175の2ー2020年 水無月
キキでどうだい、気に入ってくれたら嬉しいな! 6月2日(火)晴 森テラスの硝子テーブルに乗った雌仔鹿のキキ |
石段の薔薇アーチでキキ怯む 前回あまりにも快適であった森テラスだが、 同じ楽しみを期待して 朝の食卓に選んでみたら、 予想に反して、森の勢いに負けそうだった。 森と山荘とのちょうど繋ぎ目となる 橋上のレストランは、 確かに森と同化して、早くも 真夏のような太陽を、 張り出した大きな枝で遮ってくれ、 もてなしてはくれている。
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生命の季節 森は緑で埋め尽くされ、 通り抜けてくる風は弾むような 命の香りにあふれている。 たった3週間されど3週間、 その時間が森を一層深く育て、 ついこの間までの瑞々しい若葉は、 最早猛々しいほどの 濃く鮮やかな緑に燃えている。 森の生命力に圧倒されながらも、 その懐に飛び込みたい思いに変わりはない。 |
でっかい世界に吃驚するキキ |
乗ってみるかい! |
車はどうだい! |
吐蕃アイベックスの角だよ! |
もてなしついでに、 空中ブランコの毛虫の踊り子たちを 無数に登場させてくれる。 透明な糸にぶら下がり、 よく見ないと 気が付かない小さな毛虫が、 あちこちを浮遊しているのだ。 気が付けばその誰かが、 ひじ掛けや時には皿の上にまで こっそり忍び寄る。 |
こりゃ、物干しの邪魔だ! |
思わず小さな悲鳴を上げようものなら、 風が笑い声をあげて囃し立てる。 生命の競演が 繰り広げられているこの季節、 すべては陽気でいたずら心に溢れ、 訪れるものを 揶揄せずにはいられないのだ。 どうせなら一緒になってはしゃごう! 笑い転げよう! 森の命と一緒に歌って踊ろう! |
ジャンプして飛び乗るかい! |
硝子卓は滑るぞ! |
羽も無いのに翔べるかな、だって! |
もっと散歩したい!と邪魔するキキ 6月2日(火)晴 物干し場までやって来るキキ まるで絵本から飛び出てきたように愛くるしい瞳と、鹿の子斑にほっそりとした長い脚。 こんなに小さいのかと驚きながら、バンビとの初めての出逢いにしばし見惚れる。 怖がる気配も見せず、そっと撫でてあげるとすんなりと受け入れてくれる。人間を仲間だと思っているのだろうか? とにかく可愛い。文句なしに可愛い。こんなにいたいけない小さな存在の愛くるしさ、その可憐さが身を守る武器でもあるのだ。 生まれたての幼い命を、誰でもが守ってやらなくてはいられない気持ちになるのは、動物とて同じなのだろう。 ミルク瓶の代わりの油差し容器のノズルを口に差し込んであげると、ちゃんと飲む。 ただ飲みにくそうで、細いノズルが危なくないかちょっと気になるが、なかなか上手に飲んでくれる。 ミルクの後は、暫く陶房に入れておこうとするが、嫌がって入りたがらない。やっぱり外が好きだよね。 見張っていられないので、用事が済むまでは首輪に紐をつけておくが、バラの花陰で座り込んで大人しくしている様子だ。 キッチンで仕事をしながら、何度も庭に降りて様子を見る。 |
最初の夜は書庫で! |
お母さん、どうしたんだろう! |
お母さん来なかったね! |
書庫から出て啼いていた |
クンクン、臭いを嗅いで! |
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私の体にすり寄り潜り込もうとする 思ったよりも動くこともなくとてもおとなしい。暑いので、昼寝をして体を休めているのかな。 仕事が終わり、遊んであげたいなと近寄ると、お腹が空いている気配だ。 仙人が調乳している間、子鹿は待ちきれないというように、 私の体にすり寄り潜り込もうとする。 掌を嘗め、指を吸う。人差し指と中指に交互に吸い付くが、その力は思いがけず強い。 よほどお腹が空いているんだ、母のお乳を求めているのだと不憫になる。 この子の親はどうしちゃったんだろうと、今更ながらに気になる。 育児放棄らしいとのこと、動物には動物の理由があるのだろうが、こんな幼い我が子を、何の理由で手放してしまったのだろう。 今ごろ探し求めているのだろうか、それともさっさと逃げ出したのだろうか。 |
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書庫は狭いから温室で! |
牛乳飲めるかな! |
今夜こそ母さん来るかな! |
薄過ぎるミルクと気づかず! |
元気なく薔薇の影で眠る |
この5倍以上の量が必要だったのだ! |
子鹿に訊いても、 此の子にだってわからないだろうし、 まして人間の私に わかろうはずもない。 今はこんなにも無防備で 無邪気に自分の命を託してくる、 この小さな命を 守ってあげなくちゃ いけないと奮い立つ。 |
ミルクのノズルを舌の上に うまく乗せてあげられると、 ぴたっと吸い付くようにしてごくごくと 上手に飲めることが分かった。 すると私もうれしくなる。 いい感じでごくんごくんと ミルクが子鹿の体に入っていく。 ちゃんと飲んで、 元気に大きくなるんだよ。 |
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気づかず再び薄いミルクを! |
これが最後のミルクになってしまった! |
子鹿が叫ぶ空腹の辛さ
夜は静かに更けていく。朧の月が柔らかな光を投げかける。風もひっそり隠れている。
森は木々の香りを放ち、命の豊かさを伝える。生きよ!生きよ!
天にあるもの、地にあるもの、全てのものたちが子鹿にエールを送っているに違いない。
月光も風も優しい子守唄を口ずさむように、静かな夜の帳で小さな命を包み込む。
何故か寝苦しい夜で、うつらうつらすると直に目が覚める、という繰り返しで夜明け前にやっと眠りが深くなった。
あの寝苦しさは、子鹿が叫ぶ空腹の辛さだったのかもしれないと気が付いたのはずっと後になってから、思い出すたびに辛くなる。
苦しくなる。悲しくてたまらなくなる。気づいてあげられなくてごめんなさい。
一つの命の火を消してしまったという自責の念に囚われて、守ってあげることができなかった悔しさでいっぱいになる。
耳元にみゃっみゅゃあ~と鳴くキキの声が蘇る。
そんな辛い夜を三晩過ごした後で、澄んだ青空に浮かぶ雲の中に、小さな子鹿が走っているのを、確かに見た。
キキは自由に走り回っているんだ。そこではお腹いっぱいに食べ、自由自在に遊んでいるんだね。
どうしたんだ! |
未だ心臓が動いている |
さあ、飲んでおくれ! |
犬ミルクに替えて3日目を迎えたがキキは、朝から元気なく昨日よりやせ衰えている。 この時、こりゃ変だぞと気づき真剣に原因を探るべきであったのだ。 やせ衰え元気無いのは当たり前。 実は出生時体重が600g以上の大型犬は生まれてから5日目までは、 粉末ミルク25g(スプーン5杯)を135ccの温湯に溶かし、8回に分けて飲ませなければならなかったのだ。 ましておやキキは出生時600gどころか3900g、大型犬の6倍以上の体重だったので、 25g×6=150g以上が必要だったのだ。 それをスプーン2杯10gしか与えなかったのだから痩せ衰えるのは当然。 キキは許されざる仙人のミスで栄養失調に陥り死んだのだ。
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今度は濃いミルクだよ! |
美しい4本の歯がキラリ! |
死直前、キキの眸に映った山荘森 |
確かに生きてはいるが 最早ミルクを吸い込む力は無く、 強力な死の磁力に絡み獲られ、 死への最短距離を 猛烈な速度で突き進む キキしか観えない。 抱きかかえ話しかける。 ≪ごめんよ、 とてもお腹が空いていたんだね。 けさ間違えに気づいたので、 5gでなく25gを溶かした 濃いミルクを作って来たよ。 これを飲めば 直ぐ元気になって又庭を走り回ったり、 森を散歩したり出来るよ。 さ、飲んでおくれ!≫ 大きな黒い瞳は 凪いだ湖の如く動きを見せず、 ただ静かに奥庭の木々と 梢に広がる空を映している。 |
キキの生き生きした姿を 捉えて来た紅いカメラのレンズが、 空の半分を覆い尽くし、 キキの最後の生命を看取る。 涙に濡れた黒く長い睫毛が、 森の大地から 幾つも幾つもそそり立ち、 太い幹となって森を支える。 黒い瞳の中で 上下が反転した森は、 キキの瞼を大地として、 天空に垂れ下がっている。 森から生まれたキキは、 いま森に還る 銀河鉄道に乗っているんだ! |
死の刹那、眸に映った山荘森 |
仙人の許されざる過失 犬ミルクの分量は当然ながら仔犬の体重によって異なる。 そこで仔鹿キキの体重を測ったら3.9kgだったので、ミルク缶や説明書に書かれた表を観て、 小型犬3~5kgの日令1~5日の欄より貼付スプーン1杯5gと決定。 これを60~70℃の温湯で溶き40℃に冷まして飲ませる。 実はその右欄に出生時体重とあって、小型犬の場合は僅か200g、 キキは 出生時3900gもあり1日でミルク5gは、余りにも少な過ぎる、明らかに間違いである。 小型犬3~5kgは表示が無いが成犬のことであり、 キキの場合は出生時体重3900gなので、超大型犬としてミルク量を算出せなばならなかったのだ。 |
仙人墓の前で墓標皿をキキに添える! 6月4日(木)晴 左の仙人墓標とキキ墓標が白く輝く! 6日目、夜が明けるといつも聴こえるキキ、キキと仙人を呼ぶキキの声が聴こえない。 それじゃこちらから挨拶に行こうかとミルクを持って温室を覗く。 ギョギョ、仰向けになったままベッドから長い首をだらりと下げ、大きな黒い瞳を開いたまま動かない。 ドアの簀子を開けるのももどかしく、温室に飛び込み抱き上げる。未だ暖かい。 心臓の脈動も伝わって来る。 奥庭の芝生に出し、キキの体重に見合ったスプーン5杯25gを溶かしたミルクを口に含ませる。 |
振り下ろす度に哀しみがこみ上げる! 6月4日(木)晴 書庫のある丘の上をキキの墓に! やがて全く停止し、耳を当ててもあの激しくドキドキ波打つ心臓の鼓動は、途絶えてしまった。 銀河鉄道の終点駅に着いたのだろう。そんならキキを大地に還さねば! 森から救いだし、母の迎えを期待して寝かせた森の書庫前に、お墓を作ってあげよう。 十字架を立ててもいいけど、それじゃキキには相応しくないな! と悩んでいたら先月焼き上げたばかりの仙人皿が、調理台から落下しガチャンと真っ二つに割れてしまった。 |
新緑の森に穴を掘る! |
ちょっと眠っていただけさ! |
奇蹟が起きて |
その瞬間、Hermitと絵付けされた 中央を斜めに分断された皿が、 ≪あたしをキキの 銀河鉄道の終点駅に建てて!≫ と叫んだ声が、 聴こえたような気がしたのだ。 そんなの無理だよと思いつつ 2つの破片をセメダインで繋げてみたら、 何だかキキの墓にぴったりだと直感! |
単管パイプに刻みを入れて 皿を嵌め込み、Hermitの上に ≪仔鹿キキ≫ 下段に ≪2020年 5月30日生~6月4日没≫と 黒文字で記したらどうだろう。 キキをベッドごと陶房書庫に運び上げ、 ≪さあ、何処がいい!≫と キキに語り掛ける。 |
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すっくと立ちあがり! |
そう云って立ち上がって! |
土に還って再び森を繁らせ鹿にお戻り! 6月4日(木)晴 お前が育てた草を食べて新たな鹿が生まれる! 墓の背景にログテラスがあって、その彼方に山々が広がる書庫段丘の東端がいいかな! 場所を決めて唐鍬で掘り出す。 振り下ろす度に哀しみがこみ上げ、涙がサングラスを曇らせ何も見えなくなる。 何を堪えているんだ。思い切り哭けばいいじゃないか! 僅か6日間の短い出逢いであったが、これ程の深い救いようのない哀しみで仙人を切り刻むキキとは、何であったのか! そう、キキはその哀しみに匹敵する生命の深い歓喜を、仙人に齎したと云うことなのだ。 |
眠っているだけ! |
ほら起き上がって! |
やっぱり駄目かい! |
穴の底にキキを横たえ、 少しずつ土を掛け 最後に顔だけを残し、 暫くキキを見詰める。 これでほんとうにお別れだキキ、 さようなら、豊かな 満ち足りた時間を 与えてくれてありがとう! 一滴も飲まれることのなかった 最後のミルクを カップに注ぎ供え、 花が無いと寂しいので 向日葵の苗を植える。 |
森が贈ってくれた妖精! |
森の中なので陽射しが遮られ、 太陽の大好きな向日葵が 花開くことは無いかもしれないが、 小さくてもいいから、 咲いてくれたら どんなに嬉しいことだろう。 キキの皿の墓標が、 太陽を反射し、墓穴に差し込む。 その光を吸い込むが如く キキは口をとがらせる。 ミルクをせがんでいるようで とても切なくなる。 許されざる過失に 仙人は これからずーっと苦しむのだ。 |
出逢えた幸運を感謝! |
森が手渡してくれた命! |
薔薇が咲いたよキキ! 6月9日(火)晴 お母さんも来てくれるかな! 墓の台座をグラインダーで削り、キキの墓標を取り付けていたら突如FMから流れて来た 小鳩くるみが歌う曲≪仔鹿のバンビ≫。 こじかのバンビは かわいいな お花がにおう、春の朝 森の小藪で生まれたと みみずくおじさん 言ってたよ キキと出逢った日から、ふと気づくと口ずさんでいた≪仔鹿のバンビ≫。 野良仕事を終えたり、トレーニングで山から帰って来た時、真っ先にキキの棲む温室を覗いて、ミルクを飲ませる。 授乳を通して流れる互いの生命が織りなす歓びは、絶たれた。 幼いころ口ずさんでいた≪仔鹿のバンビ≫は、もう哀しみしかもたらさないのだろうか! |
最後のミルクと向日葵 いや、じーっと見つめていたのは 薔薇の蕾だけでなく その下に落ち込んでいる急な石段も、 注意深く観ていたのだろう。 うーん、この花きっと綺麗に咲くのだろうけど、 痛そうな棘とげがあるわ。 それに大きな石が幾つも段になって ずーっと下まで落ち込んでいるし、 あたしの脚では降りられない。 そんなキキの声を聴いたような気がしたのは、 僅か3日前のこと。 ほらキキ、あの時の中庭の薔薇が咲いたよ。 黒曜石の様なキキの蹄に映えて、 薔薇の真紅が鮮やかだね。 そう、墓標台座はキキの蹄なんだ。 キキと一緒に観ていると想うだけで 哀しくて涙が止まらない。 あー、もう一度一緒に森を走れたら、 どんなにか、嬉しいことか! |
石段の薔薇アーチでキキ怯む 未だ咲いていない薔薇アーチまで トコトコ歩いてきたキキが、 ふと立ち止まって、 緑の小さな薔薇の蕾を、じーっと見つめる。 |
黒曜石の蹄を台座に! |
キキの瞳、力強い吸い口、黒曜石のように美しい蹄! 深い森の中で過ごすはずだったキキは、何かの弾みで山荘にやってきて、つかの間の時間を過ごした。 まるで奇跡のように、出逢いと別れのドラマを演じ、森よりもさらに自由な空へと還って行ったんだね。 絶対に逢えるはずのない子鹿との時間を過ごしたこと、 そんな奇跡の瞬間を与えてくれたキキ、きっと伝えてくれようとしたことがあるんだと思う。 忘れない、絶対に。キキの瞳、力強い吸い口、黒曜石のように美しい蹄、ふんわり短いしっぽ、 綺麗に描かれた鹿の子斑、キキという子鹿が生きていた証を決して忘れない。出逢えた幸運を感謝しよう。 つかの間の幸せを運んでくれた、森が贈ってくれた妖精だったような気がする。 森が手渡してくれた命の物語の意味をじっくり反芻しながら、一人の時間を過ごしてみようと思っている。 |
意識下の命名キキ すんなりと何の戸惑い,躊躇いもなく仔鹿をキキと命名したのだが、その意識下で為された決定の背景が急に浮かび上がった。 村上さんの協力で葡萄畑柵際の雑草取りを済ませ、 ポット栽培した胡瓜苗を移植し、更に西畑のゴーヤー畑の雑草取りをして移植準備を行い、仙人山へ出発。 頂で陶器の頂上標識に触れ、いつものように又来たよと声掛けし、 標識の裏側の製作年月日が2020年3月12日となっているのを確かめた。 この日が頂上標識の取付日なのだが、それは樹麗の誕生日でもある。更に隣のゆぴてる峰の≪ゆ≫は悠樹の≪ゆ≫で あることに気づき、この2つの樹麗と悠樹の樹がキとなりキキと意識下で命名されたのだ。 キキの母鹿はこの2つの山をテリトリーとして走り回りママンの誕生日・5月30日に、この山の森で仔鹿を産んだ。 それらが意識下に深く刻み込まれていたので、何の戸惑い、躊躇いもなく仙人はキキと命名したに違いないと気づいたのである。 |
死はいつだってお前の背後にいる!
この場で2日後にお前が死んでしまうなんて! 6月2日(火)晴 テラスを望む書庫段丘にて ママンへの書簡 「きょう、リリイが死んだ」 高校生であった悠樹はもしやカミュの「異邦人」に不可思議な感銘を受け、
自らの喪失の計り知れぬ深さをムルソーの、痛みさえ届かぬ哀しみに重ねたのかと一瞬思ってしまった。
「きょう、ママンが死んだ」 その悠樹の現実は直ぐそこに迫っている。
リリイとは比べ物にならない、哀しみに襲われる悠樹が葬儀の後、為す術も無く何事も無かったかのように、
喜劇映画を観、昔の女とセックスし、友人を襲うアラブ人を射殺し、
≪太陽が眩しかったから≫と殺人動機を語る異邦人になるなんてことは、決して無い。
にも拘らず悠樹の哀しみは、ムルソーの如く誰にも理解されぬまま深く沈潜し、 悠樹を根底から揺さぶり、悠樹を異邦人へといざなうかも知れない。
若しかすると悠樹より先に樹麗は既に、
母が存在してくれた永遠の過去を失い、異邦人になってしまったのかと、ふと思う。
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