仙人日記
 
 その113の4B2015年  卯月

4月4B週・・・雪庇を超えて奥大日岳との永劫の別れ

奥大日岳のモルゲンロート
4月26日(日)快晴 仙人をちょっと拡大して・・・ヒュッテの窓から



ナンガ・パルバット峰
(8125m)からK2峰(8611m)

恐怖の序曲

何とも巨大な雪庇である。
キンスホッファー氷原の氷床が重力によって引き千切られ、空中に迫り出し、落下直前の
カタストロフィーを剥き出しにして、雪の庇を形成しているのだ。
急峻なキンスホッファー氷原に、幕営可能な僅かな平坦部を求めるとしたら、
この巨大雪庇の上しかない。
このカタストロフィ-の上が、我々の選んだC3(キャンプ3)である。



奥大日岳頂稜の大きく張り出した雪庇


3回目のC3詣でにもかかわらず
3人ともかなり、ばてている。
アタックの為の個人装備が加わったので、
昨日より荷が重いのと、
連日の行動で疲労が蓄積している為であろう。


6年前にも同じ雪庇上にテントを設営し
登頂に成功したが、その事実が
カタストロフィーの危険性を
、些かも否定するものでないことは確かなのだ。
C3への2回の荷上げを終えて8月9日、
私・坂原と北村、望月の3名で、
巨大雪庇上のC3に初めて泊まる。

北村俊之隊員:国際山岳ガイド(8000m峰6座登頂)
望月泰彦隊員:K2に無酸素登頂、エベレスト7700m
       のテント内で急死47歳(2007年)

雪の庇は延々と稜線に連なる 

  コースタイム
 
 3日間で約1200枚の撮影を行った。
撮影をしながらの行動なので実働時間はもっと短い。
 
    実施日:4月24日(金) 晴 
山荘発  6時30分 東山梨発6:56 
 大町→室堂 10:30→13:10 
室堂ターミナル 13時30分発    
一ノ越 14:30着     
雄山頂上  15:20着   15:50発 
室堂ターミナル  16:50着   17:10発 
 雷鳥ヒュッテ 17:50着    
村上着 19:07着 
登高時間・計  4時間20分
(村上5時間37分)    
21790歩 15km253m
665
Kcal
 4月25日(土) 快晴 
ヒュッテ 7:30発      
別山乗越 9:30着     10:30発 
別山 11:30着    
真砂岳 12:30着   
富士折立 13:30着 
大汝山  13:50着  
雄山  14:00着  14:30発
ヒュッテ  16:00着  
村上着 19:00着 
行動時間・計  6時間30分
 (村上9時間30分)   
23363歩 16km354m
566
Kcal  
 4月26日(日) 晴 
ヒュッテ 7:10発      
中部雪庇撮影 8:00~      
奥大日岳 10:00着 10:30発     
上部雪庇撮影 10:50~  
ヒュッテ  12:20着   14:00発
室堂 15:00着   
信濃大町 17:35着 16:02発
松本  19:35発 甲府21:36発 
 東山梨 21:53着 
行動時間・計  7時間50分    
3日間総計  18時間40分    
21582歩 15km107m
658
Kcal
3日間総計 
6万6735歩 46km714m
1889
Kcal

 



まるでヒマラヤじゃ! 

興奮するぜ! 
 
K2遠征の再現か! 
当たり前だが
日本にはヒマラヤは無い。
ヒマラヤに近い雰囲気を求めて
冬の鹿島槍北壁、
凍てつく槍穂高の岩場に通った。
残念ながら厳しさは有っても
そこにヒマラヤはなかった。

日本には氷河が無いので
クレバスは生じない。
しかしこの残雪期の
奥大日岳の崩壊雪庇は極めて
クレバスに似ている。
つまり此処にはヒマラヤが在るのだ。 
 
蘇る初登頂の記憶 
  此処に来るとベースキャンプから
氷河へのルート工作が
まざまざと蘇る。
エベレストやK2等、登山隊が
集中する山では
氷河のルート工作は先行隊が行う。
後続隊は金を払い、のこのこ
後を着いていけばいいのである。

だが我々のように
主にヒマラヤの未踏峰を狙う
登山隊にとって
氷河のルート工作は避けられない。
 
下降もヤバいぜ!  

この頂稜はヒマラヤそのもの  

クレバス落下もあり! 


運命の瞬間、カタストロフィー

午後3時、ヨレヨレになってテントに入り、雪を融かし1時間水を作り続け、早々と夕食をすませる。
カタストロフィーの上でとる食事は、潜在的な精神的スパイスが加味され、
如何なる高級レストランでも調理しえぬ摩訶不思議な味がする。
意識の奥でカタストロフィーが、巨大雪庇の崩壊の瞬間が、今や遅しと待っているのだ。

食後のお茶を飲んだ後、更に水分補給するため黄粉(きなこ)餅を摘みながら、アップルティーを飲み始めた時である。
異様な衝撃がスローモーションとなって、雪庇を震わせ、テントを揺さぶり我々の肉体を駆け抜けていった。
8月9日17時46分であった。
運命の瞬間、カタストロフィーがやってきたのだ。これで総てが終わる。



覆いかぶさる氷塊
4月26日(日)快晴 撮影:村上映子



「地震だ!」 北村が叫ぶ

私が敢えてカタストロフィーの上をテント場に選んだのは、テントの張れる緩やかな斜面が、
雪庇上しかないという理由からだけではない。
雪庇がカタストロフィーを孕んでいることは確かだが、同時にその雪庇が構造的にかなり安定していることを、
本能的に感知していたからである。
宙に張り出している限り、いつか重力の呼び声に引かれ雪庇は落下する。
その瞬間を正確に判断することは、私の能力を超えている。

だが少なくともその瞬間が今でないこと、たぶん未だ10日以上はやって来ないことの判断は私にも出来る。
今この瞬間に巨大雪庇が突然崩壊することは、有り得ない筈なのだ。
ならばこの揺れ、カタストロフィーを齎す揺れの正体は何なのだ。
スロモーションの衝撃は、2度3度繰り返される。
「地震だ!」 北村が叫ぶ。やばい、雪庇が崩壊する。雪崩が発生する。これで総てが終わるのだ。





下降するぜ!

先ず雪庇を砕いて!

危うい氷稜を通過

危険な氷河にザイルを固定し
数日後に上部キャンプから戻ると
既に氷河は崩壊し
固定ザイルは消え去り、
困難な下降を強いられる。

崩壊氷河は氷塊が積み重なり
無数の落とし穴を
形成しているので、
ルート工作中の落下は日常茶飯事。
それらの恐ろしくも
懐かしい記憶をこの奥大日岳の
崩壊雪庇は引き出してくれる。


氷棚のトラバース

雪の剣岳には登山規制があるが
この奥大日岳の崩壊雪庇登攀には
今の処、規制は無い。
それはこんな危険区域を登る
阿呆は居ないからである。

しかし思考の硬直した
役人や登山協会の肩書きだけの
指導者と称する連中が、
この崩壊雪庇への立ち入りを
知ったらどうなるのか?

 
最後は氷壁を一気に下る

15年前にこの雪庇崩壊で2名が死亡し1億6700万円の支払を地裁から
命じられているだけに禁止令が出るのは想像に難くない。
そうなる前にさっさと撤退するに限る。さあ、これで永劫の別れじゃ!

00年3月5日、文部省(現文部科学省)登山研修所が主催する大学山岳部リーダーを対象にした冬山研修会中に、大日岳山頂付近の雪庇(せっぴ)が崩落。
その上で休憩していた11人が巻き込まれ、東京都立大2年内藤三恭司(さくじ)さん(当時22)=横浜市=と神戸大2年溝上国秀さん(同20)=兵庫県尼崎市=が死亡した。
地裁は06年、「登山ルートおよび休憩場所の選定判断には過失があった」などとして国に約1億6700万円の損害賠償の支払いを命じたため



メスナールートで雪崩れてます

「北村、外に出ろ、雪崩が襲って来ないか見て観ろ」
「右のメスナールートで2か所、雪崩れてます」 「このテントは大丈夫か?」
「たぶん雪崩は逸れると思います」
何と云う不幸だ。初めて雪庇上の高所キャンプに入った日に、よりによって地震の洗礼を受けるなんて!
堅い氷床から成るこの巨大雪庇が、この地震に耐えうるか崩壊するか、そこまでは私も考えてはいなかった。



雪庇を超えて奥大日岳との永劫の別れ
4月26日(日)快晴 撮影:村上映子




無限に長い一瞬の恐怖

雪崩の不気味な鈍い音が、スロモーションの衝撃に重なり、重低音の恐怖のシンフォニーを奏でる。
無限に長い一瞬の恐怖を与えて、カタストロフィーは去った。
我々は助かったのだ。たぶん『神の微笑み』によって。
4度目のナンガ・パルバット峰への挑戦に対して、神は恐怖の序曲を奏しつつも我々に微笑んでくれた。
神の微笑みは山巓まで我々を加護し、祝福のシンフォニーを奏でてくれるのだろうか。それとも・・・
こうして高所キャンプでの第一日目は、恐怖の序曲で幕を開けたのである。

(1993~94年の報告書・坂原隊長の記録より抜粋)


 雪庇を背景にハイ、パチリ!
4月26日(日)快晴 奥大日岳山頂

実は雪庇を登攀するより、登攀者を撮影する方が遥かに緊張し、時には危険で酷く疲れるのである。
あらゆるアングルでの撮影を自ら試み、時には登攀者から無謀な指示を受け
唯ひたすらに登攀者の影を追う村上。
恐らくメタメタに疲労困憊した村上は、頂を目前にして登頂を断念したのであろう。
≪ごめん、村上さん!≫



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