1613ー2019年  卯月

シュルンド出現・残雪の大菩薩嶺
4月20日(土)晴 雷岩下部の谷

歩んでいる足元に虚空が潜んでいることなどお構いなく、何やら一心に思い詰めている仙人。
ちょっと仙人の心象風景に立ち入ってみたら、おやまあ、背景は千年も昔の宋の都・洛陽と開封になっているでは!
と云う事は当然ながら杜子春と趙行徳が、仙人のシナプスを駆け巡っているのだな。

あの満開の花の中で眼を閉じた仙人が観た須臾の夢が、
杜子春や趙行徳の峨眉山や西夏であることは確かなのだが、どうしても文章化出来ない。
総ては繋がっているのに、繋げられない。
4月2週のHP編集を始めて2週間が過ぎ、何度も諦めたが諦めきれない。



上日川峠のトイレ前に残雪が!

雷岩ルートに入る

残雪ラッセルじゃ!


スパッツ無しで靴内には雪が!

濡れるしかないか!


仕方なく芥川龍之介と井上靖の
原文を引っ張ってきたが、
何とも早意味不明な、
しっちゃかメッチャ化な
仕上がりとなってしまった。

ナンガ・パルバット峰の山頂直下で
墜死した中島修隊員と
遠征登山出発直前の打ち合わせを、
新宿南口改札で慌しく行った。

でも面白そう!



残雪の上は乾いた岩


山荘仙人と一蓮托生の運命共同体である
馬車別当の判断であれば、
ほぼ仙人の意図と考えても間違いではないだろう。
となると仙人は趙行徳と杜子春を宴に招いて、
何を伝えようとしていたのかが問題となる。

修行の場である聖地・峨眉山と
チベット系のタングート族が興した西夏の、
臭いと気配を山荘に呼び込み、そこかしこに塗りたくり、
遠い記憶のインデックスにせんと
山荘仙人は目論んでいるのか!

で、その一瞬の邂逅が桃源郷の花々に眠る
仙人に齎され、仙人は千年の時を超え
仁宋の天聖4年の時を開き、
杜子春が微睡んだ西の都・洛陽と、趙行徳が
西夏の女に出逢った東の都・開封に現れたのだ!


 

新婚間もない康子さんを伴った修はこの後、
新宿で上映されている佐藤浩市主演の「敦煌」を
2人で観に行くと、実に幸せそうな笑顔を浮かべ話していた。
その笑顔があの満開の花の中で
眼を閉じた仙人の瞼にくっきりと像を結んでいたのだが、
それが書けない。

桃源郷の宴に参加し畑仕事に勤しむ拓真君と
中島修隊員が重なって観えたのも、
必然であったと思えるのだがその糸が結べない。
≪不在なる桃源郷の宴≫の便りを
趙行徳と杜子春に届けたのは、山荘仙人の意を
忖度した馬車別当の判断なのか、
それとも山荘仙人が明確に馬車別当に命じたからなのか。


岩の香ばしい匂い! 

お前には時が必要だった(紅花水木)

黄、銀、桃色が広がる山荘眼下
百花繚乱

菜花が咲き誇っている。
5月には西瓜苗や多くの野菜の
苗を移植せねばならず、
いつまでも菜花の春を
満喫している訳にはいかない。

先ずは葡萄畑の南柵側で、
強大化し我が世の春を謳っている
白菜や青梗菜の太い根を
唐鍬で断ち切って掘り起さねば!


だが余りにも美しいので、
石垣下にでも移植して
もう暫く春を愉しもうかと、
移植場所の西畑石垣下に出向いたら、

何と西畑の菜花も見事に咲き競い、
こいつも移植するとなると、
とてもじゃないが葡萄畑の
菜花の移植場所は確保できない。

葡萄畑から連なる花々

紅の数年前から咲き出した白花水木


山茱萸が咲き終わるのを待って三つ葉躑躅
前庭の三つ葉躑躅満開

よし、そんなら計画変更で西畑の菜花を石垣下に移植し、葡萄畑の菜花は可哀想だが南柵側下に捨てることにしよう。
作業開始したが、太い根は強靭で振り下ろす重い唐鍬の回数が増すにつれ汗が滴り落ちる。
歓びとは、こんな余念他愛もない百姓仕事に在るのだなと実感!

真夜中のメールに何を届けようかとカメラを持って畑に跳び出したら林檎畑の山桜が満開!
池端の山吹はキーボードの上に載せ、枝を折った山桜は食卓と書斎テラスに!
若しやとゲートに飛んで行ってカタクリを観たが既に咲き終え、葉だけが寂しそうにポツン!
もう少し増えてくれると嬉しいのだが、山荘カタクリは全く増えない。
何故だ!お前にとって山荘はそんなにも住み心地が悪いのか!それとも単に頭上のキウイに光を奪われているからか!



奥庭チューリップ

林檎畑の山桜
碇草も木蓮も、数年を経て
やっと蕾を着けた紅の花水木も
咲き出したが、何と云っても
嬉しいのは成長が、
止まっていたイオテラスの蔓薔薇の芽が、
葉の形を見せ始めドックンどっくんと
命の鼓動が響いてきそうなこと。

しかし仙人テラスの支柱に巻き付けた
凌霄花は全く発芽の気配無し。
因みに中庭や西畑の凌霄花は、
立派な芽を噴き出し


葉の形さえ覗かせているのだ。
あれっ、池の浅瀬の水が涸れてるぞ!
昨日の瀧の落ち口の弁工事のテストで、
流下弁を開き忘れたままだったのだ。
これではクレソンが死んでしまうと
慌てて弁を開く。

序に浅瀬に溜った枯葉を取り除こうと
作業にかかったら、バイク置場の枯葉が
風に吹かれて池に次々ダイビング。
くそー!この忙しいのに
バイク置場の枯葉迄掃除しなきゃならんのか!
と文句タラタラ。

池端の山吹

葡萄畑の梨の花


チベット系タングート族の西夏の女とはお前だったのか!
西夏の女が発する臭いを追う山吹の軌跡は、敦煌莫高窟へ連なるのか!

最後に自分を捨てる時に余りにも散らかり過ぎて
死ぬ場所も無く狼狽えつつ、僅かな隙間を見つけ、6文銭を投げつけ彼岸へ向かう自らが観える。
集め過ぎてしまった散乱物は、肥大化した自意識、他者思考に吸い寄せられたしつこく纏わりつく帯電塵、
それとも生きる為に欠かせないと固く信じて来た僅かな財や人間関係や自尊心?

西夏の女はせせら嗤いながら呟く。
≪900年もの間、数万巻に及ぶ古来の仏典が塗り込められた敦煌莫高窟を再び訪ねるがいい≫
何言ってんだか、まさか其処が山荘仙人の死に場所だとか示唆してるつもり!
なになに、あたしがチベットから遥々此処に来たのは、それを告げるのが目的だったって!
嗤えるぜ!



あたしは誰!

畑は蒲公英が一杯!
もしや世界そのものが
散らかり過ぎた散乱物で、
もはや人類は彼岸へ達することが
出来ぬどころか、煉獄も無い
永劫の闇に
塗り込められるのではないか!

天国や涅槃を設定することによって
人々は≪死の恐怖≫を
超えようと祈り続けて来た。
自らだけでなく、世界そのものが
散らかり過ぎた
散乱物にしか過ぎないなら、
永劫の闇は越えられない。

前庭、奥庭では芝桜が!

そう、辛夷の後に咲き出した木蓮でーす!


ザイルを手繰り旅の軌跡を束ねる仙人
4月20日(土)晴 雷岩下の登攀終了点

夜明けが美しくて仙人テラスで朝食をとって、さて畑仕事に出るかと空を仰ぐと、
小倉山の東稜線背後から突き出したデルタが「いい天気だぜ!」なんぞと誘惑する。
さっさと花大根の移植、前庭の伸びすぎた茱萸伐採を済ませ
9ミリザイルとハーネスをザックにぶち込んでランドベンチャーに乗り込み11時出発。

標高1500m程の上日川峠まで出ると森は
未だ芽吹いておらず、長兵衛荘の前のトイレ入口は雪だまりがたっぷり。
富士見山荘からいつものクライミングルートに入る。
最初の谷で雪に出逢い、2つ目の谷でラッセルを愉しみ谷の上部でクライミングで遊び3時間かけて稜線に出る。



奥庭の林檎の蕾
魯迅

「沈黙しているとき、私は充実を覚える。
口を開こうとすると、
たちまち空虚を感ずる。


過ぎ去った生命は、すでに死滅した。私はこの死滅を喜ぶ。
それによって、かつてそれが生存したことを知るからだ。
死滅した生命は、すでに腐朽した。
私はこの腐朽を喜ぶ。それによって、今なお
それが空虚でないと知るからだ。

花開いた前庭林檎

 生命の泥は地に棄てられ、喬木を生ぜずして、ただ野草を生ずる。これ、わが罪過である。
 ・・・・私は、この野草の死滅と腐朽の速やかならんことを願う。
もしそうでなければ、そもそも私は生存しなかったことになる。実際それは、死滅と腐朽よりもさらに不幸なことだ。
 去れ、野草、わが題辞とともに。」
・・・・・
私は自分で、この空虚のなかの暗夜に肉薄するより仕方ない。
たとえ身外の青春を尋ねあたらずとも、みずからわが身中の遅暮を振い立たせねばならぬ。
だが暗夜はそもそも、どこにあるのか。今は星なく、月光なく、笑の渺茫と愛の乱舞さえない。青年たちは安らかである。
そして私の前には、ついに真実の暗夜さえないのだ。
 絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい。
  
 「希望」(魯迅著「野草」所収
爽快

危ないぜ!仙人が≪爽快≫なんて
言葉を口にするなんて極めてヤバイぜ!
こうしなければ生きてはいけないとの危機感が、
臨界点に達したとしか思えないな。

臨界点を超えた危機感は時として、有無を言わせぬ
圧倒的な死の誘惑に抗う術もなく、

 
頸に架けた旅の軌跡

ザイルに浸みこんでいるのは西夏の臭いか!

  虚空へのダイビングを試みる。
そんな衝動を始めて自らに見出した青春前期に
出逢った言葉、それが
≪希望の虚妄なること絶望のそれに等しい≫であった。


爽快なんてもんじゃないぜ
4月20日(土)14時55分 晴 一歩踏み外したらどうなるかって!旅が終るだけさ!

確か魯迅の言葉では無かったかと調べてみると、「希望」の中の「野草」のフレーズであった。
「希望」は「誇張して言えば散文詩」であり、「青年の驚くべき銷沈ぶりへのメッセージ」と魯迅自身は記しているとか。
そんな事は知らず青春前期の仙人はこう捉えた。

≪希望が失われたなんて悩むに値しない。希望は虚妄なんだ。絶望と同じく。
虚妄であるなら希望の芽生えに歓喜し、絶望の深さに死への誘惑に駆られることもあるまい。
希望の真っ只中で絶望を凝視し、絶望のどん底で絶望の背後に潜む希望を透視する。

そんな風に虚妄である希望と絶望のバランスを保ちながら生きる。
頭で考えるだけなら出来そうだが、「絶望の凝視」と「希望の透視」を実行するのはかなり厳しいだろうな。
であるなら絶望に陥る鬱の僅かな翳りを捉えた時点で、自らの精神と肉体を広大な空間に解放してみたらどうか!≫

而して仙人の卵のその又卵は、山に目覚めたとか!
つまりこんな風に絶壁のてっぺんに立って、「あー爽快なり!」なんて言ってる時は、
絶望の真っ只中で希望を透視してるってことか!
そんな風には観えないけれど!



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