仙人日記
 
 その131の42016年  神無月

10月4週・・・肉体をクライン菅にして内奥から肉体を貫き

肉体をクライン菅にして内奥から
10月29日(土)晴 書斎の夜明け

掌を大きく開き豊かな胸を包み、パルスの紡ぎ出すお話しに耳を傾ける。
意味は解らないのに、言葉を超えて直截パルスの情感が飛び込んでくる。
言葉を操れない幼児が母親に触れているだけで、言語が伝えることの出来る限界を遥かに凌駕して、
今在る自らの存在の在り様を認識するように、パルスの情感が泉の如く溢れ出し仙人を浸す。

≪ほら雲海の揺蕩う夜明けの空を見てごらんなさい。
薄絹が高芝山に流れ、薄絹を透かして里の灯りが朧に浮かび、翻る絹に覆われ明滅し、
明滅する灯りに呼応するように星々が煌めく。
恰も心象風景そのものに身を置いている様な安らぎに満ちているでしょう。
現実に存在している筈の肉体は、豊かな朝露に解かされ心象風景と深く結合し、
ウロボロスになって
永劫の輪廻そのものにメタモルフォーゼしているかのよう。

肉体の認識する闇を超えるには、肉体そのものを呑込むウロボロスになり、
肉体をクライン菅にして内奥から肉体を貫き、表層と心象の境界の存在しない世界へ旅立つことね≫ 

  


Ⅰ 雲海の朝     吐蕃子བོད་ཆེན་པོBod chen po su

初冬の早朝、山荘は一面の雲海に包まれ、まるでミルク色の海の中に浮かんでいるようだ。
海の彼方に白く染まった富士山がポツリと孤高の頂を見せているが、雲海の中では小島のようだ。
小倉山から昇った朝日が霧の帳を通して光を投げかけると、雲海に微妙な色彩が施され、微かな金や銀さえ煌めいてみえる。
雲海の下には美しい村が隠されているなんて、この景色しかみなければ気が付きようもない。
雲によって隠された山々は、そのほんの一部を現して、山の大きさを想像させる。


高芝山も、小倉山も一層の存在感を以って雲海の中に浮かぶ。
こんなとき言葉では表わし難い象徴的な何かが観えるような気がする。
何もかもを顕わにすることではなく、ひっそりと隠されたものの中にこそ一番大切な真実が潜んでいるのかもしれない。
そんなものに気付けるかどうか、それはきっと何を一番大切とするのか、それぞれの人の価値観が問われることでもあるだろう。
自然がふとした瞬間こっそりと開いて見せる扉の隙間から見える景色を、見逃したくない、
そんな想いをいつも抱いて、幼いころから、空を見上げ、風に吹かれて来たような気がする。




食卓からの夜明けの雲海

存在を確かめるには
残りの4つの感覚に頼るしかないので、
先ず掌で存在の輪郭を辿り、
触覚が放つ言語に耳を欹てる。
時間を遡り心象風景でしか観たことのない豊かで
甘やかなうねりが掌に溢れる。

うねりは生命の微かな鼓動と鼓動によって
生み出される温みを齎し、
時間軸と直交する生命軸を成し、視覚では
決して捉えられぬフォルムを造形する。

明確な回答とはこれだったのだ。
総てが闇から生み出されるなら、
闇こそあらゆる可能性を秘めたカオス。 

果たして闇は忌避すべきものなのだろうか、
との問いに対して実は
明確な回答を自ら用意していたことに改めて気づいた。
闇を単に五感の内の1つ、視覚を
シャットアウトしただけの物理的現象と捉えたのでは、

闇の本質を見失ってしまうが、
差し当たり闇の出発点であることは確か。
そこで視覚を捨て闇を積極的に取り込み、
夜明けの動脈の血の騒ぎに耳を傾けてみた。

 
甘やかなうねりに身を委ねるジオ(geo, γῆ)



Ⅱ 心象風景     吐蕃子བོད་ཆེན་པོBod chen po su

これこそが心象風景かと想わせられる光景が現実に目の前に現れる瞬間がある。
自然が描く一瞬の筆捌きで、人智を超えた絵画が生れる瞬間だ。
月光の齎す碧銀色の世界はそれだけでも幻想的だが、その世界へふわりと投げかけられた薄絹が、
世界を更に複雑に彩り幻想的な美しさを膨らませている。

天の月明かりに呼応するように、薄絹を通して地の灯りが揺らめくさまは、人の心の喜びや悲しみを明滅させるかのようだ。
天の意思が刹那に見せるその光景。
一瞬後には薄絹は取り除かれ、見慣れた夜景が、それはそれで美しく広がっている。
しかし、その刹那の光景は人の心の奥深く刻まれ、圧倒的な心象風景として畳まれる。





テラスに連なる雲海
昨日の雨が新雪となって
夜明けの富士を神々しい光で包む。
手前の御坂山塊と
山荘眼下の谷に雲海が
長い2本の帯を横たえる。

6時01分、最初の光が
富士山頂の新雪を捉え、僅かに
闇を引きずった昏い薔薇に染める。
平年より26日遅い初冠雪だとか。

昨日網戸を撤去したし、
今朝は初冠雪だし、よし今朝は
畑仕事をカットし、大窓のガラス拭きをして、
透明な秋の光を堪能することにしよう。

と云ってもガラス磨きとなると、
ゴムベラでガラス面のクリーナーを
完全に落とさねばならず、
手間暇がかかり朝一の仕事では
とても終わらないので、
汚れ落としだけにしておこう。 

薔薇アーチ上の富士
 
黄葉した葡萄畑
 
ジオと雲海の語り合い

夜明けの光に浮かび上がる

薔薇に染まる山巓

打ち寄せる雲海



Ⅲ 時間の隙間に   吐蕃子བོད་ཆེན་པོBod chen po su

山荘で出逢えた、天からの贈りものというべき、一刹那毎の決して二度と出逢えぬそんな光景を、
いったいどれほど心の奥に畳みこんできたことだろう。

そんな光景に出逢いたくて、季節ごとの山荘へせっせと足を運んできた。

真夜中や夜明け、陽が落ちかける頃、雨上がりや雪の朝、朝露の転がる頃、葉っぱがひとひら落ち、
風がさわっと吹き抜ける一瞬、ある季節にのみ鉄塔を包み込むように上がる満
月、そんな時間の隙間に<刹那>は訪れる。

捕まえられるかどうかは、出逢いたいと願う想いの強さに掛かるのだろうか。それともただの偶然か。

硝子窓がことのほか多い山荘だから、夜寝る前にも、真夜中に目が覚めた時にも、
もちろん夜明けの気配が漂い出した時間にも、寝室や廊下の窓辺に寄り景色へ目を凝らす。


薔薇、鬼灯、野菊、秋桜、五体投地
10月31日(月)晴 居間壁画の夜明け

しかし鬱を突き破る唯一の武器が失われている今、
手をこまねいているだけでは鬱の闇に閉ざされたまま。
心を空にして唯無心に肉体を動かし続け、
再び肉体が精神を取り戻すまで時を稼がねばならない。
それには面倒で厄介で、いつも後回しにしたくなるような作業を敢て選び、

精神をその一点に集中させ雑念を総て追い出し空にせねば!
先々週から気になっていたカルサーの不具合を調整しつつ、庭、畑の雑草刈りに着手。
2台のカルサーは夫々不調で、旧カルサーは刃となる2本のナイロンカッターの一方が、
回転ヘッドの180度の対称位置溝から外れてしまい、どう工夫しても対象位置に固定することが出来ない。

新カルサーはアクセルを吹かすとエンストを起こし、
その都度エンジンを掛け直さねばならず、連続した作業が出来ない。
このどうしようもない2台のカルサーを相手に、暫し闇の存在を愉しむことにしよう。



 座禅峠の夜明け 10月31日(月)晴


慌てて布団に潜り込むが、
冷えた体に浅い眠りが戻ると、シュールな夢を運んでくる。

繰り返し寄せる波の中で、
深い海の生物になったかと思うと、
あるはずのない翼で天高くへ飛翔している。

幾つも幾つも限りなく扉が開いて、虹色の光の帯が流れる。
光の中で銀色の粒子になって、
雪のように舞い散りながら
なんて自由なんだと叫んでみる。

Ⅳ 銀色の粒子になって 
   
吐蕃子བོད་ཆེན་པོBod chen po su)

夜明け前の東の空に大きく北斗七星が
柄杓の形を描き、その真下には村の灯が朧に揺れる。
乱視のお蔭で光は単純ではなくて、
幾つかに重なり瞬きを繰り返し、
あきれるほどに綺麗な風景となる。

天と地の境目には淡いベールが広がり、
風景を更に滲ませしっとりさせている。
あまりの美しさに佇んでいると、寒さで我に帰る。



 碧空からの贈り物 メレル新作Chameleon 5Storm Gore-Tex



ランチョンマットにも秋が来た!


奥庭越夏シクラメンの秋

林檎畑の漆葉が真っ赤に

 チベットの朝
吐蕃子བོད་ཆེན་པོBod chen po su


やがて粒子は集まり、
金色の薔薇の花になる。

金色の花の芯に潜む小さな虫になって、
いつの間にか自分が
自分を呑み込んで無限ループを形成、・・・

これってどこかで観たことあるような、
ああこれはウロボロス?
あれあれ何時の間にか仙人の夢の中に
迷い込んでしまったのかしら・・・

「いい天気だぞ!」



現実の大声に目覚めると、
空は柔らかな薔薇色の雲に彩られ、
今まさに朝日が小倉山の
山稜を分けて昇って来るところだ。
大急ぎで飛び出すと、
新鮮な朝の大気が待ち受けている。

この、きりっと引き締まった空気感が
この上もなく心地よい。
畑で初冬の空気に触れると何故か
チベットの朝を想い出す。
この感覚もきっと体の奥に畳まれた
心象風景なのかもしれない。

アメリカ花水木の実も熟れて

里道のマリーゴールドの終わり



雀蜂に乗っ取られたログハウス


ぎょぎょ!ログ屋根に雀蜂の巣だ!


かがんで葉を分けながら、雑草だけを抜き取るのは
けっこう足に負担が掛かる。
足首が思うように曲がらないからだ。
えいっとばかり座り込んで作業することに。

ズボンのお尻が汚れるけど、気にしない。

大根は間引いてあげないと大きく育てない。

いくら間引いても、ありすぎて食べきれないほど。
春菊も今が旬、鮮やかな黄緑が大地を覆う。

Ⅵ 旬野菜
吐蕃子བོད་ཆེན་པོBod chen po su


やっと発芽したというほうれん草が、
ツンツンと小さな緑の葉を伸ばし始めている。
既に育った濃緑のほうれん草の畝は、
雑草も顔を覗かせる。
冬の間美味しいほうれん草を食べられるように、
雑草は手で丁寧に抜き去る。


 
嬉しくない夏の巨大置土産じゃ!



今年の里芋は小物ばかり

籠に一杯摘んで
お腹いっぱい
緑の野菜を食べる贅沢。
摘みたての野菜は
何よりのご馳走だ未だ。

トマトは収穫可能だが、
さすがに夏の野菜は影を潜め、
これからは大根や葉物の緑が、
大地の黒を
バックに活き活きと畑を彩る。

畑の生命力を自分の命に直接繋ぐ、

採りたて野菜を食べるとき
そんな気持ちが湧く。
大地への感謝を捧げよう。

仙人が元気なのは、
いつでも大地の命をエネルギーとして
いるからなんだろうなと納得。。

無花果は大豊作でした

秋じゃが芋は初収穫

小さなゴーヤーはポン酢が合う
畑で汗を流し、
採りたて野菜を食べて、
思い切り野山を駆け回れれば
きっと誰でも元気になれるんじゃないか
なんて思いながら、私も出来れば
そんな時間を時々持てたら
いいなあと願っているが、
現実は厳しい。

 
葉ばかり大きな里芋
うさぎ野兎の子どもだろうか?
小さなうさぎのシルエットが
逆光の中で山荘ゲートにお出迎え。

森の中に逃げ込んだのだろうと
思ってたのに、
庭をぴょんぴょこ
駆け回る姿を目撃。
 
 

寒くても未だ採れるトマト

種取りして来年の準備

やっと大きくなった人参

採れたてじゃが芋を唐揚げして  
 
スペアリブに欠かせないクレソン、レタス
 
里芋の煮っ転がし



小春日和を愉しむ褄黒豹紋


真っ黒な目を見開いたと思ったら、
慌て兎は踵を返して一目散に逃げていった。
きっと隠れ家のテラス下へ潜り込んだのだろう。

でも、それ以降は
出逢うことが無かったので、幻の兎になった。
満月が出たら、
月の中で餅つきでもしてるかも知れないね。

こんなに近くで野兎を観る機会なんてないので、
そっと硝子戸に近づいてみると、
どうやらテラスの下あたりに隠れこむ様子。
警戒するそぶりも見せず、庭を飛び回っている。
なんだか可愛いくて楽しい気分になる。

台所のドアを開けたら、
ちょうど仔兎くんと鉢合わせ。


 
あれっ、蛇に喰われた兄弟兎がテラス下に・・・



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