1592ー2019年  如月

蒼い宇宙となった大日如来の微笑み!
2月12日(火)晴

宇宙に遍く広がる超越者であり、森羅万象と共に在る内在者である大日如来。
光は広大無辺な慈悲となって降り注ぎ、森羅万象を生成育成し、過去、現在、未来の三世の時空を貫き大日如来となって結像する。
インド北部で生まれた大乗仏教がヒンドゥー化され、明らかに出来ぬ教えとして密教となり大日如来に至る。
チベット、ベトナム、中国、モンゴル、朝鮮、台湾に拡がりやがて日本にもやって来た大日如来。

仏陀、釈迦牟尼、ガウタマ・シッダールタ大日如来が夫々勝手に仙人の脳内を飛び回る。
イコール(=)やニヤリイコール(≒)、不等号(≦)果ては写像や積分記号(∫)までしゃしゃり出て夫々を結びつける。
混沌化した仙人の脳内では大日如来が、仏教時系列の最後尾付近にへばりついている密教の産物であることすら認識していないようなのだ。
でもこの大日如来と云う言葉に魅かれ、≪大日如来の微笑み≫と題してしまったからには、後には引けない。
そこで仙人は慌て調べ仙人なりの大日如来像を描いてみたら、以上の様になったのだ。

実はこの光と仏陀の醸し出す美しさに動転して、記すべき言葉が見つからず仙人は唯うろうろしているだけに違いない。



動脈血に燃える大日

森羅万象は変化を生じて一瞬たりとも同じではありえない、
その宇宙の生命活動自体が空であるとの
認識の結果から導かれるものはなにか!
空はサンスクリット語でシューニャशून्य, śūnya

意味は「・・・を欠いている」、「膨れ上がった」、
更には「虚ろな」やインド数学での「0」を意味するという。
これから即浮かび上がるのはビッグバンであり
「0」が生み出す豊穣な世界であり
空こそ認識の原点なのではとの想いである。
「一切は燃えている。
煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」

(ガヤー山頂で町を見下ろし呟いた釈迦)

永遠に存続し・自主独立して存在し・中心的な所有主として
全てを支配するようなアートマン(真我)の存在を否定し、無我とし
世界が、宇宙そのものが≪空≫であるとの悟りを開いた釈迦。


静脈血の瞑想 





マヤ夫人の胎内に
そうか、この釈迦は
空を使命とするナットで表出された
空洞の造型であり、
正しく空そのものではないか!
ナットは空であることによって
意味を成し、
その空を無数に連ね新たな
空で釈迦を写像する。 

集合Aの要素であるナットXは
縁起fによって
集合Bの釈迦を表出する
唯1つの要素yに対応し
空洞・釈迦を造型しているのだ。

だからこそ仙人は
その空の鼓動に共鳴し吸い込まれ、
やむにやまれず山荘への
釈迦の拉致を余儀なくされたのだ。
さて空によって
釈迦は仙人に何を伝えようとして
しているのか!


6本の牙を持つ象が入る夢を見て

空によって釈迦は
永遠に君臨し存続する神を否定した。
まさか其れ故に
自らが目覚めた人・仏陀として
神の如く敬われとは!
ガウタマ・シッダールタ君もさぞかし
お魂消たであろう。


釈迦を懐妊し

≪神なんて居やしない≫
これだけで
神の恩寵と罰を説く
セム的一神教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教)
とは本質的に異なる。
そう、仏教は子供騙しの
神と云うまやかしを棄てたのだ。

 
ルンビニで出産しマヤは死す
 
万能の救済主なんぞ要る筈は無いと
認識しつつ
幼い子供を騙す様な手口に乗せられ
人間は古今東西で神を信じ、
救われようと足掻いてきた。

ガウタマ・シッダールタ君の
生きていた紀元前5世紀の北印度は
バラモン教がのさばっていた。

ブラフマン(宇宙の根本原理)とアートマン(真我)
は同一であるとする梵我一如
が記された経典「ヴェーダ」を頂き
祭儀を司る司祭階級バラモンだけが
この経典を学ぶことが許され
輪廻からの解脱が出来るとされていた。

このバラモン教がインドの
格差社会であるカースト制度を
産み出したことは云うまでもない。
ガウタマ・シッダールタ君は
この特権階級に敢然と刃向かい、
永遠不滅のブラフマンも
アートマンも在りはしない、総ては
空であると言い放ったのだ。

森羅万象は変化を生じて一瞬たりとも
同じではありえない。
輪廻からの解脱はバラモン階級
だけでなく総ての人にあり。

 
仏陀・目覚めた人



うーん、雪のマントも中々似合うね!
瀧の龍もすっかりお気に入り

≪自己や仏を含む一切の存在は縁起によって成立しており,
したがってそれ自身の本性,本質または実体といったものは存在せず,空である≫

(ブリタニカ国際大百科事典)

人間の行為(業)を因の集合Aとし、その結果である果の集合をBとし縁起によって
因に対応する果の1つを決めると縁起は因から果への写像となる。
≪空を無数に連ね新たな空で釈迦を写像した山荘仏陀≫と述べ、敢えて山荘仏陀を数学的処理をしたのと同じ手法で
縁起を捉えると縁起は写像でしかなく、確かに空なのだ。

と恥ずかしげもなく知っちゃかメッチャ化の誇大妄想を繰り広げる仙人の心象を駆け巡るのは
福岡伸一の語る≪生命とは動的平衡にある流れである≫とのフレーズ。
ガウタマ・シッダールタ君は2千年の時を駆け抜け、生命のみならず、存在そのものの不在を認識し、
存在は写像でしかない空であると透視したのか!
なんぞと仙人は独り言ち、ワフワフと嗤ってみたり、雪のマントを着た瀧の龍に同意を求めたり、
相変わらず閑を持て余しているのだ。



ハンガーの彼方は雪の畑

≪ほんじゃまー先ず煩悩の数108について教えてあげよう」
と仙人は仕入れたばかりの薀蓄を、
さも昔から知っていたかの如く厚顔破廉恥に語るでは!
閑を持て余すのは勝手だけれど、
冒頭のガヤー山の頂で釈迦が述べた≪煩悩の炎≫は、
いったい何処へいっちまったんだ!
空や縁起とどう繋がるのか、重そうに雪帽子を被った
ハンガーや物干し竿が聴きたがっているぜ!


これ、物干し竿でーす 



雪が音をい込んんでゲートはひっそり!
アラスカのムースは大喜び!

煩悩は何故生ずるか、おい!山荘ゲート番人のアラスカ箆鹿、答えてみろよ。
「そりゃ簡単さ、人間の6つの感覚、眼・耳・鼻・舌・身・意が引き起こすのさ」
あんまりの即答に面食らった仙人、その先を云われては面目丸潰れ、出番を失うとばかり続ける。
そうそう、でもそれでは108つにならないだろ。

この6つの感覚は夫々、好きだとか嫌いだとかどっちでもないとか更に3つに分かれるから
6×3=18となるんじゃ!
この18の煩悩は更にその内容によって浄、つまり清らかであるか、汚らしい不浄な状態であるかで18×2=36となる。
でもってこの煩悩は現在だけでなく過去にもあり、従って未来にも有り得るので36×3=108じゃ!
どうだ、煩悩は確かに108つになるじゃろが!

うっひょう!そんな出鱈目誰が考えたんだ!幾ら何でも仙人のでっち上げじゃないよね。



太陽が飛び込んできて部屋はポカポカ
一切はえている

生きることは苦しみである。
苦しみを生み出すのは108つの
煩悩である。
如何にして此処から脱出するか!

(業)としての煩悩の炎は
果として輪廻転生の
六道(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄道)
のいずれかに対応し
苦しみは永劫に繰り返される。

つまり天人にあっても
苦しみから逃れることは出来ず、
天人五衰に陥り
体が悪臭を放ち、腋から汗が
迸り自らの居場所を失う。


ならば苦しみからの脱却は
輪廻転生からの解脱しか無い。
解脱し涅槃に至る方法を
釈迦はこう実践した。

≪結跏趺坐(座禅)瞑想し
精神統一を計り無我の境地に入る。
肉体から己を消し去り
意識を透明にし
物質としての肉体からの乖離を図る。
つまり空そのものになる≫

その完全なる達成が、
死であることは云うまでもない。
≪仏様≫になれば誰しもが
苦しみから解放される。

逆に≪仏様≫にならず
生き続けるには、煩悩の炎に焼かれ
生の苦しみを
甘受し燃え続けるしかない。

とガウタマ・シッダールタ君は
認識し、放った言葉が
一切は燃えている】だったのだ。
焼く尽くされる生と
涅槃を結ぶ触媒は死であると
彼は目覚めた!

成仏するとは死ぬことであり
仏になること。
涅槃とは空そのものなのだ。

イオの部屋に雪の森が迫る

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