仙人日記
 
 その114の42015年  皐月
 
 Con Dao
 
撮影日:2015年5月9日~15日
場所:ベトナム・,コンダオ諸島  
撮影&編集:坂原忠清
       村上映子

《C》 ゲリラ作戦のベトコン拠点・クチトンネルを訪ねて
森の枯葉を払うと現れた小さな穴(Ventilation Shaft)
5月14日(木)晴 全長200kmに及ぶクチ地下壕入口

ベトナムから帰国したらカーター米国防長官の、思わず漏れてしまった本音が報道されていた。
「我々は訓練や装備を提供できるが、戦う気を与えることはできない
これだけで大いに嗤えるのに、これに更に追い打ちをかけたのがその翌日バイデン米副大統領の焦った発言。
戦うイラク軍部隊の≪多大な犠牲と勇気≫を高く評価する


 
えっ!こんな狭い穴で戦ったの?


【18】 クチトンネルで戦った勇者

本日は1日コースでクチトンネルとホーチミン市内観光、更に夜は水上人形劇鑑賞と、盛りだくさんの予定。
午前中はクチトンネルへ。
日本語の上手なガイドは、陽気でお喋り好きなアンさん。二人の幼い子どもがいるそうだ。
日本には3年ほど仕事(パナソニックの大阪工場らしい)で暮らしていたので、日本語は其処で覚えたとのこと。
帰国後もパナソニックで働くよう誘われたらしいが、政治的に面倒な問題があったらしく、
転職してガイドになったという経歴の持ち主。


彼女の祖母はベトナム戦争時代クチトンネルで戦った勇者らしい。
彼女自身は戦後に生まれたが食糧難でミルクも碌に無かった時代で、
自分が兄弟の中で一番小さいのだと一寸おどけながら話してくれた。

ホーチミン市内から車で1時間半ほどで、畑やゴムのプランテーションに囲まれたクチの村に着く。
熱帯の森の中に嘗てのベトナム戦争時代、
ベトコンが徹底的なゲリラ戦を行った場所がクチトンネルと呼ばれている一帯なのだ。

晴れていたので幸いだが、此処が雨に降られれば、泥だらけで歩くのも大変そうだ。
当時の地下トンネルの一部が、観光用に開放されている。



枯葉に隠されたさり気ない穴

それじゃちょっと入ってみる
米軍空爆に勝利した穴

何が嗤えたか言うまでもない。
近代兵器を
大量に持ち込んで戦った米国が
戦う兵器も食料さえも満足にない
貧しいベトナムに
敗れた理由を、そのまま
カーター米国防長官が
述べたからである。
更に捧腹絶倒したのは
その翌日
慌てふためいたバイデン副大統領が
即、その発言を否定し
イラク軍部隊の
≪多大な犠牲と勇気≫を高く評価
すると
いけしゃあしゃあと
述べたことである。

うわーこの穴、深い!

どれどれ何処まで続く?


 カーター米国防長官は語る

カーター氏は、ラマディでのイラク治安部隊について「敵より人数が勝っていた。
だが、戦わずして撤退した」とし、「我々は訓練や装備を提供できるが、
戦う気を与えることはできない」と語った。
米側はこれまでイラクでISに対して3千回以上の空爆を行っている。
カーター氏は「空爆は効果的だが、イラク部隊の戦う気に取って代わることはできない」とした。
ラマディからイラク治安部隊が撤退する際には、戦車など
米軍が供与した武器が大量に置き去りにされ、IS側に渡っている
ラマディが陥落して以降、米国では共和党を中心にオバマ政権の戦略について批判が高まっている。
(CNN5月
24日 ワシントン=杉山正)



 


バイデン米副大統領は語る

ワシントン(CNN) 米ホワイトハウスによると、バイデン副大統領は25日
イラクのアバディ首相と電話で会談し、
過激派組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」と戦うイラク軍部隊の「多大な犠牲と勇気」を高く評価すると述べた。
カーター長官の発言については、米国側がこのほかにも
修正の動きをみせている。
米政権のある高官は、長官が言及したのは「ラマディに限定した話」だと説明した。



落とし穴じゃ!

穴底には竹槍じゃ!

此処はキッチンか?
米軍の空爆や高性能マシンガンに
対し落とし穴や竹槍で
戦うとは
月とスッポンどころの話ではない。
それなのに何故
ベトナムは勝てたのだ!

屋根の付いた入口は罠か!
答えは明明白白である。
いみじくもカーター米国防長官が
述べたように
祖国独立の為の
戦う気力があったからだ。

米軍兵士は地球の裏側まで
しゃしゃり出て
戦う理由も無く無意味に
戦った。

ベトコンとポーズ

何やら井戸のような

何書いてんの?



【19】 極限の苦しみを誘い出すための仕掛け

枯れ葉の下に在るトンネル入り口は、入ってみることが出来る。
アメリカ人は大きいので、入口を見つけても入れないぐらい小さくしたが、現在は観光用に広く掘ってあるのだとの
説明を受けたあとで、見るとまさに巨大に太った西洋人女性が穴に上半身すっぽり潜って体験中であった。

密林の地下壕は実に緻密に造られ、此処で日々の生活が営まれていた訳で、
その発想に驚くと共に、ベトナム人の抵抗精神の強さにも圧倒される。

彼方此方に敵への罠が仕掛けられているのだが、その仕組みも実にさまざま、
落とし穴の中には鋭い竹槍が何本も突き出ていて、落ちたら最後地獄の苦しみだろう。

この場所へ踏み込むのは米兵にとっても恐怖との闘いだったに違いない。

コンダオの監獄の拷問道具と、クチの罠の恐ろしさと、
どちらも人間の極限の苦しみを誘い出すための仕掛けに大差はない。

一方で、米軍はこのジャングルを覆う総てを枯葉剤と言う毒薬ではぎとろうとした。
その結果、どれほどの被害が生れたか、まさしく膨大な人体実験であり、人間性の欠片も無い仕打ちであった。

ベトナムの人々は、ベトナム戦争の悲惨さを通じて、戦争の持つあらゆる理不尽と非人間性を忘れることは無い。
戦争博物館に展示された多くの写真が、何より多弁に語っている。



米国M41戦車は1970年地雷によって爆破された

地下トンネルの張り巡らされた地上に
この馬鹿でかい戦車の残骸が横たわっていると、頗る愉快である。
戦車の下の穴で蠢く小さなベトナム兵士が、愛らしい土竜になって策を巡らし
この途轍もなく硬くて、でかい奴を、やっつけるのだ。


M41の巨砲

最上部ハッチ

戦車の出入り口
とても敵うはずのない
鉄で出来た巨大戦車をやっつける為
拾ってきた敵の兵器を
利用するのだから、
こりゃ堪らなく愉快である。

M41内部
本物の戦車なんぞ
勿論、見たことも触ったこともないが
正に恐るべき鉄の塊
そのもの。

あの小さな愛らしい土竜達が
戦車をやっつけた後
誇らしげに敵国の言葉で白文字を
書き付ける様子が目に浮かぶ。

45年前の戦闘遺品

キャタピラーは跡形もない

Mineとは地雷のこと?



【20】 轟音の凄まじさに飛び上がり

クチでは様々な体験をできるのだが、強烈だったのは実弾を使っての銃の実射体験だ。
仙人が選んだのは一番小型のカービン銃だったが、
最初の一発が発射された時の轟音の凄まじさに飛び上がりそうになった。
耳当てを付けても、一発ごとの発射音に慣れることはできない。
こんなものを日常的に抱え持ち、敵とは言え生きている人間を撃ち砕くのであるから、
まともな感覚である筈がない。

仙人が撃ち終わる頃、アメリカ人らしき男性が、巨大な銃を実射し始めたが
その轟音の威力は恐ろしいまでに辺りを震わせ、
こんなものを手にしたら人間性が変わっても不思議ないだろう。
戦争の跡を知るための施設は、どこもアメリカ人初め西洋人の姿が目立って多かった。
ホーチミンは今や外国人が非常に多く訪れる街なのであろう。





落とされた爆弾を再利用し攻撃に使う

10発で15㌦程で試射出来る。
我が人生に於いて
人殺しの為の銃を撃つことがあろうとは
思ってもみなかったので、
撃ってみた。物凄い衝撃におったまげた!
密林での機敏な動きを考慮し
銃身を短くしたカービン銃も、米兵から奪った戦利品。
一旦奪ってしまえば
ベトナム兵の為に作られたような便利な銃。

カービン銃、マシンガンの実射体験 



捕獲作戦に使われた罠

不発弾の火薬を再利用
米国防長官カーターは、
ラマディでのイラク治安部隊の戦いぶりを
嗤ったが、
そのイラクを生物・化学兵器等
大量破壊兵器を保有しているとし
攻撃したのは12年前の
2003年のこと。

化学兵器、大量破壊兵器等
何処にも無かったのは
既に世界中の誰もが知る事実。

ブッシュ大統領は開戦前後の
演説における戦争理由として
以下を挙げた。
①生物・化学兵器等、
大量破壊兵器を保有し続け、
その事実を否定し、
国連の武器査察団に全面的な
協力を行わない
(部分的な協力に止まっている)
ことに対する武力制裁のため。
②イラクの一般市民を
サッダーム・フセイン大統領の圧政から
解放するため。


踏み込んだ足を捕える罠


トンキン湾事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/04/07 14:00 UTC 版)

トンキン湾事件(英: Gulf of Tonkin Incident, 越:Sự kiện Vịnh Bắc Bộ事件灣北部)は、
1964年8月、北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件である。
これをきっかけに、アメリカ合衆国政府は本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した。
アメリカ議会は上院で88対2、下院で416対0で大統領支持を決議をした。
しかし、1971年6月『ニューヨーク・タイムズ』が、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手、
事件は
アメリカ合衆国が仕組んだ物だったことを暴露した。




地下壕の病室

男が穴を掘り女が土を運ぶ

作戦会議室
大量破壊兵器を保有の
言いがかりでイラクを攻撃し
フセイン元大統領を処刑し
更なる混沌へとイラクを
追い詰めた米国。
 
再生された砲弾
ベトナム戦争も
米国の言いがかりで一気に拡大した。、
南ベトナム政府の支援と云う
仮面をかなぐり捨て
米国そのものが戦争に直截参加する
手だてとしてでっち上げた
≪トンキン湾事件≫を
忘れる訳にはいかない。
 

春巻に使うライスペーパーを作る

古タイアで生活具を作る

主食のタロイモ、笹茶、豆



【21】 300万人もの血の意味を忘れまい

私達のガイドは、戦争博物館で「此処では案内は何もしない。ただ自分の目で観て、感じて欲しい。
そして戦争がどんなに酷いことであるかを知ってほしい。」と告げた。

人で溢れる館内は、どこもその人の数に反して静かで、
真剣に資料に見入る人たちの声無き溜息、涙をぬぐう人も少なからず目撃した。

最早戦後40年以上を経て、ベトナムの復興は目覚ましいものがあり、その体制が社会主義でありながら、
人々のエネルギーや明るさはイメージとはかけ離れ良い意味で驚かされた。


中国から始まり、仏、米との長い長い侵略の歴史を断ち切り、自ら選んだ新しい国を、
自分たちが支え創り上げようと云う希望や熱意が、社会全体を明るいものにしているのだろうか。
それとも、若い人口が多い結果なのだろうか。

しかし、どちらにせよ、ベトナム戦争で流れた300万人もの血の意味を忘れまいとする想いの強さ、
それを世界に訴えるのが役目だと自覚してる人々が、
しっかりと歴史を継承しているのは確かだろう。




戦争証跡博物館


結局、ソ連・中国と米国の闘いだったのか?
 

確かに、写真に写る少年は
ひどくおびえた目をしている。
村で母親のバー、8歳だった妹のリエンの3人暮らし。
一緒に川を渡った2歳のフエと
母親のダオも近所に住んでいた。
 村はベトコンの拠点と目され、
米軍の先兵となっていた韓国軍の
激しい攻撃を何度も受けた。

アンの兄は南ベトナム軍との戦闘で戦死、
姉は韓国軍に撃ち殺された。
 「朝9時か10時ごろだった。
初めての米軍地上部隊の攻撃が始まり、
米兵に銃を突きつけられて
『川に入れ』と脅された」
「深い所は大人の胸くらい。浅い所は歩いて、深い所は
泳いだことを覚えている」とアン。

(47NEWS >  47トピックス >  世界川物語より)
ベトナム戦争さなか、世界の目を
くぎ付けにした戦火を逃れる母子の写真。
そこで考えたのが
生命を根底から破壊する枯葉作戦。日本人カメラマン、
沢田教一の「安全への逃避」だ。
1965年9月6日、ベトナム中部
クイニョン郊外ロクチュアン村で
撮られたこの写真は、
ピュリツァー賞など数々の賞を受賞した。

「向こう岸に銃のようなものを
構えた男が見えたから撃たれると思った。
それが、カメラを構えたサワダさんだった」
 当時14歳の少年だったアンが語る。

≪安全への逃避≫沢田教一  1966年ピュリッツアー賞受賞



【22】 ベトナム人の強さを驚嘆の思いで


1960
年代後半、日本も若者の溢れる国だった。
ベトナム戦争が泥沼化する中、多くの学生や若い労働者、知識人らが「ベトナムへ平和を!
アメリカはベトナムから出ていけ!」とスローガンを掲げ、街頭デモや抗議活動が行われた。
70年代にかけて熱い盛り上がりを持って学生運動が繰り広げられた時代の最中に居た。
戦争博物館の入り口には、当時の日本の反戦活動の様子も示されていた。

日本語で書かれたスローガン入りのゼッケンの前で、時間がふいに巻き戻され、学生だった自分が、
街頭デモに初めて参加した日の怒りと興奮がありありと甦る。

戦争に反対と唱えていたあの頃、思えばほとんど無邪気に戦争を悪だと決めつけ、侵略者アメリカを憎んだ。
私達は既に戦争を知らない世代であった。
日本がなぜ戦争に負けたのか、本当は何も分かっていなかったのだと思う。

実際に国土で30年にも亘る苛酷な闘いを、途切れること無い意思で貫いたベトナム人の強さを、
驚嘆の思いで識ることになった今回のベトナムの旅。


戦争とは平和とは国家とは・・若き日に(きざ)した疑問が今もなお胸の底で燻ぶっていることを、そして、
人間とは何かという根源的問が、何一つ自分の中で解決していないことを思い知らされた。

旅に出ることは、常に自分を新しい世界に連れ出すとは限らない。
しかし、旅に出ることは見ること行動することであり、考えること、感じること、
そして自分を知ることに繋がることは確かだ。

旅の後はまた次の旅に出たくなる。それは心の旅なのかもしれないが。



枯葉剤の犠牲者

トンキン湾事件をでっち上げ
激しい空爆を行い
延べ650万人の若者を動員した米国。
ベトコンは地下に潜り
地上戦に打って出た米兵は
ジャングルでのゲリラ戦で苦戦。

近代兵器は密林では
役に立たず
米兵の死者数は増えるのみ。

脚と腰が未発達
そこで考えたのが
生命を根底から破壊する枯葉作戦。
悪魔の所業としか言いようのない
この枯葉作戦は
一体誰が発案し実行したのか?

密林で米兵が殺されるなら
猛毒の枯葉剤ダイオキシンを空から
撒いて密林を無くしてしまえ。


首だけになった少年

繋がって生まれたベト&ドク

腕の無い子を抱く母親



枯葉剤・ダイオキシンとは何か?


正式名称は、ポリ塩化ダイベンゾダイオキシンといい、化学構造は、
2個の亀の甲が2個の酸素で結ばれ、
亀の甲の残りの炭素にどのように塩素が結合するかによって、
理論的には
75種の同族が存在し、塩素の結合のしかたによって、毒性は千差万別です。
その中では、2378-ダイオキシンの毒性が最強です。
この他に、コプラナーPCBと、ジベンゾフランも毒性が強く、これらはダイオキシン類として同等に扱われています。

1958年にウサギが極微量のダイオキシンで死んだことが、ドイツの学者により最初に報告されました。
またベトナム戦争で、アメリカ軍が撒いた枯葉剤にダイオキシンが混入していて、
流産や奇形の発生が多いことが報道され、史上最悪の毒物として有名になりました。
ちなみに、ダイオキシンの毒性はあのサリンの2倍、青酸カリの1000といわれています。
またサリンは、空気中の水蒸気にさらされると無害になりますが、ダイオキシン類は
1300℃の超高温でしか高速分解しません。


ダイオキシンは何が問題か?

ダイオキシンの1日の摂取許容量は、農薬の100万分の1です。つまりダイオキシン類の毒性は農薬より100万倍強いのです。
農薬などの有害物質は、細胞の中の酵素、遺伝子や染色体に作用する結果、健康が害されます。
このようなかたちで健康が害されるには、かなり高濃度の化学物質が必要です。

これに対しダイオキシンは、細胞質内のリセプターと呼ばれる物質と結合した後、
遺伝子の特定部分と結合し、いろいろな遺伝子を活性化させます。
そのために酵素の誘導、細胞の分裂の変化、細胞の分化の変化などが誘発され、
がんの発生、奇形の発生、免疫の異常、発育の異常などが起こります。
この作用は
極微量のダイオキシンで起こすことが出来ます。
(道AALA副理事長 鈴木 頌)




下半身の無い男性

脚も生殖器も未発達

顔以外は未成長


アメリカにとって史上最大の戦争

ベトナム戦争は、物量の規模からいえば第二次大戦をしのぐ史上最大の戦争でした。

現在も正確な統計は出ていませんが、およそ300万人近くのベトナム人が死亡400万人のベトナム人が負傷しました。
また
58千人以上のアメリカ兵が死亡しました。アメリカにとっても大変な戦争でした。
アメリカ政府の発表によると、ベトナム戦争に使った費用は
3520億ドルであったといいます。
延べ
650万人の若者が動員され、直接戦争に参加しました。
1969年のピーク時には、南ベトナムの地に54万3千4百人のアメリカ兵が駐屯していました。

この戦争のあいだに、アメリカは785万トンの爆弾(銃弾は含まない)をベトナムに落とし、
7500万リットルの枯葉剤(ダイオキシンを含む)を南ベトナムの森林、農村、田畑にばら蒔きました。
あの
第2次世界大戦中にアメリカが各戦場に落とした爆弾の量は2057244トンだったことを考えると、
面積あたりの爆弾はとんでもない量になります。

アメリカが北ベトナムに落とした爆砲弾は、ベトナムの各施設を破壊しつくしました
小学校から大学までの各学校2923校、病院、産院、診療所1850ヶ所、教会484ヶ所、寺、仏塔465ヶ所が灰燼に帰しました。
 (道AALA副理事長 鈴木 頌)


枯葉剤を散布したヘリか!


この悪魔を生み出した米国が今でも
正義や民主主義を
振りかざして尤もらしく、世界のリーダーと
叫ぶ度に
怒り心頭に発するのは私だけだろうか!

つまり枯葉作戦は地上の生命が総て
本質的に破壊される危険性を熟知しての作戦であり
同じ母や子を持つ知的生命の
為せる所業とは思えない。
 
狂気に駆り立てる兵器


千年、百年、三十年ですよ
2人の幼子の母ガイドがポツリと語った言葉。


ベトナム人なら誰にでも理解できる数字。はて何のことだろう?
それではヒント。三十年とは1945年から1975年4月30日まで。
そうこのヒントがあれば、ベトナムに興味ある者なら三十年がベトナム戦争による米国支配期間、
ディエンビエンフーの戦いなどで重なるが百年がフランス支配期間、
千年が中国支配期間と直ぐ解るであろう。

つまりベトナムは計1130年もの長い期間、他国に支配され搾取され続けてきた国であり、
祖国独立への願望は如何なる国よりも強く、独立こそ民族の悲願であったのだ。
だからこそあの強大な圧倒的軍事力に勝つことが出来たのであろうと、結果論を述べるのは容易い。
市場に群がる小柄で笑みの絶えないベトナム人に接し
中国、フランス、アメリカと戦い続け遂に勝利したベトナム人の強さを探したが
笑顔の奥に、その痕跡を見出すことは出来なかった。

近代兵器対竹槍を連想させるベトナム戦争で、竹槍が勝利したなら人類には未だ形而上的希望があるのかも知れない。
片や近代兵器で敗北した米国資本主義に内在する形而下的欲望は、
やがて米国をのっぴきならない決壊へと追いやるのであろう。
と、ふと思ったベトナムの旅であった。




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