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仙人日記
   その98の22014年睦月
1月2・3週・・・壮大なる虚構・存在への認識



天空の影レンズ  小倉山頂から

時空をう新三脚  小倉山頂から

時空のれ目か?  小倉山頂から
19年前の1995年5月6日
雲間から舞い降りてきた。
 19年前といやー
仙人は52歳か?

ふむ、その52歳の肉体が
19年の時空を超えて甦り
2014年の1月に
舞い降りてきたって訳か?
それでどうしたんだ。

さては買ったばかりの
新三脚を抱えて
時空を追う旅に出たんだな!
 
塩の山の左上を照  小倉山頂から
肉体と合体した三脚が
何故か
飛ぶ夢をすっかり忘れちまった
仙人に再び
マッチの灯をすったらしいぜ。

ところがだ、折角19年前の
3次元に時間軸を加えて
4次元通路をこさえ
雲間から舞い降りたのに
5次元ではすっかり
彼らは浦島太郎って訳さ。

そう5次元に
残っていたのは僅かな
腐敗臭のみで何も無し。 


5次元をえての撮影
《ダイアモンド富士に飛する自らを撮る自ら》を撮る自ら
1月17日(金)晴  2014年の初夢 

当然のことだが老化して機能を失いつつある肉体は、常に生からのプレッシャーの支配下にある。
現在受けているプレッシャーは主なものだけでも3つは在る。
パソコン障害を受けたらしき右上腕の肉離れの痛み、
老化としか考えられぬ股間から右大腿のリンパ球に間歇的に鋭く走る閃光のような衝撃、
竜ヶ岳下降でのアイゼントラブルで傷めた左膝の耐え難い鈍痛。

それらの痛みは生からの問答無用な厳しい警告である。
痛みを伴う警告を抱えたまま眠るのであるから、夢が苦痛の介入を受けるのは当然である。
従って重力の呪縛から放たれ自由に空を飛ぶなんぞと云う愉快な夢を見ることは絶えて久しい。
ところが実に数年ぶりに見たのである。

自由気ままに飛翔を繰り返しふと気づくのである。
《そうだった。俺は自由に空が飛べるのをすっかり忘れていた!》と。
何度見ても空を飛ぶ夢の最後には、必ずこのふと気づく部分が鮮明に映し出されるのである。
全く同じく今回も夢の中でふと思い出したが、まさかそれが初夢だとは!
さてさて飛びすぎて天国へ行ってしまうか、それとも失墜して地獄へ堕ちるか、こいつあー春から大波乱だぜ!



新しい三の使い心地抜群!

そいつを竜ヶ岳に連れて行こうと
脚を縮め短くしようとしたら、何が不満なのか
機嫌が悪く短くならない。
仕方なく脚の先端を床に叩きつけたらポキン。
しめた、やったぞ!
これで新しい三脚を手に入れることが出来る。
そう、それがこのアルミ軽量の三脚さ。
新三脚登場

何しろ細くて軽いのだけが取り得の今までの三脚。
脚を伸ばすのも縮めるのも螺子式で
面倒な上、固定が不安定で直ぐぽしゃってしまう。
ヘッドのカメラ固定も実に不安定で
ただただ捨てる機会を
何時にするか待っていただけの役立たずの三脚。

 
さあ今年はこの三脚に活してもらうぞ


氷の宝石で着るシシオドシ

利休鼠の彩をシシオドシの冬滝が生み出すとは驚き!
予ねてから一体、利休鼠とは如何なる彩なのかと気にはなっていたのだ。
どうも緑と灰色の混じった利休の侘び寂に通ずるような渋い彩らしいのだが、これだと云う実感体験はない。
ところがどうだ、この氷の彩を観た途端、これぞ利休鼠と確信してしまった。

利休という字が付く染色名は利休鼠利休茶利休白茶利休色濃利休薄利休錆利休藍利休
8色もあり実際に色の見本も有ると云うから驚きである。



次々とみ出される宝石

勿論、山本兼一の「利休にたずねよ」読後の余韻が心象風景に靡き、
シシオドシの凍て付いた滝に利休鼠を垣間見せたに違いない。

聚楽第内の屋敷に設えた一畳半の茶室で切腹の日を迎えることとなった利休に
妻・宗恩は、利休の胸の奥には長年秘めた想い人がいるのではないかと問いかける。
否定するが19の時に殺したその美しい高麗の女の形見である緑釉の香合を、
利休は肌身離さず持ち続けていた。
秀吉からも緑釉の香合を所望されているが頑なに応ぜず、
この拒否も切腹の一因であるかの設定がなされている。

切腹後に利休の緑釉の香合を持ち帰れと秀吉は切腹の見届け役であり
利休の弟子でもある蒔田淡路守に命ずるが、利休の妻・宗恩は
切腹後の茶室に入り緑釉の香合をを持ちさり、石灯籠に投げつけ粉々に打ち砕いてしまう。
そこで物語は終わってしまうのだがその後、妻・宗恩はどうなったのか気になって調べてみた。



ピクリともかぬシシオドシ

ー7.9℃でもれ続ける滝

時の権力者・秀吉の何とも残忍な仕打ちが妻・宗恩になされたと知り愕然!

妻宋恩は土牢の中で何と蛇責めの刑に処せられたのだ。
秀吉への口の利き方が悪いとされ、その日のうちに処刑された利休の愛弟子・山上宗二は
耳と鼻を削がれたが、蛇責めとはまた何と陰湿で病的であることか。
これが秀吉のみならず権力者のネガティブな本質の一部を象徴するのかと思うと慄然とせざるを得ない。
権力の頂点に立ったのもは、その組織内では自らを神と錯覚し、
総てが許されると暫し妄信してしまうのだ。

雪の予・・・雪空かられ来る最後の灯
1月18日(土)晴後雪曇 高芝山と平沢の里

利休の集語彙抄には「利休鼠とはくちなわ(長虫、蛇)の青黒くいぶった色をさす。
利休の妻、蛇責めに悶死するや、
いぶし雨、連日つづき都人これを利休鼠の雨とよぶ」
と出ている。 
その時は黒い雲が低く垂れこめて細かい雨が連日降り続き、
このことから《利休鼠の雨》の語源が生まれたとも云われている。
《利休鼠の雨》の背景を知っていて白秋は、敢えて《城が島の雨》に利休鼠を用いたのだろうか?
雨は真珠か 夜明の霧か
 それとも私の 忍び泣き


夜明けの光が創りだした利休鼠に、利休や妻宋恩の秀吉への激しい侮蔑と怨念を想い、
その想いの重さに曳きずられつつ1日が終った。
畑に汗を流し、山や森を駆け巡り更に疲労させ絞り込んだ肉体に冷たいビアを流し込む。
利休鼠の高芝山と対比を成すカーマインに暮れ泥みつつ、
緑がかった闇に沈む里に目をやる。

利休鼠とされるR(赤)110、G(緑)121、B(青)114は赤、緑、青が総て混じるので
光では透明になるが絵具では緑がかった黒の闇に属する
そう、利休鼠が闇に属するなら、利休の光は時の権力者にへつらうことなく美を徹底的に追い求め
茶の湯を芸術の域にまで高め、茶聖と謳われた利休の美意識そのもの。
美意識の流れに織り込まれた利休鼠が闇を孕んでいると知っていた利休は
光から闇への反転を決然と受け入れ死を選ぶのだ。



利休鼠の夜明け

滝下太陽光の利休
カーマインに暮れ泥みつつ、
緑がかった闇に沈む里が
予兆したように
夜更けに雪が舞った。

織り上がったばかりの
新雪の絨毯に
太陽光の灯が淡い光を投げかけ
純白の絨毯を利休鼠に
染め夜明けを待つ。
払暁の光を帯びた天空には
星が煌き最早雪雲は
何処にも無し。 

利休鼠にらめく太陽光灯



峠からの初日 1月19日(日)晴

扇山の山稜で夜明けを迎えようかと
朝の畑作業をカットし
西の森に浅いラッセルを切って頂へ。

「あれ、ちょっと速く登りすぎて
未だ太陽は出そうも無いな」
仕方なく下り始め山荘の森へ出ると
水晶峠から今正に太陽が。
利休鼠を意識して
夜明けの森や山を見つめてみると
これら総てが太陽の赤と
森の緑、空の青を110から140前後含み
緑の値が一番大きい利休鼠系の
彩ではないか!

 
ログも雪化


夜明けののレストラン  1月18日(土)晴

うーん、そうかその質問
なんだか利休の闇と光とも関連がありそう!
つまり遥か彼方で
利休の美意識と切腹が繋がりそうな予感。
夜明けの太陽が問う。
「さあ、光の3原色は交じり合うと
透明な光になるのに
何故、絵の具の3原色は闇になってしまうんだい?」
 
明け行く雪の里


淡雪の夜明け
1月19日(日)雪後晴

いいかい、そもそも我々が目にする色とは何なのか?
を明らかにせねば3原色の問題は解けないね。
利休白茶R:169 G:158 B:147)に近い2階の壁色と1階の宗伝唐茶(R:161 G:109 B:93)の壁色は
どの程度異なるか調べてみよう。
利休白茶に較べると宗伝唐茶はR(赤)がー8、G(緑)がー49、B(青)がー57も減少し、
総計すると114も明度は落ちている。
だから暗く見えるしR,G,Bの差が色の違いを生みだしているんだ。



壮大なる虚構  ・・・存在への認




原子を構成する陽子や電子が太陽系のように運動したり電流が変化すると、電場や磁場が空間に形成され
その電磁場の時間変動が空間を電磁波として伝播し、可視光線を含めた様々な波長を生み出す。
つまり我々が目にする色とは、素粒子の小さな宇宙からやって来た星々の動きそのものでもある。

天空をハッブル宇宙望遠鏡で見上げると、宝石を鏤めたような絢爛たる星々を観察出来るが
実はその星の光は小さな素粒子宇宙から誕生した光によって認識されているのだ。
うーん、その神秘性とスケールの大きさに圧倒されて失神しそうだぜ!

失神寸前にふと気づく。
はてよ、絢爛たる星々の光はその色を認識する光受容細胞である視細胞(錐体細胞)がなければ
色として認識されないのでは?で、早速調べてみる。
そうか解ったぞ!生理学的に言うと、網膜内にある3種類の錐体細胞が
吸収する可視光線の割合に応じて色の感覚を生んでいるのだ。
となるとそもそも光そのものに色という性質はなく、光を受けた器官が色を作っているのでは。

認識の最後の段階で、細胞と云う3つ目の宇宙が色を創りだしているんだ。
つまり3つの宇宙、素粒子宇宙、銀河系宇宙、体内(細胞)宇宙を経て
我々人類は宇宙を、存在そのものを色として認識出来るんだな。
問題はこの壮大な虚構である認識を何故人類は必要としたかなのだ。
(参照:Wikipedia,www.ekbo.co.jp,他)




初日にまる山荘

さて物質が発する色は
果たして存在そのものが持っているのだろうか?
であるならば闇の中でも見える筈。
そう、赤い物質は光を受けて
赤の電磁波だけを反射しているに過ぎないのだ。
だから光が無いと見えない。
青や緑の電磁波のみを反射していた絵の具も
混ぜ合わされることによって
特定波長だけを反射する性質を失い闇の黒に近づく。

緑釉の香合を差し出せば
切腹の命を取り下げる旨を秀吉の家臣に伝えられた利休は
「私がぬかづくのは,美しいもののみにございます」
と傲然と言い放つ。
更に切腹の直前に詫びの一言で
秀吉様は切腹を取り下げるとのことでしたと
伝える蒔田淡路守に
詫びる事は何も無いと自ら死を選ぶ。

 
べなんかしちゃって!  富士と山荘



E=mC
E:エネルギー、m:質量、C:光速

夜明けの太陽が問う。
「さあ、光の3原色は交じり合うと
透明な光になるのに
何故、絵の具の3原色は闇になってしまうんだい?」


夜明けの太陽に問いを投げかけられた瞬間、
心象に映じたのがこの3原色の図。
利休の美意識の頂点に光が在り、秀吉が追い求める彼方に
底知れぬ深い闇が在る事は肯ける。

ほんじゃ、いっその事夫々の色に適当な言葉を入れて遊んでやろうと
あれやこれや突っ込んでみた。
ところが E=mC がしゃしゃり出て邪魔するのだ。

「おいおい、《壮大な虚構》なんぞと大風呂敷を広げておいて
それで誤魔化すなんて許されないぜ!
本当はこの先、実はエネルギーとしての光は物質の消滅と共に
産み出されると続いていくんだろ。
つまり光と物質はおいら E=mC がしっかり結んでいると
論理を飛躍させて利休が自ら選んだ切腹に迫ろうとの魂胆なんだろ!

それを述べず、すたこらさっさと逃げて、カルタ作りだって。
大いに嗤えるね、老いぼれ仙人さんよ」 
 


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