたが
なかなか命中率は良い。


上:BC近くで鳴くトシュン 下:トシュンの巣穴
ジュマグルにしては
ベースキャンプ開きのお祝い
として最大の好意を示した
つもりなのだろうが、
どうもこのかわいらしい奴を
食う気にはなれない。

ジュマグルが川をはぎ
ドクターが手術用のメスで
きれいに肉をとる。
胡椒と塩をかけてフライパンで
ジュージューと焼く。

肉は柔らかくうまい。
雪渓の中の天然冷蔵庫の中から
よく冷やしたビールを出しカンパイ。
アッラーよ
罪深き我々を許したまえ。


≪16≫ ナンガ・パルバット峰北東稜

手前の黒々した丸い丘はグレートモレーンと呼ばれる氷河が削り取った堆積の巨大な集積である。
標高4468mでモンブランの高さに近い。7月下旬、頂稜付近は残雪で覆われ一面に白銀の世界であった。
8月に入ると急速に雪が融け岩の間にプリムラが、咲き出した。
束の間の春、そして長い冬。堆石の隙間から顔を出した無数のプリムラが色鮮やかに花弁を風になびかせ陽光を求め一瞬の命を謳歌する。


グレート・モレーン(黒い部分)

明日はもう新雪に閉ざされ長い眠りを余儀なくされるかも知れないのだ。
写真の右の稜線はガナロ峰(6608m)へ続く。中央左の岩峰は未踏のナンガー北峰Ⅱ(7785m)。
数百mの厚みで天空にかかる雪のデルタ、ジルバーザッテルを挟んで左の岩峰が銀の牙ジルバーザッケン7597m。

左へぐっと高度を落として
グレートモレーンの遥か後方に
そびえる三角形の雪のピークが
ラキオト峰(7070m)。
その左に続く稜線の彼方に
チョンラ山群がある。

このチョンラ山群よりラキオト峰を超え、
ジルバーザッテルを縦断し
ナンガー主峰に到るのであるから、
このルートはヒマラヤに於ける
縦走を行い更にもう一度
逆縦走を強いることになる。

北東稜上部の銀鞍
その距離は往復で
50㎞にも達するのである。
これを高所ポーターなしの
わずか4隊員で2週間程で登頂しようと
いう計画なのである。
成功したら痛快である。

私の立てた作戦では12日間で
モレーンコップに達し、
モレーンコップに達した日から
3日間天気が持ってくれれば、
この計画は99%成功するはずである。

最大の問題はモレーンコップに
達した時の天候であるが、
これだけは「神の頬笑み」に
頼る以外術なし。


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≪17≫ チョンラ南峰

東の空が白み始め、ぐるりを白銀の峰に囲まれた緑の丘ベースキャンプに朝が訪れると、
真先にチョラン南峰6448mの東壁が朝陽を浴びて輝き出す。
漆黒のシルエットを落としていた東面のチョラン山群は淡いブルーに変わり、西のガナロピークは薔薇色に染まる。
息を飲むような美しい瞬間である。
今年は例年になくヒマラヤは悪天が続き、ナンガーでも積雪量が多く雪線もいつもの年より1000mも低い3500m程であった。
6月にナンガーに入った日本隊(福岡隊、徒歩渓流会)は2隊共に雪崩にやられ4名が死亡した。

ビンディーに着くと福岡登高会の
隊長新貝さんから雪崩の発生場所と
行方不明隊員の埋没推定場所等を
メモした遺体捜索依頼の
手紙が私を待っていた。

雪崩にやられたもう
1隊の
徒歩渓流会隊は、40日間で
晴天はたった1日だけだと嘆いていた。
私もそれなりの覚悟をして
ナンガーに入ったのである。
快晴の朝は思わず
アッラーの神に感謝してしまう。

しかし日の出と共に
雪崩の轟音が激しく響き始める。
我々のルートは雪崩の真下にある。
本日の命運はいかに?

懸垂氷河で覆われたチョンラ鞍南峰(6448m)
チョンラ南峰(6448m)は
我々の最初の目標である。
まずはこの山頂に立ち
北東稜全景を望み観察し、次に
ラキオト峰(7070m)を超え
ナンガー主峰(8126m)へと
至るのである。

山頂は丸みを帯び一見
やさしそうであるが、山稜直下は
急峻であるため雪面は
ズタズタに裂け、巨大な
懸垂氷河を形成している。
下部の氷河も急激に高度を落とすため、
崩壊が激しく、裂けている。
この山稜に近ずくだけでも大変である。


≪18≫ ラキオト氷河下流

標高6000mの氷瀑帯上部から北方に目をやると、蛇行するラキオト氷河のS字が眼下にはっきり見える。
後方右にディラン(7257m)、左にラカポシ(7788m)が雪の連稜を形成している。
ラカポシの直下がギルギットである。ナンガーとラカポシの間を大地を深く削り取ってインダス河が西へと流れる。
ラキオト氷河が北に流れ、インダス河と合流する地点に有名なラキオト橋がある。

カラコルム・ハイウェイはこの橋を渡り、インダス河の右岸に出てギルギットへと続く。
氷河の中央は最も流れの早い部分で氷も新しく、白く光っている。その両側を流れの遅い氷河が灰色の氷の帯を見せている。
氷河は何本合流しても氷が混じりあうことはない。それぞれ独立して縞を描きながら流れる。

右のカーブした左岸に黒い森が見える。
標高3300mの
メルヘン・ヴィーゼである。
標高1200mのラキオト橋から
始まるキャラバンは、
ラキオト氷河の流れを遡り南下し
メルヘン・ヴィーゼを経て
そのまま左岸を進み標高3976mの
ベースキャンプへ
3日で到達する。

世界の8000m峰14座の中で
最もキャラバン日数の短い山であり、
1ヶ月足らずの遠征日数で
攻撃可能な唯一の巨峰である。

ラキオト氷河下流(後方:左ラカポシ峰 右ディラン峰)
本年度1983年は
ナンガーに世界中から14隊の
希望が提出され、内10隊が訪れた。
南西稜のシュルルートに
日本隊2、オーストリア隊、西ドイツ隊、
の計4隊。
西側のディアミール壁にフランス隊2、
日本隊、スペイン隊、アメリカ隊の
計5隊が入山した。

しかし北面の北東稜に挑んだのは
我々だけであり、
山は終始静寂に包まれ、
他のパーティとの
わずら


≪19≫ ディアマコル

1895年8月23日。ママリーは2人のグルカ兵と共に
ディアミール側からディアマコル(6227m)を超えて、ラキオト谷へ出ようとした。
ママリーの仲間コリーとヘイスティングは、ガナロピークの山麓を回りラキオト谷に入るためママリーを見送った。
しかしそれがママリーを見た最後であった。ラキオト谷に入って見上げたディアマコル下部は下降不可能であった。

今から90年も前にナンガー登頂を目指したママリーは
ルパル谷に入り南壁を仰ぎ絶望しディアミール側を試登し、尚も頂を求め北面へ転進を計ろうとしていた。
8000mの巨峰への最初の試みはママリーと2人の勇敢なグルカ兵の死によって幕を閉じた。

ベースキャンプからディアマコルがよく見える。
写真右のピークがガナロ峰(6608m)、その左のコルが、ママリーのコル、ディアマコルである。

ドイツ隊の地図には
Diama Scharteと記されている。
現在の技術と装備をもってすれば
下降も容易であるが、
初めてアイゼンが使われた
90年も前の話である。

当時としては下降は不可能であったろう。
それにしても1世紀も前に
ママリーを巨峰へと
駆り立てたものは何であったのか?・・

ナンガーの計画が
現実化した当初は日本山岳会の
市ケ谷のルームでしばしば会合を持った。

残照を浴びるディアマコル
その夜も資料室で
ナンガーの記録を調べていたのだが
何やらルームが騒がしい。
顔を出してみると芳野満彦氏がいた。

シャモニーで会って
以来数年ぶりである。
芳野氏に聞いてみると日本に
招待されたグルカ兵の
歓迎パーティーだとのこと。

ママリーと共にナンガーに消えた
勇敢なグルカ兵の末裔。
何たる奇遇。


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≪20≫ キャンプ1

7月29日、グレートモレーン4468mの頂上にキャンプ1を設営した。
計画では短期速攻を実現するためここにキャンプを設営する予定であったが、
ポーターはドレクセルの墓より上は高所ポーターの装備と賃金を支給せよと言う。

連絡官が無能以下、つまり有害でその上ポーターが遠征隊慣れしていて、高額な賃金と装備を要求する。
予算の2倍以上の支出を強いられ赤字必至の現在、高所ポーター並の賃金を何十人分も捻出することは不可能である。
さりとて3967mの低所から片道25㎞もある8126mの頂上まで、短期間で達しようというのも無理な話である。

交渉の結果10人のポーターを、ジャージとランニングを支給し1日100ルピー(2000円)で雇うことにした。
このキャンプ1を実質的な前進基地とし下のベースキャンプは保養地とした。

ここからは北壁と我々のルート
下部氷河の全貌が見渡せる。
キャンプ2は
写真中央の氷瀑帯に設営した。

テント2張りと荷物置場よりなる
キャンプ1にはたくさんの桃と蜜柑の
缶詰を上げてある。
ここに来る度、缶詰に雪を入れ
シャーベットを作り舌鼓を打った。

雷を避けるため大きな岩の下に
テントを張ったが、
今にも岩が倒れそうなので
その後位置を移した。

雪の消えたキャンプ1、後方氷河はラキオト右氷河
移すと言ってもモレーンの累積上に
平坦な場所は無く、
ムスターグアタの時と同じように
岩を動かし組み合せ土木作業を行い
平坦部を作った。

居心地はあまり良くないが
近くの雪渓から水もとれるし
何よりも雪崩の心配が無いのが良い。

ここから南へモレーンを下り
北壁基部に達し氷河に入る。
上部キャンプから帰ってくると
ここの登りが辛く苦しい。


≪21≫ 雪崩

標高差3000mを
一気に落ちる巨大な雪崩。
ナンガーパルバットの北壁は
絶え間なく雪崩を起こす。

ものすごい轟音と
雪崩の爆風が我々のルートを襲う。
北壁の真下、
雪崩の直撃するところに
我々のルートはあるのだ。
ここを避けて
ルートを拓くことはできない。


雪崩にやられるか、
生きてベースキャンプにもどれるか。
それは
「インシャーラー」
神のおぼし召すがまま

 第3回ドイツ遠征隊は
このルートを通り
ラキオト峰からの雪崩に直撃され、
7人の隊員と9人のシェルパ
合計16人を一瞬にして
失ったのである。


それは1939年6月14日の
夜半であった。
長さ400m、幅150mの
巨大な雪崩がキャンプ4を襲い、
就寝中の16人総てを
氷の下に埋めてしまった。


銀鞍より北壁を落下する巨大な雪崩

事故が発見されたのは
それから4日後であった。
第2回の遠征で9人を失い
引き続き第3回で
16人を失ったドイツ隊は、
執拗に遠征隊を送り続け、
7回目にしてようやく
初登頂に成功したのである。

最大規模の雪崩は
ジルバ―ザッケンと
ナンガー北峰Ⅱの間に広がる
ジルバーザッテルで生じる。


標高8000mに近い
天空の大雪原ジルバーザッテルの
大氷床は出口を求めて
北壁に落下する。

遠雷のような音を響かせ
白煙が岩壁を走る。
北壁を飾る無数の懸垂氷河を
次々にたたき落とし、
岩壁を削り取り、何の意志も持たず
ただ無心にすさまじく
破壊し尽くし再び一瞬にして
静寂に戻る。

何事もなかったかのように。


≪22≫ ラキオト氷河源流

写真中央右がチョラン南峰、
左がチョラン中央峰。
稜線までルートを拓き
このピークに達する
だけでも大変なのに、
ナンガー主峰までの全ルートを
考えるとここは高々
玄関程度なのである。

ナンガー北面のルート北東稜は
何ともはや長大である。
このルートの核心部分は
ズタズタに裂けた氷瀑帯を突破して
稜線に出るまでである。

右側のナンガー北壁から
雪崩に威嚇されながら、
私と博夫とで
この氷瀑帯にルートを拓いた。
8月11日キャンプ1から
キャンプ2への荷上げをしていると
下部の緩やかな氷河から声がする。

ナンガーには世界各国から
14隊が入山する予定であるが、
北面を希望しているのは
我々だけである。

「待ってくれ」と言っている
ようであるが荷が重くて
とてもそんな余裕はない。

ラキオト中央氷河を従えたチョンラ南峰

やがてドイツ人が1人追いついてきて
握手を求めた。
彼はドイツのガイドで客をつれて
ブルダール峰(5602m)を
登りにきたらしい。
「日本隊のベースキャンプの
荷物テントで寝かせてもらった。

あなた方の写真を撮らせて欲しい」
とのこと「そうですか、
どうぞお使い下さい。


写真もどうぞ」と答えると
何枚かの写真を写し、
お礼だと言ってナンガーの
大きな地図をプレゼントしてくれた。


1934年第2回のドイツ遠征隊が
測量し作成した5万分の1の
精巧なカラー刷りの地図である。
事前研究で我々もすでに
なじみ深い地図である。

氷河上のこんな場所で名刺の交換を
したりプレゼントをもらったり
するとはヒマラヤならではのことである。

アルノルド・ハツセンコッフ
「心からあなた方の
成功をお祈りします」

「ダンケシェーン」


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≪23≫ キャンプ2

8月3日キャンプ2(5040m)
ラキオト右氷河に設営。
今までの遠征と同じスタイル、
ルート偵察と荷上げを同時に行い
1日で上部キャンプを
設営する方法をとった。

ベースキャンプを設営してから
6日目であり一般的には
早いペースであるが、
我々の短期速攻計画では
遅すぎるのである。

私と博夫が高山病にやられて
4日間もメルヘンビーゼに
下っていなければ、
ベースキャンプ設営後2日目に
キャンプ2を設営することも
可能であったのに、残念。
短期速攻を目指す我々にとって
この四日間は致命的に大きいが、
高山病の洗礼は
高所で受けるより低所で受ける方が
体力消耗は少なくて済むし、
安全度も高い。
一度は通らねばならぬ関門なので
早い方が良い。


この洗礼後は下界型肉体が
改造され高所人間になる。
ホメオスタシスのレベルが
低圧、低酸素に変化するのである。


キャンプ2の頭上を圧する北壁の懸垂氷河
松井にキャンプ2設営を
まかせることも考えたが、松井は
氷瀑帯に入った経験が無い。
突然のセラックの崩壊、
ヒドンクレパスやスノーブリッジの
踏み抜きの危険性も体験してない。

たった4人しかいない貴重な隊員を
偵察に出して
1名でも失うわけにはいかない。

北壁直下、クレバスが
幾重にも発達した右氷河の中央部に
設営したキャンプ2は、
上部に
雪崩を吸い込む大きなクレバスを
備えてはいるものの、
テントサイト自身がいつ雪崩るか
予測できない位置にある。

20日程の登攀活動の中で
1日だけ休養日をとった。
8月12日、2張りに増えたキャンプ2に
5人全員が集結し、
氷河上にマットを敷いて寝そべり
のんびり1日を過ごした。

食事、音楽、日光浴、
そして氷河の氷でオンザロック。
 
北壁直下のキャンプ2、青テント右横の赤は隊員


≪24≫ 原人回帰

メルヘンビーゼ、お伽噺の牧場。
荒涼たる赤茶けた大地の
隆起の中にこの森を発見した時の
ドイツ人の感動が、
そのまま伝わってきそうな名前である。

私達が少人数短期速攻という
不利な条件下であえて
長大な初登ルートを希望したのは
2つの理由がある。

どの外国隊もこのルートを
希望しないので北面では
静かな登山が楽しめること。
もう1つはこのメルヘンビーゼの
存在がある。
ナンガーの白い氷雪を背景にした
美しい針葉樹の森を
是非見たいと思ったのである。

高山病にやられ手足や顔の浮腫が
始まり発熱した私と博夫は、
29日メルヘンビーゼに下った。
牧場の中央にテントを張り
木陰に寝ころび、本を読み
カセットテープの音楽を聞き、
内心は焦りながらものんびりと
静養に努めた。

朝から夜まで子供達がテントに
群がり歌を歌ったり
一緒に遊んだ。

 


キャンプ2の坂原

餓鬼大将のグランナビー9才)
この下に池があるから
泳ぎに行こうと言い出した。
氷河の水が湧き出した池なので
相当冷たいのだが、
もしかすると熱が下がるかな
などととんでもないことを考え、
標高3300mの池に飛び込んだ。

冷たいのか痛いのか
わからない程冷たい。
子供達は喜んだ。
水泳を見たのは
これが初めてらしい。
人間が魚のように水の中を進む
というのが驚きなのだ。

アンコールにこたえ

3
回も岩の上から飛び込んだ。
当然の結果その夜は
更に熱が上がり39度。
それから13日目の8月12日、
それにこりずキャンプ2の
氷河の真只中でパンツ1つになって
氷の丘に登ってみた。

愉快なり。
次の日キャンプ4で松井が
半身裸になる。
限りなく深い原人への
憧れがあるかぎり、
登頂も又夢ではあるまい。

 
キャンプ4の松井


≪25≫ 氷瀑帯の絶望

キャンプ2上部の氷瀑帯は
8月に入ると割れ目が最高に発達し、
無数のクレバスが
大きく口を開く。

積雪量が多くクレバスの少ない
5月から7月にかけて
遠征したドイツ隊、チェコ隊は
この場所では雪崩に
悩まされただけでルート工作には
苦労していない。

今年は例年になく積雪量も多いし
ザイルを固定するようなことは
ないだろうと判断し、
荷上げを兼ねた偵察に出た。
予想外にクレバスは
巨大化しており複雑に入り組み、
ズタズタに裂けていた。

氷河の右側(左岸)は
ジルバーザッケンより落ちる
稜の末端部で
谷側岳の懸垂岩に似た懸垂を成し、
左は氷河の傾斜が最も大きく
オーバーハングした
氷瀑帯を形成している。

まず氷河の中央突破を目指し
ザイルを延ばすが
幅10mから30m以上の
クレバスが幾重にも連なり
スノーブリッジも皆無である。


第一氷瀑帯。覆い被さる氷壁を相手にルートを拓く坂原

中央を断念し右側を調べると
中央部より更にクレバスが
発達しており前進不可能。
左の氷瀑帯は見ただけで不可能。

しかしドイツ隊もチェコ隊も
左にルートをとっている。
明日再び偵察することにして、
マッターホルン状の
セラックの下にデポテントを張り
荷物を収納し、雪の降る中
キャンプ2へ下る。

胸中は複雑である。
梯子を持たぬ我々にとって
この氷瀑帯を突破できる
保障はないのである。
へたをすると攻撃に予定した
日数2週間を総てこの氷瀑帯に
費やしてしまうかも知れないのだ。

ドイツ隊は大量の物質と
たくさんのポーターを投入して、
クレバスの少ない時期に
ルートを拓いている。
我々の今の条件とは
較べものでならない。
いったいどうしたらいいんだ。

 



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