1703ー2020年  睦月

ズーとはクオリアなり
硨磲貝の蒼き光に潜むクオリアを狩る

ズーとは「Zoophilie」ズーファイルの略で動物性愛者のこと。
獣姦「Bestiality」とは異なり、動物に対して感情的な愛着を持ち、ときに性的な欲望を抱く性愛のあり方を指す、とか。
精神医学的見地から性的倒錯とされるか、
同性愛と同じく性的指向とする性科学・心理学的見地から受け入れようとするかズーは現世の裁きに晒されている。

他者思考を避けて生きて来たつもりの仙人だが、性欲に目覚めてこの方、異性にしか性欲を感じなかったので、
同性への性的欲望は勿論、人間外の動物への性的欲求など想像すら出来ず、
他者思考そのものである世に従って動物性愛は、性的倒錯くらいにしか思っていなかった。

仕上げの平干し


同時に性器である。
1つの管は進化の過程で排泄器官と
生殖器官に分かれ
単孔類に決別を告げたと考えると、
アナルセックス欲望は
遠い過去の
遺伝子の為せる業と云えなくもない。
しかし考えてみると単孔類鴨嘴を
オーストラリアの地に訪ねた時に、
ズーへの視点は既に
開かれていたのではと気づいたのだ。

口から肛門まで1つの管で繋がれ、
哺乳類鴨嘴の肛門は
大小便の排泄器官であり

 
今年の出来はどうじゃ!



平干し前に良く揉む

あれっ、赤い大根だ!

平たく潰すと

つまりアナルセックスは
別に異常な性的倒錯なんかではないと
気づいたその延長線上に、
ズーの性的指向が浮上し
世の下す他者思考の裁きから
自由になれた筈だったのだ。


≪人間は動物との間に
設けて来た境界を隔てて、
「人」というカテゴリーを生きている。
人間と動物のセックスは、
その境界を攪乱する。

ズーたちが提起しているのは、
セックスとは何か
という問いだけでなく、
人間とはなにかという問いでもある≫
(第4章タブーの裏返し)


甘味が広がる

この後平干しにする



美しい波の潮汐に漂う仙人
 

濱野ちひろ(聖なるズー)ノンフィクション
自らの性的虐待体験告白から始まる「聖なるズー」
 
この章では男性が大型の4足動物にペニスを挿入する青銅器時代の岩絵(スウェーデンのポヒュレンス)
驢馬と思われる動物にペニスを挿入している鉄器時代の岩絵(イタリアのヴァル・カミニカ)が述べられ、
4万年前の先史時代に行われていた獣姦の歴史的異物を紹介している。


セックスを愛という楯で守らなければならないのは、なにもズーたちばかりではない。
言い訳をしないでいいセックスなど、夫婦間のセックスか、愛し合う恋人同士のセックスくらいしかない。
数え切れないほかのセックスは、いつだって言い訳を必要とする。
そして愛は、さまざまなセックスのうしろめたさを力強く覆い隠す。私が体験した暴力のなかのセックスですら、そうだ。
男はときに泣き、「愛してるからなんだ、許してくれ」と懺悔する。

(第6章 ロマンティックなズーたち)





犬たちが「子ども」であるからこそ、人々は無意識に
「ズーフィリア(動物性愛)」と「ペドフィリア(幼児性愛)」を重ね合わせてしまうのだろう。
一方、ズーたちの犬に対するまなざしは、一般的な「犬の子ども視」のちょうど逆だ。
彼らは成犬を「成熟した存在」として捉えている。彼らにとって、パートナーの犬が自分と同様に、
対等に成熟しているという最たる証拠は、犬に性欲があるということだろう。

  (第2章「ズーたちの日々」より)




山荘カロス・キューマにむ濱野ちひろ
(1月21日 居間からの残照富士とカロス)

濱野ちひろ(43歳1977年生まれ)
2000年早稲田大学第一回文学部卒 2028年京都大学大学院修士課程修了 現在同大学博士課程に在籍。
文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。 


著者は、インターネットを通じてZETA(ゼータ)という動物性愛者の団体に連絡をとり、
その4ヶ月後、はじめてドイツの地に降り立った。
そこで待っていたのは、ミヒャエルという名の大男だった。車の後部座席には、キャシーという犬(妻)が乗っている。

土地勘もなく、やがて携帯の電波も途絶えた。大男と二人(と一匹?)の密室である。
性暴力を受けた経験がある著者は、怖さのあまり、熱くもないのに汗が流れたそうだ。それが著者とズーとの出会いだった。
その後、20人以上のズーたちとの出会いがもたらした変化について、著者は次のように語っている。


目の前に次々に現れたズーたちは、
私をそのような偏狭な価値観の持ち主として落ち着かせておいてはくれなかった。
彼らは世界を覆う常識の膜に穴を穿つ。私の殻をこじ開け、揺さぶり、新しい世界を見せてくれた。

  (第6章「ロマンチックなズーたち」より)





ズーとはクオリアなり





光と風を奏でるカロスキューマのQualia
(wikipedia
のクオリアとカロスキューマ画像合成)

究極的にオルガスムスが皮膚の接触から齎されるなら、
その皮膚が肛門や指、唇であっても、更には他動物のものであっても可能であることは言うまでもない。
ズーたちは自らのオルガスムスを、人間の膣や陰茎、指などでなく他動物の皮膚に求めたのだ。
その行為の決断は相手との合意、つまり互いが相手に対して性欲を抱いているか否かによって行う。

その相手は他動物なので言語による性交意志の伝達は不可能。
相手の仕草、気配、性器の興奮度などで判断し行うなら、プリミティブな遥かな過去の生命の記憶と重なる。
その不毛な性交は、DNAが性器に仕込んだ陰謀をいみじくも暴く。
決して乗り越えられぬ時空の海を、恰も乗り越えられるかの如く、性交によって新たな生命を送り出すDNA。
ズーたちの性交は決して時空への旅を夢見ることは無いのだ。

プリミティブな遥かな過去の記憶によって決断される性交意志は、波によって伝わるのだろうか!
波動力学では≪物質というものは総て波としての性質を併せ持っている≫という。
光と風を捉えたカロス・キューマは、性交意志を音波や電磁波に変換し、
鼓膜や角膜を通し周波数スペクトルに変え、神経細胞を興奮させ波動する物質のクオリアを通してオルガスムスを導く。
ギリシャ語でカロスは美、キューマは波、カロス・キューマは美しい波。
山荘のカロス・キューマは光と風を孕んでは、深く果てしないオルガスムスを夜ごと奏でる。

妙なる音色の尽きる夜明け前に、蓄積された美しい波の潮汐に漂い、最後のオルガスムスに仙人は耳を傾ける。
形而下の皮膚接触が形而上のオルガスムスに止揚される須臾に、
もしや永劫の時空への旅が、走馬灯の如く仙人の心象風景を駆け巡るのであろうか!




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