仙人日記
   その842012年霜月

11月1、2週・・・ようこそ!錦秋の山荘へ

錦秋の山荘 
11月10日(土)晴 前庭

確か先週、山荘を後にした時は
満天星(ドウダンツツジ)が僅かに
朱を帯び
釣られて銀杏が申し訳程度に
黄ばんでいただけだった。

それがどうだい、
この燦爛たる燃えるような森は!
この森が見慣れた
いつもの山荘の前庭だなんて
とても思えないな。

右端に一輪、ピンクと白の混じった
山茶花の花が見えるだろう。
山茶花は紅葉しないから緑だ。
その左でくすんだ紅と
鮮やかな紅を織っているのが娑羅。

その背後で黄金の光を放っているのは
朴の木と銀杏。
緑を留めながらも黄ばみ始めている
木蓮も見えるね。
左の赤は秋珊瑚と云われる
山茱萸と山法師、楓。

その下で黄葉の遅れている無花果が
黄葉なんて素知らぬ顔して
のんびりと緑の大きな葉を
覗かせているね。
黄金の光を放つの木
11月10日(土)晴 2階テラスより

決して啼くことの無い白鳥が死に瀕して最後に
一声高く啼くとの《白鳥の歌》伝説を
彩葉が囁いたのだ。

燦爛たる彩葉が白鳥を擬しているなら
決して歌うことの無い《白鳥の歌》は
何が該当するのであろうか?

どう考えても彩葉が発する燦爛たる光以外に
想い至らない。
しかし紅葉は毎年繰り返され、在り得ぬ伝説ではない。
それとも葉にとっての紅葉は一度限りと云う事?

彩葉の光が微かに揺らめく。
どうも違うらしい。その揺らめきは
「お莫迦さんね、この光、いつもと違うでしょう!」と
云っているような気がするのだ。
錦秋の窓辺 
11月10日(土)晴 イオの部屋から

狂おしいまでに
太陽の深い朱と月の煌く黄金を散乱させ
彩葉が囁いている伝説は
唯一度だけの最後の歌がキーワードなのだ。

葉を山荘に置き換え葉ではなく
山荘にとっての唯一度だけの最後の紅葉と捉えると
どうなるのだろう。
確かにこれ程までに美しい紅葉はここ18年間
山荘を開いて以来見られなかった。
つまり今までの山荘の紅葉は未熟な偽りであって
もう決してこの様な本物の赫奕たる彩葉が
山荘を飾ることはありませんよ。
とのメッセージなのだろうか?

そうか置き換えるべき葉は山荘でなく
認識者なのかも知れない。
あーだからこそこれ程までに激しく魂を揺さぶる
美しさが生み出されたのだね。
浴室からの錦秋
11月10日(土)晴 浴室

朝の畑仕事を終え
山荘の森から扇山を登って
心地よい汗を掻いて
お風呂にドボン!

あれっ!
大窓に水滴が広がって
紅葉が滲んで
何だか海の中から珊瑚を通して
空を見上げているような。

左下の満天星なんぞ
すっかり水滴に覆われて
まるで苺に生クリームをかけたよう。
緑の珊瑚には
紅い山茶花が幾輪も花開き
天空からの光が眩しいね。

真っ赤に燃えているのは
娑羅と山法師だよ。
あんまり綺麗だから若しかすると
窓辺に置かれた
CDプレーヤーが
勝手に演奏を始めるかな・・・。

こいつそこまで
機知に富んでいてシューベルトの
歌曲集なんぞを奏でたら
山荘の住人に昇格させても
いいのになー。




紅葉のトンネル 中庭
える山荘の庭と森
11月10日(土)晴 庭と森


垂直の岩壁を飾る
両神山の紅葉に始まり
新雪をカンバスにした北岳の
哀しいまでに
美しい紅葉に戯れ、最後の紅葉を
山荘で迎えた。

究極の美が逃れようの無い
透明な深い悲しみに人をいざなうのは
何故だろうと
繰り返し自らに問うてきた疑問を
再び呟いてみる。

高芝山遠望 石卓から

もみじと銀杏 前庭と森

板屋楓と紅葉 山荘の森

銀杏と朴の木 前庭

燃える楓 前庭

黄金の朴の葉 前庭



ちょっと夕焼け散歩・T
11月4日(日)晴 三窪高原 

山桜が山荘の森を紅く染めはじめたら
高芝山が風邪もひいて無いのに
「えっへん、オッホン」と咳払い。

そうか、このところすっかりご無沙汰してるから
紅葉ばかり愛でている山荘主の
気を惹こうと高芝山め何か企んでいるな。
と、どうでしょう。
みるみる山桜にも負けないような紅に染まり
「さあ、どうぞいらっしゃい」とばかり
高芝山が秋波を送るではありませんか。
こうなったら是が非でも行かねば。

夕焼け小焼けの高芝山と山桜 山荘書斎より

高芝山(右)と富士山左) 竹森林道より

この悪名高き竹森林道、
記憶に在る限り完成後一度も開通したことがない。
開通しないうちに崩壊し補修し
補修が終わらないうちに再び崩壊の繰り返し。

大体、山道のどんづまりに在る竹森と
柳沢峠を林道で結んでどうするつもりなのか?
観光路にしては意味が無いし
物産の運搬に便利な訳でもない。
県や市の政治と建設業者が結託して
税金を無駄使いしてるとしか思えない道路。
急いで二階の書斎から飛び出して
ヘルメットを被り
バイクに跨り目指すは高芝山。
竹森林道をぶおーん、ブオーンとぶっ飛ばし
暴走族に変身。

 
夕焼けの ハンゼの頭にて

絶景なるかな三窪高原 ハンゼの頭(1681m)

ほらご覧よ!
あれ程用心深い鹿だってこの竹森林道では
怯えるどころか、人の出現が珍しくて
見物にやってくる程なんだ。

バイクで飛ばすとあっと云う間に高芝山を超えて
ほら、高芝山の反対側から
高芝山を見下ろす処まで登っちゃうんだぜ。
夕闇が迫って来るので
軽くジョックしながらハンゼの頭までひとっ走り。
実に愉快だね。
建設業者=政治家の例もまま見かけるが
そうなると癒着どころの話しではない。
何ともやりきれない。
それなら、いっそのこと山荘の専用道路にして
大いに活用してあげようと
思いついたのが数年前。

この道路は閉鎖ゲートが3個所に在って車両は通れないが
小回りのきく小さなバイクは交通可なのだ。
それを知ってからこの竹森林道は
山荘専用道路となり
いつ走ってもだーれも居なくて素晴らしく快適。

 鹿の親子も一緒に登る 竹森林道



大菩薩峠

黄昏が訪れる前に、山を下ることを目標に大菩薩峠へ臨む。富士見新道はいつもながら誰も居ない。
熊笹の生い茂る斜面の獣道らしき踏み跡を辿る。
森の奥には、まだ新しい熊の爪痕が残された大きな檜があった。
来る人の少ないこの森は、獣たちの王国かもしれない。
岩場の基部でストックをザックにしまう。
人が入らないので、ザレていて、細かい岩が積み重なって不安定だ。
落石や浮石に気をつけながら登る。
登り始めのガレ場を過ぎると、安定した岩となる。
ホールドもしっかりしているし、スタンスも多いので問題なく登れる。



クラックに沿って斜上


嘗ては鎖が取り付けられていたのだろうが、
腐食してきたので撤去したとのこと。
その為富士見新道は一般道で無くなり、
今では自ら選択して
このコースに取り付く人以外は入らない。

おかげで同じ大菩薩峠界隈かと思うほど、
静かである。

最後の岩
ちょっと夕焼け散歩・U
11月10日(土)晴 大菩薩岩壁 
 
もうすぐ登攀



笹藪コースの方が良かったかしら? 神成岩下部フェース
以前、悠絽が立ち往生して
引きずりあげられたというチムニーで、隊長が言う。
「怖かったら言うんだよ。
引きずりあげるのは無理だから、
お尻押してやるから!」


ザックのバランスが悪くて、
ちょっとだけ梃子摺ったが、悠絽よりはましでしょう。
途中で撮影もするが、
微妙なバランスで注文ポーズが入ると
さすがに真剣になる。
核心部を過ぎ、大岩の上で振り返ったら、
素晴らしい景観が眼の下に広がる。
黄金色に染まった大地、ひっそりと横たわる湖、
その彼方に雪を抱いた優美な富士。


岩を攀じた緊張感と、
目の前の開放的な風景とが呼応して、
なんともいえぬ高揚感が湧く。
清々しい秋晴れの空に向かって
心が大きく解き放たれる。

登り詰めた岩場から稜線に出ると、
目の前に
2千メートルの標識。
時間を確かめると1518分。
もうこの時間は稜線上にほとんど人影無し。
お誂えに登場した2人組の登山者に
写真を撮ってもらう。
このまま介山荘方面へ向かうが、
今日は東京方向の眺望も素晴らしい。

大菩薩の稜線でこれほどまでに遠くを見渡せる、
澄み渡った眺望を得たのは初めてのような気がする。

たいがいは東京側に雲が
湧きだしていることが多いのだった。

大きく広がる景色を見ながら、ふと言葉が湧く。


峠は決定をしいる場所だ

峠には決別のためのあかるい憂愁が流れている・・・・
(真壁 仁・<峠>)

好きだった詩の言葉が、
まるで風のように湧きあがり流れ、
天碧へと消えてゆく。

残照を浴びて登攀の終わり  背景は富士山と大菩薩湖



える落葉松ブランコ 富士見山荘前

まーともかく夕焼け散歩の後で
空中に肉体を浮かばせて空に登ったり
燃える森に迫ったり
大地にぐーんと落下したりする気分は悪くないぜ。

三橋鷹女の俳句に
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし

と云うのがあるそうだけれど
この空中浮遊感覚と性とか愛とかが絡んでくるのかな?
ブランコがそんなにドロドロしてるなんて
全く知りもせず
すっかり少年に還ってブランコを漕ぎ続けるのでした。
さーて2つの夕焼け散歩のデザートは
森のブランコだぜ。
ブランコは秋千(鞦韆)と書いて《しゅうせん》と読むんだ。
千の秋だなんて一体どうして?

その上《古くは中国で宮女が使った遊び道具(性具)をさす》
(Wikipedia)
となると何だこりゃと驚いてしまう。
がどうも下着を着けずスカート穿いてこいつに乗って
皇帝の気を惹く為に使ったらしい。
これと千の秋がどう結び付くやらさっぱり解らんが
おそらく鞦韆から音だけ貰って秋千としたのでは。

夕焼け富士とブランコ 富士見山荘前 



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