1781ー2020年  長月


瑪瑙の光で刹那と永劫の森を創ってみようか!
森テラスから透かして観えるイオ部屋




森テラスにて

森のテラスの新しい魅力を発見した。一つ目は夕暮れ間近の森テラスでの時間。
森テラスには東の端と西の端のそれぞれに、テーブルセットが備えられている。
東のテーブルへ夕食後のデザートを運び、夏の終わりの明るい夕方の森に向き合う。
この位置だと目の前が赤松の林となり、空間が広いので、開放感があるのだ。森と空が広がり、高芝山観覧の特等席ともなる。

滝上のボンシルバーとも対面できる。反対側の椅子、テラスの内側に向かって座ると、テラスそのものの奥行きが深く、
昼間は気が付かなかったが、西の端に灯る透かし壺を生かした照明が、何とも良い雰囲気を醸し出している。

仙人山へ上る途中で夕立が来て、急遽戻ってきたので、早すぎる時間にも関わらず3時前には夕食にした。
食事を終える頃には晴れてきて、ちょうど森に太陽が隠れる前の光に招かれ、森テラスへ移動することになったのだ。
夕暮れにはまだ間があるが、ゆっくりと昼が夜を迎える為の儀式を始めようとしている時間。




如来とイオ

如来と硨磲貝の割れ目
昼が夜を迎える儀式を終え、
総てが漆黒に沈み、
刹那と永劫がメビウスの輪を誘う。

先ず壁画の蒼い光が、
イオの火山噴火と木星の大赤斑を
浮かび上がらせ、
次に如来が静かな蒼い微笑みを
漆黒に放つ。



出窓に鎮座する
紀元前後のガンダーラ調の壺が
瑪瑙を銜え、体内から
蒼い光を噴き出し、
イオの漆黒を僅かに切り裂く。

夜が夜明けを迎える儀式を
受け入れイオは
瑪瑙の蒼から木星の大赤班へと
赤血球を躍らせる。
赤血球はメビウスの輪に載って、
刹那の永遠を奏でる。


森テラスにイオ瑪瑙が輝く



森、テラス、イオ、踊場灯、の多次元を描く窓
森テラスから透かして観えるイオ部屋

瑪瑙の碧い光が夜明けの3つの奇跡を可能にしたのかなと、消滅しつつある茫洋たる記憶の大海を彷徨う。
いや、奇跡は存在そのものにあって、3つの夜明けの奇跡は、
大海の末端部分が陸に触れ、存在の奇跡が瑪瑙の碧い光を触媒として珊瑚礁を生み出したのだ。
あれっ、心象スケッチではそう描かれているのだが、
これって言語に置き換えると、かなり意味不明で、いつもの仙人の戯言にしか聴こえないな。

うん、もう少し明瞭になるように言の葉を駆り出して、像を結ぶ試みをせねば!
1つ目の奇跡は赤血球の甦り、2つめは瑪瑙を生み出す空洞の活動、最後は腱が直ぐ突っ張って硬直してしまい、
とんもころしの実も剥けなくなってしまった指の再就職先が、目出度く決まったこと。
次は≪消滅しつつある茫洋たる記憶の大海≫とは何なのか!



透かし彫り灯が輝く

ヒマラヤ画廊
瑪瑙の碧い光に
すっかり憑りつかれた仙人は、
赤血球に乗って
ミクロのコスモスを流離う。
最初に巡り逢ったのは、
消滅しつつある
茫洋たる記憶の大海。


何度も何度も
瑪瑙を生み出す空洞に
突っ込み、消滅しつつある、
茫洋たる記憶に迫る。
記憶は森、テラス、イオ、踊場灯、
人を次元の坩堝に
放り込み、認識の彼方へ
仙人をいざなう。


屋根に映るテラス

アンプ仮面灯も碧白く




夏の日が暮れて

忙しく立ち働いていると見逃してしまいそうな狭間の時間帯だが、子供のころはこの時間が近づくと、
なんだか訳もなくそわそわしてきて、人恋しくなったような覚えがある。
鳥たちはねぐらに帰り、夜行性の動物たちは活動の準備をはじめたりするのだ。
さて、私たちは他愛もない笑いを分かち合いながら、森の気配と共に、夏の日が暮れてゆくひと時を、余すことなく享受しているのだった。
なんて贅沢なデザートなんだろう。

こんな素敵な空間が存在することを、もし夕立がなかったら、見過ごしたまま気が付かずにいたかもしれない。
そう思ったら夕立にも感謝したくなる。
翌朝は厚めの雲が太陽をすっぽり覆って、この様子だと、かなり遅い時間まで太陽は顔を出さないだろうと思われた。
朝の仙人テラスを愉しむチャンスだと、大きなガラステーブルにブレックファーストの大皿をせっせと運ぶ。
仙人テラスの特等席に座り冷たい牛乳を飲み干す前に、太陽が顔を覗かせる。
未だもう暫くは、雲の砦に隠れていて欲しいのに、軽くご挨拶とばかりに、光の束を投げてよこす。



雨降る夜のティータイムは深い静寂
昼の蝉も鳥も夜の音楽家たちも雨に沈黙



透明な美しいフォルム

たちまちチリチリするような暑さが伝わり、「北風と太陽」ならば今は北風の方が恋しい。
仙人が素早く決断すると、大皿たちは森テラスの西側へと運ばれることになった。
あっという間に森テラスへの移動が完了、椅子に座ると爽やかな朝の風がそっと吹き抜ける。
この西テーブルは、先回までは無かった透明な屋根が付いた。
屋根は鬱陶しいのではないか、せっかくの森との一体感を台無しにしてしまうのではないかと、内心心配でもあった。
ただ、外見ではそれはそれで受け入れられそうな、透明な美しいフォルムを描いている。

夜、テラスの照明を点けると、その透明な屋根に無数の雨粒が宿り、銀河の煌めきのようで美しかった。
屋根の下に座っても、思ったほどの邪魔はしないと感じた。暫くの時を経て、ふと気が付くととても居心地がいいのだ。
この落ち着く感じは何だろうと、見上げる。屋根があることで、何かに守られるような安心感が生まれるのだろうか。
例えば、テントの中や、子宮の中にいる胎児のように。



山頂の天空だけ
森を開いて、ぽっかり空が
観えるように伐採した。
それまではすっかり森に覆われて、
ちっとも頂の風情無し。

こうして頂に寝転んでみると
すっかりこの森も頂に
成りきって、中々大したもんだ!
そんではちょっくら
夢の世界にでも行ってみっか!

 
仙人山のシエスタ
≪仙人山≫の仙は人と山。
切り株に乗って、
左脚を高く上げ、えい、これで
≪人≫の字にならないか!

≪山≫はどうしよう!
山頂標識に枯れ枝を立てれば、
山にならないかな!
ほら、山に観えなくもないだろ!

 
山の日だって!(山の字か?)

 山頂の椅子

もう少し、あと100m、
ほら、あと50mだ!
これは山頂までの距離ではない。
森の日陰に入るまでの距離。

いつもは山荘の奥庭から
森通しに仙人山に
登り強烈な陽射しを避けるのだ。
しかし今回は
鉄塔峠からの長いルートを選び
仙人山を目指すことにした。

山荘からはカンカン日照りの
農道を経て鉄塔山の
森に入るのだが、
この森に至るまでが暑熱地獄。
地熱温度は50℃を越え
いつ熱中症でぶっ倒れても、
不思議ではない。

ぶっ倒れる寸前に鉄塔森の
日陰に辿り着き登山開始。
で、山頂にはちょっと粋な
切り株椅子が待っていたのさ。

 
切り株に乗って片脚立ち(人の字か?)
 
お久しぶり!
 
昼下がりの休憩
 
長い北ルートから登って来たんだ



ぴんち!右アキレス

右アキレス腱の下、踵に瘤が出来ているのに初めて気づいた。
痛みが引かないので、具に観察したらアキレス腱そのものでは無くて、
頭を打撲した時に出来るようなたん瘤が踵にあり、其処だけが痛むのだ。
感じとしては罅割れの様な疲労骨折かな!歩き出す時の痛みが酷く、数分間はビッコ引き引きの状態が続く。
その後も無理して歩き続ければ、歩けなくはないが、痛みは慢性化しアキレス腱は安静を要求する。
かと云って充分に安静した寝起きの後の痛みは無いかと云えば、そんなことは無く、安静していても回復しない。

安静の時間が8時間程度では不足なのかも知れないが、昼間も寝ている訳にはいかず、
せめて猛暑を避けて午前中だけでもと、葡萄畑に出て8畝の雑草取りに汗を流し、冬大根、レタス、蕪の種蒔をしようと健闘。
だが畝は8列では大根の種を1袋蒔いただけでも足りず、レタスや蕪の種蒔は延期。
畑は幾らでも遊んでいるので、雑草取りさえすれば蒔けるのだが、
8畝の雑草取りに2時間もかかっているのだから、更にレタス、蕪用の畝まで雑草取りをすると、
アキレス腱痛だけでなく、腰痛や熱中症も攻めてきて、極めて危険と判断。

しかし仙人&森テラスの汚れは、このままにして置くと、汚れが取れなくなるので、
奥庭からホースを引き上げデッキブラシで掃除。
何とか午前中に終わったが、アキレス腱痛は一層酷くなりギブアップ。 



瑪瑙の森からの森テラスは漆黒のオブジェ
イオ部屋から透かして観える森テラス




未完の進化を目指し

しかも透明な天蓋は視界を遮る閉鎖性もなく、かすかな色味のせいで空はよりクリアに見える。
優美な曲線を描いているので、森に繋がる視線にも違和感なく馴染む。
音楽を聴きながら、珈琲や紅茶の香りに包まれ、気に入った本を心行くまで読んでみたい。
森を渡る緑の風を浴びながら、そんな時間が持てたらなんて贅沢なんだろう。
この場所の座り心地の良さは、思わずそんな時間を連想してしまう。
これが二つ目の発見である。改めて人の感受性の面白さを発見したような気になる。

実際に体験してみなければ、分からいこと、気が付かないことだらけなんだ。
白い画布に色を施し、空白を生かし、大胆に線を引き画面分割を行う。
その一つ一つが新しい何かを創り出し、足したり引いたりしながら、作品全体を仕上げていく。
山荘そのものが巨大な画布であり、常に未完の進化を目指し、よりよい作品へと変貌していくようだ。
だからこそ、その面白さに惹かれ、わくわくしながらついつい足を運んでしまうのだろう。
今回は仙人テラスの外側に手焼きのプレートが取り付けられた。
それもまた、テラスをより魅力的に見せてくれるので、ぜひ確認してほしい。


 



人懐こい錦鯉
キッチンのドアを開けると
錦鯉たちが、
先を争って岸辺に集まり、
口を大きく開き、
パクパクと歌を歌い始める。


さあ、お食べ!

ヒマラヤ遠征でメーカーから
寄贈してもらった昔の乾パンの余りを
水に浸して柔らかくした餌を
与えると合唱は、最高潮に達する。

40cmもの大きな4尾の
バリトンとやや小型の
7尾のソプラノが池のステージに
響き渡る。


座禅草の森散歩

なんちゃって仙人は云ってるけど
大きな錦鯉が雄で
やや小型の7尾が雌と決めつけて
僅かな疑問も抱かず、
平然としているんだから呆れるね。

単に大きな鯉は低い音域で
小さな鯉は高くなるだけでないの?
それとも仙人は錦鯉と
お話しが出来るとでも云うのかい?


ホクホク天空南瓜の収穫

甘いトマトもどっさり!



11日間の禁
症状


≪もしや復活しないのでは!≫
若い時から闘ってきたアキレス腱痛なので、整形医より自らのアキレス腱痛の対処方法は、良くわかっているつもりである。
ストレッチや筋トレ方法も様々試し、現在のアキレス腱の伸縮と筋トレに行き着いた。
これでここ5年間ほどは山で走ったりせぬ限り、アキレス腱痛からは解放されていたが、再び痛みに襲われた。
思い当たるのは先月25日にやや長いルートとなる鉄塔峠から仙人山への登山と、
翌日の目白での非常階段昇降トレーニングと目白から晴海までのチャリンコ往復であるが、
今までのトレーニング量から逸脱する程の運動量ではない。

従ってアキレス腱の酷使を押さえれば、必ずや回復する筈なのだが、
≪もしや復活しないのでは!≫との一抹の不安が残る。
回復するとの肉体への信頼は、若い時の話しであって、老劣化が激しく進行しつつある現在、
果たして肉体は未だ復活力を、維持しているのだろうか?
しかし悪戯に懼れて、いつまでもアキレス腱を安静にして置けば、肉体は安易な負荷の少ないホメオスタシスに移行し、
やがて登山どころかトレーニングすら出来なくなることは目に観えている。

そこで恐る恐る11日ぶりの登山を再開してみたのだ。
ゆっくり、ゆっくり、これ以上は遅くできない限度までスピードを落とし、
登山より散歩を心がけ仙人山の山稜を逍遥した。
11日間の禁断症状から一気に解放された悦びが、如何に深く、大きなものであったか云うまでもない。
傷んだアキレス腱に感謝!もっともっと大切にケアしてあげねばと実感!



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