仙人日記
 
 その1293ー2016年  葉月


8月3週・・・天照大神に捧げるウロボロスのエレジー

漆黒の太陽へ回帰する豹紋蝶
8月21日(日)曇晴 書斎涅槃の夜明け




カーソルを動かすと突然画像が反転し、予期せぬ世界が、
実はこれこそが本当の姿なのだよと迫って来ることがある。
あーもう一度観たいと思い、カーソルを動かしても、反転した世界は固定出来ない。
涅槃に達した者が再び此岸に還ることは出来ない、とは理解できるが、此岸に居る者が涅槃を偶然にちらりと覗いて、
更にもう一度観たいと願い実現させることは可能なのではないか!




2階イオから見下ろした槿

鹿威しと歌う夏水仙!

閉鎖空間から
解放される愉悦の検索方法とか、
そのくらいは出来そうな錯覚を起こすから
仙人は莫迦にされるのだ。
 

夜明けに咲く烏瓜の花

実際、画像を右クリックして
①プログラムから開くを表示し
②ペイントを選び、すべてを選択し
③右クリックで色の反転をし保存すれば、
パソコンでは
反転世界の再現は出来るのだ。

 

そこから一気に涅槃と
此岸の世界に飛ぶのは
明らかに支離滅裂だが、
物質と反物質の通路への展望とか、
歓喜と苦悩を繋ぐ
境界をメビウスの帯で閉じて、


池灯にしな垂れかかる高砂百合 
 
庭の彼方此方で高砂百合



【Ⅰ】 金色の時の欠片が舞い
                                           吐蕃子བོད་ཆེན་པོBod chen po su


森の色彩が少しずつ濃くなっていく。
空気がしっとりと重みを増すような気配、やがて森の香りが一斉に押し寄せてくる。
街中だって小さな自然はいっぱいある、そう思っては
人よりゆっくり歩調で辺りを眺めて、満足しようとしていた。
確かに小さな自然は存在しているようには見える。

だが何と言っても人工的に造られた自然もどき。
それでも季節になれば芽を吹き、花を咲かせ、雑草は空き地を占領する勢いだ。
それらだって充分に慰めになる、と思っていた。
気がついたのだ。

本物の森には豊かな匂いが溢れていることに。
(町の自然には匂いがない)
風の中に森の香りと囁きと色が総て織りこまれ、思わず大きく息を吸い込んでしまう。
木漏れ日がちらちらと降り、金色の時の欠片が舞い散る。




白光の太陽へ回帰するウロボロス
8月21日(日)曇晴 書斎此岸の夜明け




そうは解ってはいても、やはり 《ウロボロスには、
1匹が輪になって自分で自分を食むタイプと、2匹が輪になって相食むタイプがある》
と15日に記した呪文から仙人自ら逃れることが出来ず、
夜明け前のガニメデでワインを呑んだりして、
アーカーシャ(サンスクリット語: आकाश)の絶対的な静寂の中に堕ち込んでいくのである。
深く繋がり閉じられた環を成し、互いを食べ尽くし無限軌道である環を限りなく狭め、
やがて量子の世界を超えて反物質と出逢い対消滅するのだ。


白い殻を着けた卵茸
先週まで聴こえていた
蜩のアンサンブルは、
ぱったりと途絶えてしまった。
静寂を掻き分け耳を澄まして
遠くの森までセンサーを伸ばすが、
聴こえるのは
蜩に代わって啼き出した鈴虫の
澄んだ鉦の音色ばかり。

奥庭の鹿威しの鈍く低い律動音が、
森の心臓の鼓動のように
静寂を僅かに震わせる。
その震えに載せて
生命讃歌を謳っていた蜩には、
夜明けの何処を訪ねても
最早、逢うことは出来ないのだ。

半開きの唐笠茸

赤松倒木の猿の腰掛

大きな赤山鳥茸

生クリームを載せた茸
鈴虫の美しい透明な高音が、
森の心臓の鼓動と
絡み合って紡ぎ出すカロスキューマ。
総ての境界を繋ぎ、
壁の消失した豊かな愉悦を齎す
鈴虫の生命讃歌に不満があるのではない。

最早逢うことは出来ない
蜩の喪失感に心底打ちのめされて、
その闇をどうにも処理出来ず、
自らその闇に落ち込んでしまうのだ。

全開した唐笠茸

何処かでその蜩が
自分自身であると認識していて、
それならば始まりも終わりも無い
完全なウロボロスへのいざないであって、
大いに歓迎すべきことと理性は告げる。

昨夜も眠れぬままウロボロスとなって、
鹿威しの鼓動の間隔を数え、
呼吸数で11、自らの心音数で15と確かめ、
リイーン、リイーンと重なる
鈴虫の音色に耳を傾け、
夜明けまで本を読み耽る。



【Ⅱ】 今は武器が必要だ
                                           吐蕃子བོད་ཆེན་པོBod chen po su)


誰もいない炎暑の昼下がりの森。
一歩森の木陰へ踏み込むと、ひんやりと涼やかな空気が体を包み込む。
森の裾から頂へ向かって、緩やかな斜面が続く。
この斜面に立ち向かうのには、今は武器が必要だ。
ストックを支えにするとかなり強力な武器になることを改めて発見。

斜度が変わる度に、足首の角度への負担が変わる。時に上手く体重が掛けられなかったり、
真っ直ぐ登れなかったりと、試行錯誤は続く。
それでも怯まず一歩を進めて行けば、少しずつ視野が広くなり、高みへと運ばれるのが分かる。

突然森の奥から「ヒュッ!」と鋭く高い叫び声。
思わず立ち止まり声の方へ顔を向けると、笛のように澄んだ高い響きが、
何度か繰り返され、再び静寂が。
森の仲間が「お帰り!」とエールを送ってくれたのだろうか?きっと立派な角を持った
ボンシルバーの仲間に違いない。



メビウスの帯の律動を為す褄黒豹紋蝶
燃え滾るウロボロス&ボンシルバー 8月21日(日)曇晴 書斎此岸の夜明け




折れてしまった林檎の木
鹿威しの律動は
生命に欠かせぬ水の循環。
その律動の間隔を推し量る呼吸数は、
生命体を維持する酸素を
取り入れる仙人の肺の律動。

更に仙人はその鹿威しの律動の間隔を、
仙人の心臓の律動・心拍数で計り、
自らの血の流れを
3つの律動にシンクロさせ、
肉体そのものを律動させ
カロスキューマに委ねる。


甘くて美味しい林檎を有難う!
 
れていた唐黍収穫
 
小さくて不器量未熟林檎だけど美味い!
 
さあ、保存食作り開始!


朝一で昨夕散水したレタス畑を観に行く。
4日間もカンカン日照りで萎れてしまったレタスの葉が、
ピンピンと天を向いているでは!

ウロボロス仙人は途端に嬉しくなってヤッホーなんぞと叫ぶのであるから、
仙人の闇なんて大したもんじゃないことは言うまでもない。
そうそう、ここでは第155回芥川受賞村田紗耶香の「コンビニ人間」か、
笹本稜平の≪人喰い山・ナンガ・パルバット峰≫を題材にした「大岩壁」の感想でも書こうと思っていたのだか・・・。

ナンガ・パルバット峰(8125m)には西壁に4度、南壁に1度、北面に1度遠征隊を送り、
3回の登頂に成功したものの、南壁で中島修、西壁で大宮秀樹の2名を失い、
我が隊にとって修羅となった山。


【Ⅲ】 森のあらゆる命が語りかけ
                                           吐蕃子བོད་ཆེན་པོBod chen po su


一人で歩く森は実に素敵だ。
森のあらゆる命が語りかけてくるのを全身で感じることが出来る。
長い空白が、森との対話の術を忘れてしまったかと不安だったのに、全くの杞憂であった。
そのことが新しい発見のようでさえあり、ますます嬉しくなってしまう。
登る動作は大変ではあるが、不思議に辛いとは感じないのだ。

ただ、時々力の入り具合でふくらはぎが攣りそうになって、その時は怖い。
どんなに嬉しくたって、足に過剰な無理はさせられない。
宥めながらも、動けることが、やっぱりこの上も無く幸せなのだ。
小倉山、そこは慣れ親しんだ小径が続く散歩道。だったはず。
ところが今、そこは立派な登山道。どころか未知の山塊。

斜度が少し増すだけで、呼吸が乱れる。
小さな石にさえも気を使う。倒れた幹を迂回する為に、よじ登らければならないときは、
全身の力を使わなければいけない。
登る行為に体力と神経を集中しなくては先へ進めない。




カロスキューマの波に
翻弄され、
やがて仙人は
ウロボロスになるのだ。

村田沙耶香の「消滅世界」で
14歳になった雨音が
集団受精児の1人と交尾し、
子供の陰茎が
臍の緒になって自らの
膣、子宮と子供が
繋がっていると感じつつ
消滅していくのは
ウロボロスそのものなのでは!

と思い出したので
「コンビニ人間」にも
その痕跡がないか
と昨日のウロボロス仙人は
ページを捲った。

最後の文章に
辛うじてそれらしき臭いが
残っているような、
いないような。

あれ、いつの間にか一番弟子がってきたぞ!

 
 ≪私はふと、
さっき出て来たコンビニの
窓ガラスに映る自分の姿を眺めた。
この手も足も、
コンビニのために存在している
と思うと、ガラスの中の自分が、
初めて、
意味のある生き物に思えた。

「いらっしゃいませ!」私は
うまれたばかりの甥っ子と
出会った病院のガラスを
思い出していた。
ガラスの向こうから、私とよく似た
明るい声が響くのが聞こえる。

私の細胞全てが、
ガラスの向こうで響く音楽に
呼応して、皮膚の中で
蠢いているのを
はっきりと感じていた≫


この何処に
ウロボロスが居るんじゃ!





枝豆が気になって来たの!

「死と再生」「不老不死」などの象徴とされる
ヘビがみずからの尾を食べることで、
始まりも終わりも無い完全を為すウロボロスは、
果たして作品の何処に潜んでいるのか!

もしかすると村田紗耶香の現代社会への危機感の根幹に
ウロボロスが棲んでいて、「ほら自分の尻尾を食べるのもいいぜ!」
なんて云って紗耶香を触発してるのか!

あー序に云っておくと、この作品も今までの様にとても軽くて、
ふわふわしていて中村文則なんかとは対極で、
期待すると肩透かしを食らうぜ!

因みに帯のCMでは≪普通とはなにか? 
現代の実存を軽やかに問う衝撃作≫、
 ≪コンビニこそが、私を世界の正常な部品にしてくれる≫

と極めて明快なコメント。
「セックス」も「家族」も、世界から消える日本の未来を予言する
「消滅世界」にも、普通から逸脱した古倉恵子が
世界の正常な部品になれる「コンビニ人間」にも、
ウロボロスは観えない。


味しそうね! 



【Ⅳ】 過程が生み出す精神の輝き
                                           吐蕃子བོད་ཆེན་པོBod chen po su)


ふと、ヒマラヤを想い出す。
チベットの未踏峰やチョモランマやK2の登山。色んな局面で精神の緊張と体力の限界を味わった。
その時の感覚がふいに還ってくる一瞬がある。
今の私にとっては、小倉山とヒマラヤが同列の存在なのだ。
信じられないことだけど、この感覚はまさにヒマラヤ体験に通じると確信した。

昼下がりの小倉山が私に教えてくれたことは、
生きるということの本質を想い出させてくれたこと。
大切なのは独りで歩き切ること、苦労して目的の山頂へ辿り着いた時の、歓びの大きさ、
その過程が生み出す精神の輝き、登るということがこんなにも生きる行為であるのだと今実感する。

小倉山は今日、自分にとって森がどれほど掛け替えのない場所か、
登るという単純な行為がどれほど美しい行為か、
それらが自分という存在の核を知らぬ間に創っていたのだと思い知らせてくれた。
我々のチベット未踏峰登山計画は第10回までが予定されていたのに、
実際には未だに第10回目が実現していない。





こんな風に列毎に剥くんだ

これ食べたら小倉山に行けそう!


此処は9月1日に
風の又三郎に逢った木立。
あーやっぱ、あの日と同じ様に、
葛の赤紫の花が落ちて、
大地を染めているではありませんか!

ぷりぷりしてて極上の味!

昨日、野性キウイの森から
柚子と林檎の丘、彫刻梟の鎮座する径、
ツリーハウスの森、一坪図書館、片栗の森と
散策して、予期せぬ抑えきれぬ涙に襲われ、
哀しみの源泉に想いを馳せました。


森や里の至る所に織り込まれている
横糸の一本一本が、
経糸の時間を潜り抜け波打ちながら、
語り掛けて来るのです。
確かにこの辺りに木通があったっけ、
と茂みを覗いたり、


良い匂いね!

とんもころしもってたぜ!



【Ⅴ】 生きることは愛すること
                                           吐蕃子བོད་ཆེན་པོBod chen po su


おそらく永遠の計画で終わるのではないかと思っていた。
でも、もしかしたら、私達はこの場所で、幻の10回目のヒマラヤに匹敵する精神の高みを
目指すことがあり得るのかもしれない、
なんていう途轍もない閃きが脈絡も無く、心の中に舞い降りて来て驚いてしまう。
小倉山の白昼夢かな。

山頂の櫓の上から眺めていると、赤いものが動く。
隊長が登ってきたのだ。
あまりにもゆっくりとしか動けない私に、1時間の時間差を付けて山荘を出発したのだとのこと。
初めは一人で登るのに少し不安があった。
でも、独りきりであったからこそ、小倉山は多弁に私に語りかけてくれたんだ。
隊長の計らいに感謝する。

下山は予想を完全に裏切って、隊長に大幅に遅れることなく、小走りさえできた。
最も隊長がゆっくりゆっくり下りてくれたからなのだろうが、小さな自信が湧く。
「生きることは愛すること、愛することは生きること」だとしたら私は山を登り続けるだろう。
自分がどれほど山を愛しているのか、同時に登ることがどれほど自分を愛することなのか、
夏の一日が伝えてくれた小倉山からのメッセージを忘れまい。



時間軸である経糸にを潜らせて織った心象
 8月15日(月)17時51分 曇晴 高芝山に掛かる十三夜月

でも木通の実も風の又三郎も見当たりません。
毎年晩秋に愉しみにしていたキウイ狩りをした森は、あれっ、何処だ?
キウイの木が消えてしまっているでは!
どうやら野生のキウイの森は伐採され、最早野性キウイの経糸に刻まれた時間を
復元させることは出来ない様なのです。

7月4週のHPでお知らせしたように片栗の森なんぞ、すっかり太陽光パネルの森に化けてしまって、
片栗の時間軸である経糸に梭を潜らせて布を織ろうにも、横糸はもう走れないのです。
山荘と森の蜜月は終焉を迎え、機織りの音が途絶えるのを待つばかり。
哀しみの源泉の輪郭が観えてきました。
布が織れないならば、せめて22年間で織り上げた布だけでも観たいと願っています。 

ウロボロスには、1匹が輪になって自分で自分を食むタイプと、2匹が輪になって相食むタイプがある》



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