仙人日記
 
 その1173ー2015年  葉月

 Contents [D]  小鑓幻想
《A》 荘厳なるガイアの夜明け
《B》 笠から槍、南岳への稜線図
《C》 双六岳へ 3日目
《D》 小鑓幻想 4日目
《E》 新穂高へ 5日目
小鑓幻想Ⅰ 槍ヶ岳登攀、ちょっと横道に逸れて
8月5日(晴)10時27分 槍ヶ岳山頂より小鑓(以下撮影:村上映子)

どうも人間が小さすぎるぜ!
威風堂々とした巨大な小鑓には悪いんだが、ちょっとだけ仙人を大きくしてもいいかい?
そうそうこの位にすると、ほら仙人の輪郭がはっきりして躍動感が出てくるだろう。
槍の壁を登っている仙人の心は、小鑓にすっかり捉われて
気が付いたらもう、こんな風に熱い交歓に我を忘れていた、と云う訳さ!



それではちょっくら別ルートで!

冬になるとこの鉄梯子や鎖の多くは
雪と氷に閉ざされ
無傷であった昔々の槍ヶ岳に戻る。

この冬の槍ヶ岳を登るには
鋭利なアイゼン、氷を確実に捉えるピッケルは勿論、
命を確保するザイルは欠かせない。
岩肌に穴を開けられ、鉄のボルトを打ち込まれ
鉄梯子や重い鎖を取り付けられ
槍ヶ岳の岩壁はすっかり遊園地になってしまった。
鉄梯子や鎖には老若男女が群れ
槍のてっぺんを目指す。
 
どう、このラインでいい!



スカッとした気持ちいい岩場だな!


そんでもって槍に敬意を表して、いつもの
寄り道をして
ほんのちょっとだけ、槍の素肌に触れてと。

あーそうそうこの感触、
この匂い立つ、噎せ返る様な花こう岩の
巨大な褶曲岩体、
70万年の穂高安山岩類の匂い。
この冬の槍をこよなく愛おしみ、通い続けた仙人としては
どうも鉄梯子や鎖を使って
ひょいひょいと槍のてっぺんに達するのは
そこはかとなく、もの哀しいのだ。
 
この上がテラスかな!



硬くてばっちし決まるフィリクション

透き通ったキラキラ光る糸に
ビブラムのつま先をそっと掛け
フィリクションを確かめる。
ほら、確かに熱く息づいている。

未だあなたはこんなにも生きている!
あー心象風景を満たす懐かしいこの匂い。
透き通ったキラキラ光る糸を引いて、
70万年の生命を懐胎して、甦った巨大な褶曲岩体。
また会えたね!
逢えて、とても嬉しい。
 
ユニクロのストレッチパンツは岩登りに最高!


小鑓幻想Ⅱ 早くも雷雲に包まれる小鑓
8月5日(晴)10時22分  槍ヶ岳肩より小鑓(登攀者拡大)


これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた岩壁である。
數珠を繰るやうな蝉の聲がここを領してゐる。
そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。
この岩壁には何もない。記憶もなければ、何もないところへ、自分は來てしまったと坂原は思った。
岩壁は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。・・・・・


ほんの僅かな動きが、終焉を決定する死の充満する岩壁に在って、存在そのものさえ幻想でしかなかったと悟り、
幻の天空を求めてじょなさんは、登り続けるのだ。


それじゃ私は梯子で

垂直の鎖も手強いわ 

第4日目 8月5日(水)晴午後曇
槍ヶ岳、南岳へ
活動データ:31161歩、21km812m903Kcal

双六小屋 5:10 槍ヶ岳山荘 11:20
樅沢岳(2755m) 5:50 飛騨乗越 11:27
硫黄乗越 6:40 大喰岳(3101m) 11:50
左俣岳(2674m) 7:20 中岳(3084m) 12:20
千丈乗越 9:00 天狗原分岐 13:10(左脚負傷)
槍ヶ岳肩(登攀撮影) 10:10(荷デポ)  南岳(3033m)   13:40
槍ケ岳 (3180m) 10:40  南岳小屋着  13:50(村上14:15) 

アルプス裏銀座コースの夜明け
8月5日(晴)  樅沢岳より


1日で達するとは思えない遥かな天空に槍が黒々と聳える。
さて槍を超えて南岳小屋まで標準タイムで8時間だが、
今日も運よく雷雲に襲われず行き着くことが出来るであろうかと西鎌尾根を登り出す。
昨日の稜線と異なり行き交う登山者が増え賑やか。
冬にナンガ・パルバットトレーニングで通った硫黄尾根が、
あたりの山稜と異なる赤い岩肌を剥き出しにして迫る。


双六小屋の夜明け

さあ、槍へ!

表銀座・燕からの日の出

隊員の山口が
硫黄尾根雪稜でバックステップし、
直ぐその後を着いて
登っていた坂原の左手を
アイゼンで踏み抜いたことを
不意に思い出す。

何だかその時の痛みすら
甘美なノスタルジアに溶かされて、

樅沢岳での払暁

あの時の厳しい状況なんぞ
何処へやら。
槍ではいつものように
一般ルートを少し逸れて
登攀写真撮影。

雲の去来が
昨日より1時間早く、
小鑓もガスがすっきり取れず
良い写真が撮れない。

伊吹麝香草  (イブキジャコウソウ)

雄宝香 (オタカラコウ)

高嶺撫子 (タカネナデシコ)



【13】 羊雲を浮かべた透明な青空

8月5日(晴れのち曇り)

双六小屋も朝食は4時半から可能だと云う。ただし食券は配られず、並んだ順番だと
云うので4時過ぎに行ってみたら、もうかなりの行列だ。慌てて末尾に並ぶ。
食後外に出てみると、輝かしい朝焼けの中、太陽が昇ってくる一瞬に間に合った。
4時59分日の出。樅沢岳の登りをゆっくりと開始する。
後ろから登ってきていた60代くらいの夫婦らしい登山者が、暫くすると女性の方が断然強い様子で見ていても足運びが違う。

やがて女性は稜線の彼方へと消え、足取り重そうな男性がかなり引き離されながら登って行く。
そんな様子を眺めながら、隊長が嬉しげに
「あれは、定年退職した旦那が奥さんの趣味に無理やり付いてきてるって図だな。」と解説。
真相はともかく、年配の登山者が多いのは事実だ。
樅沢岳を上って振り返れば、羊雲を浮かべた透明な青空の元、連なる山の一番奥に
笠ヶ岳の特徴ある形が見える。



アルプス裏銀座コース北方稜線
8月5日(晴)  樅沢岳より


本日の終点南岳近くの平坦な山稜をのんびり歩いていたら、左足で踏んだ小石が撥ね返り左脚を直撃。
えっ!そんな馬鹿なと思ってみても、起きたことは受け入れるしかない。
南岳小屋に入り左脚を観ると裂傷は無いが大きく腫れ上がり、痛くて歩けない。
直ぐ湿布を貼り、痛みどめのロキソニンを2錠飲み暫く様子を観ることにし、
先ずはビアロング缶3本で乾杯!
足の負傷に対してか、それとも何とか南岳小屋に着いたことに対してか!



深山薄雪草 (ミャマウスユキソウ)
 
稚児車 (チングルマ)
 
深山薄雪草 (ミャマウスユキソウ)
銀の葉に真珠の滴を
無数に鏤めた深山薄雪草。
白く花びらのように見えるのは
苞葉と呼ばれる変形した葉。
本当の花は
その中心の茶の斑点のある
球状の部分。
 
高嶺撫子 (タカネナデシコ)
  咲き乱れる薄雪草(エーデルワイス)
掻き分け乍ら
夜明けの稜線を散策出来るなんて
アルプスならではの贅沢。

この薄雪層は本場アルプスの
Edelweißのような
ふさふさした綿毛が無い。

当薬竜胆 (トウヤクリンドウ) 

エーデルワイスとは
気高き白との意だが、寧ろ
日本の薄雪草の方が
清楚な気高さを秘めているような
気がする。

ふさふさしたエーデルワイスの
綿毛は学名の
Leontopodium(ライオの足)
ぴったり。
 

当薬竜胆 (トウヤクリンドウ) 
 
色丹草 (シコタンソウ)
 
岩弁慶 (イワベンケイ)
 
高嶺伊吹防風 (タカネイブキボウフウ)



【14】 遥か彼方に槍のシルエットが屹立


あんな遠くから歩いたのだろうかと、信じられないような気持になるほど遥かに遠い。
これらの山稜を始めて歩いた人たちはどんな思いを抱いていたのだろう。
笠ヶ岳にある祠を祀り、槍ヶ岳を開いたと云われる播隆上人は自らの修行と同時に衆人救済の想いを以って登山道を開いたと云う。
槍ヶ岳には多くの人が安全に登れるように鎖を取り付けたのも上人だそうだ。
修行や祈りとして山を登るという、いわば山岳信仰や宗教は、自分が山を登っているときに、
無意識に感じていることに案外近いのかもしれない。

特に自然と一体感を持ったり、山頂で出逢う朝日夕陽の中に自ずと祈りに近い心持を抱かされることなど、
不思議な感覚はなかなか地上では実感できない。
足元には高山植物が次々と、朝露をきらめかせながら可憐な表情を見せる。
深山薄雪草の群落や、高嶺ナデシコのピンクの群れ、いずれも思わず立ち止まってしまう。
目を上げれば、これまた遥か彼方に槍のシルエットが屹立する。




硫黄乗越

硫黄尾根

左股乗越

千丈乗越
下界は猛暑日が続き
岐阜県多治見市では1日の
最高気温が39・9度に
達し2名が熱中症で死亡とか。

でもこの3千メートルの山稜は
爽やかで
噴き出す汗が小気味いい。

西鎌尾根終点


【15】 毎冬を過ごした北アの峰々

あそこまで歩けるのだろうかと、自問させられる程遠い。
でもきっと、たゆみない一歩がやがてその高みへと引き上げてくれるだろう。
何組かの登山者とすれ違ったが、西鎌尾根も概ね静かな登山道である。
途中には何か所か鎖場もあったが、緊張するほどの岩場は無い。
隊長がヒマラヤのトレーニングの為に登っていた冬ルートを、懐かしそうに話してくれる。
眺めやると硫黄尾根の他の山容とは違う赤みを帯びた岩稜帯は一際目立つ。
重荷や雪崩やラッセルや、夏山からは想像もつかない過酷な条件をクリアして、
北アルプスの稜線を自在に登る為には超人的な力を必要とする。

ヒマラヤ遠征の為に毎冬を過ごした北アの峰々を、隊長は今もこよなく愛しているのだろう。
「登りたいと思えるのは北アルプスで、他の山なら山荘の裏山で十分だと感じてしまう」隊長がそう話すとき、
隊長にとっての<山>が何を意味するのか、分かるような気がするが、
それはきっと私が感じるよりずっと深い想いであるのだろう。
遠い憧れが少しずつ形になるように、遥かに見えた槍も少しずつ岩肌の輪郭を明らかにしてくる。
10時10分槍の肩へと出た。此処までは順調に来られた。槍の穂先へはこの時間帯は空いていた。




早くも雷雲、急がねば!
 
Adieuアデュー

槍よ永劫にさらば! 槍穂稜線を辿り南岳へ



【16】 20数年ぶりに南岳を目指す

行列することも無く頂へ。早くもガスが湧き始めてはいたが山頂の眺望を愉しみ下山。
下山時に3人組を抜かしそびれて、隊長よりだいぶ遅れてしまった。
ザックを背負い直し、南岳へと向かう。歩いているうちに急速にガスが広がり、振り返っても槍が岳はもう見えない。
こんなに岩場だったんだなと思いながら、20数年ぶりに南岳を目指す。
大喰岳を越え、中岳の手前2連の梯子を隊長が乗っ越して行く。私は手前で小休止をしてから、再び登り始める。

湧き上がる雲は次第に厚く、雷が来ないか気にはなるが進むしかない。登山者の影すら見えず、荒涼とした山稜だ。
途中でやっと10名近いグループとすれ違う。天狗原を登って来たらしい。
大きな岩を越えて、ふと下の方に小屋が見えた。かなり下っているようだが、槍平小屋が此処から見えるとは思えないし
近くに他の小屋は無い筈、まさかあれが南岳小屋としたら、そんな筈はないが、それでも覚悟しなきゃ・・混乱しながら歩く。
間もなく南岳山頂に、そしてすぐ足もとに南岳小屋が見えた時は、安心した。




村上は遅れ見えない 大喰岳

中岳で待つ

天狗原は未だ残雪
後続の村上が消え、
山稜の見霽かす彼方まで
人影が絶えた。
輪郭を失い翳となって
時折去来する霧の白いカオスを
透かして
投影される森羅万象。

目をいくら凝らしても
翳の中に
自らさえ居ないと気づく瞬間が
ふとやってくる。

南岳手前で左足負傷
実在の喪失が
こんな風に登山の真っ最中に
やってくるのを知ってから、
登山は新たな意味を持ち始めた。

目指すのは頂ではない。
認識そのものが
実在の喪失を生み出す
その瞬間にこそ
登高の歓びはあるのだ。
下界では実在の喪失を齎す程の
鮮やかな覚醒との邂逅は、
極めて難しい。

ストレッチじゃ!

遅れた村上南岳小屋到着

あれ、全然伸びない


【17】 この負傷が仙人の修行だ

小屋に入ると、受付向かいの談話室から隊長の声。

此処でもビールは良く冷えて美味しい。隊長は足を示しながら、石で負傷したと言う。
ズボンの上からでもわかるほど腫れあがっている。骨には異常なさそうだと言うが、昨年に続いて左足の負傷、心配になる。
幸い出血も無いようなので、湿布で治まれば良いが・・


普通の人だったら意気消沈しているところだが、そこは隊長、ビールをさらにあおり、
さてはこの負傷が仙人の修行だと、秘かに愉しんでいるのかもしれない。

南岳小屋では混雑しても一人1枚の布団の確保が出来る人数しか泊らせないとのことだ。
今までの何処の小屋よりも水に関しては厳しくて、トイレの後の手洗いのみが許される。
口を濯いだり、顔を洗う為にはペットボトルの水を使用とのこと。節水は徹底している。




く北穂滝谷残照 お気に入りだった滝谷ドーム正面壁
8月5日(晴) 18時31分  南岳より




【18】 幻想曲を目にしているような時間

翌朝の為に、ポットにお湯を買わせてもらう。
夕食後、表が騒がしい。外へ出てみると、なんと巨大な虹が空に弧を描いている。
谷の底から虹の足が伸びあがり、天空いっぱいに橋を掛け、更に目を凝らすと、
外側にもう一つの虹が生れている。二重の虹、それも巨大な山顛の虹。初めての体験に、魅入られるように佇む。

カメラを向けてもその全容は納まりきれず、一部しか写せない。
(帰宅後確認したら、南岳小屋の
85日付けブログに大きな虹全容が登場している。
翌朝の朝焼けの景には豆粒ほどの私達も存在していた。)


斜面を少し上ると、岬のように突き出た場所があり、眼前には北穂高岳の威容が控える。
突端の岩に座り、暮れはじめようとする、北穂の岩壁を飽かず眺める。
幽かに夕焼け色に染まり始めた雲が時々そのベールを開いて見せると、
滝谷の峻嶮な岩肌がうっすらと紅色を帯びてくる。

雲海の中に虹の柱が消えたり顕れたり、まるで幻想曲を目にしているような時間が流れる。




突然大きな虹出現 南岳常念平

この痕跡との邂逅が堪らなく好きで
山に登るのかと
妙に納得してしまう。
自らの存在が実在感覚を失い、《遠い記憶》と
認識されるようになった日は
いつだったろうか?

若しかすると
その日から山に
登り始めたのかも知れない。
そんな他愛も無い想いが、
虚空を貫く虹となって天空を駆ける。
だーれも居ない。
去来する霧がカオスになって
山稜を呑込む。
存在そのものをリセットし
肉体の内側でトックン、トックンと
時を刻み続ける
血液のモノローグだけが
存在の《遠い記憶》の痕跡。
 
暮れなずむ虹の穂高を見つめる 南岳小屋前



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