ラクバリ峰(7018m)登頂
                           隊長 坂原忠清


30分程山頂に留まり下山にかかる。
登りに劣らず下山も厳しい。
蒼氷の急斜面はアイゼンもろくに受け付けずしまったと思った時には一気に滑り落ちていた。
・・・
浅いクレバスの縁にアイゼンを引っ掛け、どうにか止った。


ヒマラヤ登山記録

第8回チベット未踏域遠征隊

派遣母体: 日本教員登山隊、スビダーニェ同人
遠征隊名称: チベット日本教員登山隊2005
後援: 朝日新聞社、川崎市国際交流協会
目的: チャンツェ峰(7580m)周辺の未踏峰の初登頂
隊の構成:   隊長:坂原忠清
   隊員:村上映子、大田正秀 
   連絡官:アワン・テンジン(20歳)、コック:アワン(39歳)
 遠征期間:  2005年4月17日~5月20日
遠征結果:  ラクバリ峰の登頂(坂原、村上、大田)&ノースコル到達滞在(坂原、大田) 
遠征日程概要
4月17日: 東京→北京→成都 成都直行便が無くなり面倒。反日デモ心配なし 4月24日: BC→MC手前 ABCまで15km標高差1300m、途中にMCあり。非常に遠い。途中でタシと小松(女子隊)に会う。
4月18日: 成都→ラサ 出迎えなくジープで登山学校へ。宿泊も学校宿舎。 月25日: BC→MC(5755m) 11時発 16時50着 MCはTMAが建てた大きなヤクテント
月19日: ラサ滞在 食料、装備の買出し。午後ブンブリ山へ高所順応登山。 4月26日: MC→ABC(6350m) 10時発 17時着 ABCの30分手前ラクバリ峰近くに幕営。 
月21日: ラサ→シガツェ 9:30発 17:20着 北路からジョクラ(5600m)を超えてシガツェ。 4月28日: ABC→MC 順応の為S,Mは幕営具を持って下山。氷河で吹雪に会いMCの位置が解らなくなり焦る。遭難一歩手前か?単独行動の小松と3人で話し合う。 
4月22日: シガツェ→ティンリ 8時40発 15時55着  ラーツェで昼食。チョモランマホテル泊。  4月29日: MC→ABC 10時50発 15時着 新雪が氷河に積もりラッセル。女子隊3名と会う。 
4月23日  ティンリ→BC(5155m) 8:55発 13:45着 ザシゾンで饅頭、ヤクバター買う。サスペンション交換。コック・アワンを雇う。最後の隊なのでコックも払底。 4月30日: ABC チョモBCまで順応がてら散歩。もの凄いテント数に圧倒される。 

5月1日: ABC→AC設営 13時発 19時20帰着 勾配は緩いが硬い氷河でスノーバー使えず 5月11日:  QC2 ノースコルからチョモランマ、チャンツェ両方向への偵察
5月3日:  ABC→AC 荷揚げを兼ねて3人でACへ。広大な氷河なので吹雪になると迷う。  5月12日:  QC2→ABC 風強くノースコルの数十のテントは停滞。アタックは当分不可。
 5月4日: 登頂 AC→頂→ACABC 11時11発 登頂15:59 AC18時30 ABC21時40 吹雪になりACが雪崩にやられそうなのでABCまで下る。クレバスに迷い込む。  5月14日:  ABC→MC 7頭のヤクを上げ隊荷を積んで下山。さらばチョモランマ!
5月6日: ABC シオラパルクの大島育夫の友ニッキと会う。以前グリーンランド遠征計画で大島と連絡を取り合っていたが、まさかこんな所で大島が出てくるとは!   5月15日:  MC→BC 隊荷からテントを出すのが面倒なのでレストハウスに泊まる。
5月8日:  QC1設営 ノースコルへの取り付き氷河の下部にQC1設営。  5月16日:  BC→シガツェ 2ジープで長駆シガツェまで。夜中に着く。
 5月9日: ABC→QC1 QC1の位置は風の通り道。誰もテントを張らぬ理由はこの強風。  5月17日:  シガツェ→ラサ 翌日にかけて慌しく装備を手入れし梱包しリストを作りTMAの倉庫に格納する。
5月10日 QC1→QC2(ノースコル 12時10発 14時20着 固定ザイルを唯ひたすら登る。    5月20日: ラサ→成都 成都から岷山山脈の九寨溝へ飛ぼうと計画したが空陸とも取れず。諦めて翌20日成田へ。 



ラクバリ峰・チョモランマ概念図

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 ラクバリ7018m    

           クレバスの山 

      

   目標変更         坂原忠清

 チャンツェ・・・とても難しい山です。昨年のフランス山岳ガイドのチームが南稜から挑みましたが、登れませんでした。我々登山学校のOBとTMAの合同チームが、一般ルートの東稜から入り1500mのロープを固定しましたが、あと300mロープが足りずやはり登れませんでした。(登山学校長ニマ・ツェリン)

 エッ!・・・どうしてもっと早くそれを教えてくれなかったの?我々は高所ポーター1名、固定ロープを張る予定無し。山岳ガイドチームが固定ロープを張りめぐらしても登れなかった南稜を、1日で登下降するタクティクスを組んでいたのだ。

 
 計画変更・・・どうするって、こうなったら当初計画していたチョモランマ北方10㎞近くに位置するリシン峰(7082m)か、シアンドン峰(7018m)の登山に変更し更にチョモランマ偵察の同時許可を願うしかない。

 TMAのボス張(チャン)さんに直談判。当初の交渉では2峰に登ることになるので、登山料は2倍と通告され断念。しかし今回はTMAの不手際が目立つ。空港への出迎えミスがあったり、通訳が未定であったり、・・・そこで一気に攻めたところ、シアンドン登山、チョモランマ試登共にOK。

 ラクバリ・・・とチベットでは呼ばれているシアンドン峰(7018m)の登山許可は得たものの、この山は氷壁の山で最低でも300mの固定ロープが必要であるとTMA.

 場合によっては、ノースコルへのルート工作にも固定ロープを提供せねばならず。さしあたり800mの固定ロープを調達。いざ!チョモランマのBCへ。

  3日間・・・ジープで走り続け4月23日標高5154mのBCに入り、更にその3日後の26日に6400mのABCに入る。3月31日まで珊瑚海でダイビングしていた肉体が、大気半分以下の6400mでどう反応するのか?・・・恐ろしや!

 AC・・・5月1日アタックキャンプをラクバリ峰南氷河に設営。氷河は文字通りの氷で、持参した長さ60㎝のスノーバーは刃が立たず。テント固定用にスノーバーを氷に打ち込んだが、全く食い込まず折れ曲がってしまうので、アンカーとして使用し、どうにか固定。

 しかし強風が吹けば、荷物毎テントが飛ばされる恐れは充分にあり。その上、ほんの僅かな降雪でも表層雪崩を起こしてテントが流される可能性大なり。

 以下・・・隊員の手記によってラクバリ登頂からチョモランマ偵察までを連載で報告する。

 ラクバリ峰
         その1

  隊日記        村上映子

 4月17日(日)晴曇【成田→成都】
 成田空港第2ターミナルビル、7時50分スカイポーター前で太田氏と待ち合わせ。1人70㎏前後の荷物の重量調整をして、カウンターに並ぶが物凄い人で混雑。重量オーバーで追加料金を覚悟していたが、うまくクリアー出来、第一関門無事通過。

 時間があるからと朝食をとってから出国ゲートに行くと、先にもまして人並みが凄い。

 まともに並んでいたのでは、出国に間に合わない。割り込ませてもらい、やっとの思いで機内へ。我々より遅い人は数人しかいなかった。重量調整で手荷物が数十㎏もあるので、手荷物が棚に乗せられないで大変だった。北京でトランシット、成都に到着。

 4月18日(月)晴れ【成都→ラサ】
 ラサには無事着いたもののTMAの迎えが無い。隊長が何度も連絡した結果、TMAは我々のことを忘れていたらしいことが分かり空港でジープを雇いラサに向かった。今回の宿泊はニマさんの登山学校、今年からは皆そうなるらしい。

 風呂のお湯が途中で足りなくなり水になるのは参った。夜はサミット(TMA直営レストラン)で食事。ニマさんの情報によれば、チャン・ツェは非常に難しいとのことである。昨年フランスの登山学校のメンバーが敗退したそうだ。

 今回の装備ではとても無理と分かり、ABCから行かれそうなラクバリという山に変更することとなりそう。TMAの登山許可が得られるかどうか?またノースコルまで足を伸ばすことも可能らしい。

 4月19日(火)曇晴れ【食料買入・高所順応】
 朝はステップテスト後、学校の回りをジョギング。登山学校の朝食は美味しくない。午前中買い物。百貨店で行動食や麺類、食用油、飲み物等。市場で雑貨、固定ロープを買う。生鮮食料品は明日購入予定。

 午後3時から布不山(ブンブリ・4200m)へ高所順応の為登山。沢山のタルチョが山に祭られている。ラサの町が見渡せる。


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 夕食時「張」さんと交渉。ラクバリ、ノースコル両方にOKがでた。チョモランマには今年22隊約400人が入っているそうだ。いったいどんな具合なのかと想像する。

 4月20日(水)晴れ【高所ポーター】
 朝のジョギングで40分も走った。早い時間から人々が、学校や職場に向かって大勢動き出していた。我々の高所ポーターが夕べ決まって、今日は一緒に買い物。

 名前は「アワン・テンジン」、年は20歳で、背が高くなかなかハンサムな青年。ニマから無口だとは聴いていたが、なる程おとなしい。テンジンはラクバリ峰に行ったそうだが、結構難しいとのことで固定ロープが300mは必要だとのこと。チョモランマには中国隊、イングランド隊の2隊に付いたことがあり、8300mまで行ったそうだ。

 野菜をはじめペキンダックやベーコン等の定番を買う。夏とは違って野菜が凍って全滅かもしれない。やはりいつもと勝手が違い、食料計画を考えると不安になる。バター、卵、饅頭などはティンリで買うことにする。

 トラックが全部出払っているので我々荷物は2台のランドクルーザーに積み込まねばならない。夜になって登山学校のメステントを借りだし、更に荷は増えたので明日全部積み込めるか心配。

  4月21日(木)快晴曇【ラサ→シガツェ】
 朝、ジョグ。朝食を済ませると2台の荷を積み込んだジープが来る。荷を更に積み込み、4人の人間も乗せ9時26分出発。

  ヤンパーチンの先でトラックが横転していた。スギ・ラ(峠名)ではチョモカン(7048m)の姿が素晴しかった。停車せず写真をとりそびれたのは残念。

 夏とは違って遠望が効き気持ちが良い。1時50分、マギャンで昼食。夕方シガツェに着いてから、不足装備の買出しに市場に出る。ガスボンベも充填する。

 4月22日(金)快晴【シガツェ→ティンリ】
 6時30分起床。ホテル近くをジョギング。8時40分出発。ヤルツァンポ河沿いに一路西へ。12時30分、ラーツェ(4200m)にて昼食。15時40分、ティンリのチョモランマホテル着。

 感想(太田):
 川床のような砂利道を揺られ、 特異な風景もなく精神的に疲労。ホテルにやっと着いたかと言う感じ。とにかく距離が長い。チベット高原の広大さが思いやられる。ホテル設備不具合多く不快。入浴せずに寝る。

   於ノースコル      太田正秀

  ラサを車で出発して3日目、川床のような砂利道、山道に揺られ続けてチョモランマBCに到着した。車の座席からの解放感で「やれやれ」と思うと同時に、氷河舌端の広大な砂礫の上に立って「とうとう来てしまった」と感無量。これから始まる登山活動に思いを馳せ緊張感に捕らわれる。

  氷河上流方向には、雪をも寄せ付けず黒々と地肌を剥き出しにしていたチョモランマが他の雪山を見下ろしていた。ロンブク氷河が悠久の時間をかけて運び込んだ膨大なモレーンの丘陵を幾つも乗り越えると、その最奥のどん詰まりに分厚い懸垂氷河を至る所に抱え込んだ雪壁が、立ちはだかっている。
 
 ノースコルに上がるにはどうしてもクリアーしなければいけない壁でもある。

 チョモランマへの第一関門でもある。シーズン最盛期なので大テント村になっているABCからは、その壁を登り下りしている登山者の様子が遠景に見える。

 私たちの今回の目標が、当初のチャンツェから「ラクバリ」に換わった為に、我々がノースコルに登る必要性は消えてしまった。が上がってみたい。雪崩の多発エリアだということであるが、悪天候に遭遇さえしなければ問題なさそうに思える。要所にはロープが固定されている。登りたい。コルの稜線越しの山並みが見たい。チョモランマの頂に一段と近づきたい。

 「ラクバリ」登頂後、余裕が出来た日程にノースコルの偵察及びコルからのチャンツェ観察が組まれた。雪壁の上と下にテントを設営するという周到な計画だった。高所初心者の私への配慮だったのであろう。壁の取り付きからロープが設置されていた。この固定ロープは、20隊を超える登山隊の先陣の奮闘の賜物であろう。

 急雪壁の硬い氷にスノーバーを打ち込むのは、大変な作業だったはず。上り始めてみると、下から見上げた感じよりもはるかに疲労が嵩む。呼吸が苦しい。次から次へとロープを頼りに伝え歩きをしているのだが、途中から5歩以上連続して歩く事が出来なくなった。呼吸がそれ以上続かない。

 7000mの高所であることを思い知らされた。長短20本の固定ロープを伝って、やっとコルのテント場に這うようにして到着。通常の1.5倍も時間がかかったが、快晴、無風の天候が幸いし、全く危機感無く登ることが出来た。


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 既に隊長の手でテントは立っており、温かい飲み物も用意されていた。テントの中に転がり込むだけでよかった。今回の登山活動のあらゆる場面で、このような世話をかけてしまった。感謝、感謝です。

 翌日、5月11日カメラを持ってコルの偵察に出かけた。稜線に身を乗り出した途端に冷たい強烈な風に晒されることになったが、絶景が堪能出来た。

 黒っぽい群青の空を背景にしたネパール方面の白い連山,眼前のチョモランマ北壁、その基部から山頂までの圧倒的な存在感、岩と氷の鋭い稜線のチェンツェ。「ここまで来れて良かった」と満たされる思いに浸った。


 ラクバリ峰 その2

 隊日誌     
坂原忠清
 4月23日(土) 曇り チョモBCへ
 
7時20分起床。チョモランマ・ホテルからティンリの村中をジョギング。

 ホテルでセータ着て布団を2枚重ねて寝ても寒いのに、何と路上で薄い毛布を掛けただけで寝ているチベット人。昨夜は雪もちらつき、近くの山は白く雪化粧していると云うのに。

 8時55分出発、10時ジョク・ラ(5200m)着。起伏した褐色の大地が、大海原となって渺々と広がる。その遙かなる地平線の彼方に、屹立した雪と氷の居城。

 ついに見えた。ヒマ・アラヤ・・・の居城。褐色の大海原に漂う蜃気楼のように、雪の居城が厚い大気層を通して揺らめく。

 

 

 左手の東方にマカルー(8441m)がピラミダルな容姿を晒す。鑿で削り落としたような西壁が朝の影を宿し、8448mのチョモランマと対峙する。マカルーの西に位置するチョモランマの山頂から、数十kmにわたり水平に雲がたなびき、マカルー西壁の影とコントラスをなす。
 
強風を受けて頂からラオヘンと呼ばれる雲が彗星のような長い尾を引く。水平の雲の長さから判断すると山頂の風速は50m/秒を超えているであろう。

 更に右に雪と氷の長城を辿ると、ギャチュンカン(7952m)を経て昨年の遠征峰チョ・オユー(8201m)が見える。我々が初登頂したチョー・サブ(7022m)がチョ・オユーの左で、頂を天に突き上げているのを見出し嬉しくなる。

 その更に西方にシシヤパンマ(8012m)が、褐色の大地を覆うように横たわる。

 11時28分、ザシゾン村(4212m)着。ここで朝食の饅頭、ヤクバターの購入。おねだりの子供たちが、隊員に付きまとい離れない。村上隊員が女の子の似顔絵を描いてプレゼント。

 13時45分、チョモランマBC(5154m)着。ロンブク氷河舌端に出現した巨大テント村に、予期していたものの唖然!

 4月24日(日)快晴後曇【BC→C1往復】
 10時35分BC発、17時30分着。高所順応と歩行トレーニングの為5700mまでの標高差600mを登る。しかしC1は何処にも見当たらない。

 中央ロンブク氷河との合流点から東ロンブク氷河に入った5500m地点に在るはずのC1が消えた。
 「C1はどこだ?」
と他の隊員に聞くと遥か天空を示す。

 

 以前の資料ではノースコル直下のABC(前進ベースキャンプ)をC3とし、ロンブク氷河上にC1,C2を設営していたが、本年のC1はノースコルの高所キャンプを示すらしい。

 
つまり従来のC4がC1であり、C2は北稜と北東稜の結節点下部、C3はその先の最終キャンプを意味する。最初それを知らず他の外国隊との情報交換でしばし混乱。

 途中日中女子合同隊に参加しているタシ(2年前我々の高所ポーター)や同隊員の小松さんに逢ったので聞いてみると、BC(5100m)-ABC(6400m)間の標高差1300mの氷河上にはミドルキャンプが1つあるだけとのこと。

 距離が長い標高差1300mとなると高所順応していない肉体にとっては、かなりきつい登高になる。

 4月25日(月)快晴【BC→MC】
 7時30分朝食。キャラバンの準備に入り11時隊員はMC(ミドルキャンプ)に向けて出発。11時30分、8頭のヤクに荷を積んでヤクキャラバン開始。

 MCはチャン・ツェ氷河と東ロンブク氷河の合流点にある。この地点でチャン・ツェ氷河を下り、東ロンブク氷河の本流に乗り換えるのである。大型の常設テントが張られ美味しいミルクティーで歓待され、夕食はパスタを使った麺を御馳走になる。我々の最初の目標、ラクパリが氷河上方に聳える。

 概念図・・・図中MCと記されている所が嘗てのC1である。その先、チャン・ツェ東稜の東に我々のABC(前進キャンプ)を設営した。

 このABCから東ロンブク氷河を横断してXiangdong7018m(ラクバリ峰)と記された峰に、AC(アタックキャンプ)を張り同峰を登頂。その後ノースコル下部に前進キャンプを出し、コルに登りコルに幕営。


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 ラクバリ峰 その3

 隊日記         

4月26日(火)快晴     村上映子
 【
MC(5755)ABC(6350)

MC(ミドルキャンプ)からチョモランマABC(前進キャンプ)へと向かうキャラバンは、巨大な氷塔の耀きと共に氷河を進む、豪快な登高となる。

 8時30分朝食。ヤクが来て我々のテントを畳む。彼らはABC迄荷揚げし、即下山し1日でBC迄下りねばならず、我々を急がさせる。10時には総ての荷を積み込みヤク出発。ヤクの足は早く、あっと言う間に氷河の彼方に見えなくなってしまう。

15時隊長ABC着、テント設営。1時間遅れて村上、太田姿を見せるが、太田はテントの手前でひっくり返ったまま中々起きない。初めての6千m高所体験、よくここまで頑張った。

4月27日(水)晴後曇 【ホリデー】

 高度が6350mもあるベースキャンプは初めての体験。全員が多かれ少なかれ体調不良である。ハイポータのテンジンまでもが頭痛を訴えて薬を欲しがる。

 我々のベースキャンプは、チョモランマのベースキャンプ村(6400m)から離れて設営したので、静かで眺望も良い。因みにキャンプ村は岩壁と氷河に挟まれ、テントばかりで景色は悪い。

 外に椅子を持ち出し、朝食を食べながら雄大な景観を堪能する。「サカハラサーン!」の声に驚くと、なんとピンゾー(登山学校の卒業生で我々と一緒に何度か登山したスタッフ)が白い歯を見せて笑いながらやって来る。これからBCへ下るらしい。

 キャンプ村とBCを往復する人やヤクが我々のテントの傍を1日に何回となく通過する。この時期、順応のためいったん下山して再び上がってくる人の数が多いようだ。

 午後は殆どテントの中で昼寝。夕方少し雪が降る。村上は食欲がでず、夕食はミルクしか取れなかった。明日も体調が良くならなければ、MCへの下山も考えられる。

4月28日(木)晴後雪 【ABC→MC】

村上、坂原   ABC→MC

太田      ABCステイ

 体調が不良の村上、坂原はテンジンと共にMCまで下山することとなるSPO2の値も良く高山症状も殆ど出ていない太田はステイ。上部ABCの日中合同女子登山隊のテントに挨拶に行く。ABCのテント村の大きさに驚く。


 下山組は途中から雪に降られる。MCに近づくにつれ雪が激しくなり、晴れていれば明瞭なモレーン上の踏み跡が、雪に覆われ見る見る消えていく。すれ違う人も無く、大幅に遅れた村上はMC直前で迷うそうになった。トップの隊長もスニーカーでラッセルし、MCの位置を失ったそうだ。


 

 

 MCのキッチンテントで暖かいカフェオレを御馳走になるが、冷えきった指が痛くて暫く動かない程だった。間もなく合同隊の小松さんがシェルパと共に来た。BCまで下りる予定だったが、吹雪が激しくなったのでMCでステイすることに決めたとのこと。

時間はたっぷりあるので、彼女と色々話した。高所順応がうまくいってないらしく悩んでいたが、我々からみると彼女は充分に順応して力も持っている人に見えた。SPO2の数値が充分でないらしいが、同時に多人数で構成される登山隊の中で、全体と個の関わりの難しさもあるのだろうと思う。

 
 ナンガ・パルバットの話をしているときの彼女の瞳の輝きが印象的だったが、自分自身が望む形の登山とは何か、改めて考えさせられる。夕食にヌードルの代わりにマカロニを入れたスープが出たが、美味しく食べられた。空気の濃さを実感しながら眠りにつく。

(続く)


 ラクバリ峰 その4

 隊日誌

 4月29日(金)快晴午後降雪
MCABCへ】

原・村上MC→ABC

太田   ABCステイ
 昨日はチベット人スタッフから、この雪は3日くらい降ると言われ、MCでの停滞を覚悟していたが、夜中にテントの外へ出たときには満点の星空が広がる。


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 朝のまばゆい光の中で「まるで連休の日本のアルプスですね」と言う小松さんの笑顔が爽やか。下山する彼女は3日間BCにステイするとのこと3月にBC入りしている彼女が順応のために、未だBCに戻ると言うのに私達は半日MCに滞在しただけである。

 お互いに頑張ろうねと健闘を祈りながら別れ我々はBCへ帰る。

 新雪を纏った氷塔群は朝の太陽を浴び、信じられない程の美しさ。自然の創り上げた造形のあまりの見事さに感嘆の声。何度も足を止め写真を撮る。

 
 まさに神々の造形としか言いようのない氷の彫刻群の中に居ると、不思議なエネルギーが授けられるようだ。歩けることが嬉しくて堪らない。昨日は高山病での下山、風雪の彷徨で辛かったが、思い切って下山したのは大正解。

 
 途中で女子登山隊の橋本しおり隊長ら3名に逢う。これからBCへ下るとのこと。すでにノースコルまで上がっているので、アタック態勢への準備なのだろう。ノースコルから日本人隊員は酸素を吸う計画と聴いたので、コルへの酸素ボンベの数を訊ねてみたら、多すぎて把握できないとの答え。ボンベを荷揚げするチベットチームは強力なのだ。


 戻ってきたABCには1日にして新しいテントが増え、岩場にはチョルテンが張りめぐらされていた。夕食は大根等の野菜がたっぷりの和風スープを作る。すこし硬めだが美味しいスープができた。

4月30日(土)曇り午後雪【ホリデー】

 坂原・村上ABC村まで偵察

 太田   ステイ


 30分も歩くとカラフルなテントが見えてくる。そこから先は正に大テント村。大小様々なテントが所狭しと立っている。村の中央とおぼしき辺りには、岩を積み上げたゴンパがあり、チョルテンが翻り香が炊かれている。シェルパ達が祈りを捧げるのであろう。


私たちのささやかなテントとは桁違いの巨大なテントや円形のガッチリしたテント等いずれもチョモランマの為の特性テントのように思える。太陽電池の設備や様々な工夫がなされ、長期滞在に適した住居性の良いテントなのだろう。


自分のテントが何処か探すのが大変そうである。想像はしていたものの、これだけの数のテントが犇いている有り様は、やはり驚かされる。ほんの少し離れているだけなのだが、我々のテントは風光明媚、閑静な別天地である。

 
 登山学校から借りたブルーのキッチンテント、その傍らに「日本教員登山隊」と鮮やかなネーム入りの隊員テントが2張り。それで総て。少し離れて中国の測量隊のテントが数張あるが、殆ど人影はない。


 テントからは氷河を隔て目指す7千m峰が見える。白い氷河は輝く海のように広がっている。目の下には小型の氷塔が連なる。

テントを出れば、チョモランマの雄姿が聳えている。時折登山者が通りヤクが行き来するがとても静かに1日が過ぎる。

 

 訪れるものには鳥達がいる。嘴の黄色いハシブト烏、岩ひばり、鳩まで来たのには驚かされた。大テント村から戻って3人で小麦粉を溶いてお好み作りに挑戦。
 
 野菜炒めも作り、ビールを呑みながら熱々のお焼きを食べた。コックのアワンが作る料理が口に合わず、食の細っていた太田も、久々の日本食に舌鼓。夕食は残りでスイトンを作る。これも又旨し。

 
 スイトンとワインと言う奇妙な取り合わせで休日の食事を楽しんでいると、下から歓声が聞こえてくる。朝から対岸へ向かっていたグループがあったが、3名が登頂から戻ってきたとのこと。

 テンジンによると彼らが登っていた山がラクバリ峰で、私達が目指していた山は無名峰らしい。朝の段階で10人位のパーティーであったが、結局登頂できたのは3人だけらしい。12時間以上の行動だったのだろう。

 
 就寝前にSPO2を測ったら隊長は54まで下がっており、村上も61しかない。昨夜寝苦しかったし、6千m以上での初期順応の難しさを痛感して不安を感じる。


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 ラクバリ峰 その5

  隊日記

 5月1日(日)晴れ時々雪
  
【ABC→ラクバリC1→ABC】

 昨夜少し雪が降ったらしい。しかし全く風が無く穏やかでテントの中であることを忘れる程だ。とても良く眠れて快適な目覚め。

 
 昨日まで張ってあったテントが撤収され、昨日のラクパリパーティーはもうBCへ下ったらしい。我々は予定よりやや遅れ、13時ABCを出発。ラクバリC1を設営した。

 
 氷塔を超え大氷原を渡り、クレバスに注意しながら雪面を登り、3時間かけてやっとたどり着いてからが大変だった。何しろ氷がやたらと硬いのだ。緩斜面のカチンカチンの氷をピッケルで砕き、辛うじてテントが張れるスペースを作るだけでも大変な労力。


 更にスノーバーでテントを固定するのが至難の技。打ち込んでもスノーバーは刃が立たず曲がってしまう。仕方なく氷を削ってスノーバーを埋め込みアンカーに固定する。


 硬い氷に悪戦苦闘し、テントを張り終わった頃にはヘトヘトになったが、これでラクパリ登頂の足がかりができた。それに何よりここからのチョモランマ、チャンツエの眺望は素晴しい。ABC帰幕後は全員疲れ果てて、ミルク等の水分しかとれなかった。

 5月2日(月)晴れ時々雪【ホリデー】

 皆昨日の疲労が濃く、朝も10時頃まで寝る。もっとも我が隊員テントではお腹がすいてキッチンテントから食材を運び込み、空腹を満たした。

 

 


 隊長は学級対抗のサッカーが勝ち続けて、食事時間も試合続行で食事にありつけぬ夢を見ていたとか。太陽も出て2度寝入りは暖かくて気持良い。

 
 隊長、村上は夕方テント村へ散歩に出かける。女子合同隊の居る一番上部の幕営地まで行ってみたが、テント村入り口から30分以上かかる。一段高いその場所からテント村を一望すると、その規模の大きさに改めて驚かされる。

 
 ラクパリの裾野に張った我々のC1テントが豆粒程だが良く見える。頂上までのルートを予想してみるが、下部は傾斜がきつそうだし、頂上は付近は岩稜帯でかなり難しそうだ。夕食は隊長特性チャーハン、美味しかった。

 ラクバリ峰  その6

 隊日誌

 5月3日(火)快晴-15℃
  【
ABC→ラクバリC1
 
 (13:30ABC出発→16時C1着)

 C1までの氷原は二度目であっても長く遠い。平らに見える氷原だが、踏み入るとミニ氷塔の乱立ででこぼこしていて歩き難い。登りの斜面はミニ氷塔が無くても、雪の下は青氷になっていて滑りやすく、バランスが要求される。

 
 C1のテントはジャンパスなので大きく居住性はいいが、風に対処するためにフライを張らないので夜は寒いであろう。テントに着くと、まず雪を集めて大きなビニール袋にストックする
 
 

人もヤクも入らないここの雪からは、感動する程美味しい水が出来る。ここからのチョモランマはABCとは違う表情を見せ、大きく迫力がある。ノースコルを挟み北峰のチャンツエの稜線が、明瞭な厳しいラインを描いている。
 
 夕方は晴れて素晴しい光景なのだが、いったんテントの中に入ると、外の寒さに恐れをなし表へ出ての撮影意欲が湧かなくなる。せつかく持って上がったカメラなのに写真を撮る手間を惜しんでしまった。明日のアタックの事を考えながら、緊張感と興奮を少しずつ覚えながら、早々にシュラフにもぐり込む。


 5月4日(水)晴れ後雪
【ラクバリ登頂】

 (10:10C1発→14:30休憩→
 15:59登頂→18:00C1着→
 降雪激しく雪崩の恐れがあるので即下山→
 21:40ABC着)

 良く晴れたアタック日和。朝食はカレーうどんに餅を入れて食べる。緩斜面と急斜面の境界に我々のテントは設営されている。

 従って出発して直ぐ急な雪面を登ることになる。初めて全員でアンザイレンをする。隊長、村上、太田、ラストにテンジンの順で雪面に取りつく。

 このところの降雪で表面は真っ白に覆われているが、新雪の下は硬い氷の斜面、気が抜けない。急斜面であるために高度はどんどん稼げる。稜線近くで勾配は緩くなったが、クレバスがあちこちに口を開けて油断できない。


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 深く大きなクレバスは隊長が先に上がり、確保態勢に入る。昨年のチョーサブ峰の深いクレバスに落ちかけた時の恐怖心が蘇り、私(村上)の足が鈍る。

 
 後ろの太田氏がアドバイスしてくれ気持が落ち着き、クレバス帯をどうにか通過出来た。その上は更に硬い蒼氷の急斜面が続く。やっと安全地帯で休憩できた時は、予想以上に時間が経過していた。


 コルからは急峻な岩稜帯の頂上に向けて一気に立ち上がる東峰を、やはり岩の頂稜だが穏やかに伸び上がる西峰と、どちらの頂を選ぶのか問われる。ここまできたら7000mの山頂を踏んでみたい。

 村上は時間的にも体力的にも、確実に行けそうな西峰を希望した。太田氏も隊長も東峰に行きたかったと思うが、まずは西峰を目指す。

 
 15時59分隊長が山頂に立つ。続いて全員が岩場を伝って山頂へ高度計は7090mを示していた。私にとっては初めて超えた7000mライン。


 急速に広がり始めた雲がチョモランマを隠し、視界が遮られる。ラクバリの山頂からはマカルーの姿がとても良いと後で聴いたが、雲に覆われ何も見えない。

 チョモランマもマカルーもこの山頂から見た写真は無いのではと思うが、この目で見られなかったのは悔しい。30分程山頂に留まり下山にかかる。登りに劣らず下山も厳しい。蒼氷の急斜面はアイゼンもろくに受け付けず、しまったと思った時には一気に滑り落ちていた。

 「アップザイレンしているんじゃないぞー!」ザイルをピーンと張って末端で確保している隊長が怒声を上げる。蒼氷の急斜面に恐れをなし、ついザイルに頼り固定ザイルのつもりで体重をかけて下り、スリップしてしまったのだ。浅いクレバスの縁にアイゼンを引っかけどうにか止まった。


 長い急斜面は前向きで降りる自信が無く、後ろ向きでアイゼンの前爪を蹴り込みながら下ったが、ふくらはぎがパンパンになり苦しい下山となる。午後6時、テントに辿り着いたときは激しい吹雪となっていた。

 
 1晩中降り続けば、テントは表層雪崩に巻き込まれる危険がある。テントにもぐり込みたい気持を抑え、必要なものだけをザックに詰め、ABCへ下山することに決定。

 
 隊長が中に入ってテントから荷物を取り出す間、外で待っていると激しい寒さで歯の根が合わぬほど震えてくる。吹雪の中、下山開始。ホワイトアウトに包まれ全く方向感覚がつかめない。直ぐ前を歩くメンバーの姿さえ、ちょっと離れると見失う。

 
 テンジンが先頭をきるが、ルートを間違え北方のクレバス帯に入り込んでしまう。大小様々なクレバスが延々と続き、神経が極度に張り詰める。東ロンブク氷河の氷原に出るころ、ようやく雪が小やみになり、あたりの様子に見当がついてきた。

 9時を過ぎるとさすがにヘッドランプ無しでは動けない。先行する隊長とテンジンの影は無い。ABC手前まで来て助けを求めるためか、太田氏がトランシーバー交信を試み、そのままトランシーバーを無くしてしまう。さすがに限界なのだろう。

 
 

  

我々のランプの明かりを見つけてヤク使いが迎えに来てくれた。力強く手を握ってくれ、やっと人心地がついた。ABCのテントに帰り着いた時は、水分以外胃が受け付けず、ミルクだけたっぷり飲む。初めて7000mの高みをしみじみ思い返す余裕も無く、直ぐ寝てしまった。

 
 5月5日(木)晴れ後雪【ホリデー】

 さすがに全員疲れが出て、1日中ABCで休日となる。昨日の我々のトレースを辿ってラクバリに向かった隊は登頂出来ず下山。

 

 私のチョモランマ

そのⅠ          村上映子

 7度目のチベット遠征で初めて7千mラインを超える事が出来た。1994年最初のヒマラヤ遠征でK2(8611m)のキャンプ1まで登れた時6300mの高みで目にした全てが総毛立つ程に美しかった。

 以来、より高くより遠い所に更なる美しさを求めてきたのかも知れないが、7千mに至るまで12年の歳月が必要だったわけだ。やっと上がれた7千m峰は、すっぽりと覆われた霧で何も見せてはくれなかった。

 しかし、この高みに至るまでの12年間に私は様々なものを見、経験した。夏のチベットで出会った可憐な青いケシ、テントで聞く音楽の豊かな旋律、雪崩の音、眠っているテントの下で氷河が壊れ軋む音、星の耀き、貪るように読んだ本の数々・・・


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 チベットではいつも未踏峰の未踏ルートを選んできたので、ABCまで入れば他に誰も居ない。そこで自然と対峙するとき、五感を全て動員すれば言葉より深く伝わるコミュニケーションがあることを知った。

 無機質なものとの会話は成り立つ。岩石や星や水も雄弁である。勿論、こちらに聴く用意があればの話しだが・・何より美しいのは生命そのものであること、植物でも人間でも生命の本来持つエネルギーを真っ直ぐに発揮した瞬間が、もっとも美しく耀くのではないかと言う事を発見した。

               (続く)

 

 私のチョモランマ        そのⅡ

            村上映子

 チベットは今はもうこの世界では会えない人たち、亡くなった人のことを身近に感じることが出来る場でもある。今回は昨年亡くなった山岳登山家の風見武秀氏のことを、何度となく考えていた。

 
 今回のチョモランマ遠征は随分迷った。決断をした大きな要因に風見氏の写真集がある。氷塔群の奥に聳えるチョモランマの素晴しい写真が載っているその本、作品解説には「蒼い妖精のような氷塔群のはるか天辺に、チョモランマの頂が雪煙を上げている。


 「ロンブク氷河の奥、3000mの北壁は垂直だ。ここは高度6000m、夢の世界だ」と書かれている。巨大な氷塔群が林立している特異な景観はここしかない。この景色が見たい。最終的な決断に繋がった。一昨年の秋、奥様が入院中でいらした風見氏のお宅へ、隊長と共に陣中見舞いを兼ねて訪問した。

 

 富士山麓のアトリエを兼ねて自宅で、風見氏は出来上がったばかりというこの写真集に自らサインしてプレゼントして下さった。
 「もう誰も序文を書いてくれる人が居なくなっちゃて序は無しなの」そう言って茶目っ気たっぷりに笑われたが、遠い記憶を辿る表情に一抹の寂しさが浮かび、はっとした。


 海外から帰ってきたところだとお土産のワインを抜いてくださり、楽しい会話が弾む。富士山がライフワークだと二階の窓辺に案内してくださる。「富士山がいい日は僕は何度もここを駆け上がるの」80歳を過ぎても尚、好奇心と探究心に耀く瞳で私達に語りかけてくれる氏から、多くのものを貰った。

 
 「行きたい者は行く事だ」


 私が山に登り始めた頃「青いけしの会」の会合にいらした風見氏が語ってくれたドイツの諺だ。風見氏はこの言葉に支えられ世界中の行きたいところへ行き、撮りたいものを撮り続けてきたわけだ。私もまた風見氏によって伝えられたこの言葉に、どれほど励まされたことだろう。

 
 「行きたい者は行くことだ」実に単純明快で、真理をついた言葉ではないか!にもかかわらず「行くこと」の為に人はどれほどのエネルギーが必要なのか、どれほどの強靭な意志が問われるのか、ヒマラヤを登るようになって、この言葉の重さを身を以って体験してきた。

  私のチョモランマ 
そのⅢ

           村上映子

 強風に閉じこめられたテントの中で、破れたテントの穴に目をやると星が見える。この広いチョモランマでテントの穴から、星を見上げている人間は私1人だけだろうと、呑気なことを思ってちょっとニヤリとする。

 
 破れ目から見えるたった1つの星から、上空に広がっているであろう星の饗宴を思い描く。読んだばかりの村上春樹の作品を思う。

「ねじまき鳥クロニクル」の主人公が、涸れ井戸の底から星を見上げる場面。この穴蔵のようなテントから抜け出した時、私は何処へ繋がり、何を探し出せるのだろうか?

 
 その後「ねじまき鳥」はABCに閉じ込められている小松さんの所へ貸し出されていくのだが、彼女は井戸の底のように閉じ込められたABCで星明かりを見ることが出来ただろか?
 (小松さんは日中女子合同登山隊で若く有望な登山家だが、今回のアタック隊から外され、ABCから先には行けないとのことだった)

 
 私たちのABCからだとノースコルの取り付き迄3時間近くもかかる。取り付き手前は広い氷原だ。そこにキャンプを設営した。チョモランマとチャンツェの大きな壁に3方を囲まれ、テントが風に飛ばされる心配も無い。他に1張りのテントも無いから水も旨いだろう・・・。

 
 


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 水は美味しかったが、その地形の予想を裏切って風が強い。ロンブク氷河を駆け上がる風がこの地に激突し、行き場を失って渦巻き荒れ狂うとは考えもしなかった。1張りのテントも無いわけが理解できた。

 そうとは知らずに最初にテントに泊まった晩、吹きすさぶ風に驚いた。翌日ノースコルに上がるはずだったがサングラスを壊してしまった私はやむを得ずABCに降りた。

 
 次の日の午後、新しいサングラスをかけてノースコルを目指すため、再び氷原キャンプに入った。途中で引き返そうかと思うほど冷たい風が強まっていた。氷原地帯に出た途端、烈風となって襲ってくる。ノースコルへのルート上に人影は無い。


 いつも沢山の登山者が上り下りしているのに、この風で行動する人はいないらしい。やっぱり戻るべきだったかと不安になる。今日、氷原キャンプ入りしなければ、ノースコルへの登高チャンスは無くなる。

 不安を押し殺して前進し,氷原キャンプに到達。急いでテントにもぐり込もうとしたのだが、入り口の絞り紐が解けない。強風がテントを煽って紐の結び目が硬く締まり、緩められない。手袋が邪魔で素手になる。忽ち指先が凍りついて動かなくなる。慌てて手袋をして指を暖める。

  私のチョモランマ

  そのⅣ        村上映子

 風が一瞬やんで手元に日が当たる。僅かな間を逃さず手袋をとって慎重に紐を解く。やっと解けた。入り口に屈みこんでから30分間も格闘してしまった。


我ながら粘り強くよく耐えたものだと関心すると同時に、高所で強風で晒されたら些細なミスが命取りだと良くわかる。転がり込むようにテントに入り、やっと風から身を守る事が出来た。

 
 雪を溶かし水を作り食事の用意にかかる。交信タイム、トランシーバーのスイッチを入れる。高所キャンプはどれほど厳しいかとの予想に反して、「こちらのテントでは風はありません。稜線出ると激しい風なので、これ以上は上がれません」


 高所キャンプはノースコルの巨大なセラックに守られて、信じられないことに殆ど無風だと言う。但し巨大な氷壁がいつ崩れるか、精神的には安全地帯ではない。

僅かな地震でもあったらコル一帯にある数百のテントは、叩き潰されるであろう。予告なく一瞬にしてその悲劇はやって来るのだ。 
 トランなシーバーを切ると、風の叫びとそれに応えるテントの唸りが、猛烈な勢いで襲いかかりテントを揺さぶる。

 明朝8時17分の定時交信まで14時間もの間、もう誰とも繋がることなく一人なのだという思いが湧く。一人なのに前よりテントが狭く感じる。風圧で押しつけられテントが変形したのだ。天井部分の縫い目がほつれている。どうやらテントポールが折れてしまったらしい。

 
 難破しかけた船で嵐の海を彷徨っているようで、あるもの総てを着込み早々にシュラフにもぐり込む。高所キャンプでは氷壁崩壊に脅え、ここでは風に脅え眠れぬ夜がやってくる。


私のチョモランマ 

そのⅤ          村上映子

烈風がテントを揺する。ロック会場で轟音に包まれているつもりにでもなろう。目を閉じると、いつの間にかウトウトする。けれども定期的に目覚めトイレの為外へ出なければならない。


 この作業はなんとも辛い。しかも時間がかかる。テントの入り口を通常通り縛っておくだけでは解けてしまうので、シュリンゲやカラビナも動員して固定する。出入りのたび工夫を凝らし、解けやすく止めやすい方法が進化する。

 外は地吹雪で目を開けるのも辛い。冬の五竜岳でテントが壊れたことがあったが、それ以上だ。体験した事のない程の風の夜。心身共に疲れる夜だ。


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 明け方、嘘のように風が止んだ。眠れる。目覚めた時には、又激しくテントをたたく風の音。しかし夕べの凄まじさに較べれば可愛いものだ。8時20分、太陽の光がテントの中まで届く。暖かいとまでは言えないが、太陽の何とありがたいことか。しかし一晩風に揺すられた体は消耗している。

 
 ノースコルに登る体力はもう残っていないだろう。けれども、一人ぼっちで風とここまで徹底して向き合ってみると、不思議な事に何か清々しくさえある。自分が目一杯闘ったというような充足感さえあって下山すると決めたときも後悔は無かった。


 ノースコルの強風は知っていても、コル基部の雪原に吹く過酷なまでに強烈な風を知っている人は、果たしてどれほどいるだろうか?私のチョモランマは、この烈風の記憶無くしてはありえない。

 
 コル取り付きのザイルが張ってあるところまでは行ってみた。だからどのように登るかのイメージは出来ている。たぶん実際に取りついていれば、体力さえ充実しているときならば、コルまで登ることは可能だろう。

 
 たつた一人で一晩中、あの強烈な風の洗礼を受けたおかげで、何故かチョモランマに受け入れられたような気がしている。こんな山との出会い方があってもいいのではないかと思っている。

           (最終回)

 

 

 

   8848の嘆き 

 え!ここもチベット?   坂原 忠清

 汚いとは予想はしていた。しかし人跡未踏の静寂のチベットに登り続けてきた私にとって、そこは余りにも耐えがたい喧騒と汚染の地であった。

 商業登山が入り込むことによって、喧騒と汚染に拍車がかけられ、金、権力、名誉等本来の登山の本質とかけ離れた下界の論理が出没する地でもあった。

 水・・・が飲めない!苦しみの多いヒマラヤ登山での楽しみの1つに《氷河流し素麺》がある。・・・高所での登山活動を終えBCに戻った翌日は、朝からのんびりと音楽を聴きながら本を読んだり、ビアを呑んだり。
 
 いつもコック任せの食事も、この日は自分達で日本食を作る。氷河が近くにある時は《氷河流し素麺》が最高。

今回の我々のABCは標高6400m、氷河の畔にあり《氷河流し素麺》には絶好。
 だがしかし、それが出来ないのだ。氷河の水が使えないのだ。

 42隊、400人と云う今期チョモランマ村に恐れをなし、我々のABCはテント村から2kmも離れた静かな場所に幕営した。にも拘らず氷河の水が使えないのだ。
 糞尿・・・が混じっていて、臭くて飲み水は勿論、麺を晒すなんて不可能。何の糞尿?

 400人の人間が生活する為の衣食住はヤクが運ぶ。巨大テントから燃料ガスボンベ、酸素ボンベ、コンピューターシステムまでヤクの背に乗せられる。

 連日ヤクの交通が途絶えることはない。
そのヤクの糞尿が標高5154mのBCから6400mのABCまで、延々と振り撒かれているのだ。

 テントサイトで放牧されたヤクは当然辺り構わず歩き回るので、糞もばら撒かれ、何処で水を取ろうが、ヤクの糞尿に味付けされている。沸騰させても臭い、色、味が消えることは無い。

 お茶を飲む時も鼻をつまむか、鼻の息を止めて飲むしかない。どうしても臭いの無い綺麗な水が飲みたければ氷河の上部の氷を割って融かすしかないのだ。

 そんなことやってたら、燃料ガスボンベが何本あっても足りない。結局、《氷河流し素麺》どころか、素麺そのものを食べられなかった。

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 30回を超える遠征で素麺が食べられなかったのは、今回が初めてである。まさか水が飲めない程汚染されてるとは・・・・・!

 商業登山・・・ノースコルまで1人350万円前後、頂上まで650万円程で貴方も登れます、と商業登山が横行する。一方で組織の力に押し潰された隊員が「高所キャンプへの登山を禁止されました」と嘆く。

 ラッセル・プライスの商業登山隊には今年も、日本人を含め世界各国からクライアントが集まった。百名山ならぬ7名山・7大陸の最高峰を目指す、《Summit隊》と称する商業登山隊も徘徊。

 揃いのユニホームに身を固め、中高年を中心にチョモランマ街道を闊歩する商業登山隊は《Summit隊》だけでなく、他にも把握出来ぬ程沢山居る。日本の百名山ツアー版そのものである。「世界の最高峰」が金儲けの対象になって何故悪いの?
 金儲け主義への反発や組織内で失われた自由の復活を求める、1つの場としての山は出番を失いつつあるのだろう。

 商業登山とは別の権威や多額資金で組織された登山隊の嘆きも聴いた。登攀副隊長が登頂だけでなく、高所キャンプへの荷上げも禁止された。組織内で何があったかは解らないが、禁止理由は定かではない。

 組織の命令は天の声であり、背くことまかりならぬ!と云うことらしい。下界論理がここチベットでも横行している。いやチョモランマは最早チベットではないと考えるべきなのかも知れない。

  


  協賛に感謝    坂原 忠清

 8年間連続して組まれたチベット遠征、34回にわたる海外遠征登山、莫大な費用と時間が要求されたことは言うまでもない。

 尽きる事のない情熱があって初めて持続可能な行動である。その情熱を支え、実現への途を開いてくれる人々が居て、初めて高峰への出発は可能になる。

 長年にわたる朝日新聞社の後援、たくさんの協賛企業、そして何より毎年欠かさずカンパしてくれる佐藤年子さん達の協賛には感謝!感謝!である。

 

 今回は岩本、近藤氏が中心となって出発5日前の4月12日に「退官を祝う会」と称して【青いけしの会】が、宴席を設けてくれた。この青いけしの会のバックアップがかつての当会の遠征を精神的に支えてきた。

 岩壁登攀、冬山合宿、氷壁登攀を共にした懐かしい顔が揃い、楽しいひとときを過ごした。それにしても「退官を祝う会」とは、考えも及ばないタイトルであった。いつも足りなくて,欲しくて、欲しくてたまらなかった時間が、これからは自由に使える。
 
 時間の奴隷から開放されたことを知って、珊瑚海が盛んに私に秋波を送る。これからは山だけでなく珊瑚海にも自由にでかけられるのだ。




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   高所順応表
(坂原)


行動:-  体温:-
SPO2:-  心拍数:-
高山病自覚症状:-



     高所順応考察Ⅰ 坂原

 実質的な高所行動期間
(標高5500m以上、4月24日~5月14日まで)
のデーターで比較すると
坂原の動脈血中の酸素量は3人の中で断トツに低い。

 下界でこの数値であれば、
重病人で死の直前である。
にもかかわらず何故、行動可能なのか?
まず3人の比較データーを以下に記してみよう。



SPO2 心拍数 酸拍比SPO2÷心拍数 酸拍比の
Min Max  Min Max  Min Max 
坂原 51 76  53 84  0.61 1.73  1.2
村上 58 90  65  101 0.58 1.38  0.8
大田 64 88  62  88 0.78 1.42  0.6


 
SPO2でみると坂原は重病人、太田は高所民族・チベット人並みの数値。心拍数でみると坂原はチベット人以上の低心拍数である。
両数値の比較値・酸拍比は太田がMin値で高所型人間を示し、Max値では坂原が圧倒的な強さを表している。


 酸拍比の幅は坂原が2名の2倍近い値を示している。
これは高所順応の順応能力の大きさを意味し、適切な順応方法をとれば充分な順応が可能であることを表している。

 
 SPO2の低下をカバーするために心拍数を上げるか、1回拍出量を増大させるか、心臓は選択を迫られる。坂原の心拍数が上がらないと言うことは、
通常の1回拍出量が大きい事を示している。


 低酸素型人間でありながら、常に坂原がトップで行動出来た最大の要因は、この1回拍出量の大きさにあると考えられるが、
その結果がSPO値に反映されないと言う疑問が残る。(ヘモグロビンの酸素交換効率を調べる必要あり)

いずれにしても、トレーニング過剰で坂原は心臓肥大となり定期健康診断ではいつも要注意と警告されている。やはり終焉は近いのであろう。

 


 


  高所順応考察Ⅱ 大田

 驚いた。太田のSPO2は標高5千mで95、その後標高が上がるに連れて70を割るが2日で回復し80台になり、ラクバリ登頂後は80に近い値を示している。

 この間坂原の値は60台、比較的高所順応に強い村上も、登頂後は50台まで落ち込んでいる。

 7千mのノースコルに幕営した時はさすがに太田のSPO2値は急激に下降し70を割ったが、即90近くに復活している。90近くから一気に60台への下降は、7千mでの高所順応に課題を残すが、7千m未満での太田のSPO2値は、高所順応型人間を示している。

 今後の高峰での活躍に期待されるが、問題は負荷能力不足である。今後のトレーニングが期待される。



  高所順応考察Ⅲ 村上

 アタック直前の5月2日のデーターは素晴しい、SPO2値は標高6500mで下界の値に近い90を示し、起床安静時心拍数は65。

 酸拍比は1.38で遠征期間中での最高値を示した。高所順応のためABCからMCへ標高差千mを下り、再びABCへ戻った翌々日の値である。

 
 高所順応の効果は抜群で、最高のコンディションで、アタック態勢に入ったことを示している。しかし初めて7千mを超え登頂を果たした翌日の心拍数は100を超え、その後も高値を維持し、反対にSPO2値は最低値を示した。

  登頂翌日の酸拍比の値は0.58と最低値で、アタックで如何に疲労困憊したかを表している。問題はその後で高心拍数が続きSPO2値も回復せず結局ノースコルへ上がることが出来なかった。

 
 アタックでの疲労困憊は、むしろ太田の方が激しい。ABC直前で交信の必要が無いにも係わらず交信しようとし、トランシーバーを落としたが、そのこと自体を覚えていないくらい太田は疲労していたのである。

 しかし太田の回復力は早く酸拍比の値は1.14を示し、ノースコル(7028m)への登高を可能にしている。これが太田と村上の決定的な相違である。村上の課題は疲労からの早い回復力の達成にある。

   


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