仙人日記
   その83の22012年神無月

10月3週・・・新雪の南アルプス縦走(北岳〜農鳥岳)


《A》 ゼウスの贈り物


北岳
バットレスへの想い

 10月20日(土)晴 広河原吊橋から

すっかり諦めていたのだ。2つの台風が関東地方に接近し雨は上がっても週末の
天気予報はとても期待出来そうもない。
さて山荘に向かう19日(金)朝の天気図を観ると台風の1つは1008Hpの熱低となり
北東に去りもう1つも後を追って関東地方を離れ明日から3日間は晴れとの予報。

つまり明日20日の誕生日から3日間晴れると云うのだ。これを天空からの
誕生日プレゼントと云わず何と云おう。
若しも誕生日前後の3日間の好天が訪れたなら北岳から農鳥岳への縦走をしようと
昨年から決めていたが願いは天空に届いたのだ。 

《素晴らしい快晴》を贈り物として届けてくれただけではない。
前日まで荒れていた2つの台風が
新雪まで冬将軍の宅急便で届けてくれたのだ。
空を支配する神・ジュピター(ゼウス)が願いを叶えてくれたのだろう。
山荘のシンボルとして山荘には
4枚の木星(ゼウス)大型壁画が飾ってある。
きっとジュピターはそれをご存知なのだ。

バスを降り遥かなる頭上を見上げると黒々としたバットレスが
白銀の衣を纏い
紅や黄に燃える森を従え実に美しい。
山頂に突き上げるバットレス中央稜が追想の扉を開く。
足繁く通いつめ登攀したルートが
次々と扉から顔を覗かせる。
Dガリー奥壁第4尾根フランケ、ピラミッドフェース・・・。
 苔生した登山靴
10月20日(土)晴 広河原山荘の森にて

野呂川の吊橋をゆらゆら渡って 広河原山荘から森に入ると懐かしい苔むした深い森の香り。
うーんこれだ!この香りこそ南アルプスそのもの。嬉しくなってふと足元の苔に眼をやると
あれ!苔に塗れて何か在る。良く観ると7つの白い小さな星が緩く
弧を描き輝いているでは。

何だろう?あっ!この白い星はアルミで出来た登山靴のホックだ。
苔に塗れて出てきたのは苔に変身した古ーい登山靴。
苔生した登山靴なんて見た事もないので屈み込んで繁々と見つめていると
微かに、微かに柔かい甘美な音色が響いてくるのです。
登山靴の中から流れ出る柔らかな響きは深ーい森に流れ
どうやらサックスの音色らしいのです。


苔生した登山靴を覗き込むと小さなアルトサックスが潜んでいるではありませんか。
素朴な音色は徐々に形を成し何処かで聴いたことがあるような聞き覚えのある曲に成りつつあるではありませんか。

「何が起こったのか自分でもわからないが、おそらくこれが
私の最後の
煌きになるだろう」

最後の作品となった《幻想的舞曲》を完成させたラフマニノフの言葉が
サックスの音色に混じって響いてくるところをみるとどうやら曲は《幻想的舞曲(交響的舞曲)》の
弟1楽章で演奏されるあのアルトサックスのメロディーに
違いありません。

最後の《幻想的舞曲》は快晴の天空に流れ1枚のカードとなってひらひらと舞い始めました。
カードには深い蒼い闇へのメッセージが記されていました。
こんな素敵な誕生日カードを届けてくれたのは山荘のシンボル・ジュピターに
相違ありません。嬉しいな!





《B》 新雪のタイムトンネル

 新雪北岳・農鳥岳Map
  コースタイム
 
 2台のカメラを用いて3日間で約600枚の撮影を行った。撮影をしながらの行動なので実働時間はもっと短い。

10月20日(土)6時山荘発東山梨6:27発→甲府7時発→広河原8:53着
10月22日(月) 奈良田14時着
温泉入浴後16:20のバスで→下部温泉駅17:30着、18:04発→甲府19:14→東山梨19:31着→(食料買出し)山荘20:15着

 実施日:10月20日(土) 時
広河原  8:53着   9:00発
 大樺沢(昼食)
(2200m地点)
10:55着  11:30発 
二俣 12時 2680mから新雪あり 
小太郎尾根  13:53 
北岳肩の小屋  14:40着 (風強く停滞) 
行動時間・計  5時間40分    
 

 10月21日(日) 快晴風強し 
北岳肩の小屋         6:55発 
北岳山頂 7:40着  9:00発 
北岳山荘 10時 
中白根 10:30  
間ノ岳 12:00着 12:36発 
農鳥小屋  13:40着   
行動時間・計  7時間45分    
 

10月22日(月) 快晴 
農鳥小屋         5:45発 
西農鳥岳 6:50 
農鳥岳 7:30着  8:00発 
大門沢下降点 8:30 
水場(昼食) 10時〜10:30  
大門沢小屋 11時   
 工事場林道 13:10
奈良田  14時 
行動時間・計  8時間15分    
3日間総計  1時間40分    
 


山行めもりー
   10月20日(土) 晴風
広河原→北岳肩の小屋

重いのだ。
悪名高き農鳥小屋
狭くて酷い食事の北岳肩の小屋を
利用して縦走する限り
3日間の全食料と非常食は欠かせない。

それになんたってこの山行は
誕生日の贈り物。
となると山荘特製の赤ワイン、白ワイン
そのワインに合うおつまみも欠かせない。
牛タンの炭火焼き、スライスサラミ
揚げ烏賊、林檎、梨、柿、ナッツ類・・・

それにアイゼンを始めとする冬山装備。
ザックは重いのだ。
 10月21日(日) 快晴風強し 
北岳肩→北岳→中白根→間ノ岳→農鳥小屋  

標高3000mの肩の小屋でー7℃。
厳冬期と比べれば暖かいが
体は未だ秋と認識しているので寒い。
アイゼンを着けようと手袋を外すと
強い風が指先を凍えさせ
なんじゃ、これまるで冬山じゃん。

北岳山頂で1時間20分を過ごし
通い続けた北岳に別れを告げ
のんびり稜線漫歩。
北岳山荘を過ぎると全くの静寂の世界。

間ノ岳山頂の豊かな新雪を堪能し
抜けるような蒼空を見上げたら
何だか無性に嬉しくなった。
10月22日(月) 快晴 
農鳥小屋→西農鳥岳→農鳥岳→奈良田

あの悪名高き小屋のオヤジが
4:45分に部屋のドアを開け
テルモスに湯を入れて持ってきた。
「約束の5時にゃ未だ早いけど
早い分にはいいべ」

山荘で焼いたパンに梅ジャム、カレー、
ポテトサラダをたっぷり付けて
オヤジさんの持ってきてくれた白湯で朝食。
僅かに朱に染まる
蒼黒い地平線の彼方を見つめながら出発。
農鳥岳を超えて奈良田まで
所々消えてしまった登山道を探しながら
標高差2500mを登下降。


いつだって新雪は愉しいもんさ
10月21日(日)快晴 間ノ岳頂上直下にて

まさか誕生日の10月にこれ程まで豊かな新雪に
恵まれるなんて!
そりゃ、誕生日を山で祝ったことはあるけど
アルプスの山稜で迎えるのは初めて。
この時期のアルプス高峰は
紅葉も雪も無い中途半端なシーズン。
その上好天が続かず連休も取り難く日帰り山行ばかりだった。

今回の3日続いた快晴も翌日は前線通過で荒れ、
その後も晴天は続かなかったのだ。
正に神の贈り物であったこの快晴に新雪が加わったのだから
もう云うことなし!
北岳、間ノ岳、農鳥岳の中でも緩やかな起伏を描く
間ノ岳は真っ白しろ。
さて何処からラッセルしようか!

そうそう出発前夜の雪情報で急遽アイゼンを用意し
北岳の登りで軽登山靴に装着したのだがベルトが緩み外れてしまった。
二重靴用のアイゼンを調整し新たにバンドを購入してGK67の軽登山靴にも合うように
しておいたのだがその後再び冬山に出かけ固定位置を元に戻してしまったのを
すっかり忘れていたのだ。

この未熟者!アイゼンが外れるのは当然だ。そこでアイゼン無し。
この程度の雪ではむしろ無いほうが快適とばかりゼウスと共に雪山を飛び回る。
どうですこの嬉しそうな笑顔。新雪に興奮するのは新雪が過去の総てをリセットし
新たな世界を産み出すからかな?
それとも一夜にして山々を美しく変貌させるからかな。

≪この一瞬さえ在れば例え世界が総ての意味を失っても私は耐えられるのだ》
と云わんばかりではありませんか。



レトロなバスガイド (芦安にて)

昭和のレトロそのもののような
磨り減った黒いカバンを提げ
これまたレトロそのもののような雰囲気を
滲ませたバスガールが案内。
このトンネルを超えると
昭和にタイムスリップするのでは。
となるとトンネルを抜けると
オイラは高校生になってしまうのか?
初めて新雪の北岳を訪れ
これから登ろうとしているバットレスに
魅了され呪縛され言葉を失った
あの日の高校生に。

トンネルを抜けると雪国かな? (夜叉神トンネ
さあ、出発だ!
10月20日(日)快晴 

突如取り出したるは
あの懐かしい全停車場名の入った
長く大きな切符。
甲府と記された箇所に穴を開け
広河原にもパチン。
これで甲府乗車、広河原下車の
切符の出来上がり。
南アルプスマイカー規制利用者協力金
なるものを含めて2千円也。

 
えっ!昔のパンチ (芦安にて)



《C》 ゼウス降臨
そしてゼウスとの邂逅
北岳の黎明
10月21日(日)5:57 北岳肩
北岳の黄昏
10月20日(土)17:04 北岳肩




 ゼウスの祝福LXVIII
10月20日(土) 北岳肩

冬将軍の息吹が北岳山顛の雪を舞いあげ霧を孕み東へと深く蒼い闇を靡かせる。
初めて広河原まで林道が開通した半世紀前1962年10月31日胸躍らせて
私は北岳バットレスに向かった。
2日目の11月2日18歳訳有り高校生の私はその深く蒼い闇の底に居た。

北岳山頂までダイレクトに突きあげるバットレス中央稜の大オーバーハングの真下で
永劫に続くかと思われる初めての冬のビバークに怯えていた。
・中央稜下部から北岳山頂まで数時間で抜ける予定であったがオーバーハングの登攀でラストの
田中が動けなくなってしまったのだ。
「すいません、もうどうしてもこれ以上登れません」


 
農鳥岳の燃ゆる曙光

10月22日(月) 農鳥岳頂

鐙に乗って揺れながら空中でもがき続ける田中に技術的なアドバイスをしながら
励ますが体力の消耗激しくこれ以上の登攀続行は絶望的であった。
ルートの核心部を超えたハングの上でジッヘル(確保)する私にトップの駒村が叫ぶ。

「田中をハング下まで降ろしてこのまま2人で山頂まで抜けてしまおう」
私より3つ年上で登山キャリアも長い田中なら単独ビバークにも
耐えられるだろうしCガリーの単独下降も心配無いかも。

しかし私は3人一緒での無装備ビバークを敢えて選んだ。
短気で怒りっぽい駒村は何故かその私の選択に怒らず1本しかない貴重な
ナイロンザイルを固定したまま困難なハングの下降に同意した。

駒村は固定したザイル末端に連絡先住所氏名を書いたタグを吊るして置いたが
春になっても夏になっても連絡無し。冬は直ぐ凍てつき
堅くなってしまう麻ザイルを持ってバットレスを再訪した時は
当然ながらザイルは既に消えていた。

あのしなやかな夢のナイロンザイルを突然、中央稜で授かった見知らぬ若者の
歓喜の顔を想像してはニンマリしてしまう。
あれは神の贈り物だったのだ。
雪に浅い穴を掘っての初めての永劫に続くビバークで駒村はロシア民謡を教えてくれた。
「モスクワ郊外の夕べ」、「仕事の歌」、「スリコ」、「カチューシャ」
「ともしび」、「アムール河の波」・・・
3人で抱き合い骨に突き刺さるような寒さと闘いながら、哀愁を帯びたロシア民謡を歌い続け曙光を待った。
夜明けの北岳を振り返り農鳥山頂で久々にロシア民謡を口ずさんでみた。




目覚めるゼウス
10月21日(日)5:57 北岳肩
この荘厳な
朝の光を見てしまったら
もう逃れることは出来ない。
思わず再び
云ってみたくなるではありませんか。

≪この一瞬さえ在れば
例え世界が総ての意味を失っても
私は耐えられるのだ》と。
陽の出時刻5:57、方位102.6度
となると此処から見える太陽は
山荘の真上からやや右寄りに位置する。
太陽の右に影を落としているのは
御坂山塊であろうか。

太陽を挟んで御坂の反対側に
山荘はまどろんでいる筈である。
いつも小倉山の山頂から北岳や
間ノ岳、農鳥岳を
眺めていたが反対の南アルプスから
小倉山を観るのは初めて。
目を凝らして小倉山を探すが
余りにも美しい薔薇の光に
遮られて残念ながら見えない。 

ゼウス山荘上に君臨
10月22日(月)5:58 農鳥岳稜線



《D》 懐かしの山顛にて


小太郎尾根からの甲斐駒ケ岳 10月20日(土) 晴

女性2名をガイドしての登攀で予期せぬバットレス上部の深い雪。
アイゼンも冬靴も持たずクレッターシューとスニーカーしかないので
仕方なくスニーカーでラッセル。
二俣のテントに戻ってたしか岩本さんの靴下を借りて助かった記憶があるけど・・・・

岩本さん覚えているかいあの日の登攀を?
これはあの日の心象画像なのさ。
新雪が這え松に混じり銀の斑を成す小太郎尾根に出ると甲斐駒ケ岳が霧を纏って忽然と姿を現した。
登山道から離れ山頂直下のスラブを登攀した昨年の山行が甦る。
1年前の登攀者が見えぬかと白い花崗岩の広大なスラブに目を凝らす。

人間なんて余りにも小さすぎて見えはしない。
よしそれなら心象スケッチから1枚を抜き出して登攀者を拡大して見えるようにしてあげよう。
どうだい、観えたかい!
 
北岳山頂より後方甲斐駒) 10月21日(日)快晴




山荘産の林檎、ワインを捧げ頂に感謝! 10月21日(日)快晴


この歓びを誰に感謝し、誰と分かち合ったらいいのか!
いろいろ考えたんだけど
初めての雪のバットレスでビバークしてから半世紀も
想い続け通いつめた北岳こそ相応しいと・・・

装備をザックに詰めながらどの林檎を同行すべきか考えた。
一番大きな林檎にしようか、
一番美しい光沢を放つ奴にしようか、
それとも香りの最も強い林檎にしようか?

林檎畑に降りて
じっくり眺め悩みながら選んだ林檎がこれなんだ。
林檎の唄

がりりと咬んだ時に迸る香気に打ちのめされるね。
檸檬のように強烈でありながら
決して琥珀では無い太陽の炎をエッセンスにした高貴な香り。
それからじゅわーと広がる甘酸っぱい果汁は
林檎の認識を変えてしまう程の嘗て味わったことのない味覚。

そりゃ何年もかけて無農薬で自分で育てたと云う思い入れがあって
香りや味が過大評価されていることは否めないけど
それを差し引いても充分美味いんだ。
 
後方の仙丈岳にも感謝! 10月21日(日)快晴



地蔵の頭に乗った山荘林檎

さてそれではガブリ!
あめゆじゅとてちてけんじゃ 

林檎を齧った途端に
私にとっての北岳と宮沢賢治が
何の違和感もなく重なった。
北岳は賢治だったのだ。
どうしていままでそんな必然の理に
気づかなかったのかと
きょとんとしてしまった。
Ora Orade Shitori egumo

この林檎はあめゆじゅなのだ。
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そら
に育まれた林檎こそ
私にとってのあめゆじゅそのもの。

こうして賢治から
ひとわんのあめゆじゅを受け取って
私の北岳との
「永訣の朝」は完結するのだ。
 
無農薬林檎の極上な味
 
甲斐駒と仙丈にも食べさせてあげよう

 


左:地蔵岳(2764m)、中央:観音岳(2840m)右:薬師岳(2780m) 観音岳の背後は瑞牆山 間ノ岳山頂より   

北岳(左)と八ガ岳(右後方) 間ノ岳山頂より
ヒマラヤのトレーニングとして
 主に冬に駆け巡った懐かしい峰々を望遠カメラで
1つ1つ追っていく。
僅かに雪化粧しアルプスの威厳を
取り戻しつつあるものの
未だ未だ可愛らしい童顔そのもの。

でももうすぐ雪と氷のドレスを纏って
まるで昔から
ヒマラヤででもあったかのような顔して
山荘を見下ろすんだね。

北岳(3193m) 農鳥岳山頂より

間ノ岳(3189m) 北岳山頂より 
 
塩見岳(3047m) 農鳥岳山頂より

間ノ岳(3189m) 農鳥岳山頂より

左:荒川岳(3141m)、中:赤石岳(3120m)、
右:聖岳(3013m) 農鳥頂より
 そうしたらせっせと山荘の山に登って
その小さな山顛から
じーっと熱い視線で見つめてあげるからね。
それからどんな話しをしようか?

陽介や修、大作君と雪まみれになって
赤石岳から荒川岳や千枚岳を腰までのラッセル。
下山した温泉宿で
夜明けまで呑んだくれて激論した話しもいいね。
確かヒマラヤを登る力を付けるには
組織か個かで修と大作が
喧々諤々の大論争を展開したんだったね。
それからさ・・・・・

左:中岳(3083m)右:前岳(3068m) 農鳥岳山頂より

左:農鳥岳(3026m)、右:西農鳥岳(3051m) 
コルに農鳥小屋見ゆ 

荒川岳(左)、赤石岳聖岳(中央)中岳(右)
 農鳥岳山頂より
  
 
左:大仙丈岳中:仙丈岳(3033m)、右:小仙丈岳
 間ノ岳山頂より 


聖岳(3013m), 赤石岳(3120m), 荒川岳(3141m),塩見岳(3047m), 農鳥岳(3026m), 西農鳥岳(3051m), 間ノ岳(3189m), 北岳(3193m)、鳳凰三山(2841m)、仙丈岳(3033m)

山荘の山(小倉山)からの南アルプス遠望

実は仙丈岳の右には甲斐駒ケ岳が聖岳の左には富士山が写っているのだが画面の幅が足りないのでカットしてしまった。
こうして改めて画像を観ると、この山荘の山が如何に優れた南アルプスの展望台であるかよくわかる。
南アルプスの主脈からは重なってしまい判別し難い聖、赤石岳も此処からは実に明瞭であるし、何より甲斐駒から聖岳までが一望できる。
ハンゼの頭(1685m)からの眺望も素晴らしいが南アルプスが展望出来るこれ程までに優れた山頂が
山荘の目の前に在り朝に晩に登れるとは何たる贅沢。



《E》 骨露出のバットレス事故を語る星烏・山小屋


想いだしてごらんと星烏 ホシガラス
「そういやーバットレスで落石に襲われ
墜落して右脚の脛の骨が
露出してしまったことがあったね」

白い星を全身に鏤めた星烏が
馴れ馴れしく寄って来てお喋りを始める。
そうあれは確かアフガニスタンの未踏無名峰に
初登頂した直後1977年10月山行の
事故だったな。

血に染まった自分の生の骨を
生まれて初めて見て驚いたの何の!
しかし現場は垂直に切り立ったバットレス上部。
下降するより山頂に出たほうがベターと
判断しハンカチで挫創部を緊縛し
そのままザイルのトップを務め何とかテントに戻る。

その夜は出血を抑えるためテントの天井から
足を吊るして寝たが
右脚からの出血は止まらず脚を伝って流れる血が
お尻に溜りパンツはぐっしょり。
翌日どうにか自力下山し甲府中央病院に行ったが
待ってたのは医者の冷たい一言。
「こりゃ駄目だ」

「1日以上経ってるので手術出来ない。
傷口が腐敗を始めているので
今縫合してもくっ付かないよ。
東京に帰ってどうしたらいいか相談して」 
 
白い骨だって!と星烏 ホシガラス
 
紅い実を喰われた広葉吊花 ヒロハツリバナ

 冬を告げる七竈の実 ナナカマド
仕方なく帰京してから
翌日痛みを堪えて学校まで行くが
階段が登れない。
そこで授業は全て1階で行い授業終了後
即病院に行くが
傷口を診るや否や又もや絶望の一言。 
「こりゃ駄目だ」

で見放された脚を引きずって
自宅近くの東大分院へ。
「うーんこりゃ肉芽が出て
手術可能になるまで1ヶ月程かかるな」
 
稜線の雪の吹き溜まり 間ノ岳
でさ、1ヵ月後に手術して抜糸後4日目に
快気祝いだとか称して
吹雪の北アルプス立山に登り更に1ケ月後の
冬合宿で剣岳に登っているとは。
クレイジーだね。

星烏は「馬鹿につける薬は無いな」と
呆れた顔して
雪の吹き溜まりを越えて
森に飛び去ってしまいました。
きっと最後に残った七竈(ナナカマド)
実を探しに行ったのでしょう。



夏の猛暑にも融けず残った雪 大樺沢雪渓

@〜Bの条件以前に
当時の岳人達の山への想いの中には
山での事故は総て自己責任として甘受する
との決意があった。
安易に他者の力に依存する者に
登山の資格は無いことを充分に弁えていたのだ。

だもんで、どうあっても片足でベースキャンプの在る
大樺沢まで自力で下らねばならない。
右膝下から10数cmに亘って露出した骨を抱えて
果してBCまで下れるのだろうか?
決死の大樺沢下降 
1977年10月22日(月)晴 大樺沢

骨の露出した右脚は完全に麻痺し使えない。
しかし当時は現在のようにヘリコプターを呼んで簡単に
病院まで空中搬送と云う訳にはいかない。
@ 先ず事故を知らせる携帯電話なんてものは無い。
A  県警ヘリはこの程度の事故では出動してはくれない。
B 当時は山岳保険なるものが無いに等しく
保険対象にヘリ出動は含まれていないので
ヘリを要請すると高額な自己負担金が必要となる。
 
 
 
新雪のトラバース 小太郎尾根

たっぷり食料・装備の詰まったザック 八本歯分岐上


新雪のトラバースをしながら
一歩毎に突き刺さるあの日の右脚の痛みに
想いを馳せる。

軽く地面に付けるだけで右脚は
本人の同意なしに激しい悲鳴を上げるのだ。
思わず悲鳴が漏れそうになり
慌てて呻き声を押し殺す。
ベースキャンプを張った大樺沢雪渓が
燃える紅葉とコントラストを成し
消えかかっていた35年前の10月山行記憶を
徐々に浮かび上がらせる。

そうだ、あの急峻な雪渓の下の二俣に
青いテントを張って卒業生の
鈴木、天川等6名とバットレス登攀を愉しんでいたのだ。
 
新雪を蹴立てて 間ノ岳下降



直ぐ外れるアイゼン 北岳肩の小屋
どうにかBCまで下ったが更にそこから
車道のある広河原まで下らねば
苦痛を押し殺しての歩行は
終わらない。
病院への途は未だ未だ遠い。

テント、ザイル、登攀具等重い物は
持ってもらい
個人装備だけを背負って下るが
ザックの重さがこれ程までに
苦痛に拍車を掛けるとは・・・・。

冬期は此処をBCにしたんだよ 北岳山荘

苦痛は鮮やかに甦ったが
骨を剥き出しにしたままの
北岳山頂からの下降ルートが
どうしても思い出せない。

八本歯の岩場ルートを下ったのか
それともこの肩の小屋経由で
二俣BCへ戻ったのか?
軽登山靴にアイゼンを着けながら
記憶の彼方に肩の小屋が
潜んでいないか探してみた。

歩き出すや否や
直ぐ外れるアイゼンの再装着をあっさり

大門沢下降点 遭難碑

諦めザックに入れ
改めて小屋をじっくり眺める。
どう探ってみても35年まえの記憶に
肩の小屋は出て来ない。

負傷したからと云って
山小屋に援けを求めるなんて発想は
全く無かったので
多分、あの歩き難い八本歯ルートを
下って帰幕したのだろう。

冬期はここの無人小屋をBCにして
バットレスを登ったのだが
今は水洗トイレを備えた
立派な北岳山荘に変身してしまった。

4番目に高い山 間ノ岳山頂

大門沢無人小屋 冬季避難小屋

北岳遠望 農鳥岳山頂


悪評き農鳥小屋番人のネット評

農鳥岳(3026米)の肩にある
農鳥小屋の主人深沢さんの評判は
すこぶる悪い。
ネットで農鳥小屋について調べると
良く言う人は殆どいない。
英語の
NOTORIOUS(ノウトリアス―悪評の高いの意)
を引用してノウトリアス小屋などと
ダジャレる人もいるほどである。


(猫額亭主人より)
「アクエリアスを下さい」と言いましたが、
返事もせずに「これから何処に行くのか」
と聞かれ、「農鳥岳を回って
奈良田に6時頃に下る予定です」
と答えると
「6時に着くなんて言う者と
話は出来ん!」
とピシャリ。

(錆鉄人より)
 「農鳥小屋」で検索すれば分かるが、
ここのおやじは相当評判が悪い。
小屋を覗いても誰もいない。
探したら犬小屋のようなところに
犬と一緒にいた。
非常に嫌な顔をする。
これではとても泊まれない。
かなり粗末な小屋で、
もし泊まっても相当寒いだろう。

(高尾哲也より)
農鳥小屋の小屋番最低最悪です
おそらく他の書き込みもあるでしょうが、
よくあんな方ガ小屋番を
彼の私物の小屋かもしれませんが、
まず宿泊した9割の方たが
同じ評価をすると思います
せっかくの楽しい登山ガ、
小屋の番人のおかげで台無しになります
早朝、北岳山荘を出れば
奈良田まで帰れます、途中で大変と思えば
大門小屋泊をお勧めします

(Yahoo! 知恵袋より)


農鳥小屋 後方:農鳥岳  
出て来る出て来る。
ネットでの悪評。
これ程までにネットで騒がれ
知名度の高い
山小屋番人は居ないのでは?

だが肝心の小屋番の顔写真が出てない。
話すだけでも恐れ多いのに
写真なんか撮ったら殺されるのではと
畏れ慄く紳士淑女諸氏。
さてさてどんな小屋番なのかそれでは
いっちょ顔写真でも撮りに
農鳥小屋に泊ってみようかな。

雪の稜線散歩 4頭の犬と 
開口一番「遅い!」
遅いと云っても小屋に着いたのは
13時40分で日没までには未だ
4時間もある。
小屋番に遅いと云われる筋合いはない。

北岳山頂で1時間20分
間ノ岳の頂で40分、計2時間を
撮影に費やしているので
その分を差し引けば11時40分に
農鳥小屋に着いてしまうことになる。
そうしたらオヤジは何と云うのか
想像してニンマリしながら
オヤジの言葉を聞き流す。

山小屋の犬 甲斐犬:クロ
さてオヤジさんの顔写真を撮る前に
先ず手始めに犬でも撮ろうかと
「犬の写真撮ってもいいかね」と問うと
全くの無言で反応無し。
「犬の名前は?」
これにも耳が無いかの素振り。

こいつは面白いと暫く間を置いてから
「犬には名前が無いのかな?」
するとぼそっと一言。「クロ」
再度しつこく
「犬の写真撮ってもいいかね」と問う。

小屋主の深沢氏 クロと共に
こんな調子で先ずは4頭居る犬の
撮影に漕ぎ付け次は
難題のオヤジさんの顔写真である。
犬を連れて稜線散歩に出かけると
云うので同行許可を貰う。

黙って着いて行ったらどうなるか
試すのも一計だが
飼主以外には慣れない甲斐犬の性格を
よく知っているので
犬をけしかけられたら大変。
それにオヤジさんの気分を損ねては
顔写真も撮れなくなると判断。

ところがどうだい!
このオヤジさんの嬉しそうな顔。
「バックが甲府盆地で
良い写真になるべ」
とオヤジさんからレンズに向かって笑顔で
語りかけてくるでは。

一番広くて綺麗な部屋に炬燵をセットし
湯をテルモスに入れて
運んでくれる。
「湯も水も金はいらんよ。
炬燵に練炭足しとくから夜中も
暖っかいずら」
さてはオヤジさん気が狂ったか?

炬燵で一緒に語り合う。
「20代でこの小屋に入ってからもう
40年も小屋番してるだ。
文句云うと煩せいばばあ(客)が雑誌に
投書してやるとか云うから
やってみろ、おら、ちっとも困らんと
怒鳴りつけるんさ」

炬燵で語る オヤジさんと

鹿駆除に狼なんてとんでもねえ! 怒るオヤジさん

稜線を4頭の犬と歩む テント場



《F》 永訣《幻想的舞曲》ラフマニノフ


永訣を告げる朝 10月22日(月)快晴



朽ちかけた丸太橋 

だからこそ山では持てる生命能力の総てが要求され
若き生命にとって魅力あるターゲットとなる。
1つの困難な山行を実現する為に厳しいトレーニングを課し
生き抜くための装備、食糧を厳選し
生命の秘かなるメッセージを抱いてサバイバルの旅に出る。

トレーニングの結果、肉体改造が不十分と判断されれば
当然サバイバルの旅は延期若しくは中止を余儀なくされるのだ。
老いた肉体はどれ程トレーニングしようが
いつ突然不能になるか予測出来ない危険性を孕んでいる。
その危険性は若い時のそれとは較べものにならない。
続くなっかしい老いた 
10月22日(月)快晴 広河内

何故、永訣を告げねばならないのか?
山を知れば知るほど深い山、高く険しい山の危険性が
明瞭に見えてくるからなのだ。
トライアスロンが如何に苛酷であってもいつでもリタイアは出来る。
ギブアップすれば救急車が駆けつけて病院に運んでくれる。
深い山や高く険しい山ではそうはいかない。
骨折、重傷を負っても自己処理し生き抜かねばならない。
 
落ちたらごめんね!

蛍袋 広河内

耳型天南星 広河内

深山竜胆 広河内
 老いたザイルと同じである。
登攀前には神経質なまでにザイルの
傷や老化程度をチェックする。
墜落した時の
ショックに何処まで耐えられるのか?

さて長年の紫外線に曝され
酷使され
明らかに老化したザイルを目の前にして
サバイバルの装備に
敢えてこのザイルを選ぶであろうか?
選ぶとしたらその時点で
登攀者はサバイバルへの旅の資格を
失うことになる。
その老化度の判断は難しい。

水場で電動歯磨き 広河内 

 しかし如何に難しかろうが
いつの日かその決断を下さねばならない。

決断を留保し
登り続ける方法が無い訳ではない。
新たな挑戦として80歳になって
エベレストに登ろうなんて云うのも
その1つである。

優秀なポーターを厳選し前後左右に侍らせ
BCから頂まで要所にはザイルを
張り巡らせいつでもリタイア出来る
態勢を整えればいいのだ。
勿論エベレストではそのリタイアが
儘ならぬ厳しさがあり
しばしば死ぬのだが。


遥かなる農鳥岳を見上げる 広河内


聴こえてくるような気がしないかい?
確実に迫りくる死を予感し
1日に14時間も作曲に没頭し5週間で書きあげた
ラフマニノフの《幻想的舞曲》が。

迫りくる冬を予感し鮮やかな彩を光に滲ませ
森の木々が
67歳のラフマニノフになって
《幻想的舞曲》の完成した1940年10月を謳うんだ。

深い蒼い闇へ向かって
広がり続ける心象のメロディー

聴こえてくるような気がしないかい?
想像してごらん!
老化したザイルに新しいザイルを何本も巻きつけて
グロテスクなまでに肥大化した姿を。
そりゃ老化したザイルが突然切れるようなことは
起こらないだろうし
縦んば起きたとしても巻きつけられた若いザイルが
墜落を食い止めてくれるのだから
何の心配も要らないわけだ。

問題は老化したザイルがそうしなければ
最早このザイルの出番は無いと誰よりも強く認識していること。
その認識が老化したザイルを
致命的なまでに酷く傷つけることは云うまでもない。
真摯に山を追い求める者にとって
この認識の封殺は自殺行為そのものなのだ。

 標高差2500mの登下降の終わり 奈良田第1発電所から


Index Next