仙人日記
   その93の22013年葉月

 
Contents
《A》 Reminiscence :小槍登攀  
《B》  Rush :槍ヶ岳山頂(3180m)
《C》  Ladder :槍ヶ岳山頂直下
《D》  燕岳から大天井岳、槍ヶ岳、上高地へのマップ
《E》  Summit :槍ヶ岳山頂
《F》   合戦尾根から大天井へ
《G》   大天井から槍ヶ岳へ
《H》   槍ヶ岳から上高地へ 
《A》 Reminiscence :小槍登攀  
 
8月1週・・・半世紀前のお兄さんちょっとこっちいて!


《E》 Summit :槍ヶ岳山頂


垂直梯子を 槍ヶ岳山頂直下

頂まで00mだ! 槍ヶ岳肩

さあ、だ! 槍ヶ岳山頂直下




《G》肩が痛くて、湿布

急な登りを15分ほどで山頂へ。登る道の傍らにはまだシャクナゲがきれいな姿で咲いている。
カメラだけを持参で登る道すがらは、ついついシャッターを切りたくなる。
背中に重いザックがあるときは、ほんのちょっと立ち止まってカメラを取り出すのも億劫になり、
良い被写体があっても見逃してしまった。気持ちに余裕がないととても写真は撮れない。

頂上にはもう一人先客があったが、後は誰も居ず、雲間に覗く大きな槍ヶ岳を堪能する。
もう少し待てば、夕陽のショーが見られるだろうが、
少々早いながらこの風景をたっぷり楽しんで、小屋に戻る。
この小屋は、週末でもかなりゆとりがあり、十分なスペースが得られたのはありがたい。
私はあまりに肩が痛くて、湿布を貼りながらぼやくと、隊長も珍しく、
久しぶりの重荷で肩が痛いと愚痴ってる。やれやれ、年寄りの冷や水なんだろうかね。
夕焼けシーンは明日の槍ヶ岳で堪能しようと明日の晴天を疑いもせず、早々と眠りに着いた。



想定外の悪天
8月4日(日)13:17 ガス

「明日2日から太平洋高気圧が
張り出し晴が続き
猛暑に襲われるでしょう」
との気象庁予報で
アルプスの在る長野も
関東も午後の雷雲はあるが
ピカピカの太陽マーク。

7月から狙っていた
好天周期到来と何の迷いも無く
即、槍ヶ岳登山を決断。
気象衛星を始めとする最新鋭の
機器をを使い
最近の天気予報はかなり
精度は高い。

特に前日予報となると90%以上
の確かさと聴いているので
全く疑いもせず
ザックに食料、装備をたっぷり
詰めて一路アルプスへ。

山頂 槍ヶ岳山頂
「あれ!雲っているな!」
晴れる筈の3日の朝の有明温泉。
まー朝の雲海で
1時間もすれば雲は切れるだろう。

確かに2時間も登ると
見事な雲海の上に飛び出し
燕岳から大天井岳への
表銀座の稜線漫歩は太陽ギラギラ。

問題は更に高気圧が高まり
天気が良くなる筈の4日。
頭から好天と信じていたので碌に
天気図も確かめず
大天井ヒュッテを出たが
どうも空模様が怪しいのだ。

ヒュッテ西岳で
今日の予報を確かめると午後から雨。
「えっ、いつの間に激変したの?」
と思うまもなく雨が降り出す。
午後からどころか
朝から雨が降り出したのだ。
 
一面のガス 槍ヶ岳山頂

 登頂の晴れた槍を振り返る 槍ヶ岳肩
 
やった 槍ヶ岳山頂

 


《\》雨が降り出した


「今日は朝焼けは駄目だね」出発しようと小屋を出たところで、従業員の人が云っている。
昨日より今日は確実に天気が良い筈と信じていた我々は一瞬不審に思いながらも、5時前に出発。
積雪期にしかここを通ったことがない隊長は、
牛首に登るのが通常ルートだと思っていたそうだが、夏道は此処から下って西岳へ向かう。
ニッコウキスゲやコバイケイ草が咲き乱れ、高山植物が百花繚乱。歩くのが楽しい。

西岳までは特に危ないところも無く、順調に歩む。ザックを降ろして西岳の山頂を往復,ヒュッテ西岳で休憩、
牛乳を買って飲んだが美味しかった。
ついでに天気予報を確認したら、何と午後からは雨の予報だという。
本日が最高の天気の筈ではなかったの?と憤慨する我々の思惑とは関係なく、
空は一面の雲が重く立ちこめる。
のんびりしてる訳にはいかないと早々に出発。
歩き出して間もなく、まだ午前中も早い筈なのに雨が降り出した。



《F》 合戦尾根から大天井へ


いザック 第1ベンチ

巨大な(ツガ)、白檜曾の森 
知らんかったな!

「北アの三大急登は、
“烏帽子岳のブナ立尾根”、
“笠ヶ岳 の笠新道”と、
この燕岳の合戦尾根です。
片道5,5km 標高差約1300m」


積雪期しか登ったことの無い
合戦尾根が
まさか北アの三大急登だとは
知らんかったな。 
そんなに急だと積雪期には
雪崩の恐れがあるのだが
合戦尾根は栂や白檜曾の茂る
豊かな森なので
雪崩の気配もなかったと
記憶している。

それにしてもまさか合戦小屋で
西瓜を売っているとは
恐れ入った。
山小屋多しと云えども西瓜を
売っているのは
此処だけなのでは?

ケーブル(有明温泉と合戦小屋を結ぶ)

合戦小屋名物:西瓜 (一切れ8百円じゃ)



《]》下山する人が相次ぐ

ゴアの雨具を着て、カメラが濡れないようしっかりと雨対策。
これからが核心部というのに嫌な天気だ。水俣乗越では槍を諦め下山する人が相次ぐ。
我々は無論槍へのルートを直進する。雨は止んだり降ったりしているが、雷を伴わないのが幸いだ。
フードを被っての行動は、視野が狭まり鬱陶しい。晴れてさえいれば、
この稜線からの槍ヶ岳は最高に美しい筈なのに、総て雲が隠す。

やがて長い鉄梯子を後ろ向きで延々と下る個所に来る
3連もある鉄梯子でほぼ垂直なので、さすがにここでは少し緊張するが、
寒い訳でもないので手が凍える心配も無い。
梯子を降り歩きだして間もなく、
「ラクー!」という叫び声に振りかえると、後から来たパーティの誰かが、梯子の途中で落石したらしく、
2,3人が取りついているのが見えた。
あんなところで落石なんて信じられないが、もし梯子上に居る時に落石されたら本当に怖いと思った。




鹿島槍ケ岳(右)とノ木岳(左) 合戦尾根より


かなり槍ヶ岳 (燕岳稜線)
両肩腫れて痛み
重いザックに喘ぐ

歩き出して1時間。
重い荷を背負っている時の
最初の試練はこの1時間で決まる。

テント、1週間分の食料、装備を
詰めた大きな
キスリングザックはいつも30kg前後。
双肩に食い込む肩ベルトは
容赦無く血管を締め付け
手の甲の静脈が青く浮き出る。

花崗岩の山:岳山頂 (燕山荘より)

合戦尾根の

アブラハムの樹と呼ばれる (合戦尾根)

槍遠望 燕山荘前

山小屋とえぬ 燕山荘
「くそー、もう2度と
山なんか来るもんか」
山を本格的にやり始めた
高校1年生の頃の思い出と云えば
それしか思い当たらない。

重荷の最初の1時間はそれ程
苦しく辛いのだ。
が、その1時間を超えると肉体は
苦痛と云う警告が無駄だと
断念し意思に従うのだ。

ヒマラヤから遠ざかり
国内登山でも重荷を背負わなくなり
更に老化に拍車がかかり
最早重荷なんぞ背負えない。

しかし20kg程度なら
問題ないだろうと12食分の食料に
ワイン1本、日本酒1本。
更に交換レンズを含めて
カメラ2台、医薬品、トランシーバー、
序にと山荘産の林檎、胡瓜、トマトと
生鮮食品まで詰め込んだものだから
あっと云う間に20kgオーバー。

歩き出して1時間
高校生のあの日が甦ったのだ。
重荷で肩が痛い。
歩きながらベルトを緩め血液循環を
促したのだが9時間に及ぶ
負荷で双肩は腫れ上がってしまった。
その夜は湿布して寝た。
我が登山人生で肩に湿布を張ったのは
これが始めて。
《老兵は去るべし!》 

槍はか 大下りの頭
 
大天井荘とヒュッテとの分 
 
牛首山の 後方大天井岳


《11》直ぐに槍に登ろう!

この先もいくつか梯子を登り、特に危ないところも無く、ゆっくり歩いてやがてヒュッテ大槍へ到着。
小綺麗で居心地のよさそうな小屋なので、此処に泊るのも悪くないかなという気になる。
美味しそうなうどんや蕎麦がメニューとして張り出されている。
食べていこうかなと誘惑にかられるが、既にたっぷり待ちぼうけを食わされた隊長は直ぐに出発するという。
私は少し休んで、行動食を摂ってから、
マイペースで出発。此処に宿泊すると決めたらしい若いグループが、空身で槍を目指している。

軽々とした足取りが羨ましい。ずっと同じようなペースで抜きつ抜かれつ歩いてきた、
親子らしい2人連れの会話が時々耳に飛び込む。
父「此処を通って槍ヶ岳へ登ったのは3×年ぶりだな」息子「それじゃまだ、俺いなかった?」
父「ああ、大学時代だよ」学生時代に登山していた父が、成人した息子とまた山を登る。
なんだかいい感じだなと、風に流れて聴こえた会話を、暖かい気持ちで受け止める。
<槍ヶ岳山荘まであと10分>の小さな板看板が目に入り、しばらく上ったら、上の方から
「トーオッ!」と懐かしいコールが届く。やっと着いた。

ほっとする間もなく、「此処にザック置いて、カメラだけ持って直ぐに槍に登ろう!」
雲は未だ多いものの、雨は上がっている。今がチャンスという訳だ。
ザックを小屋の入口に置き、帽子もサングラスも忘れて、カメラだけぶら下げ急いで隊長に続く。
本当は少し休憩したかったのだが、早々と到着していた隊長は、
天気が少し良くなってきたので、一刻も早く登ろうと待ち構えていたのだ。



落た燕山荘 合戦尾根より

のテント場 燕山荘より
夏の終わりには
毎年バイオリンコンサートが開かれる。
29回目を迎える今年の燕岳クラシックコンサートは
2013年8/24(土)に開かれるとか。
おー何と豪華な天空のテント場。
こんな処で
1夏を過ごし本を読んだり、
ちょっと槍まで散歩したり
そうそうクラシックの生演奏を聴くのもいいな。



《12》槍ヶ岳山頂に立つ

疲れたとは言っても、ヒュッテ大槍で休憩したので、空身で歩きだすと充分動ける。
上り下りする人も、さすがに多くないので、途中で写真をたくさん撮ったり、コースを外れて登ったり、
こういうことは空いていないとできない。
梯子の途中で、出初式さながらにさまざまなポーズを取って、写真に収まる隊長。

後ろから来る若者パーティから「ワァー!凄い余裕だ!」と歓声が上がり、
隊長はますます乗って来て逆立ちでもしかねない。
13時17分。槍ヶ岳山頂に立つ。雲が早い勢いで流れ、時々青空が覗く。
晴れていれば望める360度の大眺望は得られないものの、やはり山頂は素晴らしい。
ヒュッテ大槍から空身で登ってきた若者グループが、もう30分以上もこうしてますと、
座り込んでカメラを操作していた。さっきの親子も登ってきた。

息子の登山シューズがガムテープだらけ、訳を聴くと10年くらい前の靴で、
ほとんど使用してないのに燕岳の途中で底がはがれてきて・・とのこと。
接着剤が時間と共に劣化するからだ。「笹子トンネルも接着剤が剥がれたんだから・・」と隊長。
父親の方は、学生時代に履いていたという本格的革の登山靴、今では貴重品かも。
切れ落ちた北鎌尾根の登り口を覗き込む。隊長には登り慣れた、懐かしく思い出多いルートだ。
夏休みの初め、まだ小学生だった娘が病気になって、仲間と予定していた槍穂縦走を断念した。
夏の終わりに、仲間の一人が付きあってくれて、槍沢から槍ヶ岳へ登り、
南岳でブロッケンを観て、大キレットを越え奥穂まで縦走した。




右からヶ岳、大岳、岳、 合戦尾根より

3日目の8月5日は更に高気圧が張り出し、午前中の天候は安定し槍から穂高への夜明けの縦走が出来る筈であった。
この晴れ間は時の経過と共に広がり素晴らしいアルプスの蒼空に抱かれると、信じて疑わなかったのだ。
まさかこれが最初で最後の蒼空で、明日から暗い梅雨のような雨が続くとは!



《13》10年先の未来のメッセージ

あれから最早4半世紀が経つ。
あの時は、秋空を想わせる爽やかな快晴の下、北アの秀峰が並び、全てが目の下にある贅沢を味わった。
未だヒマラヤへ行く日があることなど、夢にも考えなかった頃である。
隊長にとっては夏は遠征の時間、日本の夏山とは無縁であった時代だ。

山を始めた頃、よく、隊長が「10年先の自分から今を見てみれば、
何をすべきか、何が出来るか分かる筈」と言っていた。
山に登れば登るほど、自分の体力や技術の無さに、何度となく絶望感を味わい、
既に若くは無い年齢の壁も意識せざるを得なかった。


それでも、あの頃、私達は未だ10年先の未来の自分からのメッセージを受け、
より遠く、より高くを目指すことが出来たのだ。
今、10年先の自分からのメッセージを受け取ることは難しい。
10年後、自分がまだこの世界に存在しているかどうかすら怪しい。




小梅(コバイケイソウ) 合戦尾根

細葉鳥(ホソバトリカブト) 合戦尾根
夏花との別れ

高山植物を堪能するなら
断じて7月に限る。
それが解っているから連日天気図と
睨めっこし7月のチャンスを
虎視眈眈と伺っていたのだ。

だが7月、例年より2週間も早い
突然の梅雨明けで
数日間晴れてから以後、太平洋高気圧は
後退し不安定な日々が続いた。

岳と小梅尅(コバイケイソウ)の群落 合戦尾根

の小梅尅(コバイケイソウ) 槍沢
 予想通り煌びやかな夏花の盛りは
終わってしまっていたが
小梅尅垂フ群落は其処かしこに
お花畑を作り
7月のアルプスでは中々観ることの出来ない
壮大な絨毯を成していた。

その中で一輪、猛毒を秘めた鳥兜が
高貴な紫を散らし蜂を
頻りに誘っている。
「遅かったね、待っていたのに!」と
云わんばかりの白山風露は
花期を終え今正に散る寸前。
 
白山風(ハクサンフウロウソウ) 合戦尾根
 
白山千(ハクサンチドリ) 合戦尾根


《14》静かに懐かしく誰かに

もう、いつこの世の外へ行っても良いと思ってはいる。
もしも、10年先にもまだ自分が存在しているなら、山の頂で浴びた風や光や、何処までも澄んだ空の色や、
流した汗の後の爽やかさや、或いは痛いほどの吹雪や、眠れない冷たい夜や、無限に広がる星空のことを、
静かに懐かしく誰かに語るのであろうか。

それとも、想い出を心に深く潜ませながら、もう登らない遠い山並みを見つめるのだろうか。
その時にも、自分の足で静かな山道をのんびりと歩き続けることが出来たら、
それはまた幸せな時間なのかもしれない。
もしかしたら、今は幼い者が一人前の少年になって、傍らを一緒に歩いてくれるかもしれない、
と想像すると、それもまた小さな幸せの形のように思える。




右から穂高岳、ジャンダルム、穂高岳 表銀座より
 
白く輝く北穂の山頂小
8月3日(土) 晴 表銀座より

まるで残雪のように横に広がる白い帯。
北穂小屋の屋根が光っているのだ。
槍を登った後はのんびり槍穂の縦走をして、最後の夜をこの北穂小屋で過ごす予定であった。

そうすると2年前の11月、新雪の岳沢から前穂、奥穂と北穂迄1日で駆け抜けた穂高山行と繋がり
槍穂の追憶山行は完結する筈であったのだ。
だが素晴らしい紺碧の空はこの一瞬だけで槍穂ライン縦走は残されてしまった。



《15》頂に居る時間は好きだ


去来する雲の合間を、さまざまな想いが交叉する。
やはり頂に居る時間は好きだ。
15分ほどで、下山に掛かる。
下りはあっという間だが、途中から、登ってくる人がどんどん増えてくる。
少し登るのが遅れていたら、この大行列に巻き込まれるところだった。
山荘前のテーブルに陣取って、乾杯!槍ヶ岳を望む最高の屋外レストランだ。

雲がどんどん取り払われ、碧い空に槍の全容が現れる。その一瞬を待って、シャッターを切る。
槍の山頂へ向かって、長い人の帯が切れ目なく続き、上り下りの分かれるところからはY字型に広がる。
待っていた人が一斉に登ったのだろう。
我々は一足早く行動して良かった。
かなり年配のグループも、ガイドの若い人に連れられ登っていく。




(ヤマハハコ) 表銀座

(コマクサ) 表銀座
表銀座の彩

白銀が眩しいねえ!
ダイヤモンドやプラチナが幾ら
頑張ってもこれ程までの光を放つ
なんて到底無理だぜ。

この駒草、やけに美味しそう。
採れたての小海老を
海藻サラダに載せたような。
紅輪花とくれば丸葉岳蕗、
で、丸葉岳蕗とくれば
数千kmを旅する渡り蝶・浅黄斑。
ときょろきょろ見渡すが
丸葉岳蕗も浅黄斑蝶も影無し。

紅輪花と共に群れる丸葉岳蕗は
見当たらず
浅黄斑の代わり蜜蜂がせっせと
蜜を集めているだけ。

(コウリンカ) 表銀座

黄花石(キバナシャクナゲ) 表銀座


《16》 寝苦しい夜

どれほど時間が掛かるかなと、率いるガイドの苦労を想う。
隊長は、「今日は全然充分には動いてないからな―」と宣べて、明日のキレット越えに期待を寄せる。
小屋では、素泊まり用の自炊スペースがある奥の部屋だったが、指定されたところ以外、
空きがたくさんあったので、2階の空いてるところでゆっくり寝ることにした。

しかし、夜中に目が覚めると頭の芯が痛くて、ああ、この感じは高山病だと思う。
しかも、激しい雨音と遠雷が響く。
明日の予定は変更して下山だろうなと、寝苦しい夜を過ごす。




ヶ岳(左)、北鎌尾根標(右) 牛首山より
 
期の北鎌尾根を想う
8月3日(土)16時 ガスの晴れ間

右脚を千丈沢へ左脚を天上沢の虚空にぶらりと落としたまま雪稜の下降にかかる。・・・
気が付いた時は、雪崩と共に天上沢へ落下を始めていた。
確保中の中島のザイルはいつも出が悪く重いのに、この時ばかりは何故かザイルが無制限に延び、私は止まらない。・・・
両腕でおもいきりしがみつく。右腕が飛ばされる。左腕が辛うじて岳樺の樹に残った。
左腕を巻きつけたまま私は止まった。雪煙を上げて雪崩が走り去る。・・・

登攀の魅力は内なる限界状況への挑戦にある。
肉体と精神の限界の極点に立ち、新たな地平を目にする時、歓びは止めども無く、存在の深奥から湧き起こる。
それは根源的な生命の歓喜である。

(初出:岳人505号「風雪の北鎌尾根」、当隊報告書「Broad Peak」1989年3月の山行記録より抜粋



《G》 大天井からヶ岳へ


4時55分発 大天井ヒュッテ
前進か撤退か?

 今にも降り出しそうな厭な雲。
どう観てもこの雲は
気象庁の2日前の予報とは
全く異なる。

きっと北の高気圧が予想以上に
強く上空に寒気が居座り
地上から熱気が上昇し
どんぱち、ドンパチ激しい雷雨に
襲われることになるかも。

との不安を抱きながら
大天井ヒュッテを4時55分出発。
ケルンの積んである
無名峰からは上空の暗雲が
奥穂岳に垂れ下がり
涸沢の大雪渓に迫りつつあるのが
はっきり観えるでは。

こうなるともう、雨は時間の問題。
長い鎖場が続く
喜作新道から東鎌尾根で雨に
やられたら
濡れた鎖と岩との対決は
避けられない。

西岳にる雲 大天井ヒュッテ前
 
雲が垂れこめる ビックリ平

晴予報のなのに ケルン峰 
 
縦走路のに西岳道あり ヒュッテ西岳見ゆ
 
涸沢の大雪渓見ゆ ケルン峰
 
ザックをいて登頂 西岳山頂

雨で下山するパーティも出 水俣乗越 
 
濡れた長子 喜作新道
 
でぐっしょり ヒュッテ大槍
 
やっと見えた槍山 東鎌尾根
西岳から降り出した雨に叩かれ
重い荷が更に肩に食い込む。
濡れた岩場の登下降に恐れをなした
登山者が水俣乗越に佇む。

此処からなら1時間で槍沢へ
緊急避難が出来るのだ。
さて悪天を衝いて飽く迄も槍を目指すか
それとも安全第一で
槍沢へ逃げるか?

1人又1人と
槍沢へ下る登山者を尻目に
我々は雨と霧で観えぬ槍を目指す。 
 
テラスで乾! 槍山荘



《17》汚れた雪だ

8月5日 雨のち曇り

起床して朝食を食べるが、外はかなり降っている様子。
下山と決定。
隊長も久々にみるムーンフェイスで、高山病の症状だ。
「視野が狭くなった」と嘆いている。
出発前から完全武装の雨対策で小屋を出る。
先行する、高齢者グループ
20人ほどを抜かして、滑らないよう岩の道を下る。

荷が重い分、下りでも暫く歩くと汗が出て、雨具の中は汗と湿気でベタベタだ。
隊長はザックカバーがないので、ビニール袋で臨時カバーをしつらえている。
他の人から見たら、まさかヒマラヤ登山のベテランだとは気付くまい。

途中、雨脚は弱まったり、急に強くなったり止む気配はない。
2か所ほど雪渓を渡るが、もうズタズタの汚れた雪だ。



《H》 ヶ岳から上高


雨に打たれて渓を下る 槍沢

夜中の
しい風雨に眠れず
8月5日(月)朝5時
15分出発 雨

夕刻晴れ間が見え、若しや太平洋高気圧が勢力を増し明日から晴天になるかとの淡い期待は消え夜は激しい風雨。
明日の槍穂の縦走は断念して槍沢を一気に上高地まで下ることに決定。
シーズンだと云うのに雨の為かガラガラに空いているので、客の居ない別館2階の部屋に潜り込み早々と就寝。
ワイン、日本酒、ビアを愉しみながらの夕食に疲労が加わればいつもなら
実に深い眠りにストンと落ちてしまうのだが眠れない。

このまま眠れなければ明日の行動に支障が出ることは間違いない。
明日は下るのみだが何しろその距離が半端ではない。槍ケ岳山荘から上高地まで22kmもあるのだ。
激しい雨の中、ザックカバーも持たぬ不心得者がぐしょ濡れになること間違いなし。
その上睡眠不足でへろへろとあっては岩場での捻挫、骨折も在り得るかも。
そこで両肩の痛み止めを兼ねて催眠作用の在るロキソニンを2錠服用。
両肩の湿布同様これまた長い我が登山人生で、初めての睡眠の為の薬物使用であり、再び呟く。
「老兵は去るべし」



槍と上高地の間 横尾
槍から上高地へ
23.7km
3万9540歩、6時間25分

万歩計によると約4万歩で
6時間25分かけて歩いたとの記録。

夏、槍沢を下ったのは初めて。
積雪期には上高地を超えて
更に中の湯温泉までラッセルが続き
夏の下山とは較べものにならぬ。
それでも夏雨に打たれての
この高度差と距離を歩き通すと
充実感たっぷり。

一瞬雨が上り雨 徳沢薗

深山沙参(ミヤマシャジン) 東鎌尾根

赤沢山南 ババ平:槍沢キャンプ地

百合(クルマユリ)  喜作新道 

日光(ニッコウキスゲ) 東鎌尾根
徳沢で僅かに晴れ間が見え
陽が射した。
急いで鬱っとおしい雨具を脱ぎ
半袖とパンツ1枚になるが
その途端再び雨。

こうなったら覚悟を決めて
雨の森を愉しもうと
雨の歌を片っぱじから歌うことに。
処が知ってるのは
「雨降りお月さん」、「城が島の雨」
題名は忘れたが
「雨が降ります雨が降る」と云う
タンゴ歌手の冴木杏奈が歌う
歌の3曲のみ。

仕方なくアダモの「雪が降る」を
「雨が降る」に変えたりして
歌いながら下っていたら
何と、びちょびちょの足元に次々と
蛙が集まってくるでは!

うーんやっぱ美声に聴き惚れて
蛙め、集まったなと
独り悦に入っていたら後から来た
村上が追いついて来て
「何だか蛙が沢山
ピょこぴょこ飛び跳ねていたけど
何かパニックでも起こしたのかしら?」
と言ったような? 

山一花(ハクサンイチゲ) 喜作新道
 
巴塩釜(トモエシオガマ)白 喜作新道
 
薄雪草(ウスユキソウ) 喜作新道
 
兎菊(ウサギギク) 喜作新道
 
小岩鏡(コイワカガミ) 表銀座
 
信濃金梅(シナノキンバイ) 表銀座
 
巴塩釜(トモエシオガマ)赤 喜作新道
 それで、がっくりきて
歌から雨に濡れた高山植物の
観賞に切り替え
森をウオッチングしながら下る。

低山植物の糊空木、山蛍袋などが
顔を見せ始め
最早下界は近し。
限りなく宇宙に近い天空の蒼に
抱かれて槍から穂高への
稜線散策になる筈だった山旅は
こうして雨で終わった。
 
紅花苺(ベニバナイチゴ)  東鎌尾根
 
色丹草(シコタンソウ) 喜作新道
 
岩扇(イワオウギ)  喜作新道
 
糊空木(ノリウツギ) 明神

 見知らぬ石楠花(シャクナゲ) 表銀座
 
間皮茸?(アイカワダケ) 明神
 
山蛍袋(ホタルブクロヤマ) 明神


《18》 
3日間の長丁場


雨が激しくなると、ゴアの手首のゆるみからストックを伝って、袖の中に雨水が流れ込んで、タポタポする。
こんな大雨の山行は此処何年も経験してない。ヒマラヤでは雨より雪だし、そもそも大雨には行動しない。
今回も天気は慎重に選んだ筈なのに・・・
キレットを越えて北穂小屋での大夕焼けと朝焼けを満喫しようと期待したのに、叶えられなかったのは心残りだ。
槍沢ロッジでは、行動しようか迷っているらしい登山者がかなり居た。

横尾まで降りると、雨は一旦上がり、再び降っても小降りになる。未だ上高地までは11キロある。
観光客の増えた道をひたすら歩き、上高地へ着く。

新島島へ行くバスに直ぐ乗れ、後はとんとん拍子の接続で山荘には
7時前に到着できた。
行動食ばかりだったので、素麺と野菜が実に美味しく、無事の下山を感謝する。
5月の西穂に続き、天気には裏切られた山行となったが、それでも行かれて良かったと、
3日間の長丁場を歩き通した脚を労った。



《A》 Reminiscence :小槍登攀


立ち昇る一条の煙・横尾冬期小屋 

(丸太の吊り橋が架かる)横尾谷の出合いにさしかかった瞬間、遠雷のような雪崩の音が三方から同時に炸裂する。
今降りて来た後方の涸沢、右方の北尾根、そして左の横尾谷が同時に雪崩れたのである。
二度、三度繰り返し、繰り返し執拗に雪崩れ、殷殷と谷に谺する。
「間一髪だったな」後続の岩本とトモに話しかける。

私の判断が余りにも正確であったので、私には雪崩の音も愉快に聴こえるが、初めて雪崩音を聴くトモはそうはいくまい。
だが安心せい。あの程度の表層雪崩なら、ここまで達することはない。のんびりと横尾小屋に向かう。・・・
横尾小屋の煙突から一条の煙が立ち昇る。きっと松井に違いない。やはり来ていたのだ。
「やーごくろうさん」
ストーブの横に腰を下ろし、スルメを焼きながら松井とウィスキーを呑む。

この広い穂高山塊に今居るのは我々だけである。薪の爆ぜる音が、森の静寂を一層濃密なものにする。
15年間も一緒にザイルを組んだ松井と私に饒舌な言葉はいらない。
後続の2人が来るまでの間、ただ森の静寂に耳を傾けていればいいのだ。


(当隊報告書「Pobeda 1991」の「光のメッセージ」より抜粋 1992年3月南岳西尾根の記録より)

木の吊橋の面も無し 
8月5日(月)9時50分着 雨 横尾大橋(1999年完成) 

目を疑った。
あの懐かしい木の吊り橋や横尾冬期小屋に逢えるかと横尾まで降りてみると、それらは跡かたも無い。
上高地の架け替えられた河童橋かと見紛う立派な鋼鉄製の吊り橋になってしまった横尾大橋。
薪ストーブを焚いて雪に埋もれた冬期小屋で過ごした日々を思い出させる建物は何処にも見当たらない。

横尾大橋が完成したのは1999年、つまりあれ程冬毎に通い詰めた槍穂にはもう14年も来ていないことになるのだ。
そして多分これが最後の槍穂の山旅になるのだろう。
森に目をやり、何か見えはしないかと半世紀前の痕跡を追い求め、緑のキャンバスに小槍を描いてみる。

「アルプス1万尺小槍の上で、アルペン踊りをさあ、踊りましょ」
冬期小屋のストーブを囲んで歌った29番まである長い「アルプス1万尺」の一番を口ずさんでみる。
6番は確か「一万尺に テントを張れば 星のランプに 手が届く 」だったかな。
続けてお気に入りの26番「槍と穂高を 番兵に立てて 鹿島めがけて キジを撃つ 」
そして最後の29番「まめで逢いましょ また来年も 山で桜の 咲く頃に」

しかし山に桜が咲いても、もうそれは無い。
雑踏と化す夏のアルプスに居場所を失い、テントを捨て山小屋に頼る登山に歓びは見いだせず、
埋め難い寂寥に襲われる仙人にとって
槍穂の旅は永劫に終わったのだ。



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