その150の22018年  皐月


姫ノ湯沢源流

苔むした倒木
消されたルート

稜線に突き上げる谷は
急峻で上部岩壁は
落石の巣になっている。
岩壁に掛けられていた鎖も
朽ちて現在ではルート
そのものが失われてしまった。

山小屋に水を引く為
今でも姫ノ湯沢源流へのトレースは
僅かに在るが最初の
枯れた小さな谷までで、その先は無い。

仙人が枝に巻き付けた
赤いテープが残ってはいるが、
そのテープの行き先は
安全なルートへ導くものではなく
反対に岩場へのマーク。
つまり仙人専用のルートと
勝手に解釈して、マークを付け
仙人は通いつ続けているが、自然は、
絶えず刻々と変容し生きている。

1年も放っておくと
すっかり様相を変え、嘗ての
細々とした仙人の僅かなトレースも
跡形も無く消え去る。

それが堪らなく嬉しい。
辺りを見回し、臭いを嗅ぎ
森の中に赤いマークを追い求め、
谷を上下し、
苔生した倒木に跨り戯れる。

よう、久しぶりだね!
また来たぜ!
一緒に遊んでおくれ。

ルートは不明瞭

消えたルート



森と湖の祀り深奥から湧き出ずる肉の歓び
5月5日(土)快晴 仙人のお気に入り岩場・大菩薩湖と富士

夜明けの陽光を全身に浴びて恍惚の筋トレとストレッチを重ねていたら赤血球が叫ぶ!
こんなにも光が溢れて誘っているのに、まさか今日一日中、畑仕事だけで終わろうと云うつもりじゃないんだろうね!
その叫びを聞いた途端、総てが明瞭になった。確かに老化は日々着々と進行している。

しかし仙人は安易にその打ち寄せる老化の波に乗り、扇山、小倉山でのトレーニングで疲れたふりをしては、
うーん、何しろ老いてしまったからなと独り言ちてはヨロヨロと老衰を演じ、
天空に屹立する山々を避けているのでは!



爽快なりスラブの懸垂下降

ところが上日川峠の森は
未だやっと芽吹いた葉が、
辺りを見回してはキョロキョロと
光の暖かさを確かめている風情。

更にお気に入りの標高2000m直下の岩場に向かうと、
プチンと音を立てて今まさに
芽吹かんとしている森に迎えられ、
それだけで仙人は嬉しくて舞い上がってしまう。
ザイルを取り出し久々の岩壁の感触を堪能。
そう気づいた瞬間
目から鱗が落ち総てが明瞭になったのだ。
先ずザイルを轆轤室の壁から外し、
倉庫からハーネス、カラビナを取り出しザックに詰める。
救急医療品、ヘッドランプ、ヤッケもザックに放り込み、
仙人の大のお気に入り大菩薩嶺の岩場に向かう。

標高750mの山荘から1600mの上日川峠まで上がると
1カ月前の山荘の森が出現。
山荘の森はすっかり葉が大きくなり、
僅かに春の名残を留めているがもう、すっかり夏の装い。

絶景かな地球が丸いぜ 



る太陽と乾いた岩

友よ ぼくらは筋肉の束でも激情の回路でもない
忘れるな 君 ぼくらは疑うことから出発した
思索のザイルをいくども投げて 母のくらい谷間から時の岩場をのぼりつつ友よ
ぼくらの疑いはいよいよ深い

臆したか友よ 眺望がひらけばそれだけぼくら ひとりで満員のあの小さな場所へちかづいてゆく
ああ岩峯一刻 光の円錐たちならび
秋は遠くまでひらいてみせるが友よ しばらくは岩棚に坐りおおきな夕陽をみつめていよう
射手座がみえたら行動開始だ ハーケンをうて 「問い」だけがぼくらより早く
もう山頂をアタックしている
(山本太郎 ロック・クライミングの唄)



宙に踊る

標高2千m稜線直下
 

静寂の空間に忘我
何度も何度も、
繰り返された人々の疑問。
途轍もなく大きな自然の懐の中にあるとき、
同じでありながら

1人1人の≪私への疑い≫
はますます深まっていく。
≪のぼることは空へおりていく儀式≫
としたら、そう考えることで
この苦しさは少しは楽になる。
そしていつか、
あの遠い頂へ、自分のためのあの
小さな場所へ近づいて
いけるのだと思い、苦しさを忘れよう。

友よ、今こそ
信頼の強いザイルで結び合い、
岩を攀じよう。


この壁を超えると稜線 
 
登攀終了



空のに染まりそう!

何故≪山へ登るのか≫、何故≪攀じるのか≫
私たちは、その「答」を欲しているのではなくて、山頂こそ、本当の自身の≪問い≫を見出せる筈だと、
そして生きていくということは、≪問い≫を追い続けることだときっと知っている。
だから、私達は山に登り続けていくのだろう。




ザイル回収 

傷ついていないか
思索のザイル
 
最後のザイル登攀!
 
さて稜線は近い


回帰オーラを発してに立つ仙人

長い歴史の中で、脈々と育まれた人類の知性こそが思索のザイルだ。
自然の一部として生まれた人間は、無知から脱し、試行錯誤を繰り返しながら、
時の流れの中で知性を深めてきた。
認識を極めていくほどに、人は孤独な場所に辿り着かざるを得ない。

けれども、その場所こそ、本当の自分自身に出逢えるのではないのか。
そこは≪死≫」そのものが待つ場所かも知れないが・・・・・。
(村上映子 K2へ)




その150の2ー2018年  皐月