仙人日記
 
 その106の12014年長月
9月1週・・・と対極を成す、もう1つの真実

Thompson テストはOKだが・・・
穂高ジャンダルム・天狗沢上部雪渓にて

脚の 腓腹筋を手で抓むと筋が上に押し上げられる。
筋はアキレス腱を引き、踵骨から足指の先に力を伝え足指を下に曲げる。
この底屈と呼ばれる現象が生じれば、アキレス腱は
断裂 してはいないと診断できる。
X線では写らないアキレス腱断裂が、このトンプソンテストで簡単に解るのだ。

恐る恐る左脚の(こむら)を押してみる。
うん、確かに足指は底屈している。左脚アキレス腱は完全に切れている訳ではないらしい。
慢性疲労によって劣化しているパラテノンの薄膜が損傷し、アキレス腱周囲炎を起こし
アキレス腱そのものも慢性疲労によりアキレス腱炎を生じているのだろうが、
底屈の動きは決して悪くは無い。

現状ではジャンダルムの岩場くらいなら登れるだろうが、問題はその後のダメージが
致命的になるか、修復可能程度で収まるかの予測がつかない事。
さてその一か月後・・・


鬱にみ込まれカオスに還る仙人
鬼灯を象嵌したチベット珍獣チルーと真紅の梅擬 山荘居間

さて・・・その結果は?

ヒマラヤ遠征を始めてから、数十年間も繰り返されてきたアキレス腱との闘い。
まー云ってみればアキレス腱の痛みとは、絶交したくても出来ない憎むべき親友みたいなもん。
こいつがアキレス腱のオーバーユースに対して
警告を発し、時には強制的に使用停止を命じていなければ、仙人の脚は
疾うの昔に使いもんにならなくなっていたのだ。

従って穂高ジャンダルムで酷使した左アキレス腱の痛みに、いちゃもん付けるつもりはないが、
あれからもう1か月以上も経っているんだぜ!
その間、絶対安静と云う訳にいかず、朝の筋トレ、ストレッチは欠かせないし
まー様子を観てはちょっとだけ朝トレしたり
畑仕事したりと、こちとらとしては随分、しおらしくアキレス腱の御機嫌伺いをしていたんだぞ。

≪そのちょっとだけが駄目なんだ!≫
そう云うと思っていたよ。だけど今回、今までで一番おとなしくして安静に努めたのは
何よりもアキレス腱自身が解っているだろう?
それなのに、この仕打ちはないぜ!


破損個所は窯の下

観えない火口
鬱の補修を試みる
鬱窯復活なるか!

そりゃ解っている。
アキレス腱は肉体に張り巡らされた
腱の中で
最も強い腱であるが、腱に
酸素や養分を送る
血管が少ない。

損傷部を修復するのは
動脈血であり
血管が少なければ当然
修復は遅くなる。

修復の期間中に
アキレス腱を使えば
どうなるかは幼児にだって解る。
だが解らない人が居る。
それが
誰であるかは言うまでもない。

そこまでは解っているのさ!
でも1か月以上経って
未だ山に登れないなんて
ちょっと酷過ぎ。


手探りで補修

粘着グラスファイバーで固定


白銀のクルスをす仙人草
仙人草と夏水仙 山荘居間

≪この白銀に輝く天下無双のクルスが見えぬか!≫
待ってました、仙人草!
そいつでもって鬱の闇を切り裂いて、もっと猛々しく(うそぶ)いておくれ!

仙人草の檄が少しは功を奏したのでしょうか、仙人はその夜の日記に、
弱弱しく、こう記したのでした。

鬱とはもう友達になって、和気あいあいとやっていくしかないと決めた。
勿論、決めたからと云って何かが変わるわけではないが、鬱と云う反物質があって
初めて存在が可能になると告げる理性に、逆らわんことにした。
距離を置いて、鬱との共存を許容することで、少なくとも鬱との激突は避けられるかも
なんぞと、敢て楽観視してみる。



火口の縁に補填
果たして復帰可能か?

果たして、今食べるものがない
餓えた難民に鬱の
入り込む余地はあるのだろうか?
クレバスに落下し、
骨折した脚を抱え脱出の術を失い、
絶望に閉ざされた精神に
鬱は忍び込めるのだろうか?

全くの絶望を認識して、
自ら死を選ぶ行為は
究極の鬱なのだろうか?
 

火口の上端部も補修

鏡で写し隙間チェック

着脱可能なドベ受け交換

試運転点火OK



そうなんだよ!
餓えた難民とは、
ある意味では人間が
否応なく
不毛な原野に放たれ
自ら糧を得る手段を
失った状態。
生き残るために、
必死で糧を
得ることだけが
生の目的であり意味の
総てとなる状態。

クレバスに落下し
骨折した登山者は
死を突き付けられた
野生の動物
そのものであり、
如何にして
 
鬱を打ちる虹になっておくれ!
高芝山にかかる虹
この迫りくる死から
脱出出来るか
だけを考える。
 
いずれも人間が
野生動物の状態に
置かれた状況であり
そこに鬱が
忍び込む余地が
無い事だけは確かだ。

つまり逆に、
野生への回帰こそが、
鬱の予防薬・治療薬
と云う事なのさ!
山に登れないと云う事は、
その治療薬を
手に入れることが
出来ないと云う事。
だからこそ、
事は深刻なんだ!



作で毎日唐黍ばかり

オクラも次々と
がぶり、と食いついた途端
こいつ只者ではないと
しみじみ感じ入ってしまうのだ。
今まで感じたことのない未知なる
甘さが直截
シナプスに押し寄せ
うっとり!
あー無理無理!
そいつを体験するには
山荘の畑に来て
自分で稔り具合を確かめながら
完熟直前の物を収穫し
即、調理すること。
 

べきれぬトマト 
 
されたゴーヤ




林檎も獲れ過ぎ

連日林食べ放題
何度も摘果を考えたさ。
摘果をすれば
確かに残された果実は
大きく育つ。

だが摘果された果実は
捨てるしかない。
折角育った果実を捨てるなんて
そんな無慈悲で無駄なこと
したくないな!

そうか、そんなら
摘果をずーっと遅らせて
仄かな甘みを
蓄えるまで待って摘果すれば
捨てずに食べられる。

そこで林檎も梨も今年は
生るがままにして置いたのだ。
≪あたりー!≫
小さいながら摘果した
林檎も梨も、とても美味しくて
目白にもどっさり送ったら
大喜び。

が美味くて堪らん!

これも生りぎ!



アスパラのもどっさり!

7.4kgの大物西瓜われる
大切に育て収穫を
愉しみにしていた大きな3つの西瓜。
茎に未だ僅かな青みが
残っていたので
もう少し大きくなるだろうと
収穫を1週間延ばしたのだ。

翌週、完熟し7.4kgまで育った一番
大きな西瓜が穴を開けられ
食われてしまった。
烏の仕業に違いない。
悔しくて涙が零れそうだったが
烏の奴にくれてやったと思い
恨まないことにした。

皮の内側の果肉の絞まり具合で
南瓜の良し悪しは決まる。
堅く絞まっていれば栗より美味い。

今年の南瓜はホクホク。
天空南瓜なんぞ
自らの堅さに耐えきれず
収穫を待たずに
割れてしまったでは!

数多(あまた)の虫たちが虎視眈々と
狙っているに違いない。
烏の二の舞を踏まじと
さて今日も南瓜を食うとしよう。

天空南じゃ!

栗よりかに美味いぜ!



甲州銘菓・月のしずくと豚の角煮を持って、塩山駅から雨模様の山道を1時間も歩いて
馬淵君が突然やって来た。
「あれっ、メールしたんですけど、届いていませんか?」
必ず山荘と目白の両方にメールするように言ってあるのだが、どうも馬淵君は
目白のPCにメールすれば、それで通じると固く信じているらしい。
仕方ない今度、携帯のメールも教えてあげよう。

「写メして、これ僕が作ったことにしてあの2人にメール送ろう」
あの2人とは今、白馬大池に行っている馬淵君の友達で、どうも騙くらかして
過酷な山荘活動に2人を引き込もうと奸計を巡らしているらしい。

で、馬淵君の轆轤を見ると、ありゃ先ほどから作っているのはウンチばかり。
ウンチとは手前に積まれている成形に失敗した粘土の山。
はてさて、カップが出来るのはいつのことやら?


突然れた馬淵君

うーん、最にしては上出来?

本当はこのウンチが馬淵


鬱をチャンスと捉え、畑仕事やその他諸々の諸事を投げ打ち
箸にも棒にも掛からなかった画像編集無料ソフト・GIMPと、のんびり遊ぶつもりでアプリを開いてみた。
問題は画像処理能力のテスト、処理後の画像のインポート、更にそれを
HPビルダーのソフトにイクスポート出来るように拡張子を変えること。

編集に成功した最初の画像が≪夕照高芝山≫なのだ。
勿論有料ソフトのフォトショップに比べれば遥かにレベルは低いが、まあまあ此処まで出来れば許そう。
さて2作目をと、輝度をー100にして画像処理し、ファイルにインポートしたが
その先の拡張子xcfからjpgへの変更が、GIMP,JPEG双方から拒否されてしまい、2作目は失敗。
うーん、こりゃ鬱の友として遊ぶには申し分無しか?


!豚の角でーす!

れた!テラスでじゃ!(夕照高芝山)
甘くてとても食えないな!
「2時間も、ぐたぐた煮込んで
折角作ったのに
食べてくれないなんて
まー、ほんじゃ自分で食べるか。
美味いじゃないですか!」

唐黍に齧り付くや否や
「うわーこりゃウメー!」と一言。
3本の唐黍と豚の角煮を
目の前にして
馬淵君、一人でご満悦!

雨模様だった空に青空が広がり
高芝山にオーロラが・・・。

いやいや、これは
GIMP編集の2作目作品。
遂に拡張子を
JPEGに変える方法を
見つけたんだ。

【名前を付ける】で一度bzip画像に
変えてその画像を
【レイヤーとして開いて】
そこに示された37の拡張子から
JPEG画像を選べば
ほら、ご覧の通り、
真紅のオーロラが登場。 

高芝山オーロラ (夕照高芝山)

先生べないの!  



雲や山、森、大気そのものが光を発し、波長の長い真紅のオーロラを隠してしまう。

輝度を限界のー100迄落とし、雲や山、森、大気の輝きを
消してしまうと、捉えることの出来なかった真紅のオーロラが出現する。
人間の目では決して捉えることの出来なかった真紅のオーロラが
画像処理によって浮かび上がるのだ。

失うことによってしか得られない、実像の背後に潜む、もう1つの真実。
鬱が闇であるならば、この真紅のオーロラこそが、
鬱と対極を成す、もう1つの真実に違いない。
真紅のオーロラが、我が心象風景の深奥に潜んでいるならば、
真紅を求める旅を、もう少し続けてみてもいいかな!なんぞとふと思う。


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