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1ー2021年  霜月

露わになった罠に枯葉が2枚
11月9日(雨) 雨の森テラスで狼狽える女郎蜘蛛





雨上がりの散歩

 雨の気配はまだ漂っているものの、里散歩に出かけよう。
前庭に出てみると、それぞれの彩に染まった葉が大きなアーチを描き、しっとりと霧に濡れ上質の織物のように深い光沢を湛えている。
心に染み入る深い色合いが世界を支配する。落ち葉絨毯になって敷き詰められた栃と銀杏の織り成す色も味わい深い。
雨上がりに独特の森閑とした世界。鼻腔迄忍び入る湿り気を帯びた冷たいのに懐かしい空気感。散歩前にすでに心が洗われる。





小雨に煙る山荘森

樹海に誘う紅
   
濡れて光る紅
 
露を滴らせる山茶花



奥行きのある美しさ

立ち込める霧に景色は期待せず、少しだけ歩こうと山荘を出発。
雲が明るさを増し、雲の上には青空が広がっているのだろうと期待できるほどになってきて、里の景色が眼下に広がる。
黄色く染まった葡萄棚の向こうには小倉山が大きく控える。
全山が複雑に色付き乳白色の霧が流れ何ともしっとり奥行きのある美しさ。
雨に打たれ余分な汚れは流され、森も畑も水分をたっぷり含み、すべての事象がゆったりと揺蕩う。
何かがゆっくり移りゆくこんな時間が特別に愛おしい。雨から晴れへ、秋から冬へ、すべては絶えず変化する。


濡れ返る森で微かに笑みを浮かべるボン・シルバー
11月9日(雨) しとどに濡れて惑い来にけり




落ち葉時雨

上条の森は黄色く変わり始めた木々が明るく空間を広げている。
見上げると、光を透かし濃淡になり、幾重にも重なる梢の葉っぱたちの美しさに見惚れてしまう。
こんな時はいつだって虔十になって大きな口を開け、笑いをこらえきれなくなる。
風も無いのに一斉に散る落ち葉。まるで突然の雨のように降る 降る 降り続く。
大きな葉も、小さな葉も舞い落ちる。何が合図なんだろう。風の気配なのか。空からの手紙。いやいや、天からのはがきだ!
拾い集めてメッセージを読み解こうか。
Je t’aime pour toujours あらまあ、枯葉だからフランス語なんて。



秋だってよ!

小さな秋見つけた!


唐櫃に注ぐ瀧水



無限の思索を試みる

天からのはがきはお洒落さん。葉の一枚一枚はまさしく言の葉。無限の言葉が天から降り注ぐ。
無限の組み合わせが、無限の思索を試みる。有限の生を彩る、無限の言葉たち、落ち葉時雨が止むころに、さっと風が通りすぎた。
森が再び光に満たされる。上条の森は鳥の声も虫の声も無く、明るい光に包まれながらも静かなのだ。
ただ一斉に始まる落ち葉時雨の降る音は、かさこそっと軽やかなメロディーを響かせる。
斜面に降り積む落ち葉を踏みしめる音も愉し気に響く。
稜線に出てからはアップダウンが多く下りは岩が露出して、転ばないよう丁寧に足を運ぶ、どこからか不意に高い笛のような音。
幾度も響き渡るあの笛は鹿の求愛の唄、ちょっと切ない笛である。





 
しっとり濡れる山荘の静寂
11月9日(雨) 雨の前庭も紅葉



村の道

座禅草公園入口への道沿いにある銀杏の木がすべて葉を落とした。
小さなぎんなんが鈴生りでまるで別の木のように見えるが、独特の臭気もすごい。
農道ではぶどう棚の下で吊るし柿の準備が始まっている。
大きな百目柿が剥かれて籠いっぱいに並ぶさまは、色鮮やかで壮観だ。
除けてあった柿を、「こんなんでよければ持ってけって!」と気前よく分けてくれた。
段ボールに詰めてもらった百目柿を山荘まで運んだら、腕がぱんぱん。思わぬ収穫だった。




ビッグツリーにも秋が!

雨霧に包まれる山荘
   
唐櫃にピンを合わせ!


濡れた光の回廊
11月9日(雨) 雨に濡れた落葉の絨毯がゲートへと続く
 



サツマイモ収穫

中畑一面を覆いつくした薩摩芋の蔓。
一時は雑草の勢いに押され気味だったのに、見事に繁茂して石垣の下にまで、緑の葉を茂らせている。
先ずこの蔓と葉をすべて取り除かないと、薩摩芋の収穫に取り掛かれない。仙人が蔓を包丁で次々と切断。
それを引っ張って集めて、籠に詰め込み、葡萄畑の石垣下に運ぶ。
作業は簡単なことなのだが、
3つの籠を並べ、刈った蔓を詰めては葡萄畑へ運ぶ。これを繰り返すことを延々と続けると腰が痛くなってくる。
初めは見えなかった地面がどんどん広がり、いつの間にか薩摩芋畑は更地に戻っていく。
この地面の下に豊かに実った薩摩芋がごっそり植わっているのかと思うと、頑張ったね!という気分だ。
一つの籠に半分くらい収穫して本日は完了。



前庭のアンネ薔薇

凌霄花科に分類される
エチオピア区の広範囲に観られる
《ソーセージの木の実》に
そっくりな植物に遭遇!
生まれて初めて観たので吃驚!

座禅公園手前から竹森川左岸に沿って、
美しい渓谷を300m程登りつめると、
谷と山道の緩やかな斜面の道寄りに
赤っぽいソーセージ擬きが
ぶらり、十数本垂れ下がっている。


石卓横の琵琶の花

ソーセージの様な土木通

里道の雨の晩秋

山荘森には紫占地が

姫赤立翅蝶!
(赤立翅の後翅は茶、これは姫)

ウインナーソーセージを
少し大きくしたような
本物そっくりなので、
改めて繁々と見つめてしまった。
しかしソーセージの木は
「果実は木質の漿果で、
長さ30-100cm、幅18cm、重量5-10kg」

なるので明らかに、この植物とは異なる。

上条山から戻りネットで調べたが不明。
後に村上からのメールで
土木通と判明。 

前庭柿木の山管巻擬
(背から腹にかけての茶縞で同定)



つい歓声を上げ

ご褒美に、扇山散歩。扇山への山道は楓の種類がところどころに赤く染まり、午後の陽に特別な美しさだ。
上条山には紅葉する樹は少なく黄葉がほとんどだ。
どちらも其々に美しい趣があるが、やはり楓の赤は太陽の光を受けると華やかさは際立つ。
つい歓声を上げながら、連日登れる歓びに満たされる。山頂から同じ道を下っても、登りと下りは風景が異なるのが面白い。
もっとも下りはのんびり周りを見回す余裕はないのだが、雨後の霧に包まれながら見る景色、
雨上がりの清々しく透明な光の中の景色、秋晴れの溢れる光の中の景色、どの景も心に深く刻まれる掛け替えのない今年の秋の景色だ。




冥界の帝王の如き風情を醸す墓守鹿
左に隊員墓標、右に仙人墓標が光る夜のカロート





山荘森の夜明け

仙人瀧のソーラー灯

炎となる朱の森

重い。
畑仕事は豌豆の支柱の支え紐を
上に上げて固定するだけの仕事で、
決して重労働ではない。
従って余裕で上条山から
小倉山への縦走散歩は
出来ると思っていたが、身体が重くて
歩くのがしんどい。

里道をゆっくりゆっくり
座禅草公園に向かう。
急カーブの川村造園林に差し掛かると、
真っ赤な楓が夫々の
グラデーションで妙なる光を放ち、
吸い込まれる。

座禅草公園の広場も岩を配した
小谷に紅の葉が覆い被さり、
心地良い日本庭園の
風情を醸し出している。


森テラスで紅葉三昧

谷に入ると直ぐ右側に
土木通(ツチアケビ)発見。
前回訪れた時には気付かなかったが、
たわわに稔ったウインナーソーセージは
程よい焦がし加減で食べごろ。

上条の森に入るや光と
鮮やかな紅葉が織りなす
タペストリーに、言葉もなし。
稜線に出ると冬将軍の
冷たい南風に煽られブルブル。
盆地では北風も地形に導かれ
逆の南風になったりするので、
南風が暖かいとは限らないのだ。

山荘に戻る途中で干し柿作業を
している老夫婦に遭う。
「食べるかい!」と云われ
熟柿を段ボール1箱ももらう。 


逍遥路の絨毯を踏みしめて

木漏れ日に染まる



美しいもの

イオの宇宙には密やかに交感しあう星が住まう。
ささやかな光を甘受すると魔法のように光を紡ぎあげ描き出す夢模様。
その瞬間に立ち会えば、心の湖の真ん中に小さな揺らぎが生じ、それは全身を震わせるほどに美しい一瞬なのだ。
何を美しいと感じるかは人それぞれなのだろうが、たとえどれ程優れた芸術作品であっても、自然が刹那に見せる美の姿には敵わない。
その刹那に産まれる美の瞬間を観ることが出来るか感知できるかどうか、それこそは個人の感受性の違いなのだろう。
山を愛する者が、自然から受け取った美しいものは限りなくたくさんあるだろう。




密やかな交換

仙人が勝手に命名した頂で

深淵からの美しい光の束に


再び歩ける歓び!

10月20日(水)晴
山荘発10時→仙人山11時13分→扇山12:25分
→山荘13:10(バイクで座禅草公園まで)
→小倉山14:00→山荘14:55 


 
 77歳誕生日の夜明けの光に浮かび上がったのは、
白銀の山巓であった。
昨日までの黒富士は1夜にして銀の衣を纏い、
凛とした凍てつく山巓に
メタモルフォーゼし、仙人を招く。
錆付き萎えたピッケルを、右に振り上げ
氷の壁に打ち込む。

左のアイスバイルを氷の割れ目に差し込み
体重移動をし、右脚のアイゼンを蹴り込む。
静かに体重を掛け、僅かに山巓に近づく。
無限とも思える繰り返しの果てに、
辛うじて達した山巓から下り、再び頂を想う。
この無謀さに驚き!

まさか硬膜外ブロックを2日前に打ったばかり
だと云うのに、1日で3つの山に登ってしまうなんて!
さてその結果どうなるのか?
休眠していた肉体が半年ぶりに再開されるのか!
はたまたノックダウンされるのか!

腰には血液の循環を高めるカイロを
入れた骨盤ベルトを巻き、痛みの酷い右脚には
サポーターの上からカイロを貼り付け、
まるで病院から逃げ出してきたような格好で
山荘出発!

愛おしい頂で!



美の誕生の瞬間

更に神々の座に近づいた者だけが受け取れる、宇宙の深淵からの美しい光の束があることを知っている者がどれだけいるだろう。
イオの宇宙の光は、神々へ捧げる供物なのかもしれない。
里山であっても、そこで生まれる刹那の美は、誰にも見られることもなくても、宙へ向かって確かに捧げられているのだ。
ほんの時たま、自然が創り出す美の誕生の瞬間に立ち会えることが、もしかしたら生きている意味なのかもしれない。
イオの宇宙にも山荘の森にもそんな瞬間が潜んでいる。
だからこそ、そんな瞬間を見逃さないよう心を研ぎ澄ませなくては。



美の誕生刹那の邂逅
1月19日(金)高芝山鉄塔からの98%月食


小さな光の点としか観えなかった星々が、宇宙望遠鏡によって実は宝石の輝きを放ち、宇宙そのものが美を意味していると気づく。
その美の奇跡的創造物として生み出された地球の天然は美を宿し、美の誕生刹那に邂逅した知的存在を蠱惑する。
賢治はハッブル宇宙望遠鏡の打ち上げられる94年前1896年に、この宇宙望遠鏡を手にし誕生した。
《美しいもの》を目にしての最初のインプレッション!いつまでも美の誕生刹那を認識できる自らでありたいね!  




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