グレートバリアリーフ・ダイビング
珊瑚海其の34・・・・・・・もう1つのヒマラヤ
その122の3ー2016年 |
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BGR & Uluru 撮影日:2016年1月20日~25日 場所:ケアンズ、ウルル・カタジュタNP 撮影&編集:坂原忠清 |
《A》 哀しみのアボリジニ |
アボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された 沙漠の帆船(Sails in the Desert)ホテルのロビーにて 1月23日(土)晴 男たちはカンガルーや大蜥蜴などの狩猟に明け暮れ、 女たちは木の実や木の根に棲む蛾の幼虫、蜜蟻などを採取し、1万年前に人類が生み出した 富を齎す農耕文化に触れることなく、平和な原始共産生活を送っていた。 ・ そこに船に乗った英国人がやってきて突然「此処は英国領土だ!」と宣言したのが246年前の1770年。 それから西洋人による植民地支配が始まり、58年後の1828年には先住民である アボリジニの土地を奪っておきながら、英国領に入ったアボリジニは、自由に捕獲、殺害しても良いとの 法律を作り、英国人は殺戮を続けたのだ。 これが≪汝、隣人を愛せよ≫と博愛主義を翳す、キリスト教徒の恐るべき実像。 ・ 怒りと哀しみをを湛えたアボリジニの此の瞳を観よ! |
蠅防止のネットを被って |
校舎、集会場として使用 |
ウルルの洞窟 マラウオークにて 1月24日(日)晴 初期の英国移民は 先住民のアボリジニを スポーツとして狩猟したのだ。 「今日はアボリジニ狩りにいって 17匹をやった」 と記された日記が サウスウエールズ州の図書館に 実際に残されている。 |
僅か188年前の1828年には 開拓地に入り込むアボリジニを、 イギリス人兵士が自由に 捕獲・殺害する権利を与える法律が 施行された。 ・ その結果、オーストラリア内に 生活していた50万人から 100万人ほどのアボリジニは 90%以上が殺された。 |
壁画も描かれている |
此処で穀類を潰してパンを作った |
U字型は座った人の跡で人を表す これらの記録を読んで、 その支配者の末裔が 作り上げたオーストラリアへの嫌悪は 益々高まり、如何にグレートバリアリーフが 世界に冠たる 素晴らしい珊瑚海であっても、 訪ねることはあるまいと決意。 |
アボリジニの壁画 1876年には、 タスマニア・アボリジナル最後の 生存者である女性の トルガニニが死亡して、 多い時期で約3万7千人ほどいた 純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅。 (wikipediaより) |
渦は波紋で水の意 |
未だ意味不明の絵が多い 昨年2015年10月27日、 200か所程設置された ウルル登山用固定鎖の7,8番目が 何者かによって切断されたのだ。 ・ 10月27日と云えば、 1985年10月26日の アボリジニのアナング族にウルルの土地が オーストラリア政府から返還された 30年目の日の翌日。 |
それでも尚且つ オーストラリアへ旅立つなら、 アボリジニが聖地とするウルルに赴き、 アボリジニの遥かなる痕跡に触れ、 肌で彼らの悲哀を感じ取るべく 努力は欠かせない。 そう常々思っていたが 遂に畏れていた事件が起きた。 |
右下のU字は子供で左は子宮か? |
今は立ち入り禁止となった洞窟 |
降雨直後は大きな滝となる |
いや夜中にと云うから 当日26日の 返還記念日切断の 可能性が高い。 ・ エアーズロック・マウントオルガ 国立公園と呼ばれていた アボリジニの土地が改名され、 |
アナング族の呼び名である ウルル・カタジュタ国立公園に 変わって30年目の最後の26日こそ、 聖なる山をアボリジニの手に 取り戻す日に相応しいのだ。 ・ こうなったらオーストラリアへの 嫌悪感を乗り越えて、 行かずばなるまい。 と相成った次第である。 |
3日前の雨が池となって |
鉄錆に覆われた洞窟 |
右上部には手が描かれている イギリスによる植民の始まりである。 初期の植民地は囚人植民地と呼ばれ、 囚人とそれを監視する 役人・兵士によって構成されていた。 ・ 11隻の船からなる「第一船団」の流刑囚は 男囚778人、女囚192人という構成だったが、 男女囚の比率が4対1というアンバランスなのは 先住民にとって非常に迷惑なことだった。 男囚の性欲を満たすために アボリジニーの女性が被害を蒙ったのだ。 (資料:流刑囚、オーストラリア到着より) |
イギリスは、1788年、 ニューサウスウエールズを囚人流刑のための 植民地とすることを宣言 「人間のゴミ捨て場」としての出発。 1788年1月18日、6ヵ月にわたる航海を経て、 1033人を乗せた船団がオーストラリアに到着した。 |
右上は貴重な食料、蛾の幼虫か |
左の水を現す渦巻き以外は意味不明とか 【2008年8月1日 AFP】 オーストラリアのケビン・ラッド(Kevin Rudd)首相の 先祖の1人は、ドレスと下着各1枚を盗んだ罪で死刑を 宣告された英ロンドン(London)の路上生活児で、 曾々祖父は砂糖を盗んで オーストラリアに送られた流刑者だった。 ・ 研究者らが7月31日発表した。 流刑者の先祖を持つことは数十年前のオーストラリアでは 恥とされたが、現在では名誉の印とも見なされており、 首相のイメージ向上につながりそうだ。 (株式日記と経済展望より) |
首相の先祖は下着ドロ、 |
渦巻きの水を繋げる黄線は命か? |
初期の英国移民は先住民のアボリジニをスポーツとして狩猟 稲妻となって聖なる山ウルルに落ちるアボリジニの怒り 2015年10月26日(返還記念日)の怒り この怒りの画像を作り出してから2週間を過ぎて尚、何のコメントも書けないのだ。 毎日毎日この画像とにらめっこしつつ、アボリジニ虐待の実態を調べるに連れ、怒りが込み上げ何も書けない。 余りにも酷い虐待の事実に圧倒され、言葉の無力さに打ちのめされる。 ・ 勝手に領土宣言し、流刑囚を放ち、その流刑囚がアボリジニの女を性欲の対象とし、 生まれた混血児を売春婦にし、保護と称して親から親権を奪い強制収容所や孤児院などの施設に隔離する。 そのアボリジニに土地を一部返還したのが30年前の1985年だと云うのだから、 これは過去の問題でなく、正しく現在も進行しつつある大問題なのだ。 |
アボリジニの現代壁画 沙漠の帆船ホテル (Sails in the Desert)ロビーにて 1月23日(土)晴 |
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「アボリジニ狩り」が問題となると、 ヒ素や水銀などを 水飲み場に流し毒殺するなど、 アボリジニ殲滅の方法は 陰湿になっていった。 女流詩人メアリー・ギルモアは シドニーの新聞にこう寄稿した。 |
「水飲み場の周辺に 何百人もの アボリジニが死んでいた。 大人たちが集まり、 アボリジニの狩りに 出かけるところを何度も見た。 |
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欧州から獰猛な 狩猟犬が輸入された。 アボリジニたちを狩りだし、 食い殺させるためだった。 ・ ある時は小さな子供たちが、 野犬のように 撃ち殺された両親の遺体の かたわらで 死んでいるのも見た」 『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙 (1938年3月4日) |
ウルル山麓で絵を売る アボリジニ・アナング族 1月23日(土)晴 Uluru Sunset Viewing Area ウルル山麓には 現在200人程のアナング族が 荒野に集落を作って 住んでいるという。 ・ 時には絵を描いて、 ウルルの夕日を観に来る 観光客を相手に 売るのだと云う。 |
排気ガスを浴びながら 観光バス横で客を待つ 1935年、国際連盟は 原住民の虐殺や 差別について、 オーストラリア政府に 釈明を求めた。 しかし、オーストラリア政府は そもそも アボリジニを国民と みなしていなかったので、 人口動態国勢調査 対象からも外し続け、 アボリジニを 人口統計に入れたのは 1976年の 憲法改正以降であった。 |
盗まれた世代 ( Stolen Generations)とは、 オーストラリア政府や 教会によって家族から引き離された、 オーストラリア・アボリジニ とトレス海峡諸島の 混血の子供たちを指すために 用いられる言葉である。 |
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1869年から公式的には 1969年までの間、 様々な州法などにより、 アボリジニの親権は否定され、 子供たちは強制収容所や 孤児院などの施設に送られた。 (wikipediaより) |
700の部族、25の言語、最も多かった時の 人口は30万人であり、 ジャプカイ族はその中の1つ。 その程度のことしか解らず、 ネット検索しても出てくるのはジャプカイ族の ダンスショーばかり。 ・ レストランで働く若いアボリジニの女性に 何度か話しかけたが、 笑顔を観ることは出来なかった。 |
ダンスに駆り出される アボリジニ・ジャプカイ族 Tjapukai Aboriginal Cultural Park |