小窓尾根・・・風雪の剣岳
  天候の隙をついて剣岳に立つ
                                                                記録: 坂原忠清


突然身体がすっと落ちる。

「しまった。雪庇を踏み抜いた」

わずかの落下ですぐ止まる。
後を振り返ると、中島も田村も手で顔をおおい、
吹き飛ばされないよう足をふんばり強風に耐え立ち止っているでは。

国内登山記録

Contents  
《A》 小窓尾根・・・風雪の剣岳 12月〜1月 1986年〜87年
《B》  鹿島槍北壁&東尾根・・・冬の鹿島槍集中 12月〜1月 1990年〜91年
《C》  最後の白馬主稜・・・ナンガ・パルバットに消えた中島修 3月  1990年 
《D》  奥穂南壁の奇跡・・・明神岳東稜 3月  1991年 
《E》  ナンガパルバット合宿・・・風雪の槍ケ岳北鎌尾根 3月  1989年 



Page1  初出:岳人478号

荒れた剣

「荒天の魔の山、明暗分けた決断・・・
剣岳一帯は29日夜から30日にかけて1mを越すどか雪に見舞われた。31日夕には雷を伴う大雨に変わり、年明けの2日には30m近い強風が吹き荒れた。
この悪天候のため入山した54パーティーで大半は引き返していた。・・・明と暗を分けたものは何だったのか。今も行方が知れない遭難者の行動を追った」
               (1月14日付朝日新聞)

1987年1月1日 剣岳小窓尾根ニードル下部2100m地点。チンネを目指していた先発の2名と合流し7名がテントに集結した。
 台風並に発達した二つ玉低気圧が北東に去り、次の低気圧が明日再びやってくるという微妙な気圧配置のもとで、厳冬期の剣の空が珍しく満天の星に飾られた。

この星空にだまされて前進すべきか、はたまた後退すべきか。昨日12月31日の低気圧による高高度での雨で全身ぐっしょりになり、更に昨夜は激しい雷鳴を伴った風雪にテント襲われ、その上明日は又低気圧が日本海にやってくるというのでは、誰だって後退の判断が妥当だと考える。

 実際、小窓尾根に入山している6パーティーのうち3パーティーがその日下山した。残るは我々と同地点に幕営している名古屋のパーティーと三の窓にいる法政大パーティーのみらしい。先発2名と下山したパーティーの情報から判断すると、この先本峰を越えるのに3日はかかりそうである。

 ニードル、ドームを超えて、マッチ箱手前のコルで1泊。マッチ箱、小窓の頭、小窓王を超えて三の窓に2泊。池谷ガリーを詰め、長次郎の頭を通り、剣本峰を越えて、早月の上部岩稜帯か伝蔵小屋まで3日かかるという。このまま前進すると上部稜線で低気圧とめでたくランデブーすることになる。

 先発のように早々と断念し下山すべきか、低気圧の去るまでじっくり停滞すべきか。たとえ停滞したとしても、低気圧の通過後即強い西高東低になり、一歩も前進出来ずに下山せざるを得ない可能性も大きい。だがもう一つ作戦がある。低気圧におそわれる前に、このニードルの下部から一気にピークに達し、安全圏まで下山することである。

 それには3日の行程を半日に短縮する必要がある。3日の行程は全装備を背負った場合である。ビバーク程度の軽装でザイルを結ばなければ不可能ではない。このスピードに耐えられそうもない岸と椎名は低気圧の襲来前に登れるところまでのぼり帰幕させることにし、田村、中島と供に3名で6時45分テントを出る。

風雪の頂上へ

 ニードルの小さなコルに下り、そこから一気に直上する。ニードル上部は右へのトラバースと頂点に出る2つのルートにフィックスザイルが張られている。トラバースルートを選びドームのコルへ下る。暗いうち出発した名古屋隊がドームの頂上に見える。あと1時間もすれば追いつけるであろう。八時ドーム上。降雪始まり風も出てくる。

 

 予想外に早い天候悪化に更にスピードを上げる。剣本峰はすでに見えず視界がぐんぐんせばまる。前方にいた名古屋隊がどこかにエスケープしたらしく姿を消し、マッチ箱のコル、三の窓にも空の雪洞があるのみで他のパーティーの人影も無し。低気圧の襲来で逸走く下山したようである。

 正月2日の剣小窓尾根から人が消えた。ラッセルトレイルも無く、迫りくる低気圧の荒い息吹のみが支配する稜線は、何とも無気味だ。ドーム、マッチ箱、小窓の頭、小窓王、いずれもザイルを結ばず速いピッチでとばしてきたが、三の窓から池谷ガリーへ下るところでアンザイレンする。

 下ってみるとアンザイレンの必要はなくザイルが邪魔になるが、しばらくコンテニアスで行動する。池谷ガリーの氷はとても堅くツァツケがわずかにささる程度である。風雪の中にかすかに人影が見える。一度姿を消した名古屋のパーティーが再び動き出し、我々のトレイルを追い始めたようである。

 しかしこの直後、名古屋隊は一人が滑落した。左眼を岩にぶつけ負傷した仲間を救助するため池谷ガリーを下っていったらしく、再び姿を見ることはなかった。当初何故突然姿を消したのか不思議に思っていたが、後日馬場島で名古屋隊と再会し、初めて滑落事故を知り納得した。

 池谷乗越に立つとすぐ前方に法政隊が見えた。追い越す直前に氷のブロックを落とされ、トップで登っていた私の頭が直撃された。一瞬失神しそうになる。

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 法政隊は朝8時三の窓を出発したという。三の窓から本峰まで4時間近くかかっていることになる。法政隊を追越し、11時43分頂上に立つ。ニードル下から正味5時間である。風雪がますます激しくなる。低気圧が接近しつつあり、一刻も早く安全地帯へ逃げる必要がある。

 このブリザードの中で長い小窓尾根のルートをニードル下のキャンプまで引き返すのは危険である。途中で低気圧につかまり稜線から吹き飛ばされる可能性がある。途中の雪洞ビヴァークも困難を強いられるだろう。唯一安全な方法は早月尾根を下り伝蔵へ逃げることである。ニードル下のテントは後日下から登り直し撤収すれば良い。

 横なぐりの雪の中で本日初めての行動食・りんごを丸かじりしながら、早月尾根下山を決定する。別山と早月尾根の分岐点を確認し早月尾根に入る。東大谷側からの風雪が一段と激しくなり目をあけていることができず、勘を頼りに前進する。

 突然身体がすっと落ちる。

「しまった。雪庇を踏み抜いた」

わずかの落下ですぐ止まる。後を振り返ると、中島も田村も手で顔をおおい、吹き飛ばされないよう足をふんばり強風に耐え立ち止っているでは。

「オーイ、小さな雪庇がある。気をつけろ」とどなる。声は風雪に引き千切られ、たぶん届かなかったであろう。カニのはさみの先で12時17分の定時交信の時間になる。風に飛ばされないよう岩かげで取り出したトランシーバーは凍りつき、交信が出来ない。

 送信時には針が動いているので送信だけは可能かもしれない。

「計画変更、早月下山」

を繰り返し伝える。後から我々のトレースを追って来た法政隊はこのあたりでルートをまちがえ、一人が東大谷側に滑落したが命に別状はなかったとのことであった。

 上部岩稜帯を越えるとチラホラ人影が見えだす。伝蔵から頂上を目指し、途中で断念して下山を始めたグループである。次々と追い抜き一時間半で伝蔵小屋に着く。ここまでくれば安心である。どうにか低気圧につかまらずにすんだようである。

     伝蔵小屋へ

 伝蔵小屋周辺は20張程のテントが張られ雪洞も5つ掘られ正月山行ののんびりした雰囲気が漂っている。さっそく雪洞を掘り始める。

 今合宿では田村が人間ブルトーザーの妙技を披露し、テントサイトの雪の整地や雪洞堀に役立てている。雪面に腹這いになり両腕を広げ、ブルトーザーのシャベル代わりにして一気に雪をかき出すのである。なかなか能率が良い。半分程掘れたところで酒を求めて小屋に顔を出す。

 日本酒1升5千円、缶ビール小5百円也。ついでに素泊まり料金を聞いたのがよくなかった。布団付き1泊3千円とのこと。シュラフ、羽毛服なしの雪洞ビバークよりはるかに天国に近いことは間違いない。雪洞を掘っていた二人の手が止まる。

 それから10分後には3人共小屋のストーブにあたりながらカンパイを繰り返していたのである。この夜標高2400m、1月の伝蔵小屋が大雨と風速30mを伴った低気圧に襲われた。

 低気圧襲来前の高速アタックは、時間的、体力的に充分な余裕を持って成功したのである。

高速アタック成功。ここまでは良かった。その後雪洞ビヴァークすれば完璧に素晴しい冬合宿だったのである。ところが、当同人ではかってやったことのない小屋泊りなんぞという軟弱スタイルをとったため非常に不愉快な体験をすることになったのである。

 日本酒1升とビール、ウイスキーを買い、ストーブの回りでのんびりと3人で飲み始めた。小屋には富山県警の職員4人とG県山岳会所属のいくつかの山岳会のメンバーが10名程いた。小屋には1983年富山隊のナンガパルバット遠征のディアミール壁の写真がかけてあった。

 あの時我々もナンガに入っており、初登ルートのラキオト側で悪戦苦闘していたのである。結局失敗したのだが、ナンガ再挑戦の計画は着々とすすめられ、本年度はこのディアミール壁に入ることになった。

 写真を見ながら半年後に迫ったナンガ計画について話したり、昨年のブータン遠征について、今回のラッシュアタックについて、小声で話しながら酒を楽しんでいた。私の隣に富山県警のリーダーのT氏がいたので、二人で富山県の山岳条例について話を始めた。

 今回の冬の剣合宿は小窓尾根、剣尾根、早月尾根の3本のルートからの集中登山を考えていた。条例では池谷への立ち入りは「入らぬことが望ましい」となっているが、かつてUクラブが許可されたことがあるとのことなので、剣尾根も交渉しだいで登れると考えたのである。



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 結果はだめであった。剣尾根を下って剣尾根を登った場合のみ許可できるが池谷へ入ることはならない。従って三の窓から池谷左俣を下って剣尾根を登るのも許可できないとのことであった。いたしかたなく剣尾根を断念しチンネに変更したのだが、それにしてもUクラブはどうして可能だったのか、丁度良いチャンスだったのでT氏に聞いてみた。

   富山県登山条例への疑問

 「かって雲表クラブが勧告を無視して池谷へ入ったことがあり、富山県警は雲表クラブに警告をしていた。その後雲表クラブの一部がUクラブとして池谷入域を申請してきた。当然県警としては入域を見合わせるようにと勧告したが、条例では望ましいとなっており、正式に禁止とすることはできない。Uクラブは勧告を無視して池谷へ入ったということで、決して富山県が入域を認めたということではない」とのことであった。

 その話をきっかけにして県条例のあり方、条例の見直し等について更に話をすすめた。

 「遭難が多いので登山を禁止するという発想は根本的にまちがっているのではないか。

 アルピニズムは本来、危険、困難を積極的に求め乗り越えようとする激しい生命活動の上に成立している。困難な課題はアルピニストの自由意志によって選ばれ、解決への実行に移される。結果の総てー成功、失敗、死等はもちろんアルピニストに属する。 困難な状況下での救出や遺体の搬出をアルピニストは原則的に望んではいない。

 

 自由意志によってあえて困難を選び結果の総てを甘受するところにアルピニズムの本質はある。冬の剣はアルピニズムの世界であり、アルピニストの自由意志を最初に優先すべきではないか。

 行政が介入し権力的に禁止するのは政治的にも精神的にもあまりにも貧困すぎる。事故が起きたら禁止する。これじゃ何も生まれてこない。禁止すれば確かに事故はなくなるだろう。行政側はポイントゲッターになるだろう。

 しかしそのために失われる貴重な精神的所産について考えたことがあるのだろうか。未来に視点を置き、考え、行動する人間は『安易な禁止』をカンフル剤として一時的に使用する効果は認めても解決の方法としては選ばない。

 御存知のようにヨーロッパアルプスではどんな事故が起きようが決して禁止はしない。救助態勢をととのえ、山岳保険加入を呼びかけ、ヘリコプターをどんどん飛ばす。遭難者は誰にも遠慮せず救助要請ができる。

 そこで初めて困難を求めるアルピニストの行動は、人間の限りない可能性を提示し続けることが出来る。禁止するのではなく、新たな視点から県条例を見直すことはできないものか」

 というようなことを、酒をぐいぐいのみながらしゃべった記憶がある。山岳警備隊のリーダーT氏は、私のすすめる酒を口にせず真面目に答えてくれた。

 「私個人の意見ですが、確かに県条例を作った頃と状況はずい分変わり見直しの時期にきていると思う。登山者の技術向上、装備、情報の豊かさを考えると、昔とは格段の違いがある。

 しかしこの条例を作らざるを得なかった背景と、山岳警備隊の現状が登山者に充分理解されていないのも事実である。

 禁止条例を作った富山県ほど登山者に対して親身になった考え、行動している県は他にない、ということを御存知でしょうか。現にこうやって冬の北アルプスの山小屋まで県警の職員を4人も配置し、登山口の馬場島では更に多くの職員が詰めていて、事故に備えている。

 一度遭難が起これば警備隊はテントをかついで時尾現場に救出に行くわけです。登るのも遭難するのも登山者の自由だ、ではすまされない部分があるわけです。だからと言ってこのままでも良いとは思っていません。

 私も山が好きですから、条例に対しては前向きの考えを持っていますが、まず日山協あたりが動き出すべきでしょう。2年に1度条例の検討研究が行われているのだから、その場で救助のシステム、山岳保険のあり方を研究し、条例の不要を提唱するべきだと思いますね」

 更に話は続き、入山パーティーのリストから情報のつかめていない2、3のパーティーの名があがり、手がかりを求められる。中でも小窓周辺で途絶えた水戸父子3人パーティーの安否が問題になった。

 小窓尾根上部からは目と鼻の先に小窓が見えたが、人影は全く無かった。交信が途絶えて3日経っている。もし救助隊を出すなら今のうちだろうと私は予感したが、勧告による長い予備日が気になった。

 


行 動 概 要
日付 天 候 行動時間
行           動
 朝  昼   夜 発  着 先発隊2名 (SL松井、山口)  本隊5名 (CL坂原、中島、田村、岸、椎名)
12月27          東京→馬場島 ー補足ー 
12月31日と1月2日に2つ玉低気圧が通過し大雨。
白萩川増水で下半身水に浸かり徒渉。
その後衣服が凍りつき大変であった。
28(日)  雪 7:00→15:00 馬場島→小窓尾根1614m地点幕営
29日(月) 時々 雪  8:00→15:00 1614m地点→ニードル下2121m地点幕営
30日(火) 曇  8:00→14:30 ニードル下2121m地点→マッチ箱コル幕営 東京→馬場島
31日(水) 吹雪
曇(下)
吹雪
雨(下)
吹雪
 
7:40→13:30 停滞 馬場島→小窓尾根1614m地点幕営
1月日(木) 雨風 吹雪 晴  先12:00→15:30
本07:40→13:00
マッチ箱コル→ニードル下2121m地点(本隊と合流) 1614m地点→ニードル下2121m地点幕営(先発隊と合流)
日(金)  曇  吹雪  大雨  先09:00→15:00
本06:45→14:45
 
ニードル下2121m地点→馬場島  A隊 坂原 中島 田村
 2121m地点→剣岳→伝蔵小屋
B隊 岸 椎名
 2121m地点→ドーム→2121m地点 
日(土)  雨  雨  雪  7:30→14:30     伝蔵小屋→馬場j島→白萩川
(白萩川増水で徒渉出来ず) 
 2121m点→1614m点(2回荷下し) 
(日)  曇  雪  雪  5:50→15:30    馬場島→小窓尾根1500m地点でB隊と合流→上市   1614m地点→A隊と合流→馬場島 
日(月)  高曇          上市→東京  馬場島→東京 


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 無駄な捜査を避け、登山者自身の自力脱出の可能性を残すため、条例の勧告では予備日を充分とるようクレームがつく。我々の計画も、

 「4日の予備では少ない。7日以上とるように」

 とのクレームがついた。我々は4日の予備日の範囲で不可能と判断したら、即撤退するつもりで計画を立てているのであり、新たに3日分の予備日を加えずに入山した。

    水戸隊の安否

 捜索隊出動の決定は、この長い予備日が尽きて初めて下されるのである。確かに捜索隊の無駄を避けるためには合理的ではあるが、予備日が長すぎるため、その間に捜索の手がかりや、場合によっては遭難者の命を失ってしまう。予備日の設定はやはり登山者自身に委ねるべきであろう。

 水戸パーティーの予備日を含めた下山予定は1月5日である。あと3日間はこのまま放っておくことになる。この3日間は致命的である。雪洞に避難しているような場合は問題ないが、その可能性は、極く小さいと考えられる。

 昨夕から未明まで、冬の剣には珍しく星空が広がり、今朝も8時頃まではかなり視界が効いた。もし雪洞にエスケープしているのなら、このチャンスを逃がすはずがない。かならず何等かのコンタクトを試みるはずである。一番元気な者が見通しの良い所にでて稜線を登る隊に意思表示をするはずである。しかし小窓付近には全く人影はなかった。

雪崩か滑落か。彼らは重大な危険に直面している可能性が強い。

 

 もしそうであるなら、残り5日までの予備日は生のための3日間ではなく死のための3日間になるであろう。

 

特に赤谷山のデポが発見できず、富山大隊に食料や燃料を分けてもらっている状況を考えるなら、最速残り3日の予備日の意味は無い。

 水戸隊は予備日を生き続けるための食料や燃料はないのである。もちろんあらゆる推察を超えて明日ひょっこり安全地帯に現れる可能性もある。その場合、多くの危険を冒しての救助隊の徒労は非常に大きく、早すぎた救助活動が非難される場合も生じる。やはり5日まで待つのが最善なのであろうか。

 帰京後「水戸さん救援会」より私のところへ数回連絡があり、「調査の結果12月30日の夕刻、小窓で水戸隊が交信しているのを確認した」

 とのことであった。その夜我隊の2名は小窓に近い小窓尾根のマッチ箱のコルに幕営していた。翌31日は低気圧が通過し、標高1600mまで雨の中を登った。

 この日水戸隊は三の窓へ向かって行動し、滑落か、雪崩にやられたのであろうと私は推測した。となると3日後の1月2日の時点でも救助活動は遅すぎて意味をなさなかったのかも知れないが、予備日消化後よりは当然救助の可能性は高い。だがしかし、今となってはそれは結果論でしかない。

 あの時私が予感した救助の必要性は県警のT氏も長い経験で感じていたことであろうし、同時に情報不足で救助隊出動の決定が下せなかったことも確かである。

 だが事実として予備日のつきる5日まで待ち、更に2日程様子を見なければ救助隊はだせなかったのである。4日の午後、小窓尾根の荷下ろしを終えて馬場島の県警に顔を出した時は、我々が最後の下山パーティーであったが、その時も水戸隊の情報は途絶えたままであった。

 T氏との会話は有意義であった。酒は飲まないというので甘納豆をすすめ、酒と甘納豆での議論がしばらく続いた。山岳警備隊の組織の方法、活動の内容について話し、その合間に小屋の外の学習院大のつぶれたテントを撤収したり、我々の小窓隊との交信をするため警備隊のアンテナを借りたり、強まりつつある風と雨を気にしつつも山小屋の楽しい一時をすごしていた。

    ある遭難

 ストーブを囲んで一緒に飲んでいたG県の山岳会のメンバーが酔った勢いからか、からみ出したのはこの頃であった。
おれはG県のHだ。一緒に飲もう」と言い出した男が、「剣の総てのルートを登ってから条例に文句をつけろ」と鸚鵡のように繰り返し始めたのである。

 若手の田村が「総てのルートを登ってからという発想をする限り条例の検討はできないのではないか」と述べると、今度は田村の年をきき、「お前はまだ25才の若造だ。何がわかる。お前はどこを登ったと言うんだ。何、インドのヌン峰、あんなの山のうちに入らない」とこれ又繰り返しどなりつける。


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 日山協の役員をやっているらしいが自分を登山界のエリートと決めているのかも知れない。そのうちG県メンバーの若手が、
俺は教師だが、教師はでたらめで良いかげんで良い」とほえだす。真面目な教師を見ると腹が立つのだそうだ。

 自分の職業にプライドも使命感も持てぬやつはさっさとやめれば良いのだ。やがて、「冬の剣はエベレストの南壁よりきびしい」なんぞとすごい暴言が飛び出す。

 冬の剣が厳しいのは荒天が続き。それを衝いて登るからであってヒマラヤの荒天には手も足もでないのである。会話は全く成立せず、一方的に彼等ががなりたてる。酒が強く飲む程に元気になる中島は、なぜか居眠りをしている。後で聞いたら、被害が自分に及ぶのを避けるために眠ったふりをしていたそうだ。

 「馬鹿は相手にしないに限る」とのこと、流石、中島は飲みなれている。いずれにしても彼らの主張の真意が理解出来なかったので適当にあしらっておいたが、これで一気に不愉快な雰囲気になったことは言うまでもない。

 どこの世界にも酒に飲まれてしまい、醜態を晒す救いようにない酔っ払いはいる。気にしなければ良いのだがこの時ばかりは、小屋に入らずあのまま雪洞に入って飲んでいれば天国だったのになーとしみじみ後悔したのである。

私が条例に反対したのは、アルピニストはどんな状況下でも常に冷静に考え、ある程度までは理性的な判断ができるという前提条件があるからであった。
 
 しかし、どうもそうではないらしい。目の前の反理性的な酔っぱらいを見ていると、条例によってきちんと規制され、マナーを指示されないと登れないエセアルピニストも、冬の剣には徘徊しているようだ。

 技術のみならず精神的にも未熟な登山者が冬の剣におしかけてくる限り、やはり条例は必要なのであろう。私の条例に対する判断は甘かったのである。

 台風並みに発達した低気圧に二度襲われながらも、わずかなチャンスをねらいアタックし、楽しい気分で合宿を終えようとしているゴール直前、ここで酔っぱらいのからみに遭遇したのは、やはりルートファインディングのミスと言わざるを得ないであろう。

 雪洞を捨て、小屋を選んだ私の判断は間違っていたようだ。リーダーとしてしみじみ反省したのである。同人諸君気をつけよう。アクシデントは山小屋にもあるようだ。


坂原忠清様 ・・《岩と雪》編集長

前略、 先日は剣の玉稿お送り下さりありがとうございました。
G県といえばヒマラヤでも日山協でも一寸”顔”ですが、さもありなんと思わせる空気が、連中にはたしかにありますね。
H氏が何者か私は直接知りませんが「8000mでなければ山じゃない」的おごりの下にO、fix乱用登山を平気でつづけているのですから
国内登山への考え方も押して知るべし。
大体自県の山に条例をのさばらせているんですから、まともな登山者同士の話にはなかなかなりません。

ところでこれは次回122号(5/1発売)に掲載させていただきますが、カット用として数点写真ありませんか?
風雪中のものでもなんでもけこうです。冬の山の空気が出ていれば。
3/20ごろまでに5〜6点お送り下さいませんか。
ついでにもうひとつおねがいがあります。そろそろ例の「山岳年鑑」にかかっておりますが、昨年Bhutanへ行った他隊の記録がほとんど見つかりません。
外国隊がどの山へ何隊ぐらい行ったか、あるいは結果など、御存知のことがありましたら御教示下さい。
先ずはお願いまで。今後ともよろしく。    草々
P,S ことしの日山協(八王子)はなぜかG県勢が少なくいいフンイキでした。蛇足ながら・・・
1987・3・10  池田常道

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