日本教員登山隊

日本教員登山隊

                           設立1975年

                           代表坂原 忠清

            登山隊山荘住所:〒404 甲州市 ℡・Fax   E-mail ・・・(山荘へのアクセス)            

遠征記録            

     中央アジア遠征峰

     8千m峰:                                    ☆ 初登頂、初登攀             

k2(8611m・1994年) ナンガ・パルバット北東稜(8125m・1983年)
ナンガ・パルバット西壁(1987、93、95年) 3回実施(2回登頂) ナンガ・パルバット南西稜(1990年)
ブロードピーク(8047m・1989年) ガッシャブルムⅡ峰(8035m・1997年)

      7千m峰:

☆ムスターグ・アタ北峰(7427m・1981年) ヌン峰(7135m・1985年)
レーニン峰(7134m・1988年) ポベーダ(7439m・1991年)
ハンテングリ(7010m・1991年) チャパーエフ峰(7371m・1991年)
☆ニンチン・カンサ東稜(7201m・2000年) ☆チョー・サブ(7022m・2004年)
ラクバリ峰(7018m・2005年) カンペンチン〔7293m・2006年〕偵察

  

      6千m峰:

☆ビンドゥー・ゴルゾム(6216m・1979年) ワスカラン南峰(6768m・1980年 アンデス)
チョンラ南峰(6448m・1983年) ☆マンデカン(命名・6150m・1986年)
アコンカグア(6959m・1992、93、95年)
3回実施
☆ビアンゴⅡ峰(命名・6210m・1992年)
アイランドピーク(6169m・1996年) ☆Mt Saka Ⅰ峰、Ⅱ峰、西峰(命名・6380m,6224m、6170m・1998年)
☆カンディスミ峰〔6214m・1999年) ☆ナイギ・カンリ峰(6106m・1999年)
☆タマ・カンリ〔6016m・1999年) ☆ニンチン・カンサ東峰(6374m・2000年)
☆ガルマⅠ峰(6484m・2001年) ☆ガルマⅡ峰〔6222m・2001年)
☆キラ峰(命名・6103m・2002年) ☆パヌ峰(命名・6455m・2003年)
☆クレオパトラ峰(命名・6105m・2003年)

その他:
  アフガニスタン:☆コーイダラーツ峰(命名・5578m・1977年)
  ヨーロッパ・アルプス:(アイガー、マッターホルン、モンブラン、モンテローザ等・1975、76年)
  アフリカ:キリマンジャロ(5895m・1983年)
  カフカス:エルブールス(5642m・1984年)、他
  ヒマラヤ:ノースコル(7028m・チョモランマ2005年)

登山学校: 
 

ベット遠征を開始した1998年からニマ・ツェリン(チベット登山学校創始者で現校長)とチームを組み
      当隊はチベットの未踏峰を登り続ける。2001年6月ニマがラサに登山学校設立。それ以後、学校の生徒
      卒業生等と合同で日本教員登山隊は登山活動を続けている。


代表プロフィール
  上記遠征記録の総てに隊長として参加、現在[2005年]、22座の未踏峰の登頂に成功している。
 

登山隊資料

書籍(当隊出版・閲覧、購買可、幾つかの指定図書館に所蔵)

書 名 遠征地域 国名 発刊年度 定価 備考
ハイジの国へ ヨーロッパアルプス スイス、フランス 1976年 千円 96P、モノクロ写真残部無し
オクサスの雪 中部ヒンズークシュ アフガニスタン 1978年 千円 116P、モノクロ、残部無し
未知なる頂へ 東部ヒンズークシュ パキスタン 1980年 三千 215P、カラー写真
シルクロードの白き神へ 崑崙山脈 中国 1982年 二千円 172P、カラー写真、残部無
日本語ウルドゥー語辞典 ヒンズークシュ パキスタン 1983年 千円 137P、日本初の辞典
Nanga Parbat 銀鞍 パンジャブヒマラヤ パキスタン 1984年 三千 210P、カラー写真
ヌン峰 インドヒマラヤ インド 1986年 二千 122P,カラー写真
夭逝せる若き登山家へ 追悼集 故、中川雅邦 1987年 三千 248P,カラー写真
マンデカン初登頂 ブータンヒマラヤ ブータン 1987年 三千 156P,カラー写真
Nanga Parbat 西壁 パンジャブヒマラヤ パキスタン 1988年 三千 176P,カラー写真
Broad Peak 西稜 カラコルム パキスタン 1990年 三千 252P、カラー写真
Nanga Parbat 南西稜 パンジャブヒマラヤ パキスタン 1991年 四千 261P,カラー写真、残無し
Pobedaから未踏無名峰 天山山脈、カラコル ソ連パキスタン 1993年 四千 239P,カラー写真
K2からNanga Parbat     パンジャブカラコルム パキスタン 1995年 四千 302P,カラー写真
星になった泰樹へ 追悼集 故、成田泰樹 1997年 三千円 236P,カラー写真
チベット未踏無名峰へ ヒマラヤ ネパール、中国 1999年 三千円 230P,カラー写真
未踏峰遠征報告 ヒマラヤ 中国(チベット) 2000年 千円 60P、モノクロ写真


未踏無名峰へ
 坂原忠清

K2遠征準備基地として建てた山荘に、五つ目の新生の夏がやって来た。
逃れられぬ日常の重力の臨界点を縫って、重力崩壊の危機から脱出すべく、新生の夏はある。
木星は光り輝く恒星の途を選ばず、重力の限界点ぎりぎりまで肉体と精神を育みながら、
惑星であり続ける途をとり、恒星の死・重力崩壊を避けた。
しかし相変わらず木星の質量は、日常の累積と共に肥大化し、自らの重力によって崩壊する危機に晒されている。
この日常重力の呪縛を削ぎ落し、スリムな肉体を創造する為に、新生の夏はある。

山荘のテーマは、ゆぴてる
=木星である。
中国の新進若手画家、李明氏等による大型油絵の木星連作を、山荘の壁面に飾る意図の一つは、新生の夏への熱い期待にある。
五つ目の新生の夏は、チベット未踏無名峰遠征にあてられた。
あらゆる文明的なものが氾濫する地球上に、奇跡的に残されたチベットの未踏峰群は、
時間と空間を超越した最後の聖域であった。
K2以後、山荘を母港としてナンガ・パルバット、南米アコンカグア、モンスーン期のアイランドピーク、ガッシャブルムⅡ峰と
オデッセイは続き、更にソロや別行動隊としてブロードピーク縦走、
チョモランマ、マカルー遠征が行われ、それぞれの壮大な叙事詩が綴られた。
だが、いずれの峰も、多くの遠征隊による文明的汚染の氾濫に大なり小なり晒され、オデッセイそのものが、
時間と空間を超越する聖域を生み出すことは難しかったようである。

八千m峰から文明的汚染を拭いさることは、最早不可能なのであろう。
どんなに八千m峰をクリーンナップしようが、その峰に氾濫する情報は消しようが無い。
チベットの未踏峰群は、オデッセイを志向する者にとって、正しく地球上に残された最後の聖域であり得るのだ。
宇宙との接点であるヒマラヤ高峰の山巓を超えて、宇宙そのものへのオデッセイを志向し、
栗田陽介氏は宇宙飛行士の途を歩み始めた。
月と地球の重力バランスポイントである五つのラグランジュ点とヒマラヤを酒のつまみとして、
陽介君と近未来のオデッセイについて語りあったのは三年前。
月と地球を結ぶ直線を一辺とする正三角形の頂点に存在する
Ł4、Ł5を拠点としてのセーリングと月登山の実現性について熱く語った。

その後、一緒にヒマラヤで何度かザイルを組みながら、陽介君とは何故か近未来のオデッセイについては話し合っていない。
三年前のあの時、陽介君の胸中にはすでに宇宙飛行士への挑戦が、秘かにプログラムされていたのかも知れない。

何故、宇宙飛行士なのか、何故、ソロで二度もチョモランマの北西壁に挑んだのか、
何故、二十六歳の若さで大宮秀樹は死んだのか?十六冊目となる今回の我々のオデッセイアは、
それらの問いに果たして答えられるのであろうか。


何故山に登るか
―マズローの誤謬―
坂原忠清

登山の究極の目的は自己実現にある。
社会への同一化と言う、長い他者志向の眠りから目覚め、自我の存在を強烈に意識したとき、人は自己実現への最初の旅を始める。
旅の手段として何を選ぶかにより、自己実現への途が拓かれるか、閉ざされるかがほぼ決まる。
社会が要求する同一化された価値観によって旅の手段を選ぶならば、多くの場合途を閉ざされる。
旅人は旅の中絶が、出発点からプログラムされていたことに気づき、途中下車を余儀なくされる。
一方、手段としてヒマラヤを選んだ者は、途中下車を繰り返しつつも、死の瞬間まで自己実現への旅を続ける場合がかなりある。
それはヒマラヤを求める行為が、本質的に社会の要求する価値体系にしばしば反するからである。

米国の行動心理学者マズローによると自己実現への欲求は、人間の欲求の中で最上位に位置し、
四段階目の欲求である社会、組織からの承認欲求の上に形成される。
つまり社会の組織から承認され、社会的地位、名声、権力を手中に収めた者が次なる目標として抱く欲求と位置づけているのである。
凡人の欲求は社会的地位や権力を手にすると、それで充足される。
しかし社会的承認が社会の要求する価値体系の反映でしかなく、自己が決定した価値体系と一致しないことに気づいたとき、
他者ではなく『自己が承認できる自己』を求める欲求が芽生え、凡人は変身する。
社会的承認と言う土壌の上に、自己実現への欲求が芽生えるのであって、この四段階目の欲求実現なくしては、
五段目の欲求実現の土壌を手にすることは出来ない。

マズローはステップの一段目に生理的欲求―食欲、睡眠欲、性欲を置き、このステップの実現の上に二段目の安全への欲求、
更に三段階目の所属、愛の欲求を置いた。
食欲や睡眠が確保されぬ状態で、安全への欲求は意味を持たず、安全を手に入れぬ限り所属や愛への欲求は実現されない。
人間は社会という機構の中で労働することにより、第一と第二段階の欲求を実現し、パートナーを探し出し、
ファミリーを形成し第三段階の欲求を満たす。
四段階目の欲求は抱いても、実現の割合はそう高くなく、かなりの人々は第三段階の欲求実現で一生を終える。
又第四の欲求を実現した者は「私は並みの人よりすぐれている」と言う優越感を錯覚し、自らを慰撫し一生を終える。
しかし猿の社会でも、ボスの座を争い第四の承認欲求実現を図ることに思い当たる時、第四欲求は
人間のみに許された知的欲求」ではないことに気づく。

これに気づいたのがワーナーブラザースの副社長フランクウェルズ、テキサス石油会社オーナーのディックバスは、
第四欲求を実現し自己実現の途を、世界五大陸最高峰登頂に求めた。
マズローの五段階欲求説を絵に描いたような、アメリカンサクセスストーリーである。
しかし一般的にヒマラヤニストの世界では、四段階を経て自己実現への途を選ぶのは、マズローの理論に反し極めて少ない。
自己実現の手段として、ヒマラヤを選ぶ者は、必然的に第四段階の欲求との対立を余儀なくされるからである。
ヒマラヤの山巓に立つ為には、しばしば死の危険性を甘受し、高額な費用を調達し、長期間の休暇を確保せねばならない。
この三つの条件は、まず身近な組織である家庭や親族から拒否され、
次に職場で長期休暇を拒否され、第四の社会承認と真っ向から対立してしまう。

ここで多くの者はヒマラヤを断念し、組織、社会の忠実な奴隷となり、第四段階の欲求実現に向けて舵を取り直す。
敢えてヒマラヤを選ぶ者は、社会の承認を断ち切り、第四段階を飛び越え一気に自己実現への途に身を投ずることになる。
ヒマラヤニストが第四段階を飛び越えねばならぬもう一つの理由は、ヒマラヤ登山の困難性そのものにもある。
社会的地位、名声、権力を手に入れる為かなりの人は、一生を賭ける。
生命の最も燃え滾る若き日々の総てを注ぎ、利潤追求の競争社会で勝ち抜こうと戦い続ける。
長い時間をかけ、勝ち抜いて、自らを見つめ直した時、発見するものは老いた肉体であり、
最早、ヒマラヤの困難に立ち向かえるマシーンでは無いことを悟る。
ディックバスが、老いたマシーンを相手にエヴェレストの山巓を自己実現の場に選び、五大陸最高峰登頂を果たしたことは、
一つには計画決断の早さと確かな実行力にある。





個体差はあるが、五十歳代のマシーンはヒマラヤで使えるか否かの境界線上にある。
社長として充実した仕事のできる五十代前半は、同時に整備さえすれば、まだヒマラヤで通用可能なマシーンである。
境界線上にあると言う肉体状況認識からの即断、そしてマシーン整備の実行力、この二つがディックバスのヒマラヤの夢を実現したのだ。
社会的地位を得た者が、隊長としてヒマラヤ遠征を組織することはあったが、
サミッターを自己実現の手段にした例は、これまで殆どなかったのである。
サミッターを目標とせぬ隊長業は、所詮第四段階の欲求範囲を出ない。
隊長としての名誉、名声を求める行為は、承認欲求そのものなのである。

今後、ディックバスのサクセスストーリーに刺激され、社会的地位を得た者が隊長ではなく、サミッターを目標として、
自己実現をもくろむ者が続くであろう。
エベレストビュウホテルのオーナー宮原氏もその一人であろう。
六十歳、ウエスト90㎝の彼は、ディックバスよりも遥かに老いたマシーンを引っ提げて、エベレスト山頂直下まで迫った。
ヒマラヤの常識を打ち破る、老いた肉体に挑戦する大冒険であった。しかし残念ながら山頂直下で視力を失い、大冒険は失敗に終わった。
第四段階を経てから、困難なヒマラヤを自己実現の場に選ぶには、余りにも遅すぎるのである。
第四段階を経てからのヒマラヤは、別の問題も提起する。
第四段階で得た社会的地位と富を、必要以上に乱用する事によって、自己実現からの乖離を生じるのである。
金をふんだんに使い、自分の専属ポーターを何人も付け、酸素を大量に吸って、企業管理職と同じ発想で、
利潤としてのサミットを追うならば、欲求は第四段階に停止し、自己実現への途は閉ざされてしまう。
自己実現は自らの肉体と精神の清冽な酷使を要求し、燃え尽きた空虚な肉体に至高体験を結実させるのである。

清冽な酷使が承認欲求と対極にあることは言うまでもない。
自らの行為を社会に承認してもらいたいと願う他者志向を超越しないかぎり、自己実現による至高体験は得られない。
他者志向の拒否から、ヒマラヤへの途を選んだ者と異なり、第四欲求実現後ヒマラヤへの途を選び、
発想の転換が出来なかった者は至高体験から疎外されてしまうのである。
マズローの誤謬はここにある。第四段階の欲求実現後に、自己実現へのステップが可能なのではなく、
むしろ自己実現は第四段階の欲求をしばしば否定し、必要とさえしないのである。
自己実現の本質は、社会的承認との乖離、他者志向の超越にあるのだ。

ヒマラヤの山巓には、自己実現に伴う至高体験が存在する。しかしその至高体験は下界での、
金力、権力、地位、名声等の上に積み重ねられるものではない。
五大陸最高峰登頂後、ディックバスは80名の交響楽団と百150名の合唱団を標高3300mの山上に集め、
総勢500名の盛大なパーティーを開いた。
マスコミ等のよる登頂成功報道だけでは飽き足らず、更に承認を強烈にアッピールするため奇を衒って、ユタ州ヒドゥンピーク山上に、
豚の丸焼きを始めとする豪華料理を用意し、登山服ならぬタキシード姿で演説をぶち、ターザンを真似て雄叫びをあげた。
彼らの行為は、自己実現の見本として世界中に報道され、充分な社会的承認を受けた。

ここまでくると彼らの欲求は、第四段階に止まっていたことに気づかざるをえない。
至高体験から疎外されたからこそ、自らの行為に何らかの意味付けを行う必要があったのである。
その意味付けが、より強烈な社会承認であり、承認手段として気を衒った山巓の盛大なパーティーを演出したのだ。
本来、至高体験は第四までの欲求の遥かなる高みに位置し、それを経験した者にとってはもはや、他者の承認を必要としない。
他者の承認から得られる満足感を凌駕した、激しく深い歓びを知り、至高体験者は社会的承認の無意味さを実感するのである。
もっとも至高体験を単にβエンドルフィンの分泌による生理現象と定義付けてしまえば、
至高体験が体験者の精神領域まで入り込み思惟を統治する事はない。

当然、至高体験からの疎外もあり得ない。βエンドルフィンの恍惚をエンジョイし、ディックバスのように
盛大なパーティーを開き、更に歓びを増幅すればよいのである。
だが、至高体験に伴うβエンドルフィンの分泌は、至高体験の付帯現象であって、他者志向の超越とは直接結びつかない。
従って、βエンドルフィンの分泌を至高体験と定義付けることは出来ないのである。
自己実現とは至高体験の実現であり、至高体験とは、森羅万象の遥かなる高みにある『他者志向の超越』にある。
それは限りなく神の領域に近づく行為であり、存在そのものが宿命的に持つ重さからの解放、精神の肉体離脱である。
存在の重さから解き放たれ、空間と時間への飛翔さえ可能となり、旅人は初めて深遠な宇宙への自由を手にする。
K2無酸素単独登頂した当会(スビダーニェ同人)の戸高雅史が、時折私に語る「ヒマラヤでの宇宙との邂逅」は、
正しく至高体験による精神の肉体離脱であり、宇宙への自由を手にした瞬間である。
『何故山に登るか』この永遠の問いに対する解答の一つがここにある。

(1997年5月  記)(初出「山と渓谷」745号)


 

 


登山隊報道記録抜粋

ハイジの国へ(1976年) オクサスの雪(1978年)
未知なる頂へ(1980年 シルクロードの白き神へ(1982年)



日本語ウルドゥー語辞典(1983年 Nanga Parbat 銀鞍(1984年)
ヌン峰(1986年 夭逝せる若き登山家へ(1987年


マンデカン初登頂(1987年 Broad Peak 西稜(1990年
Nanga Parbat 南西稜(1991年 Nanga Parbat 西壁(1988年



Pobedaから未踏無名峰(1993年 星になった泰樹へ(1997年)
チベット未踏無名峰へ(1999年 K2からNanga Parbat (1995年
未踏峰遠征報告(2000年)


登山隊報道記録抜粋


毎日新聞:1979年8月25日
 
東京新聞:1979年7月2日

毎日新聞:1979年7月14日
 
毎日新聞:1981年5月10日

読売新聞:1983年1月1日

読売新聞:1985年5月21日 

読売新聞:1986年4月22日

神奈川新聞:1988年11月2日 

朝日新聞1990年6月1日
 
神奈川新聞:1990年8月29日

朝日新聞:1991年6月13日
 
読売新聞:1991年6月13日

神奈川新聞:1993年5月20日
 
毎日新聞:1994年4月3日

東京新聞1994年10月12日
 
東京新聞1994年9月27日

神奈川新聞2000年9月1日

朝日新聞:2003年8月27日 

神奈川新聞:2004年8月28日


映像記録(サウンド8ミリとビデオ)       

題名 作製年 内容
ハイジの国へ 1975年 アイガー、マッターホルン、モンブラン、メンヒ等の登山記録。1,2巻
アルプの峰 1976年 モンテローザ登山、アルプのトレッキング
カーブル 1977年 アフガニスタン記録、5巻:、ヒンズークシュ、アフガン、コーイダラツ、シルクロード
ヒマラヤ17 1979年 ビンドゥーゴルゾム初登頂記録。登頂後のヘリ救出作戦は失敗!氷河に残された者は
アンデス 1980年 ワスカラン南峰の登頂の記録と、アマゾンのイキトスでの川くだりとインディオの生活
シルクロードの白き神へ 1981年 ムスターグアタ北峰初登頂記録やカシュガルでの絵画交換会、北京での調印式。
キリマンジャロ 1982年 キリマンジャロ登頂と、ンゴロンゴロ自然保護区での動物たち。リーキー博士宅訪問。
Nanga Parbat 1983年 ヘルマンブールの初登ルートから短期速攻。ラキオト峰で雪崩にやられピンチ。
カフカス 1984年 エリブールス登山、カズベック登山の記録。遠征登山で初めてスキーに挑戦。
ヌン峰 1985年 スリナガールの湖から、ボートに隊荷を積んで出発。ポーターが盗賊に変身。
ブータン 1986年 最後の7千mでの最高未踏峰ガンケールプンズム許可下りず、マンデカン初登頂。
Nanga Parbat 1987年 西壁からの登頂。登頂後のビバーク中2人で足、手指計17本を失う。
ブロードピーク 1989年 最終キャンプC4からコルまでの猛烈なラッセルにめげずアタックを繰り返すが、敗退。
Nanga Parbat 1990年 南西稜からの日本人初登頂。山頂直下で中島隊員が墜死。登頂者も疲労骨折。
未踏無名峰 1992年 カラチで隊荷一部が爆発。テロ容疑で隊荷差し押さえ。GⅡ断念しビアンゴⅡ峰初登頂
キラ峰北壁 2002年 未踏無名峰をキラ峰と命名し、北壁の氷壁核心部を31ピッチで抜ける。チョモカン断念

遠征スナップ(報告書掲載のスナップ写真より)

ポベーダ山頂
(7439m)
天山山脈最高峰に立つ坂原隊長
 日本人第2登。
 
報告書「Pobedaから未踏無名峰へ」参照
2(8611m)
 1994年遠征
 山頂直下の氷壁(ボトルネック)
を登る戸高隊員
 
報告書「K2からNanga Parbatへ」参照



ミートル・ピーク
(6025m)
 1989年遠征
 ブロード・ピーク(8047m)を
目指しての我が隊のキャラバン
 
報告書「Broad Peak」参照
ナンガ・パルバット
(8125m)
 1983年遠征
 ラキオト氷河を登る松井隊員。
報告書「Nanga Parbat 銀鞍」参照


初登頂の記録山荘合宿スナップ《氷壁岩壁》

関連リンク先:加藤隊員 戸高隊員



春計画

目標 Xixabangma シシャパンマ主峰(8012m)北稜 or

     Peifeng    シシャパンマ北峰(7365m)北稜

隊名 チベット日本教員登山隊 2006sp

日程 4月17日~5月27日 隊員の都合などにより変更あり

登山隊構成 日本隊員5名 チベット登山学校・登山協会関係3名

内定隊員 (隊長) 坂原忠清、 (食料) 村上映子、 (装備) 大田正秀 

隊員負担金 150万円 (日本隊員4名の場合160万円、3名は180万円、2名の場合200万円)

今後の予定

《A》 トレーニング合宿・研究会準備日程
  国内準備としてのトレーニングと研究会を以下の日程で行います。山荘宿泊は食事込み5千円/日です。
合宿費用は当日持参か、事前に遠征口座に振り込む。
 

トレーニング合宿 期  日 集合場所・時間 研究内容
顔合わせ合宿 11月第1土日 山荘・9時 基礎体力測定・RF訓練・T(チベット)研究1
岩登り合宿 11月第3土日 山荘・11時 T研究2・協賛企業分担
八ヶ岳合宿(or甲斐駒) 12月26日~29日 美濃戸山荘前9時 25kg負荷能力訓練・赤岳西壁or黒戸尾根
氷壁合宿 2月第2土日 山荘・11時 甲武信岳東沢・T研究3・高山病研究1
体力測定合宿 3月第1土日 山荘11時 高山病研究2・パスポート持参
最終打ち合わせ合宿 4月第2土日 山荘11時 高山病研究3・留守家族会合


《B》遠征準備日程
   

準備内容 準備日程
登山手続き関係 計画書作成11月・TMA申請12月・登山許可2月・Visa申請3月
遠征費納入 1回目:12月16日 2回目:1月17日 3回目2月17日(TMAへの分散振込みで返却無し)
協賛企業交渉 担当企業割り当て1月・交渉:2月~ ・物品納入3月~4月・礼状郵送4月&6月
各種書類作成 装備食料表3月・高山病診断表3月・診断集計表3月・隊日誌3月・気象記録表3月
健康診断表提出 隊所定の用紙で検診を受け高所順応トレの参考にする。2月
家族連絡会 留守家族と事務局等と一緒に事故発生時の対応と処理について打ち合わせ。4月8日



夏計画

目標:カンペンチン(7293m) 北壁、or 未踏峰(未定)       

隊名:チベット日本教員登山隊2007sum                

日程:6月25日~7月25日 隊員の都合などにより変更あり     

登山隊構成:日本隊員5名 チベット登山学校・登山協会関係3名

予定隊員:(隊長)坂原忠清、(食料)栗田陽介、(装備)大田正秀 
隊員負担金:160万円                          

今後の予定
《A》トレーニング合宿・研究会準備日程
   国内準備としてのトレーニングと研究会を以下の日程で行います。山荘宿泊は食事込みで5千円/日です。
 合宿費用は当日持参か、事前に遠征口座に振り込む。

トレーニング合宿 期  日 集合場所・時間 研究内容
顔合せ合宿 4月第3土日 山荘11時 基礎体力測定・RF訓練・T(チベット)研究1
岩登り合宿 5月第1土日 山荘11時 T研究2・高山病研究1
甲斐駒合宿 6月第1土日 竹宇神社前9時 25kg負荷能力訓練・黒戸尾根
体力測定合宿 6月第2土日 山荘11時 T研究3・高山病研究2・パスポート持参
最終打ち合わせ合宿 6月第3土日 山荘11時 T研究4・高山病研究3・留守家族会合


《B》遠征準備日程
   

準備内容 準備日程
登山手続き関係 計画書作成3月・TMA申請4月・登山許可5月・Visa申請6月
遠征費納入期日 1回目4月17日 2回目5月17日 3回目6月10日(TMAへの分散振込みで返却無し)
協賛企業交渉 担当企業割り当て5月・交渉5月~・物品納入6月・礼状郵送6月&8月
各種書類作成 装備食料表4月・高山病診断表5月・診断集計表6月・隊日誌6月・気象記録表6月
健康診断表提出 隊所定の用紙で検診を受け高所順応トレーニングの参考にする。5月
家族連絡会 留守家族、事務局などと一緒に事故発生時の対応と処理について打ち合わせ。6月第2土日

Index   Next