山荘日記その64春ー2011年弥生
3月1週・・・・追想 ぷち・ヒマラヤ

                      

アイゼン無しで挑んだ氷の山 清八山&本社ケ丸

 
    コースタイム
実施日:
3月5日(土)快晴 
山荘発(24km)  7:45 
変電所駐車地点 8:50発 
氷出現地点 9:15   
清八峠 11:00  
清八山 11:07 11:50出
本社ケ丸 12:20 12:30出
駐車地点   14:07
計  5時間17分    
山荘着  14:50 

素晴らしい快晴&展望
北アルプス、スカイ・ツリー見ゆ




  




ダイビングでジンベイ鮫に出逢えた幸運に気を良くして、リハビリ登山に挑むことにした。
折良く隊長のリベンジ登山に便乗ということで、さほど長いルートではなさそうなので、
復活登山にはもってこいかもしれないと思う。

中央線の車窓に見える山々の頂にはまだ雪が白く輝く。本社ヶ丸は車窓からは臨めないが、
おそらく上部はまだ残雪があるだろう。雪が踏めるのも悪くないかな。

旧甲州街道との分岐で曲がろうとしたが、工事現場の入り口の人に目的地方面ではないらしいと聞き、
更に気をつけて進むと追分方面への右折道があった。発電所入り口まで車で入り、
その先はスッタトレスタイヤでも空回りする凍り道なので、車を降りる。

西高東低の気圧配置で、真冬の朝のぴんと張り詰めた寒気と真っ青な空が心地よい。


 雪辱ルートへ
3月5日(土)快晴 清八峠登山口

「知らんね、下の商店の人に訊いてみて」
新中橋(甲州街道と20号の交叉点)工事現場に立って
旗を振っている、よそ者のおっさんは
《ほんじゃがまる》と聞いて「なんじゃそら」と目を白黒。

やっぱり本社ケ丸への入り口は
解らんなと少し下ると
追分トンネルへの立派な林道が在るでは!
どうして前回はこの林道に
気付かなかったのか?阿呆やな。

この林道さえ目に入れば骨折せずに済んだのに。
1月骨折登山の雪辱戦に勇んで出発。
天気はいいし、林道は見つかったし今度こそ楽ちんだぜ。
ところがどっこい!
 かたゆきかんこ
敢えてアイゼンを持たぬ愚かさに泣く 氷道

降雪後の最高気温が15℃だぜ。
それから3週間も経っているんだぜ。
誰だって雪なんか融けてるか
在ってもほんの少しと思ってしまうだろ。

で、アイゼンを持たずに出かけたのさ。
ほら、森に残っている雪だって
やっと僅かにこびり付いているだけ。
予測はそう見当違いではなかったのさ。

でも村上は登山道を右に逸れて歩いているね。
どうしてだ?
これ雪に見えるけど実はカチンこちんの
かたゆきかんこなんだ。
この上に足を置いた途端すってんころりん。
 




2匹の犬達と共に歩き始めると、間もなく伐採地に到着。そこからが登山道となる。
植樹されたばかりの小さな檜の苗木がきれいに並んだ雛壇のような傾斜地を、のんびり登り始める。
気温が低い時間帯は硬い土だが、太陽に温められればぬかるみだろうと想像しながら、黒土の凍土を行く。
森に踏み込むと残雪に覆われた登山道が続く。
ちょうど北面に当たるルートなので、この分なら上までかなり雪があるだろうと予想できる。
2月の大雪がいまだに残っているのだろうが、この時期気温の変化が激しく、暖かい日もあったので、
昼間は融けて夜間はまた凍るということが繰り返された訳で、登山道は最悪の状態だった。

つまりカチンカチンに凍りついて氷の滑り台のようになっている。
雪道とは言っても、新雪とは条件が全く違う。甘かった。
今回はアイゼンを持参していない。滑らないようにとおっかなびっくり歩を進めるが、
たちまち隊長と差が付いてしまう。


  しみゆきしんこ
雪に見えるけどガチンこちんだぜや

恐る恐る氷の上に立つ
この犬達のへっぴり腰を見てご覧。
爪先だって全然
雪の中に沈んでいないだろう。
ぱりんパリン、かりんカリンの本物の
しみゆきしんこだぜ。
 清八峠

峠の反対側は南斜面なので
この稜線を境に
雪も氷も全く見当たらないんだぜ。

我々の目指す雪辱ルートが
完全に北に位置し
陽が当たらぬことをもっとしっかり
認識すべきだったのだと
後悔しても後の祭り。
 




隊長は2匹の犬に引っ張ってもらいながら、どんどん登っていく。私は足場を選びながら、転ばぬよう神経を使う。
途中で、トランシーバーに電池をセットしてオープンにしておくようにとの指示が見えない彼方からコールされる。
隊長はその時犬達用のカラビナを落としてしまい、雪面をあっという間に転がり落ちて行方が知れなくなったそうだ。
電池を落とさないようにと注意があった。久々のトランシーバーの電池交換に、緊張感が高まる。
セットしてから試しコール。
「スビダーニエ、スビダーニエ応答願います」「こちらスビダーニエ、よく聞こえてます」
あー、何だかとても懐かしい感じ。チベット登山を思い出す。

清八山頂・1593m
素晴らしい展望

その代わりと云っちゃ
何だが、どうでい
苦労して登った甲斐があったと
云うもんさ。

これぞ正しく甲斐の富士。
拍手・・・・・。
あれ、誰もしないな。
やっぱ親父ギャグはだめか。
  それにしても凄い景観。
これ程の好条件に山頂で
恵まれたのは何年振りだろう。

時・・・潤沢に雪の在る冬
場所・・・遮るものの無い頂
天候・・・冬は得難い移動性高気圧

この3拍子が揃わなくては
地平の彼方まで
見はるかすことは出来ない。

肋骨3本の骨折の痛みと
引き換えにしても未だ
お釣りがくる程の豪華絢爛な
白き神々の展望。
 



シーバーをポケットに入れ、いつでも交信できる態勢にして、気持ちも新たに真っ白な斜面を踏みしめる。
雪の量は多くなり最早何処にも土は無いので、灌木の根元や露出してる岩などを利用しながら、
相変わらず慎重に歩を進める。
高度が上がった分だけ表面の雪
の状態が大きな結晶になっていて、下部ほどには簡単には滑らなくなり、
少し歩きやすくなった気がする。脚の方も凍雪に慣れてきたのかもしれない。

「稜線に出たら右側に登ること、それが清八山への道です。間違えないでください。」
稜線上に出た隊長からの交信が入る。そうか、もう直ぐ稜線だ、黙々と登ってきた道を振り返る。


  迫る八ヶ岳
清八山頂から

悠絽、舞瑠、見えるかい?
右の端に見える
たおやかな白い峰が
12月に登った硫黄岳だぞ。

あの右の白い稜線に出た時の
凄まじい風と雪。
目が凍りつき開けられなくて
山頂ケルン手前で
引き返したんだよ。

それにしても阿弥陀岳なんぞ
まるでヒマラヤの鋭鋒。
格好いいだろ。
どう、挑戦してみないかい!
  南アルプス・南部
清八山頂から

実に気分爽快!
あの山もこの山も、ここに
記された総ては
冬と云わず
秋と云わず通い続けた峰々。

どの峰にも熱い想いがぎっしり
詰まっていて
目にするだけで胸が躍るね。
 



急に明るく開け雪も緩んで歩きやすくなり、稜線直下だと確信。そこで再びシーバーが喋り出す。
「いやー、5分で山頂に着きました。素晴らしい眺めです。楽しみに来て下さい」

稜線に出ると、小さな道標があり、左は本社ヶ丸へ、右は清八山への案内が。右側は道が2本に別れ、
下部の道へは【危険】の札が立っていた。案内通りに斜面をぐんぐん登って行く。
小さなこぶを越えた途端、目の前に圧倒されるような大きさで富士山が居た。

思わず、「わぁー!すごい!」と興奮した歓声が飛び出した。
勢いよく山頂へ辿り着くと、そこは予想をはるかに超えた大眺望。
南アルプスの白き城砦が連綿と連なり、八ヶ岳連峰が全姿を晒す。
その間には、遠く幻の城のような北アルプスが聳える。
肉眼では槍の穂先が鮮明ではなかったが、カメラの眼はしっかり捉えていた。



右から鳳凰、北岳、間ノ岳、農鳥岳、塩見岳

甲斐駒ケ岳 2967m
  南アルプス・北部より南へ
清八山頂から

秋の中間試験の
5クラス分の答案用紙を持って
甲斐駒の頂で採点し
翌日生徒にテストを返却。

「どうだ、何か匂わないか?
この答案用紙は
甲斐駒の山頂の空気をたっぷり
吸い込んでいるんだ」
テスト返しの後は
当然数学の授業はせず、もっぱら
甲斐駒登山の話し。

それを期待している賢い生徒は
「うん、うん匂うよ
新雪が匂うような・・・」
なんぞと胡麻すりを兼ねて
話しを合わせる。

ヒマラヤから還って来た時なんぞ
生徒の期待は大変!
数学は何処へやらヒマラヤの話しばかり。
それどころか撮って来た
8ミリ映画の試写会まで始めて・・・。

北岳 3193m

荒川岳 3141m中岳3083m



正面には富士の全貌、ちょうど、見事な枝ぶりの松が額縁のように富士を縁取る。
緑と白のコントラストが、富士を際立たせる。更には関東平野が霞むように広がり、
東京のビル群が蜃気楼のように揺らめく。三つ峠から来た登山者が、
「スカイツリーが見えますよ」と言って、望遠鏡を貸してくれた。思いのほか高くて驚く。

山頂は狭いのだが、そこに立つ者を圧倒せずにはいられない、なんと大きな光景だろうか。
雪のないシーズンなら鼻歌交じりで立てるかもしれない頂だが、しかし、この素晴らしい景観は、
真冬の限られた一瞬にしか出会えない。
復活の山に相応しい、なんと素敵なプレゼントかと、
碧く澄み渡った空と惜しげなく光を与えてくれる太陽に感謝する。


  北アルプス遠望
清八山頂から300ミリ望遠で 

ぎゃっほー!
まさか山荘近くの山から
これ程まで見事に
北アルプスが見えるとは驚き!

3月の北アルプスは最も雪が多く
神々しく荘厳な光に満ち溢れ
ぷち・ヒマラヤとなる。
で、3月には春休みもやって来る。

春休みが在るのは
学生と教員(?)だけであった。
従って最も雪が多く雪崩の
頻発するこの時期に
人影無きアルプスに入るのは
ヒマラヤを目指す我々教員隊のみ。

硫黄尾根から、北鎌尾根から
槍に登り穂高を超えて
新穂高温泉に下り酒を酌み交わし
更に独標から西穂に登る。

西穂から上高地に下り
山スキーで乗鞍山頂に到り頂より
鈴蘭まで下り春休みを終える。
何度も繰り返された春合宿。
  霞む後立山
直線距離で150kmの白馬岳遠望 

実に嬉しいね。
150kmも離れた白馬まで見える。

白馬主稜から
杓子岳、鑓ケ岳へと縦走し
不帰(かえらず)の剣を
超えて唐松岳、五竜岳に出る。
このルートも3月の定番登山。

八方尾根でスキーを愉しみ
更に鹿島槍ケ岳の
北壁のど真ん中に位置する
北壁主稜の雪氷登攀に
挑み北壁でビバーク。

ベースキャンプで
テントキーパーをしていた松本が
帰らぬ我々を遭難と判断し
警察に届ける寸前に
どうにか生還したこともあった。

3月だけアルプスは
ぷち・ヒマラヤに変身出来る。
3月の晴れた日に
この頂にさえ立てば
懐かしいヒマラヤに逢えるのだ。



フィリッピンでのダイビングは楽しかったが、予想外に天気が悪く毎日どんよりした空で、
南国の強烈な色彩が味わえなかった不満があった。
だから、なお、冬の日本の青と白の清冽な鮮やかさが、
体と心の隅々まで染み入るような深い悦びを与えてくれるのかもしれない。

頂の時間を堪能して下山にかかる。スリップしないようこの道を下るのは大変そうだ。
分岐で、隊長は本社ヶ丸を目指すようだが、私は下山時の難関を思って、無理せず先に下山開始。
目と鼻の先に本社ヶ丸が手招きしているが、今日は欲張るまい。

下山は恐い。初めこそ雪が緩み始めさほど不安なく歩けたが、
樹林帯の中は気をつけないと何時足を取られるか分からない。アイゼンの足跡が続いている。きっと、
ちゃんと装備を整えた登山者が入っているんだ。へっぴり腰で歩きながら、アイゼンの跡が羨ましい。



清八山頂から  
再度本社ケ丸へ
 骨折リベンジ 

さて、それでは骨折の痛みに耐えて
登った1ケ月前の本社ケ丸
ちょっと御挨拶してこよう。

森の木々に邪魔されて
よく観えないが西側の山頂直下は
どうも岩場になっているようだ。
 
本社ケ丸清八峠から  




こんなに歩き方が下手だと、また、一から山歩きの練習が必要だと考えながら、
滑りたくない一心で緊張しながら歩く。
うっかり片足が滑ると、もう止まれない。あっという間に尻餅をつく。痛いのだ。

そのまま尻セードをしてみるが、これがまた止めるのが難しくかえって危ない。
おまけに、いったん転ぶと立ち上がるのも難しい。
本社ヶ丸から下山する由の交信が入る。
すぐに追いつかれるだろうと思いながら、ここで慌てて怪我をしては元も子もないと一層慎重になる。
表面に氷が露出している辺りまで下山してくると、ここからが大変である。



  本社ケ丸の岩場・造り岩
さてどう突破すべきか 

リードを解くと舞瑠は少しも恐れず
岩場を大きくジャンプしながら
華麗に宙を舞う。
舞瑠の名に恥じぬ素晴らしい舞踏。

だがこの場面を見たなら
飼主の幸子さんは腰を抜かさんばかりに
驚いて、次からは犬の登山禁止令を
出すに違いないとニンマリ。

大丈夫、ほら運動神経の鈍い悠絽は
落ちないようにきちんと
ザイルで結んであるだろう。
悠絽には不可能だが
舞瑠の優れた能力からすれば
こんなのへいちゃらなのさ。
ご覧よ、この舞瑠の余裕のポーズ。
犬語を翻訳すると
「遅せーぜ!いつまで愚図愚図してんだよ。
陽が暮れちまうぜ」

いつもマイペースの悠絽の反応が面白い。
決して焦らず
急な岩壁にくるりと背を向けて
何も見なかったことにし
悠然と山のあなたを見やるのである。

「おい、おい後ろ向きになって
目を逸らしたって
現実は何も変わらないんだぜ!」



完全に氷の滑り台、何処に足をおいても、体重を掛けるとつるりと行く。
林の中に踏み込んで藪こぎをと試みるが、そこもまた一面の凍り雪。安全地帯は何処にもない。
気をつけても、何度も滑って転ぶ。一度はザックの天蓋に救われたものの、頭を強打してしばし座り込んだ。
変な姿勢で転ぶとあちこち痛い。

傍らに舞瑠の気配を感じ振り向く。つぶらな瞳が励ますように見上げている。
相変わらず、素早く優雅な足取りでさっさと追い抜いて駆け下りてゆく後姿を見ながら、
つくづく4本足が羨ましい。
やがて、隊長と悠絽にも追い抜かされる。しかし、隊長も何度も転んだそうで
「上りではかかなかったのに、下りで汗だくだよ」と言う。
私ばかりじゃないんだと心強く、残りの道を慎重かつ大胆に下山した。


   本社ケ丸展望台
 
あんまり遅いので
舞瑠が戻って来て悠絽に声をかける。
しかし悠絽は知らん顔。

恰も岩壁なんぞ存在しないかのように
唯じーっと在らぬ彼方を
見つめ続ける悠絽でした。
やっと岩壁を乗り越えて
山頂展望台に出たものの
どこか悠絽は
深く沈んでいます。

「どうして僕だけ
ザイルで結ぶんだい?
そりゃ舞瑠より鈍いから
若しかしたら
落ちるかも知れないけど
やってみなきゃ
解らないじゃないか」

そんな風に
拗ねているようにも
見えるし・・・。

山頂展望台(富士山の左:三つ峠山)
でもどうも先程から
悠絽が顔を向けている方角は
同じで
その先を辿ると
金峰山があって・・・そうか
視線の先は
その左の僅かに見える
瑞牆山だ。

瑞牆山頂直下
爪の立たぬ氷壁を思い出し
これから下らねばならぬ
アイスバーンの恐怖を
悠絽は予感しているのかも。

悠絽は見かけによらず
とても繊細で
傷つき易いんだよね。



植林地は予想撮り泥んこ状態だったが、凍ってないだけでなんと安心なことか。
大地は足を安心して踏み出せてこそ、母なる大地なのだ・・などと心の中で呟きながら、無事の下山を実感する。
雪がなければ、難易度1くらいの山なのに、
猛烈に難しくて難易度4くらいにアップしていたなとゲームを終了した気分で、降りてきた山を振り返る。

帰宅してから、あちこち痣だらけ、湿布だらけになったのは言うまでもないが、
復活登山の勲章でもある。



   恐怖の氷下降を終えて
無事登山口へ戻る

悠絽の予感は正しかった。
下山道はまるでリュージュのコース。
当然のことながら氷の何処に足を置いても
全くとどまらず歩くと云う行為が成立しないのである。

森の中では木々に掴まり転倒を避けながら
少しずつずり落ちていくしかない。
舞瑠は森に入り枯葉や木の露出した部分を選んで
スイスイ下るが不器用な悠絽は
氷を恐れ私の後ろにぴったり着いて離れない。 
氷の森を終えて
伐採された日向の大地に出ると
もう何処にも凍り雪は無い。
歓びに足取りは弾む。

ついにアイゼン無しで標高差800mを
下りきったのだ。
無謀と云えば明らかに無謀だが
胸に湧き起こるこの
確かな充実感は何だろう?

いつもの冬山のように
スニーカーでなく冬用登山靴で
アイゼンを履いての登山であったら
この歓びとの出逢いは無かったであろう。

雪辱戦に相応しい山歩きでは
あったが繰り返された転倒で又もや
傷めた肋骨を抱え
さて、再雪辱戦をいつにするか・・・。

莫迦は死んでも治らないとか。
莫迦と煙突の煙は
唯ひたすら高い処に登るとか・・・。
而して小賢しい常識を嘲笑い
知を超越した莫迦は
明日も又きっと登り続けるのだ。
 
本社ケ丸登山口

《莫迦:梵語moha(僧侶) 慕何、馬鹿
莫迦こそが真実を観ることが出来ると云うパラドックス。
莫迦とは知の欠如ではなく超越境を意味するとは
真に驚いたぜ》





3月2週・・・・M9.0 世界最大級の地震発生
(3月11日14時46分震源地:三陸沖)

 次々と巨大津波が襲う 
3月11日14時46分地震発生 16時12分三陸に津波襲来
(画像:乙ちゃんねるより)

頑強な高さ10bの防潮堤を越え、浜に立ち塞がる防潮林を薙ぎ倒し
巨大津波が繰り返し街を襲う。
平安な海の日常光景として眺めれば確かに美しい白波ではあるが
手前のビル群と大きさを較べてみると、その高さと横の広がりは嘗て人類が目にした事の無いような
途轍もない破壊力を秘めた液体の長城と気付く。



東日本大震災概要
(情報源:ウィキペディアフリー百科事典、朝日新聞、その他ウェブサイト
画像:キャプションの在る画像については明記したが無記名が多く場所、時間も不明)

地震規模: マグニチュード9.0:地震規模世界4位
(1960年チリM9.5、’64年アラスカM9.2、’04年インドネシアM9.1)
地震の種類: 海溝型地震逆断層型  3つの地殻破壊が連動して生じた極めて希な巨大地震 
最大震度: 震度7: 宮城県栗原市 、最大加速度2,933ガルのゆれ(震度7は400ガル以上)
震央(震源の真上地点) 三陸沖(牡鹿半島の東南東約130km付近)の深さ約24km(北緯38度0分0秒東経142度9分0秒) 
震源断層の破壊時間: 1回目約1分30秒 、1分後その南で2回目約1分30秒、更にその南で3回目約1分30秒、計6分
余震回数: 震度4以上50回、M5以上200回以上、うちM6以上45回(15日15時00分までの回数) 
 津波(三陸沿岸): 10b超の津波注意報は2日後の13日17時58分まで続いた。(最大20b超の津波と推測) 
北上川では河口で7m以上の高さだった津波が約50km地点まで遡っていた。(東北大・田中仁教授(水工学)の分析結果)
断層のずれ: 南北400km、幅150km、断層の滑り量(斜めに)最大20mのずれ(東北沖太平洋)
他震災との 地震のエネルギー比較: 関東大震災(1923年)の約45倍 、阪神大震災(1995年)の1450倍
 地殻変動: 陸地が東側へ水平に5.2m(牡鹿半島)変動し1.1mの沈降。近畿:東へ6cm変動。(17日報道) 
   
 関連災害: 福島第一原発の1号機から4号機までの原子炉建屋内で爆発、放射線漏れ事故。16日午前10時40分原発の正門近くで毎時1万マイクロシーベルト(通常時の大気中放射線量は0.035μSv/h) の放射線を測定した。これは通常時の大気中放射線量の約29万倍に相当する。極めて危険な状態で半径30km以内に住む住人への避難勧告が出された。都内でも16日朝0.089μSv/hを観測。原発以外では仙台製油所、千葉製油所の貯蔵タンクが爆発、火災発生。
国際原子力事象評価尺度(INES)  レベル6(深刻な事故) ※0〜7段階 参考チェルノブイリ・レベル7 スリーマイル島・レベル5 レベルに修正(4月12日)

 



JX日鉱日石エネルギー仙台製油所?

コスモ石油千葉製油所11日17時36分)
津波と迫る炎
危うし石油コンビナート、福島第一原発

津波が5階建ビルの4階まで迫り
至る所で火災が発生。
水と炎による阿鼻叫喚の
地獄が続き
街は廃墟と化してしまった。
 ・
世界各地で巨大地震が発生し
地獄を現出してきたが
今回は原子炉建屋の爆発まで加わり
未曾有の惨事と成りつつある。
一夜明けた気仙沼市の街に
大きな漁船が残され
津波の大きさを物語る。

屋根だけが残された家。
跡かたもなく
木端微塵になった無数の家。
辛うじて原型だけをとどめた家

黒い煙が不気味に空を覆い
未だ阿鼻叫喚の地獄が
展開しつつあることを如実に語る。

気仙沼市の市街地12日朝8時22分)

津波と火災後の廃墟


混沌たる墓標
一瞬の破壊


船が道路の中央に
停船し
ひしゃげた車が
互いに重なりあい
船と車が
尻を向けあっている。

小さなビルの屋上に
危ういバランスで
留まる大きな船。

絵ならば戯画で済むが
これは歴とした
この上ない悲惨な現実。
   戯画であるならば
何を風刺して
いるのであろうか?

船一艘、車一台を
造り上げるに要する
時間と労力と
累積された叡智に
想いを馳せる。

叡智、労力、時間の
結晶が
一瞬にして意味を失う。

地を支配し海を操り
空を自由に飛翔するが
自然の営みの中で
人は辛うじて
生かされているに
過ぎないのだ。

流された機体宮城県仙台空港3月13日9時 共同通信
 
ビルに浮かぶ船


生死の命運
召された者、残された者


津波が去っても水が引かない。
交通手段をボートに代え
嘗て道路であった場所を行き交い
救助作戦が開始された。

瓦礫の中から掘り出された遺体に
混じって生存者も発見。
空を自由に飛翔していた飛行機が
瓦礫に塗れ
船が屋上に干され
車は津波を浴びて潰され
機能を失い走る道路も失った。

鉄道はレールを寸断され
鉄橋も壊滅し車両が河原に無残な
姿を晒す。
乗客は未だ生きているのだろうか?

残された者(名取市13日朝10時57分) 
廃墟に座り込み啜り泣く若い女。
一緒に逃げた筈の家族は
津波と共に消えてしまったのだろうか?

高台を目指し懸命に
走っていた子供と生き残った私に
生死の境界線を引いたのは
誰なのですか? 

その半年後9月10日朝日の夕刊にこの女性の
記事「今はただ優しくありたい」が再び載った。
女性の名は伊藤茜(29)宮城県名取市ゆり上の自宅で
10頭の犬と暮らし助かったのは2頭のみ。
ニューヨーク・タイムズ紙は14日付のトップで掲載。
ワシントン・ポストやルモンド紙も掲載。
 
瓦礫から覗く手首



せめぎ合うプレート
4プレートの交差点・東京直下
 

穏やかに晴れコートも要らぬ
早春の暖かさに包まれていた日本列島
2011年3月11日14時46分。

沈み込む太平洋プレートと共に
下方に引きずられていた北米プレートは
ついに堪え切れず、
溜め込んでいた歪みを一気に解き放した。

跳ね返った北米プレートは、
真上の広大な範囲の海水を一瞬にして
天空に放ち
太平洋に死の波紋を投げた。

北米プレートが悪い訳では無い。
空を流れる雲のように
エネルギーの偏差によってマントルが流れ、
太平洋プレートが西へ動き
北米プレートにぶつかり、
潜り込まれた北米プレートが
反り返っただけのこと。
プレートにとっては
日常茶飯事の出来事でしかない。
 死者3105人
安否不明1万5833人

3月14日22時現在


日々、時々刻々更新される
死者と行方不明者の数。
地震発生10時間後の12日午前1時で
1都8県の死者は138人
行方不明者は530人と発表。

それが4日後の14日には
死者23倍、不明者は30倍の
計18938人になった。
阪神大震災の死者6434人とは
較べものにならぬ死者が
出ることは間違いない。

高台にある志津川高校の校庭に
描かれたSOS。
眼下の水没した街には
多数の死者と共に未だ多くの
生存者が生死の境で
助けを求めているのであろう。

細々とヘリによる救助が始まったが
水没した道路に阻まれ
車両が入れぬ為遅々として
救助は進まない。

志津川高校
宮城県三陸町3月13日8時47分 共同通信  




許されざる
《想定外》


まさか、でも念のためと思って福島第一原発の着工月日を調べてみた。
1967年9月29日、1号機に着工と記されている。
やっぱりそうだったのか!

観測史上、地球最大規模のM9.5の超巨大地震がチリで発生し地震波は地球を3周した。
高さ18mの津波に襲われ壊滅的被害を受けたのはチリだけでなく、ハワイでは10.5mの津波で61名が死亡。
日本では岩手で53名、宮城で41名、北海道で11名が津波で死んだ。
その7年後の1967年に福島原発は着工しているのだ。
当然この1960年のチリ地震を想定して安全対策がとられ建設計画は進められ着工した筈である。

だがその福島原発の東電想定の津波の高さは5.4m。今回の津波は3倍近い14mだったので
全くお話にならないお粗末な想定だったのだ。
因みに東北電力女川原発の想定は9.1mで今回は大きな被害は無かったとのこと。
更に東電が福島原発沖で想定していた地震規模は(着工7年前にチリでM9,5があったにも関わらず)
M7.9だと云うのだから呆れてものも云えない。
一体『想定外』と云う言葉は何処から出てくるのか?
同じ仙台沖での869年の貞観地震ではM8,4が推定されている。東電が敢えて
想定値を貞観地震の6分の1近いM7.9にしたのは最早歴とした犯罪である。

これまでも東電は福島原発運転開始後5年目に起きた構内火災をひた隠し、内部告発によって
事実が暴かれた事があった。にも拘らず、更にその2年後1978年11月2日には
原発では致命的な日本初の臨界事故を起こしたが、29年間も隠蔽し続けたのである。
嘘っぱちの『安全神話』で国民を騙くらかしてきた結果が、悲惨な事実として今、展開しつつある。


地震発生1時間後の11日
午後3時42分、緊急連絡が入った。
原子炉の炉心を冷やす
緊急炉心冷却システム(ECCS)が
動かなくなってしまったのだ。
これが機能しないと炉心の温度は
上昇し続け
原子炉の格納容器の圧力が高まり
やがて爆発し高濃度の放射能を
撒き散らすことになる。

地震で原子炉そのものは
停止したが核燃料の発熱は続くので
冷却せねばならぬが
炉心に注水する隔離時冷却装置が
停止、13機ある非常用の
ディーゼル発電機も総てが停止。

政府は早くも(?)地震発生
6時間後の11日午後9時23分、
特措法に基づき
福島第一原子力発電所から半径3km以内の住民に対し
避難指示を発令した。

翌12日午後3時36分、
原子炉1号機の建屋が爆発。
復旧作業中の社員2名と
協力企業の社員2名計4名が
病院に運ばれるが死亡する。

14日午前11時1分、
3号機が燃料棒過熱による
水素爆発を起こす。

白煙を上げる福島第一原発
左下の1号機は半壊、3,4号機から白煙

コンクリートの建屋が破壊され作業員、自衛隊員計11人が
病院に運ばれる。
15日朝6時14分、4号機が爆発、同9時38分4階から出火。
2号機では同15日、圧力抑制室が破損し放射線が漏れたらしく
高濃度10ミリシーボルト/時
通常時の大気中放射線量の約29万倍に相当する)
原発正門で観測。
残る5,6号機も温度上昇中で危険な状態が予測されている。
17日現在、住民の避難指示は
当初の3kmから半径30kmまで拡大され
放射線被爆の恐れが在るため消火隊は
地上から原子炉に近づけず、ヘリによる上空からの
水の投下を行い、
燃料棒の温度上昇を抑えようと
懸命な努力を続けている。

客観的に報道事実を
時系列に並べただけであるが、
恐ろしさに身の毛がよだつ。
津波や火災の被害は復興出来るが
放射能汚染は
為す術が無いと知りつつも
79年の米スリーマイル島原発事故や
86年の旧ソ連・
チェルノブイリ原発事故から
何も学ばず
政府、東電は原発の『安全神話』を
強調し安易に
原子力発電を推進。

「いくつもの安全装置で
原子炉を守る多重防護の考え方を
徹底している」と述べてきた
嘘っぱちの結果がこの始末である。

1960年にはチリでM9.5の地震が
起きているのに地震国、
日本にあって今度の地震M9.0を
『想定外』で済まそうなんて
厚顔破廉恥そのもの。
チリ地震は福島原発着工の
7年前1960年なのだ。

『想定外の事故』といつものセリフを
並べての責任逃れを
断じて許してはならない。 




3月4週・・・・追悼登山 舞瑠の死



   繊細な森のダンサー・舞瑠の死
2011年3月23日(水)夜没す 
 
どんなに静かに
2階寝室のカーテンを開いても
舞瑠は気づいて、離れた奥庭から
食い入るように私の瞳を覗き
尾を振りながら話しかける。


「やっと起きてくれましたね。
ずっと待ってましたよ。
早く山に行きましょう!」

正確に言うと嬉しさを満面に湛え
実に豊かな表情で、
人が語る以上に体全体で
心を伝えるのである。

その仕草は
言語の曖昧な多様性を超え、
確かな舞瑠の感情と意思を
矢で射るように鋭く伝えるのだ。 

黒岳稜線にて 2010年9月4日(土)

他の如何なる生命体とも
このような
密な感情の交流を体験したことが
なかっただけに私にとって
舞瑠は
掛替えの無い存在であった。

森や稜線をあまりにも美しく
華麗に疾駆する姿は
何度目にしても、
惚れ惚れと見とれてしまう。

この上なく深く豊かな感性で
語りかけてくれた舞瑠は
もう居ないのだと
繰り返し自らに
言い聞かせているのに、
ただただ途方もない喪失感の前に
うろたえるのみ。

舞瑠、還ってきておくれ! 



新雪の追悼登山巣鷹山

 
    コースタイム
実施日:
3月26日(土)晴 
山荘発(37km)  8:20 
三つ峠駐車地点 9:50発 
開運山 11:0011:10出  
茶臼山 12:30  
大幡山 13:00 13:10出
御巣鷹山 14:50 15:40出
三つ峠駐車地点  16:3016:40出
計  6時間30分    
山荘着  18:10 

御巣鷹山から先はラッセル



   



「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」
ジョバンニが
う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラのすわっていた席に
もうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。
ジョバンニはまるで
鉄砲丸てっぽうだまのように立ちあがりました。
そして
たれにも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫び
それからもう
咽喉のどいっぱい泣きだしました。
もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。

(銀河鉄道の夜より)


 
永訣の銀河鉄道
新雪となって降り積む哀しみ

するとどこかで、ふしぎな声が、
銀河ステーション、
銀河ステーションと
う声が
したと思うといきなり眼の前が、
ぱっと明るくなって・・・


ほら悠絽
これが舞瑠の乗っている
銀河鉄道だよ。
この白いふかふかの
雪の軽便鉄道に沿って
何処までも歩いていこう。
 
新雪の北面ルート
天空からとめども無く
白い星が舞い降りてきて
森はすっかり
無数の白い星になりました。

しーんと冷たく静まりかえり
胸が痛くなるほどでした。 
もう此処には誰も居ないのです。
つい先ほどまで一緒に
軽便鉄道に乗っていた舞瑠は
降りてしまったのでしょう。

「舞瑠、僕たち一緒に行こうねえ。」
そのジョバンニの言葉は
黒いびろうどの闇に吸い込まれ
哀しみの白い星となって
森を寡黙にしたのです。



その底がどれほど深いかそのに何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。



開運山頂(三つ峠山1785m) 

頂に立つと後方右にどっしりした黒岳が現れる。
昨秋9月4日に舞瑠と駆け巡った山稜が黒岳から更に右へ緩やかな起伏を描く。
そうだ、黒岳には舞瑠が未だ生きているんだ。


御巣鷹山と三つ峠山の分岐

開運山を超えて
御巣鷹山を過ぎると
細々としたラッセルが唯一条。

稜線に出ると
今まで隠れていた北風が
不意に飛び出し
森をざわめかせごうごうと
泣き叫ぶのだ。
もうこれ以上引けない程
ぴーんとリードを張り詰めて
ぐんぐん前進する舞瑠が
居ないので
悠絽はてろんてろん。

新雪に足をとられ
風と森の怒号に気をとられ
まるっきりやる気なし。
やっぱり舞瑠が居ないと駄目か。


哀しみのラッセル
新雪に沈む悠絽

それ元気を出せ悠絽!
と何度声を掛けても
リードは弛みっぱなし。

あの舞瑠のような優美な
踊るような疾駆は
期待しないが
せめてもう少し走って
くれないと
日が暮れちゃうぜ!

てろんとした悠絽も
下りになると
少しは元気になって
ほら胸までのラッセルに
挑戦して
走り始めたぜ。
 
御巣鷹山のラッセル
走っている悠絽の瞳をじぃーと
見つめてごらん。
黒い石炭袋のような穴に
哀しみがいっぱい
詰まっているのが解るかい。

誰からも喜ばれない
いや、寧ろ疎なまれてさえいる
不幸な塊をお腹に抱え
つい、友達に突っかかってみたり
意地悪をしてしまう悠絽。

その悠絽が5か月も早い
3月23日のケンタウル祭の夜に
自らのお腹の不幸な塊に
流され溺れてしまったんだ。

舞瑠はもがき暴れる悠絽を
救うため流れに身を投じたけれど
助かったのは悠絽だけ。
舞瑠を失って初めて
悠絽は舞瑠の優しさに気付き
哀しみに襲われているんだ。


「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へしてやろうとしたんだ。
そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。
ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」



大幡山稜から
最後の舞瑠の山断念
清八山まで行けず

この限りなく透き通った喪失の哀しみは
何処かで出逢ったことがある。
感性はとっくにその哀しみに行きついて
いるのに言葉が捉まらない。

舞瑠との最後の山となった清八山に立てば
哀しみを言葉で
捉えることが出来るだろうか?
 

再び登り返した頂
悠絽の顔が突然引き攣る。
悠絽の足が新雪の上で
 虚しく足掻く。
そこだけ日陰になっているので
雪が凍みついていて
滑ってしまうのだ。

必死で船べりに掴まろうとする
ザネリと悠絽が重なる。
きっと23日のその夜も悠絽は
暴れ狂い必死で
助けを求めていたのだろう。

あーそのザネリを助けた
少年の名前が出てこない。
決して忘れてなんかいない。
胸の中にいっぱい
詰っているのに出てこない。

清八山頂に別れを告げ下山
 えーと、《銀河鉄道の夜》に
出て来る少年は
ジョバンニともう一人
誰だったっけ?

アルプス広場に佇み
柱を背に本を読んでいる少女に
突然声を掛けたら
少し戸惑いながらも
《カムパネルラ!》
との答えが返ってきた。

そうだった。
舞瑠の死は
カムパネルラの死がもたらした
ジョバンニの哀しみだった。



はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……




 黄昏れる永訣の雪
木無山稜線 2011年3月26日(土)15時50分

今まさに息を引き取ろうとしている舞瑠の最後の願いは
《銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいのそらからおちた雪》にあったのだ。
天空から舞い降りた白き星のしずくを口にし
もう一度だけ雪の山稜を風のように舞い、それから銀河鉄道の旅人となる。

ずいぶん探したんだよ。舞瑠の
銀河ステーションを。
黄昏が迫りもう諦め始めた時、西の山稜に立つ大きな米栂の、漆黒の輪郭がキラキラと輝き出したでは。
米栂の小さな葉に着いた雪が残照を浴びて最後の光を放っている。
舞瑠、やっと見つけたぞ!あれはお前の銀河ステーションのカンテラだ。

カンテラまで登りつめると一面に広がる銀の山稜。
さあ、疾駆する華麗な舞を見せておくれ!ここが舞瑠との永訣の山稜だ。



やさしくあをじろく燃えてゐるわたくしのけなげな舞瑠よ
この雪はどこをえらばうにもあんまりどこもまっしろなのだ






還っておいで舞瑠   
 

この2頭が互いに
闘う場面を目にしたことはない。
八ヶ岳の冬山登山で
凍てついた悠絽の髭を舐めてやる
心優しい舞瑠。

しつこく付き纏う雄犬のオバマやチビに
耐え切れなくなった舞瑠が
威喝の唸り声を上げ、挑みかかった時は
悠絽が舞瑠をなだめたり。

山荘で登山活動を共にした7頭の内
全く争わなかったのは
この2頭のみであっただけに
飼い主の幸子さんの言葉には絶句した。

「孕んでいる悠絽が舞瑠と激しく喧嘩して
舞瑠が死んでしまいました」

森のレストラン(右:舞瑠 左:悠絽) 2008年10月20日 
 




舞瑠の死
誕生☆平成15年11月1日☆ ☆七歳五カ月・女の子☆  幸子

捨てられてしまうところを保護し、翌月、平成15年12月に我が家へ迎え入れる。
幼い頃はクールな感じだったが、徐々に人懐こくなり我が家の犬の中でも1番の人懐こさ、そして飼い主に忠実な犬だった。
そのマアルがもぅ居ないなんて‥信じられない‥
あの日、3月23日の夕方から夜(15:00〜22:00)にかけて何が起きたのか‥

その日は私も主人も留守をしていた。夜主人が犬達の元へ行くと、マアルが泥まみれで血を流して横たわっていた‥
その傍らでユーロも泥まみれ。
しかしユーロは無傷。以前にも犬同士の喧嘩はあった為、そんな命取りになるとは思わず、
主人は動かさない方がいいと判断し、そのまま朝を迎えた。
朝私は子供を幼稚園へ送る前にマアルの元へ。横たわったまま動かない。
私は主人にマアルの様子を見てほしと言い残し家を出た。
子供を送り買い物を済ませ家路に着き、マアルの様子を主人に聞くと、まだ見ていないとのこと‥慌てて主人を連れマアルの元へ。

マアルの名を呼ぶ、え?息してない?うそだ!「マアル、マアル」何度も叫ぶ。動かない。
うそだ、マアルが死ぬなんて‥私は大声で泣き叫ぶ。
ユーロ、何があったの?何でマアルをそこまで‥信じられない‥ふとユーロの妊娠が頭をよぎる‥
妊娠をすると精神状態が不安定になる‥それなのか‥
もし妊娠しているならば、元を辿ればチビとオバマか‥あの二匹、マアルが居なくなってから姿を見ない‥
あぁ、その日家に居ればよかった‥そしたら喧嘩を止められたのに‥
すぐ病院へ連れて行けば助かったのか‥悔やまれてならない‥

マアルと仲がよかったアナン。マアルの傍に寄り添っていた‥マアルが居なくなってからアナンの様子がヘンだ。
かなりのショックを受けているようだ。マアルが亡くなって1週間が過ぎた‥
今だにマアルの名を呼んでしまぅ‥こうしてメールを打っている間も涙が止まらない‥
マアルの怪我の様子は、足とお腹あたりから出血が‥見た感じでは外傷はあまりなかった。
内臓がやられてたのか‥なんとも信じられないことが起きてしまった‥

7才という若さで旅立ってしまったマアル‥犬生まだ半分。
ごめんねマアル‥坂原さんと、もっともっと山へ行きたかったよね‥
マアルの犬種はわからないが、おそらく柴犬が入っているだろう。
マアル、逢いたいよ‥還ってきてよ‥この悲しみは癒えやしない‥
ねぇマアル、でもマアルは幸せだったよね、坂原さんと共に山を思い切り走り回れて。
きっとあの世でも思い切り走り回ってるよね。

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