鹿島槍北壁&東尾根
冬の鹿島集中登山・・・
吹雪の酒盛り
                                                                記録 坂原忠清


予期した通りトモは、重いザックを背負ったまま固定ザイルにぶら下がっては落ちを繰り返している。

7回落ちたところで一まず断念し、栗田、日下部を上げる。
35s以上の荷を背負って栗田は、1回スリップしたのみでスイスイ登って来る。
さすがナンガ・パルバットのシェールルートで鍛えられただけのことはある。


国内登山記録

Contents  
《A》 小窓尾根・・・風雪の剣岳 12月〜1月 1986年〜87年
《B》  鹿島槍北壁&東尾根・・・冬の鹿島槍集中 12月〜1月 1990年〜91年
《C》  最後の白馬主稜・・・ナンガ・パルバットに消えた中島修 3月  1990年 
《D》  奥穂南壁の奇跡・・・明神岳東稜 3月  1991年 
《E》  ナンガパルバット合宿・・・風雪の槍ケ岳北鎌尾根 3月  1989年 

                          



Page1 初出:Nabga Parbat 南西稜1990

 

(1)日本教員登山隊発足

 
 1つの遠征の終わりが、新たなる出発を意味することは確かである。私達に残された困難な課題、ナンガ3ルート集中短期速攻登山は再び新たなスタートを切った。

 まず第一段階として遠征隊を編成する為、全国規模の「日本教員登山隊」を結成し、隊員を募集する。第二段階として冬の北アルプスで国内合宿を繰り返し、更にポベーダ(7439m)、冬のアコンカグア(6960m)

ガッシャブルム(8035m)で高所トレーニングを行う。

 第三段階でナンガ・パルバットの初登ルード、ヘルマンブルーの北東稜を短期速攻で登る。それは我々の1983年の雪辱を果たすと同時に、3ルート総てで我々の登頂を実現することになる。

 この3つの段階を経て、チームワークのとれた強力な隊を3つ編成し、第4段階でナンガ3ルート集中短期速攻を実施する。既に第一段階の「日本教員登山隊」の組織化には着手し、新人隊員を加えた冬の北アルプスでの国内合宿がスタートした。


  「日本教員登山隊」第1回目の合宿は、1990年12月から1991年1月にかけての鹿島槍集中登山である。東尾根・天狗尾根を登り、鹿島槍北壁を登攀し終わった。新人8名中4名が合宿に参加し、4名のうち中山秀樹が北壁登攀に成功した。

 ミネソタの野外学校OBSで1年修業してきた藤森知晴は30kgの重荷での登攀に敗れた。
3人目の登攀力、体力抜群の岩本義廣は自ら名乗り出て、登攀に敗れた藤森をサポートし下山した。

 4人目の田口真一は2日目のラッセルでギブアップし、共同装備を持ったまま勝手に下ってしまい我々の前から消えた。

以下は新人隊員4人の人間的側面を中心に描いた「「日本教員登山隊」第1回の合宿のレポートである

(2)女はブスに限る

 大町温泉郷の常宿にビール15本、酒2升、大量のウイスキーと刺身等を運び込み、12月28日午後3時、9人が集合した。奈良と埼玉の2名が急遽不参加となったが、富山の1名は遅れて夜参加することになり、他の9名が愛知、三重、東京、横浜、川崎から集まった。

 初めて顔を合わせる者もいるので飲みながら、1人1人の長い自己紹介を行う。ヒマラヤへの夢、登山哲学、登山歴、家族構成等を語り他の隊員の質問に答えるという形で会話が進む。

 北壁隊に加わる中山、36歳が『女はブスに限る』と吠え出した。ヒマラヤ登山をマスターベーションに終らせてはいけない。積極的な生命の燃焼であるヒマラヤ登山を、もっと社会に還元せねばならないという高尚な話をしている最中にである。

 
 今までの我隊の隊員は誰でもが美しく厳しいヒマラヤを愛し、したがって女性への想いも美しく、夫々が内なる美女を描いていたのである。
そこへ突然提出された余りにも大胆な逆の命題を前に、各隊員は一瞬沈黙しシーンとなった。

「俺の女房はブスなんですよ。その上出戻りときている。だから最高の女なんですよ。

 

 何てたって美女は3日で飽きるが、ブスは3日で慣れますからね。その上長期間山に入っても何の心配もいらないから、外国の山も行けるわけですよ。今までカナダの山やアンデスに3回行って、ロブソンやアシニボイン、ワスラカンを登ってますが、ブス女房はやさしくて最高ですよ

 女房はね、赤いザイルで吊り上げたんですよ。若い女性会員を岩登りに連れてって、俺の赤いザイルに繁がっていたのが今のブス女房なんですよ。子供も2人できちゃいましてね。今地元の山岳会でリーダーやってるんですが、この会にいては、いつまでたっても鹿島槍北壁なんか登れないんですよ。

 日本教員登山隊結成はクライミングジャーナルで知って応募したんですよ。愛知と東京じゃ遠すぎるけど女房がブスだから、全然心配いらないんですよ。女はブスに限りますね」

 最後の方は支離滅裂で何のことか良くわからないだが、何ともすさまじい勢いで女性への差別語ブスを連発するのである。これには他の隊員も圧倒され、何も反論出来ず唯感心するのみ。しかし私は中山の心理的背景を即読み取った。

 彼がヒマラヤを求めて当会に入会した動機が、一目瞭然なのである。毎年世界の高峰に登り続ける当会に入会すれば、彼の日常の願望は達成されるのだ。その日常の願望とは、ブスと日常を共にすることにより、美しいヒマラヤへの想いを一層鮮明にし、一番美しいイマージュを手に入れることである。

 


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 彼にとってはブスと一緒にいる限り、ヒマラヤは永遠に色褪せず美しいのだ。なんともひどい男である。しかしここまでヒマラヤの美しさに惚れ込む男は唯者ではない。

 
 飲む程に語り、語る程に飲み彼のブス論は最高調に達した。その時である。宿の女子従業員が

「あのー、中山さんて方いらっしゃいますか、奥さんからお電話ですけど」

 と階下から呼びにきたのである。酔っ払っている中山の顔が、とたんにデレーとなり、いそいそと階段を下りて行ったのである。

 
 こりゃ本物だ。今夜会えない淋しさに、お休みの電話ベーゼか熱い抱擁を求めて、電話をかけてきたに違いない。

 こりゃまいった。明日から雪崩の頻発する北壁で生と死の闘いが開始されるというのに、何ちゅうこっちゃ。

 
 もしかするとブスは本当に、とことん優しくて愛情深くて、一番良いのかも知れないなんぞという気持が、他の隊員にも湧いてきたのか、誰もが階下の電話に耳を傾けたのである。
確かに良く考えてみると、ブスか美人かは顔の形やスタイル、つまり肉の付き方の違いでしかない。

 
 正しく皮相的な問題に過ぎず、そんなことに思い悩むようじゃ人間として未熟なのだ。
人間にとって最も大切な部分が精神であることを知りつつ、肉と皮の付き具合に心を奪われる者に、命を賭けた登攀なんて出来ないのかも知れない。

 
より困難な登攀を求めてヒマラヤの高峰に挑む精神は、生命の本質に限りなく迫まろうとする知の願望である。

 

 空間を超え、時を超え、流れ続ける内なる生命を追う者の視点は、肉体の彼方にあるのだ。中山がブスを主張するのは、ブスの肉体を超えて、ブスの浄化された精神を観ることが出来るからなのか。

 ブスであるという自覚がブスの精神の浄化作用を促すことが、しばしばある。その貴重なブスの精神を彼は知っているのか。それとも単に美的センスが狂っているだけなのか。誰だってブスより美人の方が良いに決まっている。にもかかわらずブスを主張する彼は、さしあたり『ブスの救世主』たらんとしているのか。

 
 彼の女房がどれ程のブスなのか、今度愛知県の彼の家へ、ブス観賞ツアーを組まねばなるまいと考えたのだが、もしかすると絶世の美女である可能性も僅かにある。
自分の女房の美しさを観てもらいたくてブスを連発し、初対面の我々を謀略に陥れようとしているペテン師かも知れない。

 
 となると彼は権謀術数で、ヒマラヤの困難な登攀に対しても考え抜いたペテン作戦を展開し、他の隊員を誑かすに違いない。
こうなったら、いずれにしても是非ブス観賞ツアーを実現し、真偽を確かめなくてはならない。彼はブスの救世主なのか、それとも単なるペテン師なのか。こうして午後2時から延々と8時間に渡って飲み続けた冬合宿の第1日目は、困難な課題に始まりブス論で終ったのである。

 (3)永遠の敗北か

 12月29日 曇後風雪

 林道の分岐点で集合写真を撮り、天狗隊の3名と分かれ我々6名は東尾根の取り付きに向かう。

 急な山腹の樹林に幾つかのマークと破れたオーバーシューズが付けてある。この急な山腹の上に東尾根に通ずる小尾根があるとは考えられない。マークなしでこの入り口を見つけるのは難しい。予想した通りラッセルトルートはない。最初から胸を衝くラッセルを覚悟せねばならない。

 8時30分、新人隊員の岩本をトップにラッセルを開始する。各自30kg以上のザックを背負っての急登ラッセルで、10分も進まぬうちに全身から汗が吹き出す。遅々として進まぬ為、トップのザックを置いて交代でラッセルする。途端にグーンとスピードアップする。

 ラッセルで一番疲れるのは深く沈みこんだ足を抜く時である。足を抜くには支点が必要になるが、ピッケルでは短か過ぎて支点にならない。この時長さの調節できる2本のストックを使うと抜群の威力を発揮する。斜度、積雪量に合わせ腕の力が、直接ストックにかかる長さに調節した2本のストックは確実な支点となり、3分の1以下の力で足を抜くことが出来る。

 特に腰まで沈み込むラッセルでは、ワカンとは較べものにならない。ところがこのストックのラッセル効果が、日本ではほとんど理解されていない。冬山と言えば旧態依然として、不便で使われることのないワカンを後生大事に、ザックに括り付けて持って来る。一番苦しい急斜面のラッセルではワカンは使い物にならないし、雪が深くなると雪の中から足を抜くのに一層の力が要求され、疲れること夥しい。

 


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 更に疲れてくるとワカンを一方のワカンで踏みつけてしまい、疲労に拍車をかける。したがって多くの登山者は、ワカンをザックに付けたまま家に持って帰ることが、殆である。

今回は新人隊員にもストックを持たせ、ラッセルさせたが、異口同音にラッセル効果の素晴しさを口にした。

 我々の隊は日本の冬山でも、ヒマラヤでも常に深いラッセルを覚悟し行動してきたが、この影には常にストックのラッセル効果があったのである。普通1時間程で主尾根に出るのだが、ラッセルで遅れ2時間半を要し主尾根に立つ。眼下に大川沢、正面に天狗尾根が見える。

 ここで左に直角に折れ更にラッセルを続ける。小降りだった雪が本格的に降り出す。心配していた田口が遅れ出す。「毎日6kmは走ってトレーニングしているので、今度こそ大丈夫です」と言っていたが、前回の合宿と同じである。ラッセルトレールの後を追ってくるだけで遅れるとは、どうゆうトレーニングをしているのか。

 この調子では3月の白馬主稜の時と同じように、再びリタイヤーせざるを得ないであろう。2時17分の定時交信で天狗尾根隊は、1900m地点に幕営を終え、ビールとウイスキーで酒盛りの真最中だという。ラッセルトレールがあり、楽々と幕営地に達してしまったという。

 こちらは反対に今日の幕営予定地である一の沢の頭までは、とても行けそうにない。

 雪は腰に及び急斜面では胸までの深さになり、藤森は3番手でありながら、しばしば立往生してしまう。午後3時半、我々のトレールを追って4人のパーティーが上がってきた。しめたこれでラッセルを交代してもらえるぞと喜んだのも束の間、彼等は100m程ラッセルするとやめてしまった。

 いた仕方なく再びラッセルを開始し台地に出る。何とか森林限界まで出たかったが時刻は4時、遅れている田口があと何時間かかるかも気懸りだし、ここを幕営地に決定する。標高1750m。森林限界まであと僅かであるがこの先、一の沢の頭まで細い雪稜となり、テントサイトは無い。雪を踏み固め大型テントを張り、刺身で酒盛りを始める。

 12月30日 曇時々晴 マイナス10度

 口では「何とか頑張ります」

 と言うものの明らかに精神的に敗北している。身長183cm、24歳、隊の中での一番の大男なのだが、日々のトレーニングがいいかげんなのだ。

 途中で勝手に帰られては共同装備の再分配が出来ないので、ここで帰るか、登るか決断を迫るが、「ビバークをしても着いていきます」と言う。それまでに言うなら仕方無い、ゆっくりでも良いからトレールを追って来るよう言い残し、一の沢の頭へ続く雪稜に登って下を見ると、何と田口は下り初めているではないか。ザイルや食料はどうなるのか。 コールをかける度、田口は立ち止まるが結局帰ってしまった。何と無責任な男。

 だが田口にとっては自分の人生の中で、最大限の努力をし昨日、今日と自分と闘い続けてきたのであろう。殆ど冬山の経験はないし、一から教えてやらねばならぬのだが三重県と東京では、それも儘ならぬ。

 せめて基礎体力だけは付けておけと厳命しておいたのだが、残念である。これで彼のヒマラヤへの夢は消え、永遠の敗北に支配されたまま、残りの長い人生を無為に過ごすのであろう。

 一の沢の頭は360度の展望である。目前に東尾根の荒々しい6つの隆起が迫る。右上空に荒沢の頭、左に第二岩峰上部のスノードーム、その中間に第一岩峰上部の鋭利な雪稜が波打つ。ぐっと高度を落として、峻険な第一岩峰の手前に稲妻形の雪稜を乗せたドームが続き、更にその手前に台形の雪稜と丸い二の沢の頭が連なる。

 特に第一岩峰上部の鋭利な雪稜は素晴しく美しい。第二岩峰の上から、雲海に浮ぶこの鋭利な雪稜を初めて見下ろした時、私の胸は高鳴った。どうしても、その光景はヒマラヤのものであった。鋭い雪稜が波打ち、3つの白い鋸歯を天空に浮ばせている光景は、恐ろしい程の美しさであった。

 鹿島槍北壁の登攀を終え、疲労困憊した肉体で、これからそこを通過せねばならぬという不安を遙かに超えた感動に私は襲われた。
私にとってそれは正しくヒマラヤ、未だ見ぬヒマラヤ以外の何物でもなかった。


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 牛が寝転がっているような天狗尾根とは、較べ物にならなかった。 もう20年も昔の話である。あれから随分、冬の北アルプスを登ったがあれ程ヒマラヤに迫る光景にめぐり会ったことはない。今年で16回目になる世界高峰登山の私の出発点がここにあるのだ。

 20年前の追想に浸りながら数枚の写真を撮り、先行するラッセル隊を追いかける。先程、第一岩峰まで登り登頂を断念した3人パーティーが下りてきたので、ラッセルが少しは楽になると思ったが、ブリザードですぐに掻き消され元の木阿弥。

 ラッセル隊に追い着くと、新人隊員の藤森知晴、22歳が腰と尻を出して雪と格闘している。

 「オーイ知(トモ)。けつが出ているぞ。オーバーズボンを上 げろよ」

 「ハーイ。でもこの上までもう少し頑張ってみます」

 雪まみれになってラッセルを切るのが嬉しいらしく、まるで犬のようだ。植村直己や船津圭三が学んだミネソタの野外学校OBSで1年間トレーニングし、一週間前に帰ってきたばかりの藤森は、私の教え子である。

 帰国直前には、犬ぞりレースに出る船津圭三と一緒に犬の世話をしていたと話していたが、まさか本人が北極犬と同じように、尻むき出しのままラッセルするとは、呆れたもんである。

 藤森は中学時代、剣道部の部長であったが部員数名を引き連れ、私の所に何度か交渉に来た。

「先生、山岳部を作って合宿に連れてって下さい。お願いします」

 

 

 当時は毎年の遠征準備と処理に追われ、どうやり繰りしても時間を生み出すことが出来ず、月に1回山に連れて行くのが精一杯であった。結局、藤森の願いを実現してやることは出来なかったのである。

 藤森の前で黙々とラッセルを続ける栗田陽介、25歳も私の教え子である。陽介は昨年のナンガ・パルバットで最終キャンプまで入り、第一アタッカーに選ばれるだけの実力を示している。この2人がザイルを組んで、8000m峰の山頂に立つのもそう遠い日ではないであろう。

(4)    危しK2登頂者

 二の沢の頭で横浜蝸牛の2名とベルニナの5名が追いつく。

 「坂原さんですか、都岳連の海登研でお世話になりました。 今村です」

 何と我々が昨日から30kgの荷を担ぎ、苦労してラッセルした後を、スイスイと一日でここまで登ってきたと言う。蝸牛とベルニナにトップを譲り、ラッセルから解放され、のんびりと第一岩峰に向かう。ベルニナは第一岩峰の50m下に幕営し、蝸牛の2名は岩峰を超えた。

 我々は第一岩峰直下の雪を削り、幕営することにした。本当は岩峰を超えたいのだが、この上にキャンプサイトを求めることは出来ないのだ。6年前の1984年12月21日に柴笛の6人が第一岩峰の上で雪崩にやられ、行方不明になっている。第一岩峰から第二岩峰、荒沢の頭、北峰まで急な細い雪稜が続き、雪洞は掘れるが、大型テントの幕営は不可能である。

 僅かに第二岩峰の基部のみ、4人用のテント一張りが可能なくらいである。

 

 

 風は強いが移動高がやって来た為天気は安定している。もっと登り続けたいが本日は3時半で行動打ち切り。

 8人用の大型テントに入り、酒盛りの準備をしているとベルニナの今村、春木の2名が下のキャンプから上がってきて、第一岩峰にザイルを固定し始めた。

 時々雪のブロックがテントを直撃する。雪が降ると第一岩峰のルンゼはすぐ雪崩が発生する。しかし大半はルンゼに添って荒沢へ落ち、フェースを落下しテントを直撃する確率は、うんと低いはずである。

「さては今村裕隆め、我々のテントを狙っているな」

 こうなったら唯で帰すわけにはいかない。今日は私の持ってきたプレジデントから飲むことにし今、栓を抜いたばかりである。

 家の冷蔵庫から凍結して持ってきた刺身も丁度解凍して食べ頃になっている。酢ダコも切り終わり、イクラと数の子も皿に盛り付けた。あとは今村裕隆をテントに引きずりこむだけである。雪塊が割ったプレジデントでまずカンパイ。クイーと冷たく激しい刺激が五臓六腑に染み渡る。
今村は語る。
 

「え。山で刺身ですか。初めてですよ。タコも数の子あるんですか。うちの会は山行中はアルコール禁止だし、今夜の飯もα米と豚汁ですよ。ズビダーニエ同人はさすがですね」

 「ズビダーニエじゃないったら。濁るなよスビダーニエだぞ」

 この頃には、もうかなり出来上がっており、目がトロンとしてきて夢見るジェニーになってきた。我々と同じピッチでウイスキーを飲むと、どういう結果になるか今村は全然わかっていない。

 



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 第二ラウンドでラム肉を2sジュージュー焼いて食いながら、大いに飲む。

 「K2登頂者、今村裕隆31歳もいよいよ今日が命日だな。右の三の沢が良いか、それとも左の荒沢が良いか、死に場所はどっちが良い」

 「ちょっと待って下さいよ。そんなに簡単に殺さないで下さいよ。来年はシッキム側からのカンチェンジュンガもあるし、まだ死ねませんよ。

 そうだカンチの隊長を務める尾形さんも今日あたり東尾根を登って来るはずですよ」

 「そりゃヤバイな。2年前の冬の穂高集中の後、新穂高温泉の露天風呂の中で、酒と偽って温泉の湯を飲ませたことがあったからな。覚えているだろうな彼は」

 だんだん今村の口調が怪しくなる。

「あーそういえば渡辺優も我々が酒を飲ませ、その後で雪上車に轢かれて死んじゃったんだ」

 酔ったふりをしているのかなと思っていたが、良く見るとコップのウイスキーが口元にうまく収まらず、ボタボタこぼれている。

 こりゃヤバイ、いくら50m下のテントとは言え、雪庇の張り出した雪稜である。千鳥足で歩いたら本当に落っこちて死んでしまうかも知れない。もう帰らせることにした。ところが時、既に遅し。テントを一歩出るや否やストーンと腰が抜け、立ち上がったかと思うと、雪庇の上によろよろと歩き出すではないか。

 「オーイ、トモ、サポートしてやれ」

 「駄目です。僕も酔っぱらってます。ミネソタでは1年間、アルコール飲みませんでしたから」

 「何タルザマ。陽介、お前は大丈夫だろ。下のテントまで送っていってやれ」

 栗田陽介に支えられ、どうにかベルニナのテントに着いたK2登頂者は身体ごとテントに激突。その上アイゼンはいたままテントに入り、皆から怒鳴られる。

 ジョークなぞ言った事のない寡黙な陽介は、今村を渡す時こう言ったそうだ。

 「どうも今村さん高山病にかかったらしいですよ」

 いくら山行中禁酒のベルニナであっても、高山病に羅った今村では馘には出来まい。

(5)    トモの執念

 12月31日 晴 マイナス13度

 絶好の北壁日和。天狗の鼻に戻る我が北壁隊は未明にテントを出て、北壁に取り付いたようだ。下のベルニナ隊は我々が先に岩峰に取り付くのを待ってくれている。1時間近くも待っていてくれたが、我々がなかなか出発しないので、ついに登ってきた。

 「ゆうべはどうも」

 「オーまだ生きていたの」

 1990年最後の日の会話は、これで始まったのである。ベルニナの登りっぷりを、のんびり見学しながらギャラリーで待つ。若手の山口が固定ザイルを登れず2度、3度落ちる。

 冬の岩壁初体験の我が隊のトモ(藤森)が不安そうに見つめる。この時既にトモは墜落する自分を予想していたのかも知れない。どう見ても山口のザックは20sそこそこである。

 その山口が荷に喘いで落ちているのだ。我々の荷は30kgを超えている。OBSで犬ぞりの犬を相手にしてたんじゃこの重いザックで、冬の岩壁はとても登れないと悟ったのだろう。そんなトモの心境には誰も気付かず、ギャラリーから無責任なヤジを飛ばす。

 「オ、又落ちるかな。うん、今度はスタンスに身体が乗ってるぞ。進歩あり」

 「それ、もう少し。あ、又落ちた」

てな具合である。固定ザイルを張ってこの調子なのだからザイルを撤去したら一段と難しくなることは確かである。

ベルニナが固定ザイルを撤去したら、再び張り直さねば、30kgの荷で岩壁下部のフェースを登るのは困難である。

 ローツェの登頂者、春木がベルニナのラストを務め、安定したフォームでのぼり出すが、1m登った所で、やはり落ちる。その彼が好意的に申し出てくれる。 「我々のザイルは回収しますので、坂原さんのザイルくれれば固定してあげますよ」 一旦は頼もうと思ったが、それでは登る楽しみがなくなってしまう。私がトップでザイルを張ることにして断り、ベルニナの後を追う。

 確か最初のフェース3mばかりはホールドが細かく、ザックを背負っていると苦しい。その上以前から残されている6ミリの細い固定ザイルは、プルジックが全然効かないとくる。ベルニナが昨日、空身で登りザイルを固定した理由はこのフェースにあったのだ。私もベルニナの真似をしてザックを置き、空身で一気にフェースを登り、ザックを吊り上げてから右のルンゼに入る。

 



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岩峰基部から20m上部の岳樺の枝に支点を取り、そのまま雪のルンゼ上端まで登る。ザイルが一杯になったこところで左の灌木にザイルを固定し、ザックを吊り上げ固定する。

 空身になってアップザイレンで再び岩峰中段まで下る。予期した通りトモは、重いザックを背負ったまま固定ザイルにぶら下がっては落ちを繰り返している。7回落ちたところで一まず断念し、栗田、日下部を上げる。35s以上の荷を背負って栗田は、1回スリップしたのみでスイスイ登って来る。さすがナンガ・パルバットのシュールルートで鍛えられただけのことはある。

さて再びトモの番である。ラストの岩本の適確なアドバイスにもかかわらず、更に5回落下する。

 「トモ、もう諦めて下れ」と言うと

 「もう一度やらせて下さい」と答える。
 トモの眼が未熟な自分への怒りと絶望でギラギラしてくる。すごい執念だ。『俺のOBSでの1年間のトレーニングは何だったんだ。3月からは正式採用のインストラクターとして、OBSに勤務するというのに何たる様だ』


 と歯ぎしりしつつ自問している顔が、私のすぐ近くまで迫っては墜落する。

 「よし、ザックを置いて空身で登って来い。後からザックを吊り上げろ」

最後の手段である。空身のトモは殆スリップすること無く、フェースを登って来る。フェースの上部でザックの吊り上げを指示するが、今度はこれが出来ない。

 

 ザックが重過ぎて吊り上げられないのだ。

30kg以上のザックは、ほんの少し岩角につっかかるだけでピクとも動かなくなる。ラストの岩本がザックを目一杯に持ち上げ、手を離すとザックは動きを止めてしまう。万策尽きた。この先の更に難かしい第二岩峰のクライミングを考えると、トモには登攀続行は無理だ。

 「ここからの下りは雪稜だけだから安全だ。1人で下れ」

と指示するが、トモは断念しない。

 「今度こそザックを担いで登ります」

 一旦、岩壁基部まで下り、ザックを背負いチャレンジを開始する。そして落ち続ける。私もついに見兼ねて岩壁基部まで戻り、トモのザックを背負い登り出す。

 アイゼンで最初の細いスタンスに乗ったとき、アイゼンの前歯、2本のツァッケに30kgの荷と70sの体重をかけて、バランスを保つのはトモには不可能と判断した。有無を言わせず1人で下山することをトモに命じ、再び私はフェースを登り上部に出る。

 しかし岩峰から雪稜を見下ろした途端、私の心臓は止まりそうになった。強風に煽られ右に左によろけるトモが、雪庇の上に倒れ込もうとしているではないか。彼は第一岩峰のフェースでの闘いに、体力と気力の総てを使い果たし、既に下山する余力は無いのだ。それを見て岩本は自主的に申し出た。

「私がサポートして一緒に下ります」

(6)    北壁をスイスイ

 岩本義廣、36歳。大学の山岳部でリーダーをやり、長いキャリアと確かな技術を持つ新人隊員である。

 

 つづら岩でロッククライミングの練習中に私に声をかけてきて、即入会を決意するという決断力の持ち主でもある彼の話しを聞くと、同年齢の中山とは異りどうも美人の女房がいたらしい。

  女房はイタリア語をやっていて、イタリアの仕事を選びつい2,3ヶ月前に離婚し彼を捨てて、さっさとイタリアへ行ってしまったとのこと。岩本自身もここ3年エジプトで暮らしていたので、2人はそれまでもイタリアとエジプトで切ない逢い引きを重ねることしか出来ず、恋人のような関係にあったようだ。

 なかなかのハンサムで、その甘いマスクが女房を語る時の表情は、今でもその女を恋してることを明瞭に物語っている。

 「きっと良い女だったんだな」

 と問いかけたら、否定せず、ニヤッと笑った。美人かどうか確かめるには、イタリアへブスではなくシャン観賞ツアーを組んで見に行かねばならぬが、愛知県と異り、これは簡単に実現しそうもない。

 しかし、まず美人であることは間違いないであろうと推察した次第である。
考えてみると当会には美男子が多い。故中川雅邦は貴公子そのものであったし、栗田陽介はフランス人のようなマスクをしているし、やや年とったが松井公治もハンサムの誉れが高い。

 田口大作、戸高雅史は野生的で男らしい顔をしている。これに甘いマスクの岩本が加わると「日本教員登山隊」ではなく「美男教員登山隊」と名称を改めなくてはならない。ま、しかし例外も居るから改名する必要はないか。

 



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 トモは岩本にガードされ雪稜を下って行った。当初7人の東尾根隊は、これでたったの3人になってしまった合宿前夜仕事の都合で尾谷寛一が不参加。合宿2日目に田口がギブアップし下山。そして今、第一岩峰でトモがリタイヤーし岩本がサポート。計4人が消えた。

 それでも荷の再調整せず前進することが出来るのは、30kg以上という重装備のおかげである。だが今夜から8人用テントに3人で寝ることになる。何たる贅沢。3人になってから快調に飛ばす。コンテニアスで雪のルンゼを抜けると、私のヒマラヤの原風景となったこよなく美しい雪稜に出る。

 右の荒沢側に雪庇が大きく張り出す。優しくカーブした雪の先端が何の前触れもなく、プツンと虚空に消える。ゾクッとする堪らない魅力である。左側は急峻な雪壁となり、鋭い角度で北俣本谷に落ちている。僅かなミスも許さず、何の妥協もしない広大な白い急斜面

ルートは雪庇を避け、雪稜の2m左にとる。時々突風が鋭利な雪稜に立つ3人を襲う。1人がバランスを崩し飛ばされたら、ザイルに繋がれた3人は誰も止める術無く、死出の滑落を始める。だからこそ、この瞬間はかくも美しいのであろう。

 雪稜を超えると真下に小さなコルと、第二岩峰が立ちはだかる。コルにはテントが一張りある。ベルニナの5人は第二岩峰のチムニーを抜けたところである。東尾根の核心部、第二岩峰はコルから20m緩やかな岩稜が続き、そこから左側へチムニーが直上している。

 チムニーは深く、大きなザックはすぐひっかかる。チムニーを5m登ると、チェックストーン状のオーバーハングがあり、身体は完全に宙に浮く。これを抜けると第二岩峰の雪稜に出る。

 雪稜を200m程進むと雪稜は右に折れ、そこから400mで荒沢の頭に達する。ここで天狗尾根と合流し北壁側に雪庇の張り出した雪稜を500m程登ると北壁の肩に出る。この間の雪稜は鹿島槍北壁P1、P2、P3リッジや蝶型左稜の登攀終了点てある。

 北壁の肩から更に鋭くなった雪稜を200m辿り、小さな雪庇を抜けると北峰山頂に達する。私がトップに立ち、第二岩峰の緩やかな岩稜を登り出すと、右上の荒沢の頭下から会のコールがかかる。

「トー・オ」

北壁隊の松井、成田、中山の3人である。近いのでトランシーバー無しでも、どうにか会話が出来る。北壁は良く雪が締まり、ラッセルに苦しめられず、ベストコンディションであった。蝶型左稜を20ピッチ、4時間で登ってしまった。

 余りに早くて登った気がしないとのことである。昨年の豪雪の天狗尾根から考えると、信じなれない好条件である。最近、暮れから正月にかけての北壁の記録を見ないが、久々にトレースしたことになるのかも知れない。

 明日は私が北壁主稜に入るつもりでいたが、今夜から低気圧がやって来るのと東尾根隊が3人に減ってしまったので、装備が足りず無理である。『チャンスは逃げる。山は逃げる』

 

 常日頃、私が口にする警告であるが、次回私が冬の北壁を登るチャンスを掴む日は、いつになるのだろう。余程、意を堅くしないと46歳の私には、もうそのチャンスはないであろう。もう一度登っておきたい冬のルートは、まだたくさんあるのだ。

  (7)  何が足りないんだ

 チムニー手前で日下部、栗田の2名を上げ、ジッヘルを託しチムニーに入る。左に3m移動すると、岩角に懸垂下降用のシュリンゲが懸けてある。ここから、幅1m、深さ2m、長さ10m程のチムニーが直上する。

  チムニーの中央上部がチェックストーン状のオーバーハングになっており、ハングにはハーケンが数本打たれシュリンゲが懸けられている。吊り上げで一気に超えるが荷の重さで、身体が後に引かれ空中で思わず喘いでしまう。

  こりゃ大変だ。35sの荷を背負った栗田は、余程強くザイルを引いてやらんと登れないと思っていたら、何と日下部の後をコンテニアスで、スイスイと登って来るではないか。 日下部はハングで唸り声を上げ、必死の形相で登って来るというのに、栗田はザイルを弛ませたままコンテでスイスイである。

 改めて今夏のナンガ・パルバット、シェルルートが、いかに彼を鍛えたか実感したのである。もちろんトモが居たら、今夜は確実にこのチムニーでビヴァークになったであろう。4 行動食を持った2名が下山してしまったので、非常食のコンデンスミルクを赤ん坊のようにチュウチュウ吸いながら、荒沢の頭を超える。

 



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 ブリザードでトレールは掻き消され、再びラッセルが始まる。北峰で立ち遅れている。2名を待つが、いつまでたっても来ないので、テントサイトを探す為、吊尾根に下る。北峰の斜面がバリバリに凍りつき、アイゼンの爪が僅かしか食い込まず緊張のクライムダウンとなる。

 昨年は風雪の中を前向きのまま、スタコラ下ったのに何と言う違い。これだからこそ鹿島槍北壁はラッセルも少なく、快適なダブルアックスで登れたのであろう。低気圧がぐんぐん接近してきたため風が強くなる。

 8人用の大型テントを稜線上に張るわけにはいかない。まず吹き飛ばされてしまうこと真違いない。
吊尾根を一段下り雪庇状の壁を風よけにして、その南側をピッケルで削りテントサイトにすることにした。

 ザックを置き遅れている2人を北峰まで迎えに行く。待てど暮らせど姿が見えない。疲労困憊している上に行動食無しでは、スピードアップも儘ならないのであろう。10年ぶりに現役にカンバックした日下部の42歳の肉体には、余りにも過酷な試練なのだ。

 心優しい陽介は根気よく日下部のスピードにつき合っているのであろう。
3時50分、北峰に陽介が姿を見せる。氷壁部分の最短コースを示し、ゆっくり確実に下るよう指示して暫く見守る。

 氷壁を半分トラバースしたところで2人の安全を確認し、急いでテントサイトに戻り、ピッケルで雪壁を削り始める。スコップがあれば、テントサイトは簡単に出来るのだが、スコップはトモと共に既に山を下ってしまった。

 今夜は大晦日、今年最後の夜、快適なテントサイトを作ろう。夕刻4時17分の定時交信で、トモ、岩本が無事、東尾根を下ったこと、北壁隊の3人も天狗の鼻に戻った事を知る。低気圧の襲来と東尾根隊の解体から、再度の北壁アタックと五竜への縦走を断念し、明日赤岩尾根下山を決定する。

 1990年12月31日、広いテントの中で、たった3人だけの今年最後の酒盛りが始まる。まずイクラを出し、クラゲを塩抜きし、海草を水に戻してサラダを作る。タコ、数の子、刺身を切って新しい紙皿にきれいに乗せる。

 赤と白の2本の蒲鉾を切りワサビ醤油を作る。ピーナツ、サラミ、ハムも皿に盛る。
ウイスキーはたっぷりある。フォエーブスはごうごうと唸り、コッフェルの中の雪を融かし、水割りもオンザロックもできるよう氷を浮かせている。

 ガスランプは明るく輝き、本の読める豊かな光でテントを満たしている。総て準備は整った。さあ始めよう。いつものように風と雪の殴り付ける吹雪の稜線での酒盛りだ。まてよ。まだ何か足りない。何だろう。あとは『カンパイ』と言って、グラスを一気に空けるだけではないか。

 行動食もとらず12時間も行動した空っぽの肉体に、ウイスキーがキューと染みて、ハミングを始めるのだ。

 さあグラスをとれ。

 だが確かに何かが足りない。

何なんだ。クソーこの欠落感は何処から来ているんだ。

一段と逞しくなった栗田陽介の顔を見る。何故か10年ぶりにカンバックした日下部栄太の顔を見る。そして視線をその横の空間に移した時、突然足りないものが解った。哀しみが一気に胸を突き抜け、涙が視界を暈す。

  2人に悟られまいと一瞬横を向き、必死に哀しみを堪えた。声にならぬ声が胸を震わせた。 中島修が居ないんだ。いつも必ず一緒に居た私の長年のザイルパートナー、中島修が居ないんだ。4ヶ月前8月18日ナンガ・パルバットの頂上直下で、あいつは死んでしまったのだ。

 吹雪のテントの中で、いつも一緒に酒盛りをしてきた中島修は、もう居ないんだ。為す術も無く、急に襲われた哀しみにうろたえる。よし今夜はナンガに眠るあいつと飲もう。

   
  中島修、カンパイだ!

 こうして私達と中島に残された困難な課題ナンガ3ルート集中、短期速攻登山に向けて、日本教員登山隊の第一歩が、再び始まったのである。




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