ランギロア・ダイビング

珊瑚海・生命への旅

            珊瑚海其の32・・・・・・・もう1つのヒマラヤ

仙人日記
 
 その1092014年  師走
 
 Contents
《A》 呪われた画家の絶望を追って!
《B》 らんぎろあ村の昼下がり 
《C》 島で、のらりくらり
《D》 さて、海にでも潜ってみようか!
《E》 イアオラナ!海中のごーぎゃん達
 Rangiroa
 
撮影日:2014年11月~~12月
場所:タヒチ・,ランギロア環礁  
撮影&編集:坂原忠清
撮影助手:Tefura・G


《A》 呪われた画家の絶望を追って!

【以下参照文献】
「ノア・ノア」ゴーギャン著、「月と6ペンス」モーム著、「ふたりのゴッホ」伊勢英子著、「ゴーギャンの世界」福永武彦著、
「ポール・ゴーガン」インゴ・F・ヴァルター著、「ゴーガン
高橋明也著、「ゴーギャン、夢と現実のはざまで」伊藤寛純編集、六人部昭典著「ゴーギャン・生涯と作品」

13歳の少女テフラにもパウラにもゴーギャンは子供を産ませ
タヒチ島からヒバ・オア島に渡ってからも、14歳の少女に娘を産ませている。
きっとその末裔が居る筈である。
111年以上も前のことなので玄孫くらいの末裔になるだろうが、タヒチの何処かで
すっかり現代タヒチ人となって暮らしているだろう。

 

そう思ってネットで調べたが、情報はつかめなかった。
ランギロアからタヒチ島に戻り、現地スタッフに訊いてみたら確かに末裔はタヒチ島に居るとのこと。
嘗てはその末裔に話を聞くツアーを試みたが
時間や場所を指定しても現れなかったりで、とてもツアーにはならず断念したとの話し。
今は所在も明らかではなく、例え連絡が取れたとしても逢うことは難しいでしょうと語る。
きっと、野蛮であることを求めたゴーギャンに習い、末裔たちは現代化されず、
ゴーギャンの闇を引きずりつつ、マオリ人として自由に生きてるのだろう。



朝7時開店の車屋AVIS

車はFordのFiesta
ゴーギャンはパペーテから
テフラの待つマタイエア村に戻るに
馬車を使っている。
その馬車も途中までしか行かず
村まで真っ暗な道を歩いて帰った。

2年後の再訪のパペーテには
電灯が灯り
蓄音機が唸り
一層植民地化が進みゴーギャンの
求めていた素朴なマオリ神話の
タヒチは影を失っていた。
あれから111年、
現在の首府パペーテには
な、何と、高速道路があるでは!
その高速道路も
車が犇めき、朝夕のラッシュは
日本の首都高速並なのだ。

レンタカーでのんびりとタヒチ島を
走ろうなんぞと思っていたが
とんでもない。
慣れない左ハンドルで、信号機の無い
ロータリー方式の渋滞した
高速道路を突っ走ることになるとは!

最初はタヒチ物館

モアイ像、ティキ像のオブジェ



紅い花を抱く乳房

嘗てのテフラの面影を求めて
心象の美を描いたとされる

フランスに戻ったゴーギャンは
叔父イジドルからの
遺産9千フランを相続しパリの
ヴェルサンジェトリックス街6番街に
アトリエを借り
狭い入口に≪テ・ファルル≫
≪此処で人は恋をする≫と銘句。

螺鈿のボタン付きの
青いフロックコートを着て
得意になって主人役を務め
ゴーギャンは、花火のような華々しい
夜会を催したが3か月と続かなかった。

このアトリエでジャワ混血女の
モデル・アンナと同棲し
悲運の引き金となる2つの不幸に
見舞われる。

1つ目はタヒチ同行予定の若い画家
アルマン・セガンを
フランス西部のコンカルノーに
ゴーギャンが訪ねた時。
おかしな混血女の一行に
子供が嘲笑して石を投げつけた。
セガンがこの子供をひっぱたく。

子供の父親、仲間の水兵が
やってきて乱闘となり
ゴーギャンは脚の踝を骨折し
後遺症で死ぬまで苦しむことになる。

2つ目はゴーギャンの入院後、
パリに先に戻った混血女・アンナが
金目のものを一切合財かっぱらう。
ゴーギャンはすっからかん。

セガンを同行する費用も失い
美術省長官に「特派員資格」を願い出て
渡航費用を工面せんとするが
新任のルージョン長官はこう告げる。

「あなたの美術は理解できない。
胸糞の悪くなるような代物だから
それを助長するようなことは
私は何もしない」

2度目の訪タヒチの渡航費用を捻出するため
49点の油彩、デッサン、版画をパリのドゥルオ館で売立に出すが
 売れたのは『オランピア』の模作で僅か450フラン。
もう1つが1500フラン以下では売らないと云っていたテフラの絵、
『死霊は見守る』で900フラン(約1万8千円、2001年換算値で)
現在のゴーギャン作品は
300万フラン(6千万円)は下らないと評価されていると云う。

他の作品は不当に値が安かったので売立直後に、
困窮の極みにありながら
総てをゴーギャン自ら買い戻す。
更に画商の元に在る自己の作品の返却を求めて、
画商と友人を告訴した裁判も、コンカルノーの乱闘事件裁判も
ゴーギャンにとって不利な判決が下り
益々ゴーギャンは追いつめられていくのである。

失意のどん底にあって、総てアンナに持ち去られた
がらんとしたアトリエに、娼婦を連れ込む。
此処で更に致命的なダメージを蒙るのである。
脚の痛みに加えて梅毒を娼婦からうつされ
アルコール依存症心臓病、皮膚の湿疹、慢性気管支炎にも悩まされ
遂にはハンセン病患者のそしりを受け、それらを総て抱え、
僅かな金を持って
2度目のタヒチへ独り旅立ったのだ。
 
右がテフラ、左の女はパウラ
(ではないかと推測されている)
自殺未遂後の1899年作 94×72cm
所蔵:メトロポリタン美術館



小さなカヌーに乗って米から?

熱帯樹の気
涅槃に遊ぶイヴ

マンゴの紅い花を抱いた女を
福永武彦はこう述べる。

≪肉感性は全く姿を消し、
裸体は清浄で美しい。・・・
これはタヒチのイヴというよりは
彼自身の神話のイブ、それも
ニルヴァーナの世界に
遊ぶイヴであろう≫

砒素を致死量以上に呑み過ぎて
吐いてしまい、結局
自らの生命を絶つことに
失敗したゴーギャン。

死についての迷いや、生活、
作品の評価等の現世の煩悩を
超越し、涅槃の境地に近い
悟りの世界に
自殺未遂後の彼は
身を置いていたのではないか!

カヌーに乗り、熱帯樹の気根に入り
ティキやモアイ像に触れながら
僅かに揺れ動く熱帯の
湿った空気に、ゴーギャンの
絶望の果てを嗅いでみた。

ティキの大きな

イースター島のモアイ像が何故?



死霊は見守る
原題:マナオ・トゥパパオ 1892年作 73×92cm 所蔵:オルブライト・ノックス・アートギャラリー(バッファロー)
13歳の少女テフラは闇(死霊)を畏れつつゴーギャンの帰りを待っていた

2年前にテフラの涙を振り切って、フランスへ戻ったタネ(良人)・ゴーギャンは、別人の如くに病み、
ハンセン病患者のそしりを受ける程、肉が崩れ病の巣窟と化してタヒチに戻ってきた。
既に結婚していたテフラは、ゴーギャンの元に還っては来たが
梅毒による膿が浸みだした陰部を目にし、赤い目立つ梅毒性バラ発疹が手足の裏から顔面にまで広がり
潰れている様を観て惧れをなし、おそらく1週間程で逃げ帰ってしまったのであろう。

何の救いも齎さなかったパリを捨て、叶わぬ理想と知りつつ最後の希望を託して、再びタヒチにやって来たゴーギャン。
テフラに去られた失意から13歳の少女パウラを手に入れ、モデルとして愛人として同棲を始めるが、
パウラそのものを描こうとはせず、テフラへの想いを引きずりつつ、
一層自らの内面を見つめ、幻視者としてマオリ神話に生きる人間たちを、追い求めていく。

 テフラは裸のままで、
じっと床の上にうつむきに倒れて
動かない。
その目は恐怖に大きく見開かれたまま、
じっと私を見つめている。

しかし私がよくわからないようだった。
私は、しばらく変に
不気味な気持ちで立っていた。
テフラの恐怖が、私にも
伝わってくるようだった。
そしてそのじっと見つめた目から、
燐のひらめきが流れ出てくるような
気がした。

しかし私はテフラのこんな美しい
姿を見たことはなかった。
こんな胸に響く美を観たことがなかった。
(ノア・ノアより) 
左奥にマオリ神話のテュパポー(死霊)か?



 2回目の訪タヒチでパウラと同棲し
≪我々は何処へ行くのか≫を描く ブナアウイア

 この浜に連なる山中で
自殺未遂したのだろうか?
 ブナアウイア
ゴーギャンの代理人
友人モンフレーへの
手紙


≪私のタヒチ旅行は、馬鹿げた、
悲しむべき、
無意味な冒険だった≫・・・

≪私の健康は不意にひどく良くなった、
つまり自然死を遂げるというチャンスが
それでなくなってしまった。

そこで私は自殺しようと思った。

私は山中へ出かけて行き身を隠した。
そうすれば蟻が死体を
喰ってしまうだろうと考えた。
ピストルは無かったが、
湿疹の治療の間に
溜め込んでおいた砒素を持っていた。

毒の量があまりに多すぎたのか、
それとも嘔吐の為に
毒が吐き出されて効力を
殺いでしまったのか私は知らない。
遂に一晩恐るべき苦痛に
虐まれた後で、私は小舎に帰った≫

マタイエア村の教会
テフラやゴーギャンの痕跡なしマタイエア

1回目の訪タヒチで
此処に居を構えテフラと同棲
 マタイエア



ゴーギャン美術館入口
庭だけは手入れされている改修中の廃墟

背の高い蒼い眼をしたブロンドの23歳の娘メット・ガットが、コペンハーゲンからパリにやって来たのは1873年の春。
25歳のゴーギャンはパリのベルタン為替取引店に仲買人として勤め、月給の他、利益配当も与えられ裕福な生活を送っていた。
ゴーギャンの母の友人で後見人となった実業家、美術収集家でもあるギュスターブ・アローザの仲介で
2人は出会い、互いに気に入り半年後にはパリ9区で電撃入籍し、ルター派教会で結婚式を挙げる。

以後10年間で1人の娘、4人の息子を授かり、ゴーギャンは美しい妻と賢く愛らしい子供たちに囲まれて
恵まれた小市民として目出度く、一生を終える筈であった。
それらを総て投げ捨てて、未開の地タヒチに向かい掘立小屋暮らしに甘んじ、
なぜ呪われた画家としてゴーギャンは、一生を閉じることになったのか?



ゴーギャン美術館

現在閉鎖中で廃墟に近い
島をぐるっと一回りするだけ。
迷いようがないでは!
従って当然カーナビなんぞ
必要無いと云うわけだ。

と思ったら大間違い。
タヒチ観光の一番の大目玉の
タヒチ博物館なんぞ
パペーテからスイスイと15分程で
行ける筈であったが
行けども行けども、博物館なんて
翳も形も、勿論案内板も
在りはしない。
焦ったぜ!
目を皿のようにして博物館のある
海側をウオッチしていたが、
断じて、それらしい横道も表示版も
無かったぜ!

仕方なく30分も走ってUターンして
パペーテ方向に戻る。
ガスステーションに給油もせずに
突っ込み姉ちゃんに問う。
≪うそんれみゅぜ?≫
Où sont les musée ?

改修工事には未だ1年半かかるとか

美術館の入り口



中庭の左回廊にあるゴーギャン時代の資料館

≪快楽の家≫の復元の有った右回廊
顔出したねーちゃんは
お見事なフランス語で、当たり前だが
鳥の様に囀る。
gauche(ゴーシュ:左)だけは
「セロ弾きのゴーシュ」と同じなので
聞き覚えがあるが
あとは全く意味不明なシャンソンを
聴いているが如し。

どうやら左に曲がって行くらしい。
だが、どうもその先が
ぐにゃぐにゃしていて大変らしい。
ふーん、まー行ってみるか!と
思って美人のねーちゃんの顔に
見とれていたら
ありゃ!何と白い自分の車に乗り込み
「着いてこい」と
云わんばかりの手振り身振り。

ノアノア原本や世界に散らばる原画の複製が展示されていた場所
うーん、そうか
万国共通のゼスチャーという
言語があるのをすっかり
忘れていたぜ!

それにしても日本で
途を訊ねたら
果たして自分の車を出して
案内してくれるような
人が居るだろうか?
驚いたぜ!

ここでいつもの脈絡のない
飛躍したインスピレーション登場。
若しかすると、この優しさと
人懐こさにノックアウトされて
ゴーギャンは
絶望の百貨店になっても
このタヒチにやって来たのでは?

庭園の彼方に海が観える右回廊

巨大なティキ象が観える

自殺未遂(1897年12月30日)の1か月前の手紙
ゴーギャンからモンフレーへ 1897年11月書簡より

≪私の望むものは、ひたすらに沈黙、沈黙、ただ沈黙だ。
私を静かに、忘れられたままで、死なしてもらいたい。
もしも生きなければならないのなら、私を更に静かに、更に忘れられたままで、生かしてもらいたい≫ 

ひたひたと打ち寄せて来る静寂。
廃墟となり、訪れる
騒がしい観光客も居ないのだから
静かなのは当然だが
その深奥な沈黙が、
雄弁に、ゴーギャンの絶望の
背景を語る。

レプリカの展示されていた大広間も
ゴーギャンのプロフィールを
展示していた資料館も
文字1つの
痕跡もとどめぬ空白。

何故タヒチへ旅立ったかの資料館
白亜の壁と
矩形に切り取られたギアマンが
告げる。

≪何を探しているんだい?
幾ら目を凝らしても、
何も観えはしないよ。
初めから此処には
空白しか無かったんだから≫

解っていたのだ。
ゴーギャンの絶望の背景に
在ったのは畢竟
小さな生命に対峙する
空白を超えた底知れぬ深遠な
空虚だったのだと。

回廊からの庭園は和風庭園を連想させる

ティキ象が繰り込まれた池
追いつめられたゴーギャン
ゴーギャンからシャルル・モリスへ 1896年5月書簡より

理想の楽園等と文明人は勝手にほざくが、タヒチに在っても働かなくては食べていけないのは当然である。
ゴーギャンは絵を描き、その絵をパリの代理人モンフレーや画商に送り、金を送ってもらう。
しかし絵を送っても、送金は常に途絶えがちでゴーギャンは追いつめられる。
自殺を決意する1年前・1896年の夏から秋にかけて、いよいよのっぴきならなくなり
後に「ノアノア」を編纂した友人の象徴派詩人シャルル・モリスに宛てた手紙の中でこう述べている。

≪承知しておいてくれたまえ、私は今や自殺のすぐ側にいるのだ。
恐らくは逃げ道もないだろうし、ここ数か月の内に迫ってきている。それは私の待っている返事と、
それと共に送られて来る援助の金次第だ。

君の友達のタルブーム
(画商)は私に800フラン支払う筈になっているが、彼は借りた相手の運命なんか
気にも留めずに、鼻歌まじりにカフェにアペリチフでも飲みに行くだろう。
1人の画家が死のうと生きようと、知ったことではないというわけだ≫


我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか
原題D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?,  1897年作 138×375cm 所蔵:ボストン美術館
ランギロア環礁のアバトル村の宿・マイタイにて

ゴーギャンの死の決意によって描かれた作品

≪死ぬ前に、私の全エネルギーをこの作品(我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか)に投入した。
悲惨な状況の中で、痛みに満ち、激情に駆られて、修正の必要もない明確なヴィジョンを描いたので、作品から
性急さは消え、生命があふれ出ている≫

ゴーギャンの自殺決意の背景には
ゴーギャンの多くの傑作を倉庫に仕舞い込んで、画家が異国で死ぬのを待っていた画商たちが居る。
最も著名な画商のアンブロワズ・ヴォラールは、若く有能な画家の才能を見抜く目を持ち、
自ら彼らのパトロンとなり、ゴーギャンの作品も巨額な儲けを生み出すと確信し、多くの彼の傑作を倉庫に眠らせていた。
しかし狡猾な画商は、ゴーギャンに催促されると送られる絵が途切れない程度には、
ちびちびと送金したが、パトロンとしてゴーギャンを助けようとはしなかった。

その他の画商ショーデ、タルブーム、レヴィ、画家のモーフラ、額縁屋のドスブール、詩人のモリスも
ゴーギャンに支払わねばならぬ金を送らず、ゴーギャンを追い詰める。
1枚900フラン(約1万8千円)で買った絵が、ゴーギャンが死ねば 3千倍以上の300万フラン(6千万円)になると
予測していたのは、画商ヴォラールだけでは無かったと云う事なのか!
正しく彼は、呪われた画家で在ったのだ。

ゴルゴダの歩み

自殺を決意し最後の作品≪我々は・・・≫を
仕上げる前にゴーギャンは
一幅の自画像を描きあげた。

十字架に掛けられる直前のキリストに
自らを重ね
「ゴルゴダの丘の傍らに立つ」
と題され描かれた、この自画像を見つけたのは
ゴーギャンの死直後
ヒバ・オア島を訪ねた
若き軍医ヴィクトル・セガラン。

ヴィクトル・セガランは
「ゴーギャンから
モンフレーに宛てた書翰集」
の序文に、 

ゴルゴダのゴーギャン自画像
1896年 76×64cm
所蔵:サンパウロ美術館
最後はマオリ人からも
裏切られ
悲惨な状況で孤独に死んでいった
ゴーギャンを、こう記している。

ゴーギャンが描き、
ゴーギャンが守ったマオリ人は
或る者は忠実に、或る者は偽って
彼の廻りに集まったが、
彼を信じたわけではなかった。
この美しい種族は、
美しいが故にゴーギャンは
彼の晩年を捧げたのだが
望まなかったにも拘わらず、彼を裏切り、
彼の最後の日々が
≪ゴルゴダ≫の歩みであったことを、
知ることもなく、
彼を見棄てたのだった。


絶望を孕んだ女共は去り、 美しいが故に晩年を捧げたゴーギャンは、
そのマオリ人たちに見棄てられ、
せっせと絵を送り続けた画商や友人からは、密かに死を望まれた。
梅毒は進行し、心臓病、気管支炎、皮膚の湿疹は更に悪化し、それらから
逃れるために呑む酒が、アルコール中毒を一層加速させ
病巣そのものとなった肉体からも、ゴーギャンは生存を拒否された。

しかしそれらは総て、ゴーギャンを取り巻く生活状況であって、
そのいずれもが死を選ぶ決定的要因とはなりえない。
そんなもんに敗けてしまうような、ひ弱な意思や理性の持ち主であったなら
ゴーギャンはタヒチへ旅立つことすら出来なかった筈である。

1人の娘、4人の息子を授かり、美しい妻と賢く愛らしい子供たちに囲まれて
恵まれた小市民として暮らしていたあの日、
ゴーギャンは聴いてしまったのだ。
≪このまま小市民として一生を終えていいのか?≫と囁く、マオリ神話のタァアロアの声を。



背の高い蒼い眼をしたブロンドの23歳の娘が、いつの間にか隣のデッキチェアに座って、
蒼の彼方に視線を凝らしているでは!
コペンハーゲンからパリにやって来た妻のメット・ガットだろうか?
それともメット・ガットの肉体をパレオにして身に纏い、マオリ神話の大地の胎内女神オヒナとなって
マタイエア村からやって来たテフラなのだろうか。
2人の女が共に胎内に孕んだのは、ゴーギャンとの肉の悦びを装った絶望だと、
マオリ神話のタァアロアが告げる。

空虚に棲み、自らの身を宇宙に変じ天地創造を為した、マオリ神話のタァアロア。
タァアは遠い広がりで、ロアは非常なを意味すると「タァアロアの語源」には書かれている。
生と死の鬩ぎ合う狭間にある、ゴーギャンの絶望が、生から死へのテレスコープとなって、タァアロアの世界を覗く。
非常に遠い広がりである空白を超えた空虚が、永劫の彼方へと続く。
ゴーギャンは観てしまったのだ。



永劫の虚空から生み出された生命が、その虚空と真正面から対峙し、
命の灯を燃やし続けるには、
ぬるま湯に浸った小市民を捨て、生と死の鬩ぎ合う狭間で、虚空との熾烈な闘いを甘受せねばならない。
その闘いの己の手段が≪誰にも描けない彩の造形≫であると悟るまで、
ゴーギャンは小市民の10年を費やしたのである。

≪私の望むものは、ひたすらに沈黙、沈黙、ただ沈黙だ≫
ゴーギャンは小市民であることを捨て、更に彼と現世を繋ぎ止める画商や友人たちとも断絶せんとし、
未知なる彩を追って、死のカンバスに絵具を塗りたくる。
観てしまったにも拘らず、
その行為を続けている限り、永劫の虚空に呑み込まれないと、恰も信じているが如く。

その行為こそがゴーギャンの反転した絶望だったのだ。



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