その93の3ー2013年葉月 |
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8月3週・・・さようなら、おばあちゃん! |
おばあちゃん、誕生日おめでとう! 1920年(大正9年)9月26日誕生 撮影日:2012年9月 |
帯状疱疹発病後、わずか2カ月で母は逝きました。 |
こんな沢山の蝋燭消せるかな? 「あれ昨日もそう云ったよおばあちゃん」 「あらそうだったかしら?」 「毎朝非常階段を走って、それから 此処に来るから暑くてね」 ・ そんな会話の後いつもの笑顔で色々話してくれたね。 洋装で颯爽と銀座を歩く美人の 写真を見せてくれながら嬉しそうに 「これ私なのよ、幾つだったかしら、 随分若かったわね!」なんて。 ・ 「この頃のおばあちゃんに逢ったら 冨美代さんじゃなくて おばあちゃんにプロポーズしたかもね」 |
朝のトレーニングを終えて ぐっしょりかいた汗をシャワーで流し さあ、次はおばあちゃんに朝食を届けよう。 二階から一階へのルームサービスだ。 「おばあちゃん、おはよう!」 ・ あばあちゃんがマンションの一階へやって来てから 暫くそんな日々が続いたのを 覚えているかな? おばあちゃんは毎回驚いて 「あら、こんなに寒いのに素足で廊下を 歩くなんて!若いのね」 |
夢二の夢、おばあちゃんの夢? |
何事にも積極的 さらに、前日デイサービスにボランテイアで来てくれた若者たちの太鼓演奏が素晴らしかった、 自分もあんな衣装が着たいと言っていました。 希望者を募ったので手を挙げて太鼓を打たせてもらったそうです。好奇心旺盛で、何事にも積極的でした。 太鼓打ち衣装見事な夏姿 と詠みました。帰ってからも興奮気味に素晴らしさを話しつづけていました。 その夜、入浴の際、右胸に赤く発疹が出ているのに気づきました。 夏になると出てくるおできと思い、何時もの薬を塗って防水シートを張って入浴したのですが、痛みがひどく、 どうも様子が変で、翌日かかりつけの医院に行きました。 帯状疱疹という診断、さっそく抗ウイルス剤を飲み始めました。 ・ 対応が早かったため2週間もすれば治るだろうと思われましたが、 予想に反して回復までには大変時間が必要でした。 抗ウイルス剤は強い薬で副作用も激しく、怖い幻覚を見ると言われましたが、 母はどういうわけか楽しい幻覚ばかりを見ていました。 |
竹久夢二美術館、弥生美術館等から |
夢二研究会、現代女性文化研究所等から |
通夜8月17日(土) 於○○寺 |
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告別式8月18日(日) 於○○寺 |
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92歳のおばあちゃん 夢二画廊にて |
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順天堂医院に入院 「ほらそこに小さなウサギが3匹寒そうにしているから、白いネルをかけてあげて頂戴」 「そこには小さなお猿さんがいるから踏まないようにね。 小さな動物がほら沢山歩いてる」と、いろいろ見えないものが見えるようで、床から何かを拾い上げるしぐさなどを良くしました。 「そこに夢二の見たこともない素晴らしい絵がかかっていたわ。 大きな絵でしたよ。見られてよかったわ。あなたには見えないの?」とも言います。 ・ 「皆さん、下手でもいいから踊りましょう。さあ前に出て来て。どうして出てこないのかしら。 一緒に踊りましょう」と、盛んにベッドの上で手踊りをして、それがいつまでも続くのでハラハラしましたが、 疲れる様子も見えません。何日も手踊りは続きました。 そんな日が続くうちにつよい痛み止めを飲んでいるせいでしょうか、食欲がどんどん衰えました。 どんなに工夫してもほんの少ししか食べません。 痛みが続き、栄養状態が悪いのも心配で、7月3日、順天堂医院に入院しました。 けれども心不全(心房細動と不整脈)の薬が出血を止めにくくしているため、神経ブロックは出来ないとのこと、 |
喪主挨拶(右から樹麗、冨美代、悠樹、隆、○○、剛) |
最後の別れ |
山荘上の谷から400メートルもの長いパイプを 森に埋設して奥庭の池に導き 念願の滝を造ったんだ。 で、掘り返したゲート駐車場にコンクリートを 打っていたら微かに電話が鳴ったような。 ・ 急いで走って山荘に駆けつけたら 「おばあちゃんが今朝亡くなりました」との電話。 強烈な哀しみに襲われ 絶句して言葉も出ず、涙声の呻きのみで 電話に応えることが出来なかったんだ。 |
電話が通じないのかと 冨美代さんは 「もしもし聴こえてますか?」 と繰り返す。 必死で応えようとするが 喋ろうとすると嗚咽になってしまう。 ・ 山荘の森が紅葉で燃える頃 おばあちゃんに滝を 見せてあげたいと思っていたのに もう来てくれないんだね。 ・ そうだ、お骨になったおばあちゃんを 山荘に連れて来て 最後のお別れに見せてあげよう。 「あらまあ、この前は ログハウスを造ったと思ったら 今度は滝なの?」 なんてニコニコしながら云うのかな? → |
孫や子供に伴われて出棺(先頭右:悠樹、左:之彦) |
ベルトコンベアーに載せられて、 哀しみ不在の僧侶達の読経で 進行する通夜、告別式なんて 全く意味は無い。 儀式のさなかに払拭出来ぬ そんな思いにふと捉われる。 ・ 日々死者を送る僧侶が その度に哀しみを覚えていたら 商売にならない。 が、戒名の大姉が100万で信女が 50万と残された者に金額で 哀しみを試すかの その在り様が総てを物語っている。 そんな儀式に 参加してもおばあちゃんは喜ばない。 ・ おばあちゃんとのお別れは 山荘でしよう。 そう決めたら心が急に軽くなった。 |
空々しい僧侶の読経に耐え切れず 思わず隣りの冨美代さんに囁く。 「未だ渥美清の偽僧侶の読経の方が増しだね」 ・ 「そうね、読経の最中に汗を拭いたり 鼻を掻いたり落ち着かないし 戒名だって故人の生き様なんて聞きもせず 唯単に名前の千代の千を取って 月を付けただけだし」 ・ 僧侶曰く。 「こりゃ、尊い読経の最中に私語とは 何事か、けしからん!」 まさかそんな僧侶の注意書きが本堂に 貼ってあるとは・・ なぜ張り紙が必要なのか? この張り紙こそが総てを物語るのだ。 |
導師に続いて |
斎場へ向かう |
出張入浴サービス 食事も一匙づつ介助してくれるわけではなく、栄養点滴のみでは回復は見込めません。 少しづつでも口から栄養を摂れるように頑張るしかないと、覚悟して入院3日で7月5日には退院しました。 以後は家での闘病が続きましたが、強い痛み止めは副作用も大きいので、なるべく飲ませたくないけれど、 痛みを我慢するのはつらいもの、そのバランスが難しく、悩まされましたが、母はよく我慢していました。 食欲もなくなり、一匙一匙祈るような気持ちで口に運びますが、 食べられるものはどんどん減っていきました。 一方で福祉サービスの援助は有難いものでした。7月中旬には出張入浴サービスを受けるようになりました。 ベッドの脇に浴槽を作り、3人がかりで手早く上手に入浴させてくれます。 とても気分が良くなって、短期間でしたが元気に孫の話など普通に出来るようになりました。 電動ベッドも入り、上下したり上半身を起こしたり出来ます。これも有難いものでした。 訪問看護などの介護サービスをうけることにもなりました。 |
ヒマラヤの山の仲間と 早春の座禅草公園で |
山荘犬の舞瑠(左)と悠絽(右)と共に |
顔を寄せ囁く舞瑠 |
山荘テラスでのティータイム |
何と垂直梯子を登ってログハウスへ |
山荘窯で焼いた花器いいわね! |
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彦乃展でのおばあちゃんと仙人 中央区郷土天文館第2回特別展2007年3月17日〜5月6日 |
鼻からの酸素吸入 医師団は詳しく解りやすい説明をして下さり、信頼してお任せしましたが、 何といっても心臓と腎臓はあまりに危険な状態で、なかなか改善されませんでした。 母はずいぶん長く心不全を患いながら、なんとかバランスを保っていたのですが、 帯状疱疹と、薬がそのバランスを崩し、一気に悪化させたと言えます。 8月14日、早朝4時前に病院から危険な状態という知らせが入りました。 皆ですぐ駆けつけましたが、持ち直し、この日は元気に息子や孫と言葉を交わしました。 お茶目でウイットに富んだやり取りでしたので、笑いも起きていました。 ・ 皆安心してその日の夜は帰りましたが、私は気になって、 泊まった方が良いか聞いたところ、主治医はまだ大丈夫と言います。 それでも泊まることにして、母のベッドの脇に同じ高さのストレッチャーを置き、並んで寝ながら手足をさすりました。 皆が帰った後も興奮気味に声を出すので、鼻からの酸素吸入では十分酸素を吸えないようでした。 マスク型の吸入に換えてもらったところ、静かになりました。 |
星寿の祝い 夢二画廊で |
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竹久夢二の孫娘3人と(左:次男不二彦夫人) |
眠ったままの静かな最期 「苦しい?」と聞くと首を横に振り「楽になった?」と聞くとうなずきました。 それからは静かに眠りにつきました。 私もうとうとして、ふと目覚めると、母が大きな黒い目を開けて瞬きもせずじっと私を見つめています。 「一緒にいるから大丈夫よ」と手を握ると、うなずきましたが、いつまでも見つめ続けていました。 母のお別れだったのかもしれません。あの眼が忘れられません。 8月15日夜中の3時頃、たんが絡んだような呼吸音に聞こえたので看護師さんに聞くと、 吸引するほどではなく大丈夫ということでした。気になりましたが、暫くするとそれが静かな呼吸に変わりました。 ・ 良かったと思ったのですが、どうも息そのものが弱くなっているような気がます。 ナースステーションでモニターで見ていた看護師さんも気づいて駆けつけ 「呼吸が弱くなってきましたので、親族の皆さんにご連絡ください」とのこと、呼吸は4時15分ごろには止まり、 心臓も25分ごろに止まりました。眠ったままの静かな最期で苦しむことは全くありませんでした。 ・ 「良く頑張ったね。立派だったよ」と声をかけました。 担当の医師が駆けつけ、診断して5時7分逝去を告げられました。家族は幸い立ち会うことが出来ました。 昨日の元気なやり取りを知っているだけに信じられない思いでしたが、 母は最期の力を振り絞って皆にお別れをしたのでしょう。 |
夢二研究の女子留学生と(左ドイツ、右ロシア) ドイツ学生:サビーナ・シェンク(ハイデルベルグ大学) 夢二研究をテーマに博士論文 ロシア学生:マリーナ テーマ:日本美術研究 |
子供4人と孫2人、義理娘が揃って 「おばあちゃん、おめでとう! シックな白服がとても良く似合うね」 |
親族のおばあちゃん誕生会 |
天国へ行って来たの 帯状疱疹は厳しい病で、初めは痛みとの闘いがつらいものでしたが、少し収まった頃「お薬を飲む?」と聞くと 首を横に振って「頑張る」と答えることもしばしばでした。 本当に頑張ったのだと思います。この2カ月、私は母の部屋に泊まり込みましたが、 こんなに四六時中一緒に過ごしたことはありませんから、笠井千代という人物を改めて知ることが出来ました。 これについてはまた改めてまとめる機会があると思いますが、 今はこの長いようで短かった2カ月の闘病を皆様にご報告して終わろうと思います。 ・ 抗ウイルス剤の副作用で幻覚を見ていた時期に、「天国へ行って来たの」と何回か言っていました。 天国は何もない空間がずっと続いていて、会いたい人が来てくれるのだそうです。 「誰に一番会いたかったの?」と聞くと、「彦七さん」とのこと。42歳で逝ってしまった父のことです。 父の写真をお棺に入れてあげようと探していると、「彦七へのお手紙」が出てきました。 「初めて見上げた電車の中でのあの笑顔にすっかり参った私」とありました。 |
政治学者・袖井林二郎(夢二研究会会員)と 袖井林二郎の著書 『夢二加州客中』集英社 1985 「夢二のアメリカ」文庫 『夢二 異国への旅』ミネルヴァ書房、2012 『マッカーサーの二千日』 (中央公論社、1974年/中公文庫、1976年)等多数 |
中林淳真 1958年第7回東京国際ギターコンクール優勝。 1964年カーネギーホールで 日本人最初のギタリストとしてリサイタルを開催。 夢二画廊での独奏会で。 |
ギタリスト・中林淳真(前列左)と |
千代九十余年の生命 結婚して4人の子を産み、父亡き後は女手一つで立派に育て上げた母、 「彦七の待つ天国へ旅立つ幸せ、神様ありがとうございます。 千代九十余年の生命。幸福な人生よ。さようなら。グッドバイ」 とありました。九十余年とあるので、ごく最近書いたものようですが、 発病してからは起きるのも不自由でしたから発病前のものでしょう。この日を予見していたのでしょうか。 ・ 死の前日も、家族にもさようならと言って別れを告げました。 母は私たち姉弟を困難な中育ててくれた上、忙しい私たち姉弟に代わって孫の面倒もずいぶん良く見てくれました。 幼い孫たちを連れて海に行ったり、動物園や遊園地に行ったり、電車を見せに行ったり、 母もそれを楽しんでいたようです。 |
チベットの翡翠の香炉 位牌の下に紐の着いた小さなシンバルが 置かれているだろう。 時空を貫く澄み切った音色に魅せられて チベットヒマラヤの山から 持ち帰ったテンシャと呼ばれる鉦なんだ。 ほら、時空の彼方へ 惹き込まれるような音色でしょう。 |
山荘の土と信楽土をブレンドして 作陶した骨壷を3つ造ってね これはチベットの翡翠香炉に合わせて翠釉で 焼いてみたんだ。 これにおばあちゃんを入れてあげよう。 気に入ってくれると嬉しいな。 |
仙人が焼いた翠の骨壷 |
山荘で採れた葡萄と百合 どう、紫を超えて漆黒に耀く葡萄。 アルモノワールと云う赤ワイン用の葡萄で 今年初めて実を着けたんだ。 一粒食べてみて! 失われてしまった野生の味が甦ってくるでしょう。 搾ってワインが出来たら 真っ先におばあちゃんに呑ませてあげようかな。 |
おばあちゃんの告別式を終えて 山荘に戻ってきたら 静かに迎えてくれたのが前庭の白い百合と 奥庭の紅く熟した林檎。 この上なく芳醇で甘美に熟れた林檎も おばあちゃんを待っていたのかな。 |
奥庭で採れた美味しい林檎 |
2013年8月17日 猛暑の日 坂原冨美代 |
祈り・輪廻転生・・・・時空的渚・ |
さあ、おばあちゃん天空からの使者がやって来たよ。 大きな鳥だね。 これに乗って何処までも、何処までも飛んで行くと彼岸の地・涅槃に達することが出来るのかな。 ・ そこでおばあちゃんは天空に立ち昇った精神と肉体を再び結合させ新たな生命を生み出し きっと還って来るんだね。 或る時ふと気づくんだ。自分の心の深奥で微笑んでいるおばあちゃんを。 その時きっと、あーおばあちゃんが還って来たと思うんだろうね。 |