仙人日記
   その90の32013年皐月

5月4週・・・復活の山・射干玉の闇に咲くアンネの薔薇


 花と龍・・・遂にアンネの薔薇が咲いた
いざ薔薇を抱いて、復活の山へ行かん! 
5月24日(金)晴 奥庭&飛龍山


腹に巻いた真っ白な晒しならぬコルセット。
真っ白なコルセットに、どす(短刀)の代わりカメラを忍ばせ向かうは復活を賭けた山、龍が天に舞うと云う山、その名も飛龍山。
肋骨左11番の骨折後24日目の痛みをコルセットで押え咲いたばかりの、アンネの薔薇を抱いて《いざ飛龍にならん》。
なーんちゃって、火野葦平の「花と龍」の玉井金五郎にでもなったつもりで勇んで出かけたが
金五郎は闇討ちされて瀕死の状態に陥ってしまうのを知っているのだろうか?

 復活の山・飛龍・・・コルセットを締めての初登山

  
  コースタイム
実施日:
5月24日(金)晴 
山荘発
(往46km往復86km)
  6:22  禿岩   13:17着発
丹波   7:15着 7:30発  将軍監小屋    15:10着 15:25発
サオラ峠   9:40着発   三ノ瀬    16:25着、16:35発 
前飛龍   10:40着 11:00発  登山時間計    9時間05分
銃走路    12:00着発 山荘着    17:30 
飛龍山頂   12:30着 12:40発 行動時間    11時間08分 

標高差 : 丹波ー飛龍山・・・1417m   縦走のコース標高差・・・約1700m
走行距離
片道46km。往復:86km 



アンネの薔薇・・・あれから65日目
3月10日(日)時雨つむじ風の日、山荘奥庭に植えたアンネの薔薇

  そもそもアンネのバラはいつ、どのようにして作られたのでしょうか。
アンネのバラの元になるバラは、ベルギーの園芸家ヒッポリテ・デルフォルヘ氏
(1905〜1970)の手によって1955年に作出されました。
ヒッポリテ氏と息子のビルフリート氏は、1959年にオットー・フランク氏と出会い、アンネのために彼らが持っていた最も美しい種類のバラの一つを
捧げることにしました。

アンネのバラの親になったのはレーヴ・ド・カプリ
(Reve de Capri)というバラとシャントクレア(Shanteclerc)というバラです。
レーヴ・ド・カプリの親はプレジデント・ハーバート・フーヴァー。アメリカ合衆国の第31代大統領の名前を頂いています。
フーヴァー大統領が就任したのは1929年。アンネ・フランクの生まれた年です。
シャントクレアの親はピース。1945年ベルリン陥落
(アンネたちユダヤ人を迫害したナチス・ドイツの敗北を意味します)を記念して名付けられたバラです。
偶然とはいえ、アンネのバラの祖父母にあたる二種のバラは、
アンネに少なからず関連を持つ、と高橋氏
(アンネ・フランク資料館館長)はおっしゃっています。 

 
嬉しくて大(はしゃ)ぎの仙人 奥庭
 
アンネのバラが最初に日本にやってきたのは1972年です。
その前年、1971年に日本とイスラエルの文化交流のために合唱団がイスラエルを訪問しました。
(「アンネ・フランクのバラ」の本の編著者は聖イエス会の方々ですので、合唱団というのは聖歌隊に近いのかもしれません。)
合唱団の方々は、イスラエルのレストランで偶然アンネ・フランクの父オットー・フランク氏に出会います。


「アンネの日記」のことはもちろん合唱団の方々も知っていましたので、その時から合唱団の方々とオットー氏との交流が始まりました。
そして1年後にはオットー氏の好意によりアンネのバラ10株が日本に送られました。
アンネのバラは正式な名前を「Souvenir d'Anne Frank」といい「アンネ・フランクの形見」と訳されています。


咲いたぜアンネの薔薇 奥庭

開花すると朱を帯びる花弁 奥庭

輸送事情の悪さから苗木の到着までに1ヶ月もかかってしまい、10株のうち9株が枯れ、
1株だけが合唱団の一員で聖イエス会の創設者でもある
大槻さんの庭に根付きました。
この1株がアンネのバラと日本を結びつける最初の1本となりました。


「普通、バラの花は蕾が少し開いた状態が一番美しいものです。
しかし、アンネのバラは、開花後も変色し、日々色が変わるので、見る者を最後まで楽しませてくれます。
そして散り方は実に潔いのです。」
「アンネのバラの花は、美しく変化する性質を持っています。

蕾の時は赤色、開花するとオレンジ色に黄色がかったいわゆる黄金色で、
さらに時間の経過とともに日差しを浴びて、花弁の先から次第にサーモンピンクに変色し、
さらに濃く変色して赤色に近くなります。色の変化は寒暖の差が激しいほど鮮やかで冴えます。」
なんて不思議な、魅力的なバラなのでしょう!
(薔薇の豆知識より抜粋) 


どうですこの神秘的な彩
  アンネからの便り
京都摂津の国・勝持寺の《花のお守り》を添えて
5月24日(金)晴 奥庭&飛龍山

先生のホームページ、数年前のパソコンが駄目になり、「もういいわ」とコンパクトなものに致しました。
あれ〜「容量がなく入りません」と、あきらめておりました。
数日後何気なくパソコンを開きまして目を疑いました。
一生懸命頑張ってくれたようで、すべて入っておりました。大感激!!
可愛いお写真に毎日逢っております。

アルピニストはロマンチストでいらっしゃいました。
花のお寺の勝持寺さんは、京都の摂津の国に近い所にございます。
数年前にお花のお守りを求めましてから脚立から落ち、「あーもう駄目だ」とカクゴいたしましたが
キズ1つなく立ち上がりました。それからアワテ者はたびたび〜。

先生も何処かにおさげ下さいませ。

(やくざの姉御:絢)


《返 信》
健康御守、花の寺と表裏に浮き彫りされた小判とピンクの花弁の鈴。
その小判と花鈴の勝持寺の小さな御守りを忍ばせ
火野葦平の「花と龍」の玉井金五郎になったつもりで飛龍山に挑んだのです。
当然、金五郎のように闇打ちに遭って瀕死の重傷を負ってしまうかと懼れていたのですが
いただいた小さな御守りが守ってくれたのでしょうか、
無傷どころか反って飛龍山から新たなパワーを得て心身共に甦り、愉しい登山となりました。

薔薇苗木に続いて
花の御守りまで贈っていただき感謝します。
御返しに、こよなく美しいアンネの薔薇に我を忘れはしゃぎ廻る、骨折用コルセットを巻いた幼稚な仙人画像を贈ります。
脚立なんぞにめげずに、これからも益々お元気で!




熊の出る丹波登

丹波から標高差810mもあるサオラ

奥多摩の主を祀る中川

文字の消えた倉山標識
晒しならぬコルセットを巻いて
骨折後初めての
山歩きをするからにはそれなりに
たっぷり登り応えのある
山にしようと秘かに機を伺っていた。

未だ充分に雪の残る
北アルプスの鑓ガ岳なんぞを
燕岳から縦走し穂高に
抜けるなんて考えただけでワクワク。

問題は天候で3日間の晴天が欲しい。
25日は晴だが残る2日が
やや不安定で稜線上での雷雨が
充分予想される。

悩んだ末、骨折治療中の分際で
重荷を背負って岩稜で
雷雨と闘うなんて
未だ身分不相応と判断。

其処で近くにありながら山荘建設後
一度も訪れていない飛龍山を
最も標高差のある丹波からじっくり
登ることに計画変更。

丹波山村発行の登山地図には
注意書きがこう記されている。
「サオラ峠から飛龍へのコースは
健脚者向けの長い尾根歩き。
下山に利用するのが無難」 

雲の下に富士望遠
 
急斜面のの上にカメラを置いてパチリ
 
飛龍権現から飛龍山までに20分



岩鏡(いわかがみ) 前飛龍

石楠花の蕾(しゃくなげ) 前飛龍

石楠花(しゃくなげ) 前飛龍

大亀木(おおかめのき) 大常木山下

歩き始めて驚いた。
丹波から飛龍まで
標高差1417mを
肋骨の痛みと闘いながら
一気に登るのだから
プレッシャーがかかり重いのでは。

そう思っていたがとんでも無い。
一歩一歩が実に愉しいのである。
こんな長く苦しいルートを
登ろうなんて粋人は居ない。
ひっそりと静かで
稜線では春の花々が咲き乱れ
おーこりゃ天国じゃ!


岩団扇(いわうちわ) 飛龍山頂手前


標高1500mを超えると
落葉樹の森は芽吹いたばかりの
明るい小さな葉に満ち
森青蛙と春蝉の合唱が始まる。

足元には岩鏡の白と淡いピンクが
広がり石楠花が其処かしこに
紅を滲ませる。
大亀木の五弁の白が
満天星の白と競い
負けじと光を弾く。

稜線から下り林道に出て吃驚。
見慣れているいつもの
熊笹(篶竹スズタケ)
長い穂を出し黄色い花を
着けているではないか。
確か60年に一度しか咲かないと
聞いたことがあるが・・・。

そう思って下山後調べてみたら
福井新聞の
こんな記事が見つかった。
やっぱり、笹の花は珍しいのだ。


60年に一度しか咲かない笹の花 将監峠に到る林道 
福井県総合グリーンセンター
緑の相談所は「笹は
稲科の植物で、
開花周期が約60年と長く、
花が見つかることは珍しい。
竹も含めた種類は
数百あるが、
チシマザサかチマキザサでは
ないか」としている。

花は一生に一度しか咲かず
約1週間ほど開花。
花を付けた翌年には
枯れてしまうという。

笹は地下茎を横に伸ばして
増殖するため、
同じ場所に生育する笹は
一斉に花をつけると言われる。
(福井新聞より抜粋) 

満天星(どうだんつつじ) 竜喰山下

石楠花(しゃくなげ) 前飛龍

群落する野苺(ノイチゴ) 将監峠



似合うぜサングラス・・・も居ない山頂

地図を開いてごらん。
どの地図も標高は2069.1mとなっているだろう。
でもこのHPでは2077mとしてある。
つまり最高点は此処ではなくて北西の藪の中に在って
そこが2077mの最高点なのさ。

この標高を示しているのは
地元の丹波山村の地図くらいしかなくて「甲斐の山山」にも
この西北の最高点については触れていないんだ。

さあ、それでは骨折後の初登山となった
仙人復活の山・飛龍を山荘百名山に加えてあげよう。
帽子を被ってサングラスを掛けて
どうだい、なかなか似合うぜ!
誰も居ないなんて寂しいぜ!
山頂標識だって朽ち果て文字も風化し
あーもう直ぐ読めなくなって
森に還ってしまうんだね。

縦走路から離れているし
山頂からの眺望も利かないし、大体何処が
頂か解からないような山で
此処だって本当は最高点ではないんだよ。

再びカメラを岩の上にいてハイ、ポーズ 


和名倉山で神奈川の男性が行方不明 秩父署が捜索

埼玉県秩父市の和名倉山(標高2036メートル)に13日早朝に登山に向かった男性が、14日になっても下山しないため、山小屋の管理人が秩父署に届け出た。
同署によると、行方不明になっているのは神奈川県鎌倉市七里ガ浜の無職、桃坂敬さん(74)で、同署は遭難の恐れがあるとみて捜索している。
秩父署の調べでは、桃坂さんは12日夜、埼玉との県境近くにある山梨県の山小屋の前にテントを張り一泊。
翌13日午前5時半ごろ、山小屋の管理人に「和名倉山に行く」と伝え出発したが、下山が確認されていない。同署によると、桃坂さんは比較的軽装で、犬を連れ登山していたとみられる。
13日午前10時ごろ、別の登山者が和名倉山へ向かう道とは違うルートで桃坂さんとみられる男性を目撃していたという。
(2012年9月14日産経新聞より)


竜喰山(左)とリンノ峰(右)
犬連れの単独登山者が
将監小屋から和名倉山に向かい
行方不明となり
40日経って犬だけ戻ってきたと云う。

ルートが不明瞭でこの山域では
遭難事故が多発。
wikpediaにもこう記されている。

積極的に一般登山道として
整備されていない難路であり、
登山経験者以外、
安易に踏み込むべきでない。
過去に山岳遭難の死亡事故も起こっており、
自己責任での行動が求められる。

和名倉山に続く西仙波(左)と東仙波(右)

喰山(右)、甲武信岳(中)、金峰山(左)

雪山鳥(左)、ノ岳(中)、岳(右)

和名倉山・石山(左)と取山(右)
飛龍山(2077m)、竜喰山(2012m)と
龍と竜が天を突く山域。
やはりこの山域には龍が棲んでいて
時々人間どもを餌食にするのか?

迷い易い深い森や谷が、時には
龍となり命を奪い
また出没する熊が竜となり人を喰うと
考えたのだろうか?

前飛龍からの富士
それにしても40日間もこの山域を
うろついていた甲斐犬が
まるまる太って帰って来たとは
こいつ只犬ではない。

野兎や狸、鹿を捉え喰らいつつ
龍に喰われてしまった主人の仇を討つ為
森を駆けめぐり谷を走り
幻の龍を追うなんて絵になるな。

いや、デブになったと云うことは
主人の仇などそっちのけで唯単に
獲物を喰っていただけか?


散乱する白 竜喰山下
犬だけ帰って来る

行方不明になってから40日経過して
犬だけ帰ってきた。工事の人が見つけて確保した。
犬は丸々と太っていた。
甲斐犬なので猟は得意なのだというが、
どうして食料を調達していたかは不明。
1週間前に息子と警察でこの犬を連れて
もう一度山に入り痕跡を辿った。
今日も息子が犬を連れてきて、
痕跡を探しに父の匂いのものを嗅がせて入った。
山ですれ違った人がそうだと教えてくれた。
まさに驚きの話である。
なんだか背筋がゾクゾクっとした。

(nobuより)

生々しい熊の 将監峠に到る林道



射干玉(ぬばたま)へのワープ  飛龍山  

闇に塗り込められた隠れ家という閉塞された空間の中。
アムステルダム市プリンセンフラハト263番地。
1944年8月4日の午前10時から10時半頃、隠れ家に潜んでいた8人のユダヤ人は、
何者かからの密告を受けて出動したアムステルダム駐留の保安警察
(SD)の職員たち
(カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長と数名のオランダ人ナチ党員)によって逮捕。

 
この画像何処かで見た事あるって?
そう、あのアンネの薔薇の背景に満ちていた射干玉の闇で、我を忘れはしゃぎ廻っていた幼稚な仙人の空蝉の姿だ。
左脚を高く上げ標識に足を掛け、いつもの見慣れた山頂でのポーズに見えるだろう。
ところが実はこの瞬間、凄まじい激痛と共に69年前のフラッシュ・バックが生じていたんだ。
顔をよく見てごらん、僅かに苦痛で歪んでいるのが解かるだろう。
懼れていた金五郎への闇討ちとは此の突然の苦痛のことだったのかと焦ったね。
69年前と云えば仙人の生まれた1944年であり、アンネが密告され捕らえられヴェステンボルク収容所に送られた年。

肋骨左11番を骨折しているので左脇腹への刺激は極力避けて、此処まで登ってきたのだがふと試してみる気になった。
若しかすると骨折以前のように左脚を高く上げても脇腹の下に位置する11番肋骨は痛みに耐えるのでは?
徐々に持ち上げると痛みが長引くだけだろうから、やるなら一気に思い切って上げてしまえ。
えい、と左脚を上げた瞬間凄まじい閃光が走り、余りにも眩い光の残像として突如、射干玉の闇に襲われ
ほんの一刹那、69年前のフラッシュ・バックが生じたらしいのだ。

きっと山に出かける前に山荘で目にしたアンネの薔薇が無意識下の認識を操り
69年前のフラッシュ・バックを導いたのだろうが、こんな風にフラッシュ・バックした射干玉の闇から見つめた
アンネの薔薇が如何に美しかったか、幼稚な仙人のはしゃぎ様から想像できるかい?

薔薇が美しい程アンネの闇は深さを増すのだから、せめて薔薇を賛美し、はしゃぎ廻り
その闇の深さにアンネの絶望を計り知り、
自らの痛みに闇を重ねてみようと思ったんだろうね、仙人は。


目撃証言によれば,ベルゲン=ベルゼン強制収容所で,1944年2月末か3月,姉マルゴーが亡くなり,
それに気落ちしたのか,アンネも数日後、死亡。遺体が収容所裏に積まれた。
現在,アンネとマルゴーの記念碑(墓)が,ベルゲン=ベルゼン収容所の共同墓地(遺体埋葬場)にある。
遺骸は発見されていない。

(世界記憶遺産『アンネの日記』とユダヤ人虐殺より)



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