北鎌尾根・・・ナンガ・パルバット峰国内合宿
  過酷な登攀の末、極上のフィナーレに酔う
                                                               記録: 坂原忠清


顔面が猛烈に痛い。
顔に張り付いた雪が溶けて水の膜を作り、
そこに新たな雪と氷が吹き付け皮膚の体温を奪い、再び凍りつく。
松井が「指が痛い、
凍傷で切断して無いはずの所の指が痛い。」と言う。
ゴーストペインだ!

気温そのものは低くないのだが、
西風が強いため体感温度を奪うのだ。
風速20mぐらいあるので
体感温度はマイナス30度Cを超えている。

国内登山記録

Contents  
《A》 小窓尾根・・・風雪の剣岳 12月~1月 1986年~87年
《B》  鹿島槍北壁&東尾根・・・冬の鹿島槍集中 12月~1月 1990年~91年
《C》  最後の白馬主稜・・・ナンガ・パルバットに消えた中島修 3月  1990年 
《D》  奥穂南壁の奇跡・・・明神岳東稜 3月  1991年 
《E》  ナンガパルバット合宿・・・風雪の槍ケ岳北鎌尾根 3月  1989年 

Page1  初出:岳人505号

1、ナンガ集中登山序曲

 ナンガ・パルバットを3つのルートから短期速攻し、縦走を行おうとの計画「ナンガ1990」はスタートした。その第一回目の合宿を3月の槍ヶ岳北鎌尾根で行った。

 第2回の合宿は8月にブロードピーク(8047m)で行い、更にあと2回の長期合宿を実施し「ナンガ1990計画」の準備を完了する予定である。

 今回の北鎌尾根合宿は数名の隊員が身体の不調を訴えつつ、連日の風雪と腰までのラッセルと闘う最悪の日々が続き、それ故に大変充実した山行となった。

 訓練のため30㎏以上の重量化ザックを背負い、2日で走り抜ける予定であったが、予想以上に雪が深く隊員の1人がP1の登りで脱落し、4日目にして漸く槍の山頂に達した。

 しかしP2からではなく、予期せぬ末端のP1から登ることができ、雪庇を叩き崩し雪崩の頻発する雪稜で深雪と格闘した4日間は、充分満足のいく日々であった。

 ナンガ・パルバットのスケールの大きさとは較ぶべくもないが、最悪の条件下で登った北鎌尾根は、ナンガ集中登山計画の序曲としてふさわしいものであった。

2、ナンガ登頂者SOS

 3月27日朝4時半、高瀬館を出る。ダムの長い登りを終える頃から雪になる。ここまでですでに細田は30分以上遅れる。冬合宿の穂高集中登山でもチームの足を引っぱったので、もっとトレーニングし鍛え体重を減らすように厳命しておいた。にもかかわらず、又もや遅れている。風邪で調子が悪いとぼやく。


 

 細田をトップにし、ややペースを落としダム横のトンネルを抜けると、今度は松井の調子がおかしくなる。「寒い、寒い。」 を連発。行動食がとれず震えている。疲労が激しく苦しいと言う。荷を軽くするため松井のザックからザイル1本とガスボンベ3本を抜き、一番軽い私のザックに移す。

 10年も一緒に登り続け7回も遠征を共にした松井の、こんな姿を目にしたのは初めてである。ナンガ登頂後、凍傷で17本の指を落しリハビリに努め、冬の穂高集中合宿では横尾尾根隊のリーダーとして活躍し、完全に復活したはずの松井である。

 2週間前のロッククライミングでは、私でさえ苦闘する1mのオーバーハングを、指無しの松井はトップでアブミも使わず完登したのだ。体力も技術も復活した松井にとって、この程度の荷とスピードは何の苦にもならないはずである。その松井が「もう俺は登れないかも知れない。千天の出合いまで行ったら1人で下山するよ。」と呟く。

 出発前夜の松井の電話が気になる。風邪をひいて熱を出そうが、少々怪我をしようが、山に行けば直っちゃうよと自他共に認めている私と松井であるが、出発前松井は電話で弱音を吐いたのである。お多福風邪で睾丸が腫れていて動いて良いかどうか不安であると言うのだ。

 
 その電話の返事で私もつい弱音を吐いてしまった。
1ヶ月前からトレーニングによるアキレス腱痛が始まり、整形外科でどう手当てしても直らないのである。その上3週間前の岩登りで右足の生爪を剥がしてしまい跛をひいている。

 そのため10数年間、雨や病気でさえ欠かしたことのないジョギングを1週間も休まざるを得なかったのである。私にとってかつてない大きなショックであった。

 「俺も調子悪くて登れないかもな。」と松井に答えたのである。私も今年で45歳、松井も38歳、そろそろ肉体の部品がこわれてくる頃であり、トレーニングと意志だけでは登れない時も出てくるのであろう。

 だがそんな弱音を話し合ったことは、私にとっても松井にとっても、もちろん初めてである。細田、松井の次は私が歩けなくなるのかも知れないと思いつつ、ゆっくり動き出した松井の後を追って雪の高瀬川を登る。

 水俣川に入り、硫黄尾根の取り付きを過ぎる頃より面倒な高巻きが始まる。何回もラッセルを切って登り返し、岩壁に打たれたハーケンを利用しトラバースを行う。

 2回目の微妙なトラバースで「だめだ、次のハーケンまで手が届かない。落ちるぞ。」と松井が叫ぶ。下の激流まで30mはある。落ちたらまず助からないであろう。「ザイルを出すから待っていろ。」急斜面のバンドで私が声をかける。


風雪の北鎌尾根
葛から坂巻温泉へ距離55.9km、48時間の闘い
 
風雪のアタック
≪2013年4月西穂高岳 登攀者:坂原≫ 
 

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 狭いバンドなのでザックを下ろすのがむずかしい。静かにゆっくりザックを肩からはずしザイルを出す。

 「大丈夫だ通過出来た。」松井が答える。緊張が緩む。出したザイルを使わず再びザックを開きしまう。やはり松井の調子は悪いのだ。

 新人の藤井だけが元気でラッセルを行うが雪が深くて遅々として進まない。時間だけが無情に去っていく。今日はP2まで行く予定であったが、これでは千天の出合いまでが限界であろう。

 2時半、行動開始して10時間目に、やっと千天出合いの吊橋に着いた。10年前と同じように今にも壊れそうに傾いたままの橋である。

 腐れかかっている橋板に積もった雪を落としながら右岸に渡る。さっきまで元気だった藤井が20分遅れ、松井、細田は30分以上遅れたが、どうやら5名全員が無事に千天出合いまでは着いた。心配していた私のアキレス腱も、松井の睾丸も細田の風邪も1日目は試練に耐えたようである。

 しかし連日の悪天を衝いてナンガの短期速攻を行い、登頂に成功した強靭な松井の疲労は回復せず、明日の希望を抱くことは出来なかった。左岸の橋下にテントを張る。『松井危うし!』で合宿1日目は終った。

3、滑落単独下山

 3月28日、青空が1部見えたが又もや雪である。上空に寒気団が居座わり温度も低い。この寒さでは熊が出てきて我々を襲う可能性は、ないであろう。

 山深い北鎌尾根の春は、冬籠りから覚めた月の輪熊が出没し、よく登山者を襲う。春の熊は空腹なため狂暴である。この場所で私も熊にやられそうになったことがある。

 注意して動物のラッセルを観察するが、カモシカや兎の足跡だけで熊のはない。寒気団に感謝すべきか、はたまた吹雪を呪うべきか。

 1部だけが僅かに残っていた右岸のラッセルはすぐ消え、再び高巻きの深いラッセルが始まる。出発前のテントの中で「調子が悪いので1人で下ります。」と私に告げた細田は、松井のセリフに引き止められ黙々と藤井のトレースを追う。

 この先の15峰もある長く急峻な北鎌尾根のラッセルを考えると、細田の体力では無理である。私は即座に下山を認め荷の分配を行おうとした。すると松井が「だめだよ。それじゃ俺が皆の足を引っ張ることになっちゃうよ。頑張れよ。」と止めたのである。1度冬の北鎌尾根で失敗している松井は、肉体の不調をものともせず今日も力の限り登りつめ、何とか槍の山頂に立とうとしているのだ。

 結局、細田も松井も登り続けることにし天上沢右岸のラッセルを開始したのである。雪は増々深くなり、ワカンを出すが斜面が急すぎてワカンでは登れない。トップを交代してラッセルしながら流れを観察する。

 対岸に渡らねば北鎌尾根に取り付くことは出来ないのだが、徒渉点が見つからない。

すると突然カモシカが飛び出してきて我々の直前を横切り、鮮やかなラッセルを切りながら上流を渡って行った。

 徒渉点はあそこに違いない。ここの住人であるカモシカが一番良く知っているのだ。私はカモシカのラッセルを追って上流へと急いだ。予想通り、そこは北鎌尾根からのデブリで埋められ、一ヶ所だけスノーブリッジが架かっていた。

 「オーイ徒渉点があったぞ。」皆に呼びかけ左岸に渡る。デブリを生んだ沢はP1とP2を分ける沢である。ここを左に登って行けばP2に出るはずである。だが沢の左は傾斜が緩くラッセルが深い。

 私は迷わず右の急斜面の尾根を選びラッセルにかかった。高度を稼いだ後で左へトラバースしP2に出れば良いのだ。賢明なカモシカのラッセルも右の尾根に続いている。

 私とカモシカの判断は一致しているのである。結果としてこの判断が、前人未踏の北鎌尾根最末端P1からの登攀を行うことになるとはこの時私は考えてもみなかったのである。何とラッキーなことか、あのカモシカは我々の神様に違いない。

 私の後を追って一番元気な藤井が、右の尾根に出る。尾根は私の予想通り急で堅く凍りついている。重い荷を背負ってアイゼンのツァッケ2本で身体を支えるのは辛い。

 「もう登れない。だめです」予期せぬ言葉が藤井の口から発せられた。一瞬私は信じられなかった。新人ではあるが藤井は強いはずである。


腰までの深いラッセル
≪2013年4月西穂高岳 登攀者:坂原≫


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 冬の登攀も鹿島槍北壁、穂高滝谷四尾根、北鎌尾根から西穂までの長い縦走、剣の小窓尾根から本峰南壁と総て成功している。その上陸上中距離ではかなりの記録を持っている。体力抜群、油の乗りきった34歳である。

「頑張ってP2まで上れ、そこでどうするか考えよう。」と声をかけるが私の視界から消えた。ラストで上がってきた松井に後で問うと、藤井は数m滑落し、すでに登る気力はなかったと言う。松井が必要な食料を受け取り、尾根の下で別れたとのこと。

 私は唖然とした。細田か松井か私がリタイヤーするなら納得出来るが、一番強いと楽しみにしていた藤井が、ポッキリ折れてしまうなんて、何と言うことだ。

 北鎌尾根は3度目なので単独下山は可能であろうが、雪崩には充分気を付けてくれよと祈りながら藤井を切り離した。これで身体の不調を訴えない隊員は、中島1人になった。風雪が強まってきた北鎌尾根P2に向かって、中島と2人で黙々とラッセルを切り続ける。

 そろそろ左に向かってトラバースをせねばと気が付いた時は、もう既に遅かった。両側は雪崩で磨かれた白い氷が露出した急峻なルンゼとなり、目の前には斜度70度程の急な細い雪稜が一本あるのみ。この雪稜に取り付いたら雪崩と共に落下する可能性は充分にある。アンザイレンせ ねばならない。中島とザイルを結ぶ。

アイスバイルとピッケルを交互に打ち込みながら、ジリジリと雪稜を登る。氷の上に3、40cmの新雪が乗った極めて不安定な稜で、まずピッケルで新雪を落し、次に硬い雪面にステップを切らねば前進出来ない。

 調子の悪い後続の松井、細田のザイルシャフトの安全のためにも、ステップをしっかり切る必要がある。
切断された新雪が表層雪崩となって、頭上を襲い私から雪稜から引き剥がそうとする。

 「落ちるぞ、中島ジッヘル頼むぞ。」何度か叫びつつワンピッチ40mのザイルを延ばし中島を上げる。危険な雪稜から一刻も早く抜けようと、コンテニアスで登ろうとしたら中島がコールをかける。

 「ザイルダウンして下さい。」
「だめだ、前進するんだ」
「松井さんが登れないので上からザイルを垂らして下さいと言っています。」
「トップを細田に変えろ。」 「もう降りることもできないそうです。」

 致し方なく、せっかく稼いだ高度を下り、ザイルを下に落とす。P2への登りには、こんな厳しいルートは無い。最早、完全にルートが誤っていることは確かである。しかし、ここから下降しP2ルートを登り返すと更に1日が必要になる。

 何としてでもこのまま登り続け、北鎌尾根の稜上に出ねばならない。風と雪が激しくなり稜線の近いことを知らせる。寒気が鋭くなり指先が痛む。

 松井が動き出したのを確認して再び登り始める。やや傾斜の落ちた雪稜が右に折れている。雪稜に這い上がると、風雪の中に白いピークが見えた。1m程の枯木がポツンと立っている。

 そこだけブッシュの無い小さな円頂である。P2であるはずがない。P2はもっと広いのである。ザイルを引きづりながら円頂に立つ。眼下に千丈沢と天上沢の出合いが見える。

 「P1だ。中島、P1に着いたぞ。」
P2のルートを見ると、ものすごいブッシュに覆われた極端に細い雪稜である。梢に雪屁が乗っているだけの場所もある。

 トップを中島に変え、P2に向かう。2ピッチ進むと雪稜のギャップに出る。鋭く切れ込むギャップの反対側はスラブになっておりアイゼンが効きそうにない。

 「すみませんトップを替わって下さい。」「僅か5mだ。トップをやってみろ、落ちたら俺がトップをやってやるよ。」 中島はしぶしぶと自信なさそうにギャップに降りる。

 「あー大丈夫です。アイゼンが効きます。」嬉しそうに中島が答える。27歳の中島とは3年間ザイルを組み2回の遠征を共にしている。登り方は確実で体力もあるのだが、もう一歩自分を困難に追い込む気魄に欠けている。

 中島にとって冬の北鎌尾根は憧れのルートの1つであり、前から登りたいと言っていた。2年前に槍集中登山で冬の硫黄と北鎌尾根を計画したのだが、その時中島は硫黄尾根を登ったので今回は燃えているのだ。このチャンスを利用して積極的に困難を求めるようになることを私は期待している。



激しい風雪で天地混沌
≪2013年4月西穂高岳 登攀者:坂原≫

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 P2にはP1から40分のラッセルで着いた。誰も通ったことのない稜線なので、ブッシュがひどくザックにひっかかり通過に難儀した。

 P2には尾根に取り付いてから一度も目にしたことのないマークが、やたらベタベタと木々に巻きつけてある。これでやっと冬の通常ルートに出たことにある。

 P2近辺はいかにもテントを張りたくなるような広い平坦な雪面が広がっている。しかし時刻はまだ2時である。今日の予定の北鎌のコルまで無理としても少しでも前進しておかねばならない。

 「今日はここでテントを張りましょうよ。後の2人だってきっと疲労困憊していますよ。」
 中島が遠慮がちに言う。丁度P1に着いた2人にコールをかけて確かめてみると、まだ動けると答える。中島にはかわいそうだが前進を決意する。

 「P3には1張り張れる良いテント場があるよ。そこまでラッセルを切ろう。」私にしても、いつアキレス腱が利かなくなるか不安であり痛みを堪えての登攀である。

 鎮痛剤がなければここまで登ることは出来なかったであろうが、最早下ることは考えられない。前進あるのみ。P2から1時間かけてP3までラッセルを行う。天上沢側に突き出した見晴らしの良い雪面にテントを設営し2人を待つ。

 4人そろったところで、まずウィスキーを飲む。大いに飲む。重量化登山で食料もウィスキーもたっぷりある。ウィスキーも6ℓはある。

 今夜はウィスキーの肴に我が家から持ってきた鮭の刺身を出す。あまりのうまさに4人共感嘆の声を発する。風雪のテントの中で酌交わすウィスキー程うまいものはない。

 これさえあれば、どんな苦しい登攀でも耐えられる。苦しければ苦しい程ウィスキーがうまいのである。こうして合宿2日目は終ろうとしている。辛く苦しいサバイバルゲームで1人が敗退し下山を余儀なくされた。明日は誰が脱落するか、困難なゲームは続く。

 4、顔面凍結、墜落           

 
3月29日、朝晴れていた空も10時頃より雲が広がり雪が降り出す。晴れていれば今日中に槍を越える予定であったが、この雪と風ではスピードアップは無理である。

 寒気団は今日も上空を覆い、朝の気温はマイナス13度である。西風が強く、遙か上空に直立する2つのドーム、P5とP6に雪煙が上がる。P3のテント場から見上げるP6の岩峰は、絶望的な高さで天を突く。岩峰の中央に走る凹角には氷が張り付き直登を拒否している。千丈側にトラバースしてP6は巻かねばならぬが、そのルートの発見さえ不可能に見える。

 6時10分、P4に向けて腰までのラッセルを開始する。中島、私、細田、松井の順で進み私と中島がラッセルを交代する。調子を取り戻しつつある松井が 「俺にもトップをやらせてくれよ。」と頼もしいことを言う。

 P4直下の急な雪稜でブリザードが激しくなり、雪と氷の粒が顔面を直撃する。   

 目を開けていることが出来ず、這うようにしてP4に抜ける。斜面が緩くなり雪面から顔が離れると、氷の直撃が少なくなり目を開くことが可能になる。

 顔面が猛烈に痛い。顔に張り付いた雪が溶けて水の膜を作り、そこに新たな雪と氷が吹き付け皮膚の体温を奪い、再び凍りつくのだ。

 頬に手を当てると堅い氷の皮膜が出来ている。このままの状態が30分以上も続くと皮膚の表面が凍傷にかかり、皮が剥げてしまう。顔の氷を剥がし、急いで高所帽をかぶる。これで顔の凍傷は防げるが指の痛みは、そう簡単にはとれない。

 松井が
「指が痛い。凍傷で切断して無いはずの所の指が痛い。」と言う。気温そのものは低くないのだが、西風が強いため体感温度を奪うのだ。風速20mぐらいあるので体感温度はマイナス30度を超えている。

 5本の指を手袋の中で手の平の中央に折り曲げ、直接、指の皮膚が手の平の皮膚に密着するようにして指先を温める。しかし指先のない松井にはそれが出来ない。ただ痛みに耐えるしかないのだ。

 P4から雪庇の張り出した雪稜になる。天上沢へ大きくカーブを描く雪庇の庇の大きさがトップの私には判断出来ない。雪稜の左端から1mの所に突き刺したストックがスポッと天上沢へ抜ける。一瞬の緊張に冷汗が吹き出る。私は墜落寸前であったのだ。後続の3人に声をかけ、後から雪庇の大きさを観察してもらう。

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 「約1m張り出しています。」ラストの細田が答える。足元に開いた巨大な虚空を見つめながら右にラッセルを切る。しかし右に寄り過ぎると、今度は千丈沢へ雪崩れる恐れがある。この直後、細田が雪庇を踏抜いて天上沢へ墜落した。落ちた瞬間、雪稜の突端に手をかけ細田はかろうじて死をまぬがれた。

 P5の手前は、剃刀の刃のように鋭い雪稜になっている。千丈側へも天上側へも一気に切れ落ち、歩いて通過することは出来ない、「すみません。トップをやって下さい。」

 ラッセルを切っていた中島が、私に言う。面白そうだが、この鋭い雪稜に跨った場合、その雪がどちら側の沢に落ちるか予測がつかない。予測を誤り、体重をかける位置を間違えたら当然私は落下する。

 「ザイルを結べ。しっかりジッヘルしてくれ。」中島にジッヘルを託し、そろりそろり雪稜に跨る。目の前の雪稜を叩き崩す。千丈沢へも天上沢へも雪塊は落ち、雪崩を誘発する。

 雪煙を上げて遙か下方の沢へ、次々と雪崩が走る。充分に雪稜を削ったところで馬乗りの位置を前方にずらす。その瞬間が怖い。私の重みで雪稜が新たな崩壊を始める恐れがあるのだ。そうなったら私の肉体は雪崩の一部となって墜落するのである。

 「オイ、45にもなってこんなことやって良いのかね。」私は中島に陽気にしゃべりかける。私は選んでここに来たのである。この瞬間を楽しむ権利がある。

 30m進んだところでP5の岩壁にぶつかる。この岩壁は直登しない。左の天上側をトラバースするのだ。だが左の斜面は雪崩の発生源になっている。連日降り続いている雪が今にも落ちんばかりに積もっている。

 試しに左へ10m程トラバースしてみるが、一歩踏み込む毎にほとんど雪崩れ落ちる。岩壁直登を決意し再び、P5直下へ戻る。残置ハーケンは一本も見当たらない。10m程で壁は終わりP5の頭へ出られるのだが、ハーケンがなくては登れない。岩壁の左に登れそうなアイスリンネを発見する。

 1時間半が経過した。これ以上時間を無駄にする訳にはいかない。後続の松井にトラバースを指示し、両ルートからP5突破を試みる。アイスリンネは5m直上したところで、ほとんど垂直の氷にぶつかり前進不能。松井のトラバースは何とか行けそうである

 リンネから下りトラバースルートに合流し40mのトラバースを行い岳樺にビレーをとる。そこから40m斜上しP5とP6のコルに上る。時刻は1時17分。P5だけのために2時間半を費やしてしまった。今日中に槍を越えることは不可能になった。コルに吹き上げる強風の中で、今日初めての行動食をとる。

 チョコレート10粒。これで夕刻まで充分動けるであろう。全身雪まみれになったラストの細田がコルに上がる。チョコレートを渡すと「水ありませんか。」ときく。

 我がチームは行動中に水分をとらぬ訓練をしている。朝と夜必要な水分を補給し、日中の飲まずに10時間行動できる体力を目標にしている。 細田もそれは知っている。しかし行動開始して7時間。腰までのラッセルに汗を流し続けた肉体にとってそれは残酷なことである。

 特に彼は当会の冬合宿2度目であり、まだ身体がその試練に耐えられないのであろう。時々自分用の小さなテルモスに飲み物を詰めているようである。

 松井、細田をコルに残し一足先にP6のトラバースを始める。ヴェルグラの張りついた岩峰を千丈沢側に巻く。急峻な雪壁にツァツケ2本を蹴り込みながらザイルを30m伸ばす。あと20mでトラバースは終わり、ブッシュ帯に出るのだがザイルが足りない。

 ここでピッチを切り中島を上げ、そのままつるべで彼を先行させる。難しいトラバースではないが、雪壁の下は垂直の岩壁が続き一瞬のミスも許されない。前回の冬に通過した時は、記憶にも残らぬ程容易なルートであったのに、今回のトラバースはP5もP6も緊張感があり、なかなか面白い。

 P6を超えると眼下に大きな雪庇を張り出した北鎌のコルが広がる。平坦部はない。天上沢へ庇を出した雪稜は、自らの重みに耐えきれず亀裂を走らせ、亀裂を境にして反対の千丈沢へ緩やかにカーブを描く。

 


時には胸までのラッセル
≪2013年4月西穂高岳 登攀者:坂原≫


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 スコップで相当掘らねばテントを張ることは出来そうにない。P7が4つの小ピークを連ね、鋭利な雪稜で武装し急角度でコルに落ち込んでいる。

 鋭利な雪稜はP5の手前の雪稜より、遙かに長い。一度ラッセルを切ってしまえば、足を乗せることができるが、最初は危険で雪稜に立つことは出来ない。

 新雪の鋭利な雪稜に足を乗せることは、何もない空間に一歩を踏み出すことに等しい。正に自殺行為なのである。この長い雪稜は、総て馬乗りになってトレースを刻まねばならない。

 再び中島とトップを交代し、2つの小ピークを越える。3つ目のピークが最高峰で、ここから1つの小ピークを突起させ雪稜は一気にコルへ落下する。不安定な雪稜の下降は登りより遥かに難かしい。

 右足を千丈沢へ左足を天上沢の虚空にぶらりと落としたまま雪稜の下降にかかる。重心が常に雪稜を支える岩稜の中央に掛けるよう移動せねばならぬが、重力がそれに逆らう。

 登りは重力の逆方向に進むため、意のままに進路を変えられるが、下降に際しては重力は前進に力を貸し、重力は意のままより低い方向へ登山者を誘う。これより低い方向が雪崩の進路でることはいうまでもない。

 気が付いた時は、雪崩と共に天上沢へ落下を始めていた。確保中の中島のザイルはいつも出が悪く重いのに、この時ばかりは何故かザイルがスルスルと無制限に延び、私は止まらない。

 目の前に岳樺の木が1本見えた。あそこで止まらねば中島まで引きずり込み。2人共天上沢へ落ちてしまう。

 両腕でおもいきりしがみつく。右腕がととばされる。左腕がかろうじて岳樺の幹に残った。左腕を巻きつけたまま私は止まった。雪煙を上げて雪崩が走り去る。

 一瞬の躊躇なく立ち上がり、雪稜に戻るため右方向に下降する。雪崩の振動は次々と雪崩を誘発する。次の雪の津波に襲われぬうち一刻も早く、この地から脱出せねばならない。

 下降した雪稜は角度を落とし、何事もなかったかのような穏かな表情をし、北鎌のコルへ続いていた。時刻は3時。目の前のP8のたおやか雪の峰が、大きく立ちはだかる。もうこれ以上ラッセルを続けることは危険である。

 9時間の苦闘の末、稼いだ高度は僅340m、進んだ距離はたったの1200m、雪庇を踏み抜いて墜落したもの1名、雪崩に巻き込まれたもの1名、これが本日の成果である。こうして時速130mの蝸牛の1日は終った。

 5、巨大雪庇を越えて

 3月30日。ついに移動性高気圧がやって来た。核心部の独標を越える日に晴れるとは何という幸運。晴さえすればスピードアップ出来る。今日中に槍を越えることも夢ではない。

 昨夜ウイスキーを飲みながら、昂揚した中島が宣言した。「明日俺は槍でトップをやるぞ。最後のピッチを登って最初に槍の頂上に立つんだ。」いつも中島の荷は重い。

 食料を持っている者は、1日毎に荷が軽くなるが中島の荷はテントやコッフェル類なので一向に軽くならない。中島の希望を実現するためには、荷を軽くしてやる必要がある。

 快晴のコルでテントをパッキングしながら、4㎏分の中島の荷を後続の松井、細田に分けた。これで中島の夢は実現するであろう。

 元気良くP8に向かって、トップで中島がラッセルを切る。相変わらず腰までの深いラッセルである。5分もしないうちに全身から汗が吹き出す。中島の顔からは幾筋もの汗が、湯気を上げて流れる。

 穏やかな雪稜でのんびりキジを打っていた後発の松井が、ザックを置いて空身で追ってきた。しばらくトップでラッセルしてから、又後ろへ戻って行った。日毎に松井の調子は良くなっているようである。

 P8、P9を快調に飛ばし、10時には独標の基部に至る。昨日のスピードとは比較にならない。核心部のルンゼが悪くなければ、今日中に槍を越えることは充分可能であろう。

 遅れている細田を松井に委ね、中島とアンザイレンし独標に向かう。ルンゼの左の雪稜がいつもと異なり、岩稜を露出させている。その上の急な雪壁には、何とラッセルの跡らしきものさえ残っている。

 連日の強風がこの独標の岩稜に雪を残す事を許さず、激しい寒気は以前のラッセルをシュカブラとして凍結させたのであろう。岩稜が露出していれば独標を超えるのは簡単である。ルンゼに入る必要も千丈側を巻く必要も無い。

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 ものの10分もかからず独標の核心部を超えてしまった。上部の雪壁も凍結しており、面白いようにスピードアップ出来る。突然、雪壁の上端に槍の穂先が現れた。黒々とした鋭い大地の隆起は、一歩毎に迫り上がり雄大に天を突く。4日目にして初めて目にする槍ヶ岳である。

 C1の雪原に出る直前、山頂から除々に姿を現した4年前のヌン峰が鮮やかに蘇る。アプローチで姿を見せず、ギリギリまで接近して突然姿を見せる劇的な山は少ない。

 槍ヶ岳もその感動を与えるルートは、冬の北鎌尾根だけである。深い想いを抱きつつ苦しく長いラッセルに耐えて、初めて得られる感動なのである。
「オーイな中島、槍が見えたぞ。」 ザイルを手繰りながら中島が上ってくる。

 一歩又一歩、独票の山顚に近づく。「アッ、見えました」中島の弾んだ声が返る。

 アンザイレンしたまま休むことなくP11、P12を超える。一見極めて明瞭な稜線なのだが、ルートファイディングに神経を使う。眼下の千丈沢も天上沢も傾斜を失い、広大な雪原となって快晴の太陽を乱反射する。ほんの僅かなミスで、あの光の海へ落下するのだ。

 だからこそ一瞬にして、安全確実なルートを識別せねばならない。だがP13では私は行き詰まってしまった。ほとんど垂直のアイスリンネとその上に被さる2mの巨大雪庇とから成る正面ルートは問題外である。左の天上沢側は急傾斜のスラブと雪稜でトラバースの対象にはならない。

 右側は岩壁の裾に走るルンゼを下れば、ルートが拓けそうである。1ピッチ40m下るが岩壁の間にルートを見い出すことは出来ず稜線に戻る

 再び正面ルートと左側のトラバースルートを観察するが、とても登る気は起きない。右の岩壁の一段上のルンゼに入り、ルートを探す。絶望的な雪壁が続き、時間の無い今、取り付くわけにはいかない。

 又また稜線に戻る。「正面から登るしかないんじゃないんですか。」 稜線でキジを打っていた中島が無責任な感想を述べる。
「よし、やってみるか。」
ここでグズグズしていると今日中に槍を越えることが出来なくなる。

 リンネに入ると頭上に2mもの雪庇が覆い被さり、恐怖が全身を萎縮させる。快晴の太陽で1日中温められた巨大雪庇は、いつ落下しても不思議はないのだ。

 その瞬間は今かもしれない。

 雪庇は右が僅かに切れている。そこを叩き潰せばP13の頭へ、最小の犠牲で出られるであろう。だがリンネの右は部分的に岩が顔を出し、アイゼンとピッケルを拒否している。

 スタンスを求めて岩場の氷を削る。ピッケルを振りながら10m上に迫った雪庇に視線を走らす。直撃されたら首の骨が折れるかなーなんぞと他人事のように考える。前回の雪の北鎌では、独標から槍までの記憶はほとんど無い。

 2時間程で走り抜けてしまったのである。もちろんこんな雪庇は、断じて無かった。どだいこれ程の雪庇は、長時間重力に耐えられるはずがない。

 崩壊直前の物理現象として、かろうじて存在しているにすぎないのだ。幸い岩場は次々とアイゼンの掛るスタンスを提供してくれた。急いで雪庇直下まで登る。庇をピッケルで叩く。雪塊が頭上に降りかかり、アイスリンネを落ちていく。

 ポッカリと庇に穴が開く。穴を広げ上半身をずり上げ、ピッケルを深く打ち込み一気にP13の頭へ這い上る。

 ザイルを手繰り中島を上げる。ラッセルされたルートは、ラッセル車の通った線路のようで、何の苦労もせずいとも容易に中島は登ってくる。

 P14を超え、台形のP15を下ると北鎌平である。昨夜の中島の夢を実現するためにザイルのトップを交代する。陽は傾き始め、北鎌平から槍の穂先の影に入り寒くなる。

 コンテニアスで200m程登ると、行く手を岩壁に遮られた。中島の足は重く、ザイルを引きずる後姿は徒労の影を濃く落としていた。

 「オイ、トップを代わろうか。」と声をかけると元気無く
「ハイ、お願いします。」と返事が返ってきた。

 再びトップに立ち、左にトラバースしルンゼに入り40m一杯に登り中島を上げる。姿が見えなくて心配していた松井、細田のザイルシャフトがP12に現れる。1時間以上遅れている。

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 彼等の所には燦燦と陽が当たり暖かそうである。上を見上げると10m程上を陽光が斜めに走っている。あそこまで登れば私も、再び太陽に会えるのだ。

 「中島、コンテで登るぞ。」陽光に向かって最後の10mを、ゆっくり登る。見慣れた槍ヶ岳山頂の祠が、陽光と共に目に飛び込む。

 登攀は終ったのだ。北鎌尾根のフィナーレは、冬のアルプス登攀の中でも極上である。この美酒を知ってしまった者は、何度でも訪れ、その劇的な美しさに酔いしれる。2時54分、私と中島も槍ヶ岳山顚で、4日間の苦闘を称え大いに酔いしれた。

 何処からともなく飛んできたヘリコプターが槍山頂の小さな2つの命を見つけ、旋回する。パイロットが手を振る。私も初めてヘリコプターを見た子供のように、一心に手を振る。

 6、終 章            

 3月31日。高気圧は去り、2つの低気圧が日本海に入った。雪混じりの突風が吹き荒れ、空はゴーゴーと吠える。だが満ち足りた登攀の後では、悪天も少しも気にならない。                  

 肩の小屋から坂巻温泉まで10時間で一気に駆け下りた。4人でビール18本、ウィスキー1.5ℓを飲みながら、予期せぬ北鎌尾根の成果について語り明かした。

 充分に満ち足りた素晴しい山行となった最大の原因は、北鎌尾根が最悪の状態であったということである。私自身、数回通った雪の北鎌尾根で今回程雪が深く、雪稜が鋭利でルートファインディングに苦しんだことはなかった。  

 雪の状態、気象条件によって、冬の北鎌尾根は大きく評価が異なる。その最も困難なチャンスに恵まれたことが、実りある山行を実現させたのである。

 更に各人が肉体の故障を抱えながら、それを克服しつつ登攀を完成させたことも、大きな収穫である。 

 肉体のハンディキャップは即、状況の困難化に直結する。場合によっては、1人の肉体のハンディがチームを死に追いやることもある。肉体に故障がある限り、登攀に参加すべきではない。

 しかしハンディを冷静に認識し、より厳しい困難を自ら甘受する決意があるなら、登るべきである。その体験は生のテリトリーを拡大し、生と死の限界状況からの生還を約束するであろう。

 そのようにして個の限界状況は、拡大されていくのである。慢性のアキレス腱痛に加え、45歳になろうという現役としては重い年齢のハンディの中で尚、私が登り続ける理由はそこにある。

 内なる限界状況は年齢と共に選択の余地を失い、生理的条件として否応無しに肉体に刻まれる。この刻印から逃れる術はない。

 いつ壊れても不思議ではない私にとって、1つ1つの登攀は常に最後の登攀であり、刻印への挑戦である。

 登攀の魅力は内なる限界状況への挑戦にある。肉体と精神の限界の極点に立ち、新たな地平を目にする時、歓びは止めどもなく存在の深奥から湧き起こる。それは根本的な生命の歓喜である。          

 「魔の山」ナンガ・パルバットでの短期速攻、集中登山、そして縦走という過酷な課題が、限界状況の創造を意図していることは言うまでもない。

 私達は今、積極的な選択により夫々の胸の内に、1つの限界状況を創り出し、その彼方への飛翔を決意したのである。16ヶ月後に迫った「ナンガ1990計画」の第一歩が、このような悪条件に恵まれた合宿で出発したことを感謝せねばならない。

≪メンバー≫

坂原忠清(44)、松井公治(38)、
中島修(27)、藤井秀人(32)、
細田一郎(37)