2141ー2023年 長月

毎週登っている小倉山が下に見えるぜ!
9月2日(土)晴 鉄塔山 誰だ!無断で鉄塔に登っているのは!
莫迦と煙と子供は高いところに登りたがるんだよ!


熱暑の夏登山や畑仕事は麦わら帽子に限ると、ドマゲッティで買ってきた奴を探したがが見つからない。
探し続けて3年目のつい先日やっと見つけた。早速被ってすっかり御無沙汰している鉄塔山へ。
被っている麦わら帽子には「Duma 2010・Jly・30」と書いてある。
えー、13年も前だったのかと星霜の巡りの早さにびっくり!
どれどれとDV記録を辿るが記憶は全く綺麗に消失し、仙人の記憶を司る海馬には何も残っていないと判明。

仙人海馬より遥かに優れたコンピューターに入力された文字を引き出してみると、海馬から消失した序文が出現!


オッペルとなった仙人!

簡単なことなのだ。畑にブロッコリーの苗を48株植えるだけなのだ。
綺麗に盛り上がった畝に穴を掘り、苗を植えるだけ。1列6個穴を掘って植える。
4列植えてもう30分位たったかと時計を見る。あら、
1時間もたっていた。
キリもいいのでお水でも飲もうと思い顔を上げると、周りがクラッとする。

気のせいかと立ち上がり
お水を飲みに行きます。
と言おうとした時、
「残りはこっちの畑に植えて!」と声が掛かる。
そうなのだ、山荘活動にキリのいい事などないのである。
まるでバームクーヘンを作り上げるように薄いちょっとした仕事が重なり続ける。
一つ一つは簡単で何でもない作業が重なって重なって作業は進む。

そして絶妙なタイミングで声が掛かる。苗は1箱24株終わった。あと1箱である。隣の畝に行く。
水は飲みそこねたけれど、あと半分で終わるのだ。さっき私が植え終えた24株には水が撒かれている。
そして、その水は今私が次の24株の植え終わるのを待っている。早く植えなくてはならない。
と思うと自分が水を飲もうとしたことなど些末な事に思えてくる。
やっとブロッコリーの苗植えは終わった。


高いな、でももう少し上へ!
仙人海馬の上に
載せられた麦わら帽子は、
優しく仙人を慰める。
《それでも3年も探し続け見つけてくれ、
そのうえ鉄塔山の
てっぺんまで連れて行ってくれて
仙人は思い出してくれた。

仙人の老劣化し消失する海馬から
あたしを救い出し、
コンピューターに入れてくれて
ありがとう!》 

 
 
うーん、いい眺めじゃ!

 六本木でテレ朝の会川氏、藤平氏と
呑んでいた席で
「どうですか、共同出資して
ダウインにDVロッジを建てませんか?」
との話が出た。

老いさらばえたら、夏は山荘、
冬は熱帯の海で過ごす、それも
いいかなと一時は乗る気になった。


だがもう少し世界の珊瑚海DVを堪能し
それでもドマゲッティの魅力が他より
勝っていると判断出来たら共同出資しようと
保留にしていたが、
どうやら数年前にロッジは完成。

何度か是非ロッジに来てくれと
誘いを受けていたが、どうも老いると
行動力が著しく低下する
ようで飛行機に乗っての
長旅が厭になり
DVそのものから遠ざかってしまった。

 
積乱雲の上まで行くぜ!

  従って完成したロッジを訪れることもなく、
ロッジ建設の現地担当の
ロッシーの死も知らず。

カミギン島DVの話をしたら藤平氏が
「私も行くから
帰りに是非寄ってください」とのこと。
それじゃ行ってみるかと
重い腰を上げたのである。

確かに素晴らしく
静かで美しい場所ではあるが、
ロッジは蚊と蟻の
攻撃に曝される荒野に在り
トイレの水は流れないし、
風呂の湯を揚げるポンプは殆ど故障中。

ポンプの代わりにロッシーの妹エレンが
キッチンで湯を沸かしバケツで運んで
風呂に入れてくれたが
とてもDV後に
リラックスできるロッジではない。



あたしは奴隷ではない!
70代になった私に酷い扱い!

さて今度こそ水を飲みに行こう。すると、また絶妙なタイミングで「水撒いて!」と声が掛かる。
自分が水を飲みたいのだが、この水遣りが終われば一区切り。
さっきから私の作業の終わるのを待ち、行き場を無くして無駄に流れていた水のホースをとる。
この時も身体がクラッとする。
でもあと少しなのだが、水遣りとはいえ、手を抜くとやり直しになる。

たっぷり、たっぷり水をやらなくては。
さて、ここで終わりかと思っていたらまたしても絶妙なタイミングで
「その下の畝にも水をやって!」と言われる。
そちらには種が植わっていたのだ。
仙人様の指示は次々に重なっていく。
そしてそれは美味しいバームクーヘンのようになる。
それは見事で嬉しいことではあるのだが、今は
次々に下される指令に手を貸す余裕はなくなった。
目を開けると地面も木も空もグラグラ周りが偏光ガラスを通して見ているように回る。

もうだめだ。あとこれだけと思ってもこれ以上続けられない。
座り込んで水撒きをしていたが、戦線離脱である。
気がついたら私は地面にうずくまり、行き場を失った水撒きの水はぶどう棚の上からジャージャー流れている。
何とか涼しい場所に行かなくては。立ち上がろうとするが、周り中グラングランである。
歩けない。
「そこで寝てろ!」でも寝るにはここはカンカン照りの畑。


仙人脳の実態は天空南瓜と木星大赤斑だったのか!
9月10日(日)晴 記憶の種子は飛び去ったがこの南瓜めちゃ美味し!



いやー虚空に飛び去った南瓜の種子、じゃなくて仙人の記憶をとっ捉まえて、
このパソコンに入れようとしとるんじゃが、のんびり構えていたら発芽しちまって!
発芽したと言うことは数日中に大地が必要になるが、果たして
虚空の彼方に豊穣な大地なんぞが在るのだろうか!


 
赤山鳥茸の子供
森は茸の 大合唱  
白灰色占地茸の子供?
 
曙桜占地茸かな?

見たことない茸

 卵天狗茸擬かな?

赤山鳥茸 
 
花猪口茸のチーズ?
 
箒茸
 
白鬼茸
  そもそも発芽した記憶は、
元の記憶を塗り替えて
新たな記憶を
創り出そうとしているのだから、
最早仙人の記憶とは
ズレが生じてしまい、
発芽種子をとっ捉まえても
意味ないのでは!

それもそうじゃな!
仙人記憶からニョキニョキ、
茸の如く様々な姿態、相貌、
彩を為し発芽した記憶種子が
どうなるかは、
森の茸に訊いてみたらどうかな!

発芽記憶と森の茸に
如何なる繋がりがあるのか、
単なる仙人の妄想に
過ぎないことは
確かだが、まっ、そんじゃ
森へ散歩に出るとしようか!

《ようこそ!
海馬が虚ろになった仙人!
仙人ももうすぐ大地に
還るんだね。
そうしたらあたしたちで
こんな風に飾ってあげるからね》
 
卵茸
 
右は卵左は殻を開いた卵茸
 
緑色の萌黄茸


倒れたまま畑の斜面を這う

「その水でも飲んどけ!」そのホースから出た水は頭の上の方から四方八方に撒かれている。
せめて水だけでも飲みたいと上を見るがどうやって飲めばいいのだろう。
のびた身体に太陽の熱が悪魔となって降り注ぐ。ここには居られない。
室内までは行けないが、せめてあの木の陰まで行くのだ。

1か月前、ザゼンソウ公園へ向かった時、あの静かな林の中で寝転がり何とか息をふき返したではないか。
行こうあの木の元へ。立って
歩けないので畑の斜面を這う。
雑草の生えた斜面は剛毛の熊の毛のようだ。ゴワゴワの熊の背中を四つ足で這いあがる。
ヤバい、途中で身体が震えだす
熊のような声が出てしまう。熊の背中を上っている内に自分が熊になってしまった。
オーオー唸りながら木の陰に辿り着く。枇杷の木の元で身体を捩じって
私はロカンタンになった。

そしてやっと落ち着いた。暫く目をつぶっていたが、そっと目を開けてみる。
朝見た空には秋の雲が筋を作っていたはずなのに、
今はもくもくした夏の雲が嘲るようにこちらを見下ろしている。
木陰までたどり着きはしたが、この木陰は狭いのだ。


 
あらら、の中に仙人がれたわ!
9月21日(木)曇 この茸、ラインで仙人と繋がったのかしら!
 
ふーん、仙人はこの茸を観ていたの
9月21日(木)曇 唐傘茸の時空通路から森へ翔んだ桃菜



変だぞ!この唐傘茸!
   
何か観えるぞ!
 
ありゃ、桃菜じゃ! 
 
鍔を上下に引いたら消えちゃった!
 



救急車出動か!!!

日に当たらないように身体の向きをごそごそ変えていると、
仙人様が「救急車呼ぶか?」「水いるか?」と声を掛けてくれる。
このまま過ごせば何とか落ち着きそうである。救急車はいらない。水だけお願いする。
あ~やっと水が飲める。と思ったが、なかなか水はやってこない。

もしや、救急車でも呼んだ?
こんな格好で救急車に乗るのか?
何処の病院に連れて行かれるのか?
要らぬ心配をしていると、仙人様がグラスに氷の入った冷たいコーヒーと大福を持って来てくれた。
これを揃えるのに少し時間が掛ったのだ。グラスは冷たくて気持ちがいい。
コーヒー?利尿作用ありあり、うん、氷だけ頂くとしよう。
口にするが氷と一緒に入ってきた薄っすら甘いコーヒーの何と美味しい事。


あら、ヴィーナスが後の窓に映って呼んでいるわ!
9月15日(土)晴 森のテラスに立ったら桃菜の後にヴィーナスが現れたの!



そーら観てごらん!
豊穣なる ヴィーナスの滴り   
山荘の太陽が産んだ葡萄だよ!
光はヴィーナスとなり
乳房から
豊穣な甘い汁を・・・


山荘発11時30分→小倉山12時46分→
山荘着13時30分


小倉山から戻ると玄関に
ピオーネ1箱と撥ね出し葡萄
2パックが届いていた。
今年はスーパーで
届けられた葡萄の半房程で
800円の値段。
そのピオーネの大きいのが、
1箱に8房も入っている。

とても申し訳ないと、お礼に伺う。
いつもは2千円を
受け取ってもらっていたが、今年は
諸物価高騰もあり
3千円を渡したが
頑として受け取らず、
「そんなことするなら
もう上げません!」と
車まで追いかけてきて
お金を戻される。

そのお金を持ってもう一度
お金を渡すが再度返されたので、
「郵便でーす」と声掛けして
玄関のポストに投げ入れ、
車を急発進して山荘に戻る。
 
1粒1粒に光が詰まってるよ!
  市場に出荷する貴重な商品を
毎年、態々車で山荘まで
届けてくれる理由を問うと、
山荘原野の薄をもらうお礼だと言う。

3千坪以上もある広い薄を
刈り取るのは大変な労力で、
とても仙人には出来ない。
しかし出来ないからと放っておけば、
猪,鹿、熊の隠れ場所となり、
里への接近を招く。
それだけでなく山火事の原因となり、
ちょっとでも火がつけば
一気に燃え広がる。

それを一手に引き受け
刈ってくれて、
その上桃や葡萄までお礼に
もらうなんてあり得ない。
その刈り取った薄を
何に使うかと言うと、
葡萄畑や桃畑の
マルチにするのだ。
黒ビニールシートなどで
マルチにするより
遥かに甘く美味しい
桃や葡萄が出来るとのこと。

如何に美味しいかは
仙人こそがよーく知っている。
蕩けるが如き絶妙な甘さには、
里人の優しさが媒体と
なっているのではと、ふと想う。  
 
乳房からし滴り落ちた甘い汁!


やったーピオーネだ!1房が桃菜の顔くらいもある!
9月12日(火)晴 仙人に代わって桃菜がお礼に参上!


嘔吐とは私自身なのだ!

ロカンタンになった私に大福は必要なかったが、元気になれ。
というエールがひしひしと伝わり感謝である。

暫く木陰で寝ていたが、もうすぐそこが山荘なのである。
眩暈が無い事を確かめ、立ち上がり斜面を上り、
畑の鍵をかけ、戻ろうとしたら、また
強烈な眩暈が襲ってくる。

グラスと大福は守らなくては、どーん!何かにぶつかる。
この臭い、もしかしてコンポスト?コンポストだった。
暫くコンポストを抱いていた。
抱くには丁度良い大きさだ。そんな事言っていられない。
またフラフラと歩き、やっと室内へ。汚れた
Tシャツが気になるが、ソファーに寝転がらせてもらう。
外は涼しい風が吹いていたが、室内は無風。しかし、また外へ出るわけにはいかない。

外では何事もなかったかのように仙人様はあれやこれやと動いている。
あれやこれやと動き回るのが山荘生活なのだ。
そしてご褒美にお散歩するのが山荘生活なのだ。
私は今回、何もしないで帰ってきてしまったのであった。




La Nausée(嘔吐)
1938年 Jean-Paul Sartre

仕事への情熱を失いかけているロカンタンは、ただ夜を待ち、カフェへ出かける。
店に入ったとき、吐き気が彼を襲う。
「そのとき〈嘔気〉が私をとらえた。私は腰掛けの上に崩折れるように腰を下ろした。自分がもうどこにいるのかさえわからなかった。
私は、周囲をいろんな色彩がゆるやかに渦を巻いて流れるのを眺めていた」 吐き気とともに感覚の歪みも生じており、
吐き気はロカンタンの「世界」が壊れかけていることを告げる予兆として機能している。

その後、彼は街路で、公園で、レストランで、電車で吐き気に襲われた。そして、ロカンタンは考察する。
「〈嘔気〉は私から離れなかったし、それがすぐに離れるだろうとも思わない。
しかし、私はもう嘔気に襲われまい。
嘔気とは、もはや病気でも、一時的な咳込みでもなく、この私自身なのだ
(とらおの読書日記)


   
   
     



今月のおもしろ本
違法コピーにつき著作権法119条により罰せられます。ご承知おきを!

違法コピーなど著作権侵害行為を行った場合、個人に対しては
従来の5年以下の懲役もしくは500万円以下の罰金。 悪質な場合は、その併科も考えられます



ハンチバック
市川沙央2023年芥川賞

市川沙央(1979年44歳)
筋疾患先天性ミオパチー
(染色体異常があり、
中枢神経系の異常が原因疾患)
による
症候性側弯症および
人工呼吸器使用・電動車椅子当事者
 128回文学界新人賞、
169回芥川賞

神奈川県に在住する。
筋疾患先天性ミオパチーにより
症候性側弯症を罹患し、
人工呼吸器と電動車椅子を常用する。

 
《普通の人間の女のように
子供を宿して中絶するのが
私の夢です》

 井沢釈華の背骨は
右肺を圧し潰すかたちで
極度に湾曲している。
米津知子はポリオの後遺症で
装具を付けた右足を
引き摺っていたリブ活動家だ。

重なり得ないと嘯きつつも、
東京国立博物館にやってきた
モナ・リザに赤いスプレーを
引っ掛けようとした彼女には、
少なからず共感する。



芥川賞の授賞式では

録音図書
のさらなる普及など
「読書バリアフリー」の
推進を訴えた

療養生活のため就職が難しいことから
小説家を志した。
20代から20年以上にわたり、
コバルト・ノベル大賞他、女性向けライトノベルや
SF、ファンタジーの賞に応募を続けた


 
大江健三郎島田雅彦若木未生への
私淑を公言している

産経新聞に寄稿した内容によれば、
「十代半ばから月刊『
正論』読者」である
という「筋金入り」を自称し、

「(自身がマイノリティの権利を訴えただけで)
こいつは反日だの、左の活動家だのと、
ずいぶん皮相浅薄なことを
言ってくるものだと悲しくなった」、
「バリアフリーには右も左もない」としている

(wikipedia)

当時、中絶規制の
法改定の動きを巡って」、
障碍者を産みたくない
女性団体と殺されたくない
障碍者団体が激しく
ぶつかり合っていた。

殺す側と殺される側の
せめぎあいは、
「中絶を選ぶしかない社会」を
共通のヴィランとすることで
アウフヘーベンして障害女性の
リプロダクティブ・ライツにまで
辿り着き、安積遊歩の
カイロ演説を生んだ。

1996年にはやっと障碍者も
生む側であることを公的に
許してやろうよと法改正されたが、


生殖技術の進展と
コモディティ化によって
障碍者殺しは結局、
多くのカップルにとって
カジュアルなものとなった。
そのうちプチプラ化するだろう。

だったら、殺すため
に孕もうとする障碍者がいても
いいんじゃない?
それでやっとバランスが取れない?
(44~45P)・・・
完成された姿でそこに
ずっとある古いものが嫌いだ。
壊れずに残って古びていく
ことに価値のあるものたちが
嫌いなのだ。
生きれば生きるほ
ど私の身体は
いびつに壊れていく。


死に向かって壊れるのではない。
生きるために壊れる。
生き抜いた時間の証として
破壊されていく。

そこが健常者のかかる
重い病気とは決定的に違うし、
多少の時間差があるだけで
皆で一様に同じ
壊れ方をしていく健常者の
老化とも違う。

本を読むたび背骨は曲がり
肺を潰し喉に孔を穿ち
歩いては頭をぶつけ、
私の身体は
生きるために壊れてきた。
生きるために芽生える命を
殺すことと何の違いがあるだろう。
(45~46P)



安積遊歩(1956年生 67歳)
生れつき骨が弱い特徴を持つ。

1994年9月にエジプトの首都カイロ
あった国際会議で、
車いすの日本人女性が
旧優生保護法(48~96年)の撤廃を求めた。
札幌市に住むカウンセラーで当時38歳
安積遊歩(あさかゆうほ)さん(62)。
2年後、同法は障害者らへの強制不妊手術などを
廃止した母体保護法に改定された。
 
市川沙央(1979年生 44歳)
筋疾患先天性ミオパチーにより症候性側弯症を罹患し、
人工呼吸器と電動車椅子
を常用


2023年(令和5年)に早稲田大学人間科学部eスクール
人間環境科学科を卒業し、卒業論文
「障害者表象と現実社会の相互影響について」で
小野梓記念学術賞
を受ける。
2023年に
処女作『ハンチバック』が、
第128回
文學界新人賞
第169回芥川龍之介賞を受ける。
 
米津知子(1948年生 75歳
2歳7ヶ月でポリオに感染し、右足首に麻痺がある。


東京国立近代美術館で名画「モナ・リザ」
に向けて
赤色のスプレーを噴射する――。
今から49年前、米津知子さん(74)は
そんな行為をしてメディアからの非難を浴びた。
噴射は、障害者を排除しようとする
社会への抗議の行動だった。
女性差別と障害者差別。二つの差別の間で
引き裂かれた半生から見えたものは。

 「生まれつき優生思想を持つ人はいないはず」。
生まれつき骨がもろい障害のある安積さんは言い、
多様性を認め合う社会の到来を願う。【日下部元美】

性と生殖に関する自己決定権が議題となった
国連の国際人口開発会議。
「どうしても法廃止を呼びかけたい」と
日本のNGO団体「女性と健康ネットワーク」の唯一の
障害者として参加し
不妊手術を強いられた友人について語った。
国際会議で優生保護法廃止を訴えた障害者は
初めてとみられ、翌日の地元紙が1面で、
各国のメディアも大きく取り上げた。安積さんは会議
に出席していた河野洋平外相(当時)とも面会し、
「こんな差別的な法は恥ずかしい」と訴えた。
(wikipedia) 

〈厚みが3、4センチはある本を
両手で押さえて没頭する読書は、
他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。
私は紙の本を憎んでいた

目が見えること、本が持てること、ページがめくれること
読書姿勢が保てること、

書店へ自由に買いに行けること、――
5つの健常性を満たすことを要求する
読書文化のマチズモを憎んでいた。

その特権性に気づかない「本好き」たちの
無知な傲慢さを憎んでいた〉(27P) 

1974年4月、東京国立近代美術館モナ・リザ展が開催。
文化庁が混雑防止のため、
開催前に「混雑が予想されるから、
付き添いが必要な障害者や老人、赤ん坊づれは
観覧を遠慮した方がいい」という談話を
発表すると各障害者団体等は抗議活動を行った。
後に文化庁は方針を転換して、
付き添いを必要とする人の入場が行える
「身障者デー」を開催したが「
一日だけの特別扱いは
障害者差別」とこれにも抗議の声が殺到した。
開催初日に米津は
モナ・リザに赤いスプレーを噴射、
モナリザ本体にはほぼかからず、
下のガラスケースを赤く染めた。

(wikipedia) 

   

究極の絶望が 産み出した究極の夢

モナ・リザに赤いスプレーを引っ掛けることがなぜ障碍者差別への抗議となるのか?との仙人の蟠りが解けた。
米津智子の赤いスプレーの意味を市川沙央(井沢釈華)は、実にさり気無く簡潔で鋭い1行で片付けた。
《 殺す側と殺される側のせめぎあいは、「中絶を選ぶしかない社会」を共通のヴィランとすることでアウフヘーベンして
障害女性のリプロダクティブ・ライツにまで辿り着き、
安積遊歩のカイロ演説を生んだ。》
殺す側とは障碍者を産みたくない女性団体、殺される側とは障碍者団体、この真向からぶつかる団体が結託して
母性保護法への途を開いたことに
市川沙央(井沢釈華)は「少なからず共感する」のである。

《仙人の蟠り》とはこうだ。
「観覧を遠慮」、「1日だけの観覧」を文化庁が発表せず、一般客と障碍者を同じに扱ったらスプレー事件は生じなかったのか!
この混雑で車椅子は邪魔だと排除されるような事態が生じたら、スプレー事件より過激な動きが予測出来る。
反対に超混雑の中で観覧者が車椅子を優先する動きが観られれば、事件は起きず障碍者問題は先送りになったとも考えられる。
事件が無かったなら20年後1994年のカイロ演説は実現せず、1996年の母体保護法は成立せず未だ暫く、
優生保護法はのさばっていたと考えると《仙人の蟠り》は解けるらしい。

読者へ仕込んだ衝撃は17ページにて撃鉄が引かれる。
《普通の人間の女のように子供を宿して中絶するのが私の夢です》
胎児の出生前遺伝子検査により、根治的な治療が出来ない21トリソミー、18トリソミー、13トリソミーと診断された場合の90%は、
障碍者を産みたくないと胎児殺しを選択する。
この傾向は今後一般化され、診療費も低廉化されるのだろうから産めない、育てられない私の夢が胎児殺しであってもいのだ。

望まない懐胎の結果、人工妊娠中絶を選ぶのは日常化されてはいるが、育てられる社会環境さえ整っていれば
子を孕み産み育てることは根源的な歓び、希望、夢を宿している。
何処をどう掘り起こしても、胎児殺しを目的として孕もうとする行為に、夢を見出すことは難しい。
生きるために壊れてきた者が抱く夢を、《究極の絶望が産み出した究極の夢》とでも名付けたらいいのだろうか!



参照:wikipedia) 

21番目の2本在る染色体が減数分裂の不分離によって、3本になると《21トリソミー》と呼ばれるダウン症が生じる。
それじゃその1本を除けば治るじゃないかと考えるが、現代の最先端医療をもってしてもそれは出来ない。
遺伝子治療の研究として臨床試験が開始されたのは、僅か33年前1990年代である。
ゲノム編集と呼ばれる高効率の遺伝子改変技術が登場したのは2010年であり、未だ遺伝子治療は歩き出したばかり。
さてそうなると治りはしないと解っているダウン症児を産むことは、或いは産まないことは、
子供にとって親にとって、将又、障碍者にとって如何なる近未来を描くことになるのか!

染色体異常があり
中枢神経系の異常が原因疾患とされる筋疾患先天性ミオパチーも、遺伝子治療の進歩と共に治療可能となる日が来るだろう。
近未来のその日、第2、第3の市川沙央
(井沢釈華)の末裔
生きるために壊れてきた者から、5つの健常性を手に入れた健常者となり、無知な傲慢さで無く
知性溢れる謙虚さで、新たに産み出される障碍者を見つめるのであろうか!




 
殺す側「日本母性保護医協会」
の推す《胎児中絶合法化》賛成候補が圧勝!


このように1970年代から1980年代にかけて、中絶規制緩和をめぐって激しい議論がなされたことを受け、
1972年5月26日、政府(第3次佐藤改造内閣)提案で優生保護法の一部改正案が提出された。
改正案は宗教団体などの意向を反映したもので、以下の3つの内容であった。
① 母体の経済的理由による中絶を禁止し、「母体の精神又は身体の健康を著しく害するおそれ」がある場合に限る。
② 「重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められる」胎児の中絶を合法化する
③ 高齢出産を避けるため、優生保護相談所の業務に初回分娩時期の指導を追加する。

障害者団体からは主に2が、女性団体からは主に1と3が反対の理由となった。法案は一度廃案になったが、1973年に再提出され、継続審議となった。
1974年、政府は障害者の反発に譲歩し、2の条項を削除した修正案を提出し、衆議院を通過させたが、参議院では審議未了で廃案となった。
廃案の背景については、1974年6月に同修正案に反対する日本母性保護医協会の推した候補、丸茂重貞が選挙で圧勝したことがあるとの意見がある。
(wikipedia) 



子供を宿して中絶する私の夢を果たそうと市川沙央(井沢釈華)

Eカップの顔がいい女子大生とシャワーを浴びずにコンドームなしでヤって中出ししたい客。
それがいちばん稼げるので、紗花(しゃか)と名乗って娼婦となった釈華は、
文学部女子大生となりシャワーを浴びずコンドームなしで、顔が黄色くて毛が薄い眼鏡ノッポの一見客ミニオに
中出しさせて夢を実現させたいと願い、こう述べる。

《釈華が人間であるために殺したがった子を、いつか/いますぐ私は孕むだろう》
(93P最終ページのエピローグ)



   
   
 

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