その143の4ー2017年 神無月
チベット密教仮面のお出迎え! 山荘の森へようこそ!蒼仮面と蒼ランドヴェンチャーの邂逅 目ん玉だけを真紅に染め、チベットの密教仮面が蒼く底光りしながら蒼のランドベンチャーを迎える。 密教仮面に深く刻み込まれた蒼の記憶が、 カズオ・イシグロの云う≪死に対する部分的勝利≫であるなら、勝利するのは誰か! 死者を愛する、残された者に象嵌された記憶の保持者では決してないだろう。 勝者は記憶を創り出した死者本人で無ければ、勝利の意味は失われる。 死を直前にして今、自らに残されたものが権力や名声、地位であったり、金銭でしか無かったと悟ったなら 果たして≪死に対する部分的勝利≫を覚えるだろうか! 仙人の死に拮抗出来るのは、時間を共有して生み出される深く刻まれたチベットの空の蒼の記憶のみ。 |
4773とは山荘の森の地番では! |
蒼の饗宴 小さくなった筈なのだが、 大きく感じるのは何故だ? これがランドヴェンチャー初乗りの 強烈な印象。 今までに数多くのレンタカー、代車を 乗り回し、資材搬入には 3台の軽トラを交互に運転していたが、 運転そのものに プレッシャーを感じたことは 一度も無かった。 |
しかしこいつは違う。 軽なので小さくて小回りが利くし、 扱いやすいと 思っていたが大間違い。 プレッシャーを感じても不思議ではない。 その上、四駆と四駆Lに 駆動を切り替えられるので 試しに切り替えて みたら何とも重厚で、 これぞ車だと唸りたくなる気分。 車高が高く道路までの距離が あるのでボンネットの左に アドバイスミラーが付いている。 ミラーで側溝への脱輪や 側壁への接触を避けられるが、 車高が高いとより大きく感じ 車体感覚が掴み難い。 |
太陽の光で蒼は碧へと彩を変える |
森を映す蒼 今までに20台以上の車を 運転しているが、こんなに 緊張するのは初めて! 横揺れも激しくこの原始的な 車軸懸架式のリジット・サス車を慣らすには、 かなりの時間がかかりそう。 |
山荘への狭い農道も ランドヴェンチャーならスイスイと 期待していたのに、とんでもない。 フェリオより遥かにスピードを落とし、 ゆっくり走っているのに、 それでも側壁に車体を接触させて しまいそうで全く自信喪失。 |
蒼と黒が入れ替わる |
乗り心地を良くするために 乗用車の多くは 車輪が独立して車体に付けられている。 図の様にサスペンションが車体から 懸架されていないので 独立懸架式は構造的に弱い。 悪路には向かない。 |
ランドベンチャーの様な車軸懸架式車は 起伏の多い地形では 片側の車輪が押し上げられると反対側は 強制的に押し下げられるので 悪路での接地性能が良く、 車体底面を打ちにくくなるメリットがある。 (wikipedia) |
靴の蒼、仮面の蒼、LVの蒼 |
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蒼き狼になって走れよ! |
ありゃ、蒼いのが来たぞ! |
ふんふん、確かに臭うぞ! |
観たことないぞ! |
≪どうしてあたしが 払わなきゃならないの!≫ あー、狸のその時の狼狽えぶり 見せてあげたかったな! 決して戻らぬ時間を共有し、 死への部分的勝利を 記憶に留めることさえ出来れば、 それに優るものは無いと 悟ることが出来ない狸。 どうせ支払うのは その辺の枯葉をちちんぷいぷいと |
LVはこの森の臭いがするぜ! |
小判に変えて 払うだけなのに、狼狽えるなんて! あんまり可笑しいので 仙人は狸にこう言ったとか。 ≪そんならやめよう。 なーに、狸なんかじゃなくて 10月になったらランドベンチャーが 自らやって来るぜ≫ 本当にやって来たもんだから 狸のおっ魂消たこと! あっちこっち山荘の庭をウロウロ うろうろ。 |
4773だって! |
そりゃ若しか森の地番では! |
やっぱりな、ありゃカンパネルラ再来じゃ! |
冬の駐車場が川になった! |
そうだったのか! 台風が続けてやって来て 山荘の冬駐車場が、 川になって、狸の巣は水浸し。 でもって臆病で姿を見せぬ狸め、 夜行性であることも忘れて のこのこ庭に出て来たんだな! |
さては相続いた台風か! |
ありゃら、こりゃ見事な流れ。 冷たくて巣穴は 池のようになっちまったもんだから 上へ上へと登りつめ、 気づいたら山荘の庭と云う訳か。 庭を彷徨っていると ランドベンチャーが何やら 蒼の記憶と語らっているでは! どれどれと聞き耳を立てる狸。 ≪死を直前にして今、 自らに残されたものが 権力や名声、地位であったり、 金銭でしか 無かったと悟ったなら、 果たして≪死に対する部分的勝利≫を 覚えるだろうか! |
狸め巣が水没したな! |
これを聴いた狸め 俄かに怒りだし叫ぶでは。 ≪どうしてあたしが 払わなきゃならないの! 記憶よりお金よ≫ どうも狸め ランドベンチャーを見た途端、 枯葉を小判に変える術を 強要されると 慌てふためいたらしいのだ。 老いた狸には 最早そんな術が使える筈も無く 唯ただうろうろするしか ないと見破られるのを畏れたか! 記憶と小判の価値の相違も 解らぬ愚か狸め! |
作陶・大型作品に執拗な挑戦! 大きい程、罅割れ、捩じれ、変形は抑え難く失敗続きだが・・・ 死を概念として認識するのと、死を間近にしての認識との間には質的な断絶がある。 高解像度の4K、8Kで映し出された林檎の画像が如何にリアルであろうと、 その林檎には触れることさえ出来ない。 勿論食べることなんてあり得ない。 実際の林檎との間には本質的に隔てられた深い断絶がある。 |
作為だけで無作為にならず! |
せめて紋様だけでもと・・・ |
それに近い認識の断絶を、 死の概念と死の事実との間に 感じるようになって、久しい。 記憶を辿ると 高校時代にのめり込んだ谷川岳や 穂高岳での ロッククライミングの墜落死や、 冬山遭難での死者との対面が 死を抽象から具象へ導いたのだ。 |
谷川岳マチガ沢の岩場では 墜落した若い女性を ザイルで背負い下山。 時間の経過とともに背中の女性が 冷たくなっていくのを感じた時に 突然、 死がなんであるか 17歳の高校生が知ったのだ。 |
救われない方形 |
焼く気も起らない愚作か! |
せめて細かい部分だけでも丁寧に |
概念でしかなかった死が、 現実として いきなり飛び込んできたのだが、 それはほんの始まりでしかなかった。 その後ヒマラヤの遠征隊員を 次々失い未だに 回収出来ず 山巓直下に眠り続ける隊員も居る。 従って仙人の死のリアルな認識は 老いによって齎されるより 遥か以前に、 質的な断絶を超えて在ったのだ。 |
となると大菩薩の錦秋の森で 聴いたバロックの音色は、 老化による体力の衰え、 死を間近にした老人の 幻聴だけではなかったのでは! カズオ・イシグロの言葉 ≪記憶は死に対する 部分的な勝利である≫ が絡んでいるような気がするのだが。 ヒマラヤの8125メートルの 山巓直下に眠る隊員の 最後の記憶が それでも天の極みを求めて 登り続ける自らであったなら、 中島修隊員は 勝利したのだ。 |
暗ーい想いに落ち込むぜ! |