仙人日記
   その782012年皐月

5月1週・・・・落下するシーシュポスの重荷  



新しく焼いた陶器に生けた石楠花


ログテラスに放置されていた藤蔓は
カチンカチンに干乾びていて堅くて曲がらない。
一夜、池の水にでも浸して置けば
柔らかくなるのだが、思い立ったが吉日で
(と云うよりか単に気が短いだけなのだが)
強引に陶器の穴に突っ込み曲げたら
当然の如く薄く焼いた陶器は見事バリンと割れてしまった。
しゃーねーな!

ところがこの短気な山荘主は
自らの欠点を熟知しているので陶器が割れても平然。
そんなこともあろうかと実はこの大きな器を
4つも焼いておいたのだ。
即、他の器に藤蔓を巻き付けハイ、完成!
どうでー、綺麗なもんじゃろが!
雪の剣岳から戻ると
奥庭の石楠花が妖艶な色香で迎えてくれた。
一面の銀世界で天空の蒼と太陽の光に戯れて過ごした
たったの3日間が肉体の隅々まで滲み渡り
すっかり無彩色と蒼に染められてしまっていたが・・・。

その無彩色のカンバスに無造作に振り撒かれた
余りにも鮮やかな極彩色。
こりゃ奥庭に放ったらかしておくにはもったいない。
早速、焼き上がったばかりの大きな花瓶に
生けてみようと枝ごとばっさり切ってと。

そうだこの大きな花瓶に蔓を付けてみよう。
確か以前、森から伐って来た藤蔓が在ったはずだな。

藤蔓新作品に生けた庭の木蓮 



新しき生命に包まれる山荘(東の森から)
生まれたばかりの若葉が
仄かな生命の香りを風に託し
森羅万象に囁きかける。

言葉になっていない
その意味不明な囁きこそが
生命に共通な言語なのだろうとの確信が
沸々と湧き起こって来る。

さあ、もっと聴かせておくれ。

新緑のアリアが響くログ(山荘の森)

小さな春竜胆も謳う(山荘の森)

森のレストラン開業(山荘の森)

林檎の花芽も頬染めて(奥庭)

李も謳いだしました(奥庭)
その囁きが
煩わしい動詞変化や微妙な名詞の
差異に捉われぬ
音の強さ、高さ、大きさだけで表出する
全く自由な言語だからこそ
総ての生命は瞬時に理解出来るんだね。

それでは耳を澄まして
森の命の囁きを
じっくり聴いてみよう。

石楠花の鮮やかなこと(奥庭)
 
やっと山荘下の桃が咲きました

 さあ!森の命を謳っておくれ(山荘の森)

山吹はお玉杓子と共に (山荘池)
 
過ぎ去りし剣への想い(山荘の森)
 言葉で世界と関わり合うことを
獲得し始めている
幼児と暮らしてみると
もしかして言葉こそ、
抱え上げても抱え上げても落下する
シーシュポスの重荷なのかも
などと
思ったりしてしまいます。

晶子が学会で東京に来ていましたが、
その前に迎えに行って
一人で薫ちゃんだけが先に東京へ来て
合計1週間近く面倒見て、
本日やっと親子が新潟に戻りました。
 
シーシュポスの重荷かな(山荘の森)



5月2週・・・・消えた水琴窟の音色



大工事開始・石垣撤去


その水琴窟の音色がぱったり聴こえなくなってしまった。
それだけなら水量による微妙な変化で、
そのうち又復活するだろう位にしか思わなかったのだが
やがてマンホールからは水が溢れ出し始め止まらなくなってしまった。

道理で水琴窟の音色が途絶えた筈だと納得したものの、
排水が溢れ出したとなるとこりゃ大変!
「こりゃやべー、この大きなマンホールが詰まったとなると
高圧洗浄でも排水管の詰まりは取れないかも」

まーしかし山荘は山の上に在るので
幾ら溢れても山が吸い込んでくれるしと、
気にせず暫く放っておいたのである。
消えた水琴窟の音色・T
大土木工事始まる

5月7日(月)〜14日(月)
 
話せば長いことながら・・・長いからやめようか?
いや、少々長くなってもやっぱ順を追って話さねば、
なぜ土木工事なのか解らんな。

きっかけは水琴窟の音色が聴こえなくなったこと。
水琴窟と云えば、そうあの地中から聴こえて来る
妙なる琴のような響きを発する庭園の音響装置。
そんなものが山荘の何処に在るかって?
えっ!知らなかったの?ほら、前庭の石テーブルの下だよ。

あの下には6mの深さのマンホールが在るんだ。
僅かに流れ続けている池に注ぐ小川の水が6mの距離を落下し、
その滴り落ちる水が微かな琴の音色を奏でるのさ。

冬用駐車場から112mもの溝掘りが続く 


石垣の石をクレーンで除く
排水管を28本繋げる

何が大工事かって、先ず第一の関門は
山荘下の冬期駐車場から
林檎畑に到る急斜面の森の掘削。
ずり落ちそうな急斜面は
木木の根が縦横無尽に走りこの根を
切断しながらの掘削となり
重機と人力による根気と忍耐の勝負。

次に石垣を崩して排水管を通す作業。
中庭は狭い為大型重機は入らず
小型のユンボウで
微妙な重機操作を強いられる。

中庭から石テーブルへと
長さ4m、内径10cm、厚さ4mmの
排水管を28本繋げての
112mに及ぶ工事は前庭の石テーブル
で山場を迎える。

中庭、前庭はほぼ水平なので
同じ深さで溝を掘ったのでは排水は
流れない。
溝の深さを計測しながら石垣寄りを深く
石テーブル側を浅く掘り進め
マンホールに流入する2本の排水管より
下方に新たな排水管を
取り付けねばならない。
何度も計測し掘り直しが続く。

冬期駐車場からやっと辿り着いた石テーブル
水琴窟の音色を復活させるには
2本の排水管の位置より最低でも
2mは下に新たな排水管を
設置せねばならぬが
それには石垣側を更に2m以上
掘らねばなず、
とても業者には言い出せない。

たかが水琴窟の音色を愉しむ為に
この手作業しか出来ぬ面倒な
掘削を更に2m以上の深さにするなんて
業者は受け入れないだろう。
えい、水琴窟は断念だ!
 
工事の終点・排水出口(冬期駐車場)
 削岩機で厚く堅いマンホールに穴を開け
新たな排水管を通し黒い
フィルターを被せどうにか工事は
最終工程を迎えた。

除いて観たら新たな外部への排水管は
2本の排水管の僅か下に位置し
落差は殆ど無く
水琴窟への期待は完全に消えた。
実に無念である。

がその代わり工事の序に
夏季、冬期2か所の
駐車場にコンクリートをうってもらった。
さて少しは使いやすくなるかな。
 
ついでにゲートも広げて(夏季駐車場)



原因はこいつだ!


僅かずつ漏電していたのでブレーカーが落ちることは
無かったのだが1月からブレーカーが落ちるまでに
漏電量が増し山荘活動はギブアップ。
此の夜ついに漏電個所を突きとめ、
漏電を起こしてる地下配線を切り山荘活動復活。

しかしその切断した地下配線が
何処につながり何の機能を果たしているのかは、
配線工事をした電気屋も全く解らないと云う。
図面に記録が無いし電気屋の記憶にも無く、
こうなったら地下を掘ってケーブルを追うしかない。

そりゃまー、えらいこっちゃだし
何処の誰に頼んだら突き止められるのかも解らず、
又又放っておくしかない。
消えた水琴窟の音色・U
 
1年程前から心当たりが無いのに電気使用量が増え、
今年の1月には山荘始まって以来の月間451kwhとなった。
週末しか山荘は使わないので月間300kwhを超えることは殆ど無い。
従って原因は漏電以外に考えられない。

何度か東電職員を呼んで調べてもらったが埒が明かず
山荘の配線工事をした電気屋を探し出し
2月25日、凍える夜の本格捜査となったのである。

 自然排水に決定しポンプ撤去

 消えた水琴窟の音色・V

地下配線は切ったままだし、
石テーブル下のマンホールは溢れたままだし
このまま1年も無視していたらきっと
新たな障害が生じるに違いない、
と重い腰を上げお馴染みの造園業者に
排水工事を電話で要請。

「あーそりゃ排水管が詰まったのではなく、
マンホールに沈めてある
排水ポンプが壊れたずら」
その声を聞いたとたん総てが
理解出来たのである。

コンクリートの穴あけ
《そうか解ったぞ、あの地下配線は
排水ポンプに繋がり
そのポンプが壊れ漏電していたのだ。
つまりあのマンホールは揚水ポンプ無くしては
排水出来ない構造だったのだ。
その事をすっかり忘れていたのである》

漏電原因、排水障害の原因が
解ったこの瞬間の気持ちは数学の難問が
解けた時のような実に清々しい気持ち。
排水ポンプを変えればあっさり解決するが、
それではポンプの老化と共に
再び同じ問題が生じる。

ついに排水管設置 
そこで思い切って112mに及ぶ
排水管埋設の大工事を決意。
排水口取り付けがマンホール上部になるので
排水管から落ちる水の落差が小さくなり
今までのような
水琴窟の音色は哀しいかなもう2度と響かない。

石テーブルでの食事の度に
足元から響いた妙なる琴の演奏、
18年間も愉しませてくれて本当にありがとう。
決して忘れないよ。さようなら! 

自然排水管が完成 




5月3週・・・・華麗なる絶望


 173年目の再会 華麗なる絶望 次回は300年後

日者,太陽之精,人君之象。※君道有虧,有陰所乘,故蝕。蝕者,陽不克也。
(光は太陽の精気で、君主の象徴である。君主の道に欠ける所があれば、陰に乗じられることとなり、
日食が起こる。日食とは陽が勝たないことである)
(古代中国・日蝕説より)

洪水冷害が続き食糧が底を尽き10万人の餓死者を出したと云われる
天保の大飢饉
天保4年(1833年)から天保10年(1839年)まで6年間も続き
大阪では毎日150〜200人を超す餓死者を出し、
江戸では御救小屋を設置し70万人が救われたと云う。
天災を引鉄としたものの天保の大飢饉は実は※君道有虧であった。

天保の大飢饉は米価急騰を引き起こし百姓一揆打ちこわしが続き
やがて天保騒動大塩平八郎の乱へと続く。
この大飢饉の終結が173年前、1839年であり
江戸で金環食が観測された年である。

大飢饉を引き起こした冷害や洪水が
太陽の動きと深く結び着いていると本能的に
肌で感じている人々にとって
この金環食が歓びや幸をもたらす美しきものと映ったとは到底思えない。
古代中国のようにこの金環食を天の警告とみなし、
太陽の精は暗黒の絶望によって奪われてしまったと
畏れ、嘆き哀しみ悲嘆にくれたのかも知れない。

さてこの173年前の9月7日夜明け前に
東京・築地の海岸に派遣された金環食観測隊は重要な任務を帯びていた。
これまで学び頼りにしてきた中国天文学を採るか、
はたまた新たなる西洋天文学を採りいれるべきか?
中国から伝わった、従来の方法で予測した金環食は「陽の出の前」。

もう1つが、当時、西洋から伝わったばかりの
新しい方法で予測した金環食は「陽の出の後」。
そう覚えていますか、当HPでも扱ったこれをテーマにした
冲方丁の小説「天地明察」を。

当日の陽の出は江戸幕府の天文方が作った
「霊憲候簿」という古文書によると5時39分16秒。
さて問題の金環食(食甚)はその前か後か?
「霊憲候簿」によると食甚は5時50分12秒と記されているので金環食は
陽の出後10分56秒後となり西洋天文学が勝利を収めたのである。
陽の出直後10分56秒と云えば太陽は水平線から
僅か1度程の高度なのでそれは
正に美しくも神秘的な、畏るべき光景であったろう。

国立天文台で日本の暦をつかさどる、暦計算室長の片山真人さんは
「西洋から導入されたばかりの新しい天文学が日本で受け入れられた瞬間、
日本の近代天文学のまさに夜明けといえる」と分析し、
このときの金環日食が
日本の天文学を大きく発展させるきっかけになったとしています。(NHK News WEBより)


水平線から立ち上る暗黒の絶望に蝕まれた余りにも美しい太陽は
天保の大飢饉を体現しつつも同時に古代中国の
長い呪縛から解き放たれた
新たな素顔をも覗かせたのである。



犬小屋の壁に映った無数の金環食

急な黄昏に氾濫する金環食


撮影に夢中になっていて気づくのが遅れたが
どうもグランの様子がおかしい。
金環食に向かって実に神妙な顔して沈んでいるでは。
目をやると辺り一面金環食の太陽が氾濫。

犬小屋の壁には丸く塗潰された太陽が幾つも環を描き
無数に集まって
まるで蜂の巣のような紋様。
大地は金環が黒い太陽を浮かび上がらせ
お椀を伏せたように観える小さな丘が
何処までも連なる。

太陽が出たと思ったら急に黄昏れ、辺り一面が
蜂の巣や凹凸大地になっては
そりゃグランだって驚くはな。
どうすりゃいいんだ!
5月21日(月)晴 山荘奥庭 

焦った、晴れてるではないか!
昨夜の天気予報から晴れるとは思っていなかったので
カメラの調整はしていない。
剣岳で大活躍した買ったばかりのカメラは
雪山用にセットしてあるので解除し新たに金環食用に
マニュアルを変えねば。
ところで金環日食撮影はどうすればいいのか?
夕陽バージョンか月撮影のマニュアルか、
それとも花火設定にすればいいのか?
試しに夫々の設定で太陽を撮ってみるがどれも巧くいかない。

思い切って露光調整をー2.0にしホワイト・バランスで
太陽を選びカメラを三脚に固定しフィルターの代わり
サングラスを掛けて数枚撮ってみる。
うん、何とかなりそうだぞ。

大地にも氾濫する金環食に深刻な顔のグラン 

※君道有虧


天保年間の江戸の人口は100万程と推定されている。それから観ると天保大飢饉の10万人もの餓死者が如何に多かったかが実感される。
その餓死原因は洪水や冷害が主たるものでなく苛酷な租税にあった。

天保12年(1841年)頃の実態を記した文書によると零細農の米の年間収穫量750kgに対し年貢は300kgで租税率は40%。
大人一人が年間に食べる米は1石(150kg)であるから僅か3人分の米しか手元には残らない。
問題はこの年貢300kgが変わらないことである。
年間収穫量が減って例えば400kgになり飢饉になっても年貢は300kgなので租税率は75%となり残りは1石にも満たない。
当然農民は年貢を納めることは出来ない。
そこで君主が行ったのは狡猾な搾取システム《5人組》であった。 その公租の確保についてこう記されている。

五軒の家を組み合わせた五人組の組織を作り租税の連帯責任制をとらせた。
納税不能に陥れば、妻子は年季奉公という名の人身売買を黙認した。当然売春や農奴的収奪の対象となった。

(第二奇兵隊取材班より)

175年前の金環食は古代中国の日蝕説が示したように正に君道有虧そのものを体現していたのであろう。



釈迦ケ岳・清八山頂より

山嗤う釈迦ケ岳 1641m

     コースタイム
実施日:
5月19日(土)晴 
山荘発(37km)  9:50 
芦川登山口上 11:40着 11:50発 
府駒山 12:30    
釈迦ケ岳山頂 13:10 13:45出  
芦川登山口下  14:45  15:00出
計    2時間55分    
山荘着  16:30 
標高差
芦川登山口ー釈迦ケ岳・・・341m




グラン
 



芽吹きの季節が眩しい・・・釈迦が岳      村上映子

天気は快晴、空気が澄み五月晴れの名に恥じない美しい青空が広がる。
その朝の天気に気を良くして、釈迦が岳へ一登りしよういう訳だ。
東山梨の駅に到着したのが10時過ぎ、そこで久々に犬を乗せた車が私をピックアップしてくれる。
花の咲き乱れる美しい村々を抜け、芦川村の登山道へと向かう。

カーナビの案内のままに若彦トンネルを潜り抜け河口湖の方へ出てしまい、再びトンネルを戻り、廃道に迷いこみ、
ずいぶん時間をロスしたが、やっと目的地に到着。


すずらん群生地の広い駐車場にはほとんど車も無いのに、観光バスが居て意外な感があった。

すぐ上に登山道入り口があり、1150分に登山開始。久しぶりに山歩きするグランはとても嬉しそうで、ぐいぐい引っ張る。
標高が千メートルを超えているので、季節が1カ月ほど遡って、まさに山笑う芽吹きの季節が眩しく再現される。
平地ではもうふてぶてしいまでの深緑が大地を占領しているが、ここにはやっとそれぞれの個性を際立たせ始めた若葉が、
緑の色にも濃淡様々なバリエーションを見せ、楽しませてくれる。

小鳥の囀りが気持ちよく空に響き、山を歩くには最高の日和だ。
落葉樹の森を持つ山の最も美しい季節。青空と新緑の鮮やかなハーモニーが何とも嬉しい。
足元には菫や春竜胆が可憐な花を咲かせている。




必死で登るグラン 

どうも名の由来は山頂近辺にある急峻な岩場に在るらしい。
と云っても他の山の岩場に較べたら特段険しさが
著しい訳では無く
むしろロープなんぞ不要なくらいなのだ。

急峻な岩場で構成される高く険しい山を《嵯峨》と云うが
地元から仰ぐこの山はピラミッド状に
高く聳え正に《嵯峨》として映ったのであろう。
その《嵯峨》がシャカに変化し《釈迦》となったとの説を見つけた。

山梨百名山。御坂の盟主黒岳から山塊は、
十二ヶ岳、節刀ヶ岳へ延びる主脈と釈迦ヶ岳のある支脈に分かれる。
麓の御坂町にある檜峰神社が里宮で山頂には
その奥宮が奉られる。
山頂部は急峻な地形のため、急峻を意味する
「嵯峨(サガ)」をあてて「嵯峨ヶ岳」と呼ばれていたものが
いつの頃からか「サガ」が「シャカ」に転化して
現在の名になったという。
うーん岩場は厭だな!

小さい山なのである。
標高は1641mで山荘の高芝山に近い。
唐沢林道がどんべえ峠(日向坂峠)まで通じているので
アプローチが短く御坂側からも芦川側からも
気楽に登れる。
まあ黒岳か御坂山と繋げて帰りにでも寄ろうか。
と云う程度のピクニックコースなのだ。

で何度も登っているかと云うと一度も登ってないのである。
釈迦ケ岳と云えば最初のチベット遠征で
登った未踏無名峰6380mに付けた名前と同じである。
同行連絡官のニマ・ツェリンが
私の名前の坂と釈迦を強引に関連付けてMt Sakaと命名。 

まあチベットの場合は日本と異なり
生活と密教が結びついた骨の髄からの仏教国であり
山名に釈迦を選ぶのは理解出来るが
一体なぜ日本のこの地に釈迦ケ岳が在るのか?
 
下りはもっと怖いぜ!  


気持ちよくぐんぐん登ると、間もなく稜線へ。
ここから平坦な道を少し歩くと府駒山に着くが、ここは眺望もなく、標識がなければ通り過ぎてしまうだろう。
記念写真を撮って
,先を急ぐ。
急に岩場が出てきて、山頂まで岩が断続的に続くややアルペン的な登りが楽しめる。
グランは何とか岩のないところを目指そうとするが、いざとなると一気に岩を攀じるのである。

山頂まで人に会うのは多くはなかったが、途中観光バスの団体30名近くにもすれ違う。
幼い子供連れの家族連れにも何組か会ったが、この山は子どもでも安心して登れそうだ。


いずれの人々からも、グランは褒められたり、羨ましがられたりしていた。
山頂には2体の地蔵尊が据えられ、真っ赤な衣装が不思議な効果を醸していた。
良く見ると地蔵は笑い顔で、珍しい表情でもある。

釈迦が岳の由来と何か関係あるのか、日本中に釈迦が岳と呼ばれる山はいくつかあるようだが、
信仰と深いかかわりのある山なのだろうか?
ここは
麓の檜峰神社の奥宮が奉られているそうだが、神社と仏か・・。
隊長は釈迦イコールSAKAだなと言う。
チベットの未踏峰に我々が名付けた
SAKA峰のことだ。
雪の剣岳から戻ったばかりの隊長の心には、きっとチベットの雪の峰々もまた鮮やかな姿を以って蘇るのだろうなと思った。
不意に私もまた雪山に身を置いてみたいと思う気持ちに捉えられる。
秋の穂高で新雪には出逢えたが、本格的な雪山からはここ何年か遠ざかっている。





やっと1つ目の頂上・府駒山1562m 

若彦トンネルを戻り鈴蘭群生地のある釈迦ケ岳登山口を
目指すがカーナビは
「目的地まであと1kmです」と云ったまま地図にない
空白部分を示し続ける。
つまり今走っている林道はカーナビ地図には
インプットされていなのだ。

落石が累々と道を塞ぎやがて交通止め標識。
仕方なく鳥坂トンネル方向に戻り
再び鈴蘭群生地を目指しどうにか見覚えのある
釈迦ケ岳登山口発見。
僅か12kmの彷徨いであったが悪路の林道には参った。

てな訳で登山より
車でのアプローチに悪戦苦闘した釈迦ケ岳となり
「いやー釈迦ケ岳は
気楽どころかルートファインディングが難しい山だ」
と相成ったのであります。
釈迦の罰があたったぜ!

いつでも気楽に登れると侮っていた罰があたった。
檜峰神社から登ろうとカーナビに神社を
インプットし登録リストの名称を「釈迦ケ岳」と入れておいた。
すっかりカーナビに頼り切り
リストから「釈迦ケ岳」を選びはい、スタート。

檜峰神社が御坂側に在るなんて忘れていたので
カーナビが御坂と反対の芦川側を
選んでいることに気付かず走り続ける。
釈迦ケ岳の直ぐ近くに来ているのにいつまで経っても
登山道への道が見つからない。変だ!

完成したばかりで最新カーナビにも出ていない
若彦トンネルを超えて
ついに河口湖に出てしまい初めてカーナビの間違いに気づく。
 
頂に何で地蔵さんが? 



またいつか雪の山に挑むのは最早難しいのかもしれないが、
もう一度チベットのあの峰々に向かい合ってみたいなと、心の隅に萌した夢の形をなでてみた。

山頂では秀美な富士の姿を目の当たりに、まだ雪の残る八ヶ岳や南アルプスを遠く望み、
360度の眺望を楽しんでゆっくり過ごす。
下山は隊長がグランを連れ反対側に向かい、私は同じ道を戻り、早く着けば車を回すということに。
下山はほとんど登山者にもすれ違わず、静かな道を歩く。
1時間ですずらん群生地駐車場へ戻る。

せっかくなので、すずらんを見ようと群生地まで足を延ばしてみたが、残念ながらまだ蕾、花が
咲き競うのは
5月下旬になるようだ。
しかし、斜面一面のすずらんの群落地は、白樺の林でもあり、花がなくても緑と白のコントラストが美しい。
錨草があちこちで薄紫の花をつけていた。

交信の後、車を運転して、車道に出て歩いているという隊長とグランをピックアップ。
隊長のコースは下山してからの林道がかなり長かったとのこと。

快晴の5月の一日を思い立って、気持ちよい登山が出来る贅沢に、改めて山荘暮らしの素晴らしさを実感した。



ぜいぜいハーハー 

南無妙法蓮華経 

お釈迦様は何処に? 

釈迦ケ岳・
頂にて

山荘の彼方此方で見かけるのと同じ
見慣れた
あの堅い黒御影石が闇を呑みこんで
頂に建っていた。

呑みこまれた闇に記された白い文字が
富士山頂の白銀と呼応し
声明となって《南無妙法蓮華経》と
天空に飛び交う。

「南無」はサンスクリット語の
Namoで漢語への写本に使われた
音写語であると云う。
「わたくしは帰依します」との意味だとか。
「妙法蓮華経」は
法華経の正式な題名である。

ありゃ嗤ってるぞ 

《南無妙法蓮華経》は
《私は法華経の教えに帰依をする》との
意味になると云う。

《法華経》は直訳すると
《正しい白い蓮の花の経典》となる。
釈迦没後の宗教改革によって
生み出された大衆の為の経典である。

その経典の実践者として
期待される理想像が菩薩なので
釈迦ケ岳の頂には《南無妙法蓮華経》と
記された黒御影石と共に
地蔵が居るのだ。

弥勒仏が現れるまでの
遙かなる時空56億7千万年を漂い
地蔵は仏に代わって
六道に在る衆生を教化し救済すると云う。

だから優しく嗤っているんだね。


   
木瓜 (釈迦ケ岳)
 
錨草 (釈迦ケ岳) 
 

ハンカチーフの花 (福生里)
ぼとんぼとんと小梅の実が奥庭の芝に落ち始めた。
せっせと拾い集めてビアの仕込みに使う梅ジュースを造る。
山荘下の大きな梅ももうすぐ収穫時だから
忘れずに仕込まなくてはと
想った途端、ハンカチーフの花とその樹陰に競い合って咲く
石楠花の群落が目に浮かんだ。

その山荘下の大きな梅林の持ち主に招待されて観に行った庭に
なーんとあの珍しいハンカチーフの樹が2本も在って
その下で見事な色とりどりの石楠花が咲き誇っていたのだ。

白い石楠花 (福生里) 

蝮草の花 (座禅草公園) 

水琴窟の音の消えた寂しい石卓(背景はジャーマン・アイリス) 

ジャーマン・アイリス (食卓)

ピンクの石楠花 (福生里) 

そうだ、ハンカチーフの花が咲くのは5月中旬の今頃。
若しかするともう散ってしまったかも知れない。
グランを連れて急いで梅林の持ち主の屋敷に駆けつける。
おー!今、正に真っ盛り。
石楠花も咲きそろいうっとりする程の清楚な美しさ。

山荘だって2週間前までは鮮やかな石楠花に彩られていたし
先週は芍薬や牡丹がこれでもかと云わんばかりに
華やかに咲き競いそりゃお見事だったんだ。
1週間遅れたけどその時の芍薬と牡丹もついでに載せておこう。

森と山をグランと共に走り抜け、たっぷり汗をかいた後で
生命を謳歌する美しい花花に囲まれての食事。
生命が互いに共鳴し、何処までも透き通ったハーモニーが
パンやサラダや果物に染込んで
あーそのハーモニーがグランや私の肉体になるんだね。

そうしたら先日死んだチャラにもハーモニーが届いて
逢えるような気がするんだ。
23年も森を駆け巡り生命のハーモニーに包まれて
眠るように旅立ったチャラ、さようなら!

藤の花があちこちに(座禅草公園)
 
薔薇のような芍薬 (奥庭)

大きな牡丹 (奥庭)
 



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