ガルマ峰(6484m)単独初登頂
                                                          隊長 坂原忠清

絶望に満たされた重い肉体を引きずって
ヨロヨロとモレーンを下る。
ヒマラヤ登山を始めて、これで6人目、7人目となる2名のザイルパートナーを失ったことになる。

特にニマ・ツェリンとは3年間にわたり、チベットの未踏峰を4座も登り
掛け替えの無いパートナーであった。


ヒマラヤ登山記録


第4回チベット未踏域遠征隊

派遣母体: 日本教員登山隊、スビダーニェ同人
遠征隊名称: チベット日本教員登山隊2001
後援: 朝日新聞社、川崎市国際交流協会
目的: ニンチンカンサ峰(7206m)の未踏稜からの初登攀
隊の構成:   隊長:坂原忠清
   隊員:村上映子 チベット隊員 ニマ・ツェリン(35歳)、ピンゾー(22歳)
   連絡官:ニマ・ツェリン、登山学校生徒(特別参加):ティンジ(16歳)
 遠征期間:  2001年7月21日~8月17日
遠征結果:  ニンチンカンサ・ガルマ峰の単独初登攀(坂原)&東稜第2登(ニマ&ピンゾー) 


遠征日程概要



7月22日: 東京→バンコック 昨年ビザの取得が出来ず出発が遅れたので今年はKTMでビザ取得予定(日本の花火大会で昨夜10人死亡) 8月3日: ABC→氷河 C1への荷上げ開始。下山したニマが夕刻にABCに戻る。TMAに救助要請が届く前に阻止出来たようだ。
7月23日: バンコック→カトマンズ KTMでのチベット入国のビザ取得は日数が掛かり難しいとの事であったが、本日中に可能か? 8月4日: 休日 メールランナーが手紙を持って来る。
  7月24日 カトマンズ→ラサ KTMで再入国ビザ代として1人85ドル取られるが問題無くビザ取得し問題無く出国。ラサで登山学校訪問。授業中の教室に入り生徒21人と一緒に話す。 
  8月5日: ABC→C1(坂原) 東稜(ニマ、ピンゾー) 登山再開。C1でガス無し寝袋無し着の身着のままで坂原ビバーク。 
7月25日: ラサ滞在。HAJ隊長酒井から高山病女子隊員の同行を依頼される。明日我々と一緒にナンガツェに向かう。ネパール国境のナンパ・ラから戻った校長ニマと合流。ヤクキャラバンを組んで靴を搬入したとか。 8月6日: 坂原がガルマⅠ、Ⅱ峰初登頂(9:30)、ニマ、ピンゾーがニンチン第2登に成功(11:30)し両隊共にABCに戻る。
7月27日: ラサ→ナンガツェ(4330m) 何度目かのポタラ宮見学後15時30分出発、19:38着。民福旅館(シンフー)泊 8月7日: 昨夜から降り続いた雪の中をペンマ少年がABCを訪問。早朝3:30に家を出て5時間でABC着。帰路キャラバン手配の為ニマと即下山  
7月28日: ナンガツェ→カンボBC(4680m) ペンマ少年の村でヤクを手配しカリ・ラ(4830m)まで行ってしまい戻る。10:10 発、BC12:20着。  8月9日: ABC→P3 10:50発、16:10着 東稜Ⅲ峰に村上と登頂。手術後の脚に金属を入れたままでよく頑張ったな!
7月29日: BC→ABC(5130m) 11:45発、14:50着 二股急登で馬の荷が落下。逃げた馬を追って荷を積むが再び落下。谷に落ちた荷の回収。 8月10日: ABC→BC(カンボ) 14:06発、16:10着 高所キャンプ撤収、BCでの梱包と慌しく時間との闘い。 
7月30日: ABC→C1への偵察試登。 ガルマ稜下部氷河5460mまで登る。6羽の大きな雷鳥に遭遇。チベットでは珍しい。   8月11日: BC→ラサ ニマの娘ニージュン(7歳)とデブン寺、カンデン寺を訪ねたりの日々を以後過ごす。   
7月31日: ABC→C1への荷上げ。9:15発、11:20氷河取付、17:17定時交信「酷い雪です」を最後に交信途絶える。ニマ、ピンゾー行方不明。   8月12日 Ang Sangの大型油絵《聖地》(後、時空の渚と改題)を坂原のホテル前に数人の学生が運ぶ。目を付けていた作品なので即購入を決定。KTM,BKK、NRTを経て山荘へ。
8月1日: ABC→氷河 昨夜1晩中の交信呼びかけに応答無いので坂原、村上で捜索に出動。TMAへの救助要請書を持たせティンジーを下山させるが、午後の定時交信で無事確認。ニマ救助要請取り消しにティンジーを追って下山。下山途中でクレバス落下や滑落、被雷にあい交信不能になりビバークし、午後になってやっと交信出来たとのこと。   8月13日 ラサ滞在 ニマの友人・ダワの開いた生簀のある高級料理店「海鮮酒楼」に特別招待。明日開店とのこと。チベッチで刺身が食えるとは驚き!河口慧海が知ったら何と云うか?
  8月14日 ラサ→KTM ゴルカ宮殿で王室料理とダンスのディナー。  
  8月17日 KTM→BKK→東京 BKKでは泊らず乗り継ぎ。   

 
 

BC
ABC
C1
C2
位置
:未踏峰
:既登頂峰
:登山基地
:前進基地
:第一高所キャンプ
:第二高所キャンプ
:北緯28.9°東経90.1°


Page1

ガルマ稜試登
ニンチンカンサ7206m


 7206m、未知なるニンチン・カンサ東面に再び入る。広大な雪壁の南を画する東稜の単独登攀に成功し、7千mの未踏域にすっかり魅了され仲間を集い第4回チベット未踏峰遠征隊は組織された。
 
 目標は東稜より長く困難なガルマ稜である。しかし昨年と同様、予定していた隊員は次々と脱落。本年も単独登攀を決意していたが、どうやら1名だけ最後まで残り、計2名になった。
 
 1名はステンレスを右足に嵌め込んだままのサイボーグ村上。もう1名は6年前右足腱後部を3分の2切除し、左の手術をも医師に命じられ手術を1日延ばしにしている坂原。・・・負傷兵2名の試登は7千mラインを超えられるか、面白い展開になりそうである。

 
 ガルマ稜は6222mと6484mの未踏峰を連ね、ニチン・カンサ東面の北の雪壁を画している。この2つの未踏峰を登るだけでも充分興味があるが、その先の頂上に続く鋸歯状のリッジが7千mに位置し、どんな登攀になるか楽しみである。
《全ては左アキレス腱が握っている》とのことである。

(会報2017号より)

救助要請   ビバーク

   登頂 ガルマ峰

 波乱万丈を絵に描いたような遠征であった。キャンプ1への荷上げの初日、チベット登山学校長、且つ我々のリエゾンフィサーでもあるニマ・ツェリン(35歳)と登山学校3年生の優秀な生徒ピンゾー(22歳)が「ひどい雪です」の交信を最後に消息を絶つ。

 翌日、TMAに救助要請をすると同時に捜索開始。下降路に使ったと考えられる北氷河を捜索するが、表層雪崩の跡を3箇所確認しただけで1日が終る。絶望に打ちのめされた重い肉体を引っ提げてBCへの帰路に着く。そこで奇跡が起こったのだ。

 遭難事故にめげず。85日ガルマ峰6千mでビバーク。翌6日朝825分ガルマ峰Ⅱ峰(6222m)登頂、930分ガルマ1峰登頂。しかしその先の鋸歯状稜は予想以上の悪相でかなりの固定ザイルが必要になりそうである。

 チベット側からの提案で、来年度フランス山岳連盟とチベット、日本の3国合同でガルマ峰をやる計画が動きだした。合同登山ではチベットへの支払い金が減額されるので遠征費用は一人90万円で済みそうである。

(会報2019号より)

 救助要請

The Request of Rescue

 Mr Nima & Ping Co vanished 31/7 17:17.They located on the glacier about 5600m.I contnued to contact by walkie-talkie until next morning(1/8).

But They didn‘t accident.Ijuded that they
 are in a some accident.

Just now we will search them.

Hurry I will request your Resque..

Japan Teacher‘s party 2001

Noijing kangsa

Leader SAKAHARA TADAKIYO

1-Aug-2001

At Garma Co Base Camp

    第2信

8月2日ガルマ湖BCにて

―遭難―

  「ひろい(ひどい?)雪です」を2回繰り返し、BCまであと1時間という地点で、ぷっつり消息を絶った。731日午後517分の定時交信であった。

  その後の必死の呼びかけに対しても応答無し。ニマもピンゾーも各自トランシーバーを持っているので、2台が同時に故障したとは考えられない。闇が迫り、霙もひどくなり、荷上げ後で空身の2名の生死が切実な問題となる。

 登山学校
1年生のティンジーが、優秀な3年生のピンゾーと尊敬する校長ニマを心配して、ガルマ稜を見上げる。とても16歳には見えぬ。先輩や恩師を心配しているようには見えず。父や兄の安否を気づかっている真剣な眼差しである。

 気が付いた時にはもう遅かった。闇の中をヘッドランプも食料も持たず、単身でガルマ稜に向かって登っていってしまった。
ガルマ稜末端の岩稜に立つティンジーのシルエットが僅かな明かりに浮かぶ。このままではティンジーまでも失ってしまう。


Page2

 急いでトランシーバー、ヘッドランプ等を用意しティンジーを追うことにした。長時間の活動も予想されるので、まず何かを食べなければと、残りのヌードルを食べ出発しようとすると、闇の中から岩のぶつかり合う音と共にティンジーが現れた。

 しかし何時間経っても、
2人からの応答はなし。登りと同じルートを下ったのなら捜索に出掛ける事も可能だが、1617分の交信で彼らは北の氷河を下りたいと連絡してきた。北の氷河が何処なのか明確ではない。捜索のしようがないのだ。

 交信の途絶えた原因は、突然のアクシデント以外には考えられない。まず第1に考えられるのは、ヒドンクレバスの落下しかし2名が同時に落ちるとなると、並んで下っていたかヒドンクレパスが大きいかのどちらかになる。

 第2に落雷、そして第3に雪崩。いずれにしても遭難場所を特定する事は不可能。その上この悪天候と闇の最悪の条件下では、動きようがない。ビバーク装備を持たぬ彼等にとって、この
1時間1時間が生死を分ける重要な時間であることは確かであるが手のうちようがない。

メステントの中ではケロシンランプの元に沈黙を続ける3名は、時と共に絶望感を深くしていく。まずティンジャーを寝かせることにして、自分のテントに戻るように指示する。「イヤだ」と言い張るティンジーも何度目かの説得に、しぶしぶ自分のテントに戻る。メステントと隊員の明かりは一晩中つけておき、トランシーバーも開局したままにして、我々もテントに引き上げる。

―ガルマ稜へ―

 この日C1に初めてのデポを行うため、ガルマ稜上のガルマⅡ峰(6222m)を目指し、坂原、ニマ、ピンゾーの3名で915BCを出る。

 BCの北側に聳える岩山の東面を巻くようにして登る。モレーンを避け、アンドロサスやシオガマ、ベンケイソウ、エーデルワイスの咲くアルム上のルートをとる。1時間半でガルマ稜側壁にかかる氷河に出る。

 ここでプラブーツに履き替え、アイゼンをつける。自分のアイゼンであることは確かなのに、なんとアイゼンが小さくて靴に合わない。焦る。六角レンチがあれば、すぐ調整できるのだが
BCに置いてある。

ニマとピンゾーに工具を持ってないか聞くが、持って無いという。ナイフ一丁で何でもやってしまうピンゾーが、ナイフでボルトを回そうと何度も試みるがビクとも動きはしない。一体、何故、自分のアイゼンなのに靴と合わないのだ。

考えてみると、昨年2足持っていた一方のアイゼンをリエゾンオフィサーのタシに貸してやるために、タシの靴に合わせたままにしていたのだ。そのことをすっかり忘れていたなんて・・・クソー!

アイゼン無しで登れないか、氷河を登ってみる。表面は新雪が着いていて柔らかいのだが、数cm下はカチカチの氷でアイゼンなしでの下降は不可能。泣く泣く彼らとの同行を諦め、2名に荷上げを頼んだのである。

その後2名はガルマⅡ峰の手前2時間程の所をデポ地点とし、1617分の交信で下降していることを連絡してきた。2人の体調も良好で、天候もモンスーン期にしてはそう悪くなく、まずまずうまくいっていたのである。

―捜索活動―

翌朝81日、明るくなると同時にメステントに集まり、今日の行動指示を出す。
(1)   救助要請書を英文で作成し、ティンジーに持たせ、ナンガツェまで下らせ、TMAにFAXで送る。
(2)   坂原と村上は捜索活動を行う。


 朝
1010分、ナンガツェに下るティンジーを見送り、我々2名も1104分捜索活動を開始。

南氷河舌端のプラブーツデポ地点でアイゼンの調整をし、北氷河を目指す。手前の南氷河は昨日のトレースが明確に残っている。氷河の下部は、傾斜も緩いので、アイゼン無しでトラバースしようと試みたが、カチカチに凍っていてとても通過出来ない。仕方なくアイゼンをはきトラバース。

広い北氷河末端近くに、人間の形をした2つの黒い影が横たわっている。雷に直撃されたような影に見える。影の正体を一刻も早く確かめたいが、トラバースすると岩のクローワールに入り込んでしまい。北氷河は見えなくなってしまう。急いでクーロワールを抜ける。

氷河末端のモレーン大地に出ると、北氷河の全容が広がる。2つの人間の影に見えたのは、岩であった。それにしてもよく似ている。安心すると同時に彼らの安否が、重く伸しかかる。

 氷河の対岸にいる村上とトランシーバーで連絡をとりつつ、現場の写真を撮り遭難の原因を探る。ヒドンクレバス落下の可能性が一番高いが、ここからでは遠くて何処にそのクレバスがあるのか判らない。


Page3

 又落下地点は小さな人間大の穴が開いただけで、クレバス全体は姿を見せない場合が多い。つまり落下地点の特定は不可能に近いのだ。

ただ不思議な事に登りのトレースは明確に残っているのに、くだりのトレースは幾ら目を凝らしても発見できない事である。登りに使った南氷河は急な上、氷が堅いので北氷河に下ると言っていた。この目の前の氷河を下ったことは間違いないのだが、トレースは発見できない。

氷河の北側は上部の稜線に雪庇を付けているので、そこを避け南側を下ったはずである。南側を注意して見ると、上部のセラック帯から表層雪崩が発生している。やや小さい雪崩が中央と北側から発生しており、この氷河も下った場合どのルートをとっても雪崩にあった可能性は高い。

 村上にトランシーバーで伝える。「雪崩の跡を3ヵ所発見。あの雪崩のどれかにやられた可能性が高いと思います。南側の雪崩の端末には、大きなデブリの山が出来ています」


この日、最初の大きな雷鳴が天空に響きわたる。モレーン台地の一番高いところにケルンを立て、急いで下山を開始。明日あのデブリを捜索すれば、2人を発見出来るだろう。

―奇跡―

絶望に満たされた重い肉体を引きずって、ヨロヨロとモレーンを下る。ヒマラヤ登山を始めて、これで6人目、7人目となる2名のザイルパートナーを失ったことになる。

 特にニマとは3年間にわたり、チベットの未踏峰を4座も登り、掛け替えの無いパートナーであった。ピンゾーはK2峰(8611m)遠征を体験し、登山学校初めての卒業生となる22歳の好青年である。

 今後は登山学校の教師として残り、大いなる活躍が期待されていた。ニマはTMA幹部、登山学校長のみならず、若きリーダーとしてチベットの未来を担っていく男であった。ラサ郊外にスキー場、ホテルを建設する計画を私と熱く語りあったこともある。

 未だ35歳の若さで、航空会社代理店社長の奥さんと小学校1年の女の子がいる。
いくら強い男たちであっても、ビバーグ装備、食料なしで、あの激しい風雪には耐えられない。奇跡なんて、そう起こりはしないのだ。

黒い湖の畔にわれわれのBC、3つのテントが見えてきた。人影の絶えた小さなテント村は、ひっそりと佇みただ虚しさのみが漂う。せめて明日、2人の遺体がスムースに発見されることを祈ろう。

オープンにしているトランシーバーに雑音が入る。ガーガーと煩い。それにしても文明の辺境の地にあって、この特殊な我々の周波数14440MHZを使っているカンパニーがあるなんて信じられない。きっと自然現象の中で発生する雷の類の電波なのだろう。

 「まてよ、もしかしたら」発信スイッチを押し、コールしてみる。
「This is SaKaHaRa.
This is SaKaHaRa.Over」「ガーガー」
阿呆らしい。自然現象に向かってコールしても返事があるはずがない。

 ふとカールセーガンのセチ計画を思い出す。

広大な宇宙に向かって他の知的生命の存在を信じ、発信し続けるカールセーガンのセチ計画。勿論未だ何の返事もない。あるはずずがない。
 奇跡なんてありはしない。

 「ガー、ガー、ピン、ガー」何だ。
ピン?もしかすると!
 「Are You PingCo?Over」
「ガー、ガー」
 無数にある自然電波の中に「ピン」と間違える音があっても不思議ではないさ。
 「ガー、ガー、ニメです」
えっ?・・・ニマ!・・・
 ニマもピンゾーも生きていたのだ。歓喜に身が震える。奇跡は起こったのだ。


第3信

8月12日於ラサ

8月6日8時25分 ガルマⅡ峰 6222m
   坂原、単独初登頂

8月6日9時30分 ガルマ1峰 6484m
   坂原、単独初登頂

8月6日11時30分 ニンチン峰 7206m
   ニマ、ピンゾー、東稜より登頂(第2登)

8月9日14時15分 ニンチン峰P3峰 5754m
   坂原、村上登頂

     ガルマはチベット語で「星」の意味。

  BCの湖名に因み坂原がガルマ峰と命名。

―再びガルマ稜へー

 ガルマ稜の偵察と荷揚げを兼ねた7月31日の行動で、ルートを失いニンチン・カンサの北面へ迷い込んでしまった2名は,翌日夕刻ABCに戻った。

 ヒドンクレバス落下、被雷、滑落、下降ルートのミスが重なり、更にガルマ稜取り付きの氷壁の悪さ、その後に続くルートの困難さを体験した2名は、ガルマ稜からの登攀を断念した。

 荷揚げしたテントや個人装備など全て破棄する。その代わり昨年坂原が初登攀した東稜からニンチン峰に登
りたいとニマが希望を述べる。日本隊の2名は、予定どおりガルマ稜に向かうことにする。


Page4

 8月5日(5日)曇午後雪

坂原、村上はガルマ稜6000mの荷上げ品デポ地点への最終荷上げを行うため、8時20分ABC発。チベット隊2名は8時20分東稜に向かう。

氷河取り付きまでで村上は疲労が酷く、荷上げを断念。坂原単独でガルマ稜に入る。今後も村上がガルマ稜を登れる可能性は、殆ど無いため1人でガルマ峰を目指すことを決意する。

荷上げだけのつもりでABCを出てきたので寝袋も高所服も持ってきていないが、今夜はデポ地点でビバークし、明日一気にアタックしガルマⅠ、Ⅱ峰を登る事にする。ビバークといってもガスが既に荷上げしてあるので雪を溶かし水を作ることは出来る。死の危険はないであろう。

北氷河のルートは標高差900mの雪壁となっており、休息ポイントがなく、ほんの少しのスリップも許せない。ただひたすら、アイゼンを効かせて上り詰める。東稜のチベット隊、ABCに戻った村上、ガルマ稜上の坂原と3局中継でトランシーバー交信を行いつつ荷上げをする。

両隊がテントを張り終えたのが15時。寝袋や高所服はないが、ガスがあるので水を作って高所食の調理は出来るし、ある程度の暖もとれる。ビバークではガスは唯一の命綱である。

 さてガスをつけるかとガスヘッドを取り出したとたんギョッとする。見たことも無い韓国製のヘッド。何処を探してもカートリッジのバルブを開けるニードルが付いていない。どう工夫してもガスはでない。

ナイフについているニードルでバルブを押すと、ガスはでるがこれに火をつけたら、爆発してしまう。坂原のヘッドはニマに渡してあり、現在ニマが東稜で使っている。定時交信まで待ち、ニマにヘッドの不足部品に問うが「持って来るのを忘れた」と言う。

 「忘れた」では済まない。坂原はガスを当てにして,既にビバーク態勢に入っている。ガスがつかなければ一滴の水分もとれず、食材も調理出来ず、寝袋無しなのに、僅かな暖をとることも出来ない。かつてない悲惨なビバークとなる。

 風雪が強まれば、凍死の危険性もある。
必死にガスヘッドを調整してみるがニードルが無いので火はつかない。風雪の中を下るか、ガス無しのビバークを決意するか?今から下れば途中で暗くなり、表層雪崩の恐れもあり、かなりの危険を覚悟せねばならない。

4日前、この下りでニマとピンゾーは行方不明となり、生死の境を彷徨ったのである。そのあげくルートを誤り、ヒドンクレバスに落ち、雷にやられ髪の毛が逆勝ち、岩場で滑落し、ニンチン・カンサの北側に下り、激しい雪の中、死のビバークへと限りなく接近していったのだ。

彼らの二の轍を踏むわけにはいかない。ガルマ稜のルートは決して甘くはないのだ。彼らはビバーク直前に、運よく遊牧民のテントに救われたが、僥倖を予定に入れるわけにはいかない。ビバークを決意する。

―ビバークー

 何度かヒマラヤでのビバークを体験しているが、何はなくともガスだけは常に確保していた。ガスさえあれば、ビバーク中に死ぬようねことは滅多にない。

しかし今回はガスが使えない。荷上げした3日分の食料は行動食のみ含まれていない。つまり水がなければ調理出来ない高所食だけであり、食料無しに等しい。水無し、暖無し、食無しの限りなく死に近いビバークとなる。

薄い1枚の銀マットを通して、背中に氷の冷たさが、痛みを伴って突き刺さる。下界の半分以下の低酸素の中で、呼吸の自動装置が止まる。意識的な腹式呼吸をせねばならず苦しい。未だ6000mでの高所順応が出来ていないのだ。

東稜隊はガスを使ってたっぷり水を作り、食事を終え寝袋に入ったとの連絡が入る。ABCと明日早朝の交信時間を決め、トランシーバーを切る。

いよいよ寒気と低酸素との1人の闘いが始まった。『1時間は動かず寒さと闘う』との決意はすぐ崩れ、体を暖めるため腹筋開始。100回を1セットとして20時30分に1回目、1セット開始。

 低酸素の腹筋は苦しい。だが、その苦しさよりも、寒気による苦痛の方が遥かに大きいのだ。腹筋100回後の数分間は、僅かに体が温まり楽になる。しかし、たったの数分間である。

 この数分間の思い出を胸にして、2時間は寒気と闘わねばならない。が、どんなに頑張っても1時間とは持たない。時間が急に緩慢になり、無限に長くなる。2回目の腹筋を21時20分に開始。50回を超えると低酸素のため、苦しくて体が上がらない。


Page5

 2階、3回、腹式呼吸をしながら、やっと2セット目の100回を終える。結局、朝7時17分の定時交信までに十数セットの腹筋を行い、その数、数千数百回を越えて生きて朝を迎えた。尾てい骨は擦りむけ出血し、氷の上での千数百回の腹筋のすさまじさを物語っていた。

ーアタックー

一睡もせず、8月6日の朝を迎えた。東稜隊、ABCとビバーク後の喜びの交信を交わす。アタックできる自信はなかったが、ここでアタックを断念したら、何のため苦しいビバークに耐えたのか意味がない。ガルマⅠ峰(6484m)、ガルマⅡ峰(6222m)に向けてビバーク地を出る。

ニンチン・カンサ主峰(7206m)が激しく流動するガスの中に見え隠れする。ガルマ峰が夢幻の妖しい美しさで、天空に舞い上がり、氷と雪だけでできた細く優美な姿態を惜しげもなく曝し私を招く。この世の物とは思えない美しさである。

ガルマ峰は6000mの稜線まで登らないと目にすることは出来ない。つまり地球誕生の創造以来、このピークは誰の目にも触れず私を待っていたのだ。そう思い込んだ途端、ついさっきまでのビバークの苦しさは総て消し飛んでしまった。

 夢中でシャッターを切る。
まずⅠ峰手前の台形のガルマⅡ峰の山頂に立ち、ABCに登頂連絡をし、そのままⅠ峰に向かい9時30分、初登頂に成功する。しかしガスに包まれ,視界は5m前後。ABCに天候の確認をすると、ガスが懸かっているのはガルマ稜のみで、ニンチン峰は良く晴れているとのこと。

飲まず食わず一睡もせずアタックは成功した。予想外に体は軽く、ハイスピードで動けたのはアドレナリンの分泌の影響があったのかもしれない。

-合同遠征隊―

ガルマ峰からニンチン峰まで標高差800mの岩稜は、予想以上に困難なルートで今回は偵察のみに終わった。チベット登山学校長ニマの提案で、チベットと日本の合同登山隊を組み、困難ルート大好きなフランス隊も仲間に入れる話がでた。

フランス山岳連盟のセージ・コニック(Serge Konique)と連絡をとり、3国合同で登るプランは悪くない。ニンチン峰に残された最後の課題を実現するには、容易ではない。だが充分に面白いことは確かだ。

(1)馬でBCへ

  村上映子

 カンポの草原に馬が上がってくる。子連れの母馬を含めて13頭の馬と4人の馬方だ。今年はヤクが確保出来ず、馬に荷揚げをさせる。栗毛も白も黒もいる。それぞれが水辺に草を食む。

 ところが馬たち、自分達の苦役を察したのか、馬方が荷の点検をしている間に1頭2頭と踵を返して、気がつけば半数以上の馬は村へ帰るつもりらしい。馬方がダッシュで連れ戻す。

 全ての馬に荷が積み込まれたが母馬だけは空荷。実はこの馬の荷は、なんと私であったのだ。未だ金属のボルトを嵌め込んだままの右足のせいではなくて、ラサ2日目の晩にブラックホール(歩道に開いている穴)にあわや吸い込まれそうになって、左足首を軽く捻挫してしまったせいである。

今まで一度も馬に乗った経験など無い。どうなることかと不安がいっぱいだが、隊長も「乗っていけばいい」と言うので、思い切ってトライする。

 馬方と尼さんとピンゾーに助けられ、石油缶を台にして馬の背をよじ登る。鐙の代わりの太い綱のわっかに足を入れる。しかしザックを背負ったままだとバランスがとれない。ザックは馬方の背に。私は自分の身体だけで馬上にあずける。

若い馬方は、鞍の上にかけてある毛布のような厚い布の端を両手で掴めと言う。手綱がないのだ。ところが両手で必死に布を掴んでいても、下り坂になると前のめりになり、馬から落下しそうで思わず悲鳴をあげる。

 馬方が慌てて私を押さえてくれ、馬を制御しながら下るがそれでも怖い。
細い崖際の岩だらけの道、いつ振り落とされてもおかしくないだろう。力一杯布を握り締めているうちに手の筋肉が攣りそうになる。

 後ろから付いてきているピンゾーが、途中で私に持ち方を変えるように指示する。左手は木製の鞍についている把手のような出っ張りを掴み、右手は毛布を。さっきより安定した。お尻が痛くなると聞いていたがむしろ脚の内側の筋肉が痛い。

最初の徒渉地点で先発の隊長隊に追いつき追い越す。私を乗せた馬が流れの速い河を渡る。大小の岩と冷たく勢いのある氷河の水が細い馬の足を捕らえる。馬方の膝を越す深さも所々あり、ひどく緊張しながら振り落とされまいと夢中でしがみついていた。


Page6

  (2)恐怖の乗馬
                   村上映子

 前を渡っていた馬方は片方の運動靴が流されてあわやのところで拾い上げた。別の馬方は背負った荷の横にぶら下がるようにしがみついて渡り終える。目の隅にそれらの光景を入れながら、幅10mはある流れを何とか無事に越えた。

 振り返ると対岸では隊長も馬の荷に跨って渡るところだ。他人事ながら渡り終えるまでハラハラして見守った。この分なら足を濡らさずにベースまで行かれるかもしれない。実際この先、数回の渡渉も馬のお蔭で靴を濡らすことはなかった。

 行程の半ばに難所がある。一旦川原に下り、一気に急登となる。心配していた通りに馬達は此処で反乱を試みる。斜面の真ん中まで駆け上ると前足で立ち上がり、胴震いをして背中の荷を振り落とすという暴挙に出た。放り出された青い樽があれよあれよと言う間にゴロンゴロンと崖を転がり水中にドボン!

 そのままゆっくり流れていく。大慌てで馬方が川に入り、幸い浅かったので食い止め担いで川原に引き上げる。坂の手前で私も下ろしてもらう。放り出されてはかなわない。歩いてみると険しい道の至る所に青いけしが咲いている。荷も散乱していた。上り詰めると広々とした草原に出た。

 彼方に馬がのどかに群れている。一瞬野生の馬かと錯覚する。どの馬も空身で裸馬同然だったのだ。振り落とされた荷や鞍の回収に馬方達は大わらわ。私の母馬は回収した荷を積んでいるので、今度は黒毛の馬に乗り換えるよう薦められる。

 歩いた方が樂だと思うのだが、好意も無にできないし、まして馬に乗る機会がまたあるとは限らない。母馬に乗っているときにはときどき子馬が乳を求めて腹の下に潜り込んでくるので気兼ねであったが、新しい馬は鞍も高く前にずり落ちないので乗り心地も良い。

 

 気持ちの良い草原を川に沿って進むと間もなく川は二俣となる。先頭を行く隊長は小高い丘を直進するが、馬の群はわざわざ渡渉して左州に渡り小さな草地で止まりそうだったが、ピンゾーが先導してに源流に向かう。もう一回渡渉して着いた所が,BCだった。湖が広がり湖面の向こうにニンチンカンサの巨大な壁が聳える。

 地には小さなピンクのシオガマの花が咲き乱れている。湖の畔にテントを張ることにする。素晴しい
BCになりそうだ。
3時間あまりかけて、初めての乗馬でベースに入った。見かけはともかく、馬上は優雅とは程遠く、かなりの苦痛と恐怖を味わったものの、最後には手綱を持って楽しんで乗れるまでになった。

 モンゴルの草原で馬に乗る・・なんていう事は憧れたこともあるが、初めての乗馬体験が、まさか渡渉あり、崖ありだなどと考えてもいなかった。3月の犬橇に続いて、夏の馬、今年は動物との縁が深いなぁと思いつつ、黒馬の鬣を撫でながら吸い込まれそうな黒い瞳をのぞきこんだ。

   (3)ガルマ湖畔にて

             村上映子

 ガルマ湖は《星の湖》という意味を持つそうだ。青いというより黒い湖水のこの湖は命を育むには余りにも冷たく過酷だが、この湖から流れ出す一筋の川は、やがて大地に豊かな緑を生み育てる。

 密やかに存在する湖は、宇宙の星々の美しくも冷たい
光と何処かで呼応しているのかもしれない。湖の畔に私達4人は小さなテント村を構え実にたくさんのドラマを経験したのだった。ガルマ湖畔で過ごした日々は忘れがたい。

連絡官・ニマ

ニマとは、今回で3回目の山行である。初めてチベットに来たとき、最初に出迎えてくれたのがニマ、それから既に4年の歳月が経つ。今回はテントの中でニマと語り合う時間が、たっぷりあった。

 

 ニマはいままでになくよく話した。この数年の彼の内面の変化がよくわかる。彼自身、5年前の自分と今の自分は変わりましたと言う。日本、フランスの滞在を経て,彼は外の世界から、チベットを見る視点も獲得したようだ。

だが同時に彼の成長は、彼がチベットで生きていくには非常に辛く、孤独な存在となりつつあることをも教えた。「チベットは複雑です」チベットの問題を語る彼の横顔も複雑だ。

ニマにとっては、チベットの同輩よりもときには我々外国人により親しみを感じ、彼の本音を語れると言う現実がある。だが彼は夢と希望を捨てない。

 チベット人としての誇りと共に、ニマの苦悩と希望の入り交じる表情を見ながら、かって読んだ詩、山本太郎の「若き友へ」を思い出した。


 認識が深まれば深まるほど彼はまた

孤独な高みを目指さざるをえない

だからこそ私たちは、ときに

岩棚で語ろうではないか・・・・


 問いは、やはり山頂で待っているのであろうか。孤高の道を歩むように見えるニマも、少年の無垢の微笑みを失ったペンマも、チベット登山界を支えていくようになるであろうピンヅォやティンジのような青年、少年も私たちにとって、かけがえのないチベットの若き友人である。

彼等の生き様と私自身の生とがどんな風につながり、響きあっていくのだろうか。ガルマ湖の畔で過ごす日々は、自ずと自らの生を見つめ直す時でもあった。


再び山へ

今年のチベット遠征は骨折した右足に金属が入ったままの状態であり、トレーニングもほとんどしていないため、今までと異なる不安もあった。けれども同時に、山での怪我と言う体験をした自分が、なおかつヒマラヤの未知の山へ行きたいと言う


Page7

そのエネルギーは何なのか、生命の源は何処から来るのか改めて確かめてみたいと言う、内なる欲求もあった。もちろん明確な答えなど出るはずもないのだが、ガルマ湖と向き合う日々は多くの問いを私の中から、引きずり出してくれたようだ。

BCで過ごす日々はシンプルである。外界からの余分な情報は一切ない。そこにあるのは、風の音、雲の動き、空の色、雪崩の音、香草の香り、そして湖のさざめき。言語を必要としない自然からのメッセージの豊かさは日常の中で、過剰な言語情報に晒され続けている現代人には、何よりの癒しの作用があると思う。

生命の湖

 ガルマ湖は、湖そのものがまるで1つの意思であるかのごとく自在に変化しては、多くのことを語りかけてきた。日や風や雪や大気の言葉を、更にきめ細かく伝えてくれた。

朝な夕なに湖面は、ニンチン・カンサの白い峰を映す。夜中、湖面の白い雪嶺に月明かりの輝きを更に強調し、静寂の中で一際神秘的な輝きが生れるのを見たときの敬虔な心地。夕日が湖面に砕けてキラキラ弾けるさまを眺めるとき、心まで弾ける。

 雨が落ちれば静かな水輪が、幾つも重なり合う。その大小の水輪のそれぞれが広がり、重なり合い溶け合ってゆくさまは、不思議な感慨を呼び起こす。方丈記の一節ではないが、水の動くさまが、人の心に醸しだす,諦観とも、悟りとも言い難い、何かしらの真理を心の深奥に伝える。

生と死、人の一生、心の流れと水の流れ、人と人とのつながりや人間の歴史・・・何もかもが、この黒い湖の動きの中に含まれているように感じられる。

雨上がりの夕方、水の動きが大きなうねりとなり、湖面に映し出された墨絵のような山の姿を、布を揺するような柔らかな動きで、より鮮明にする。この揺らぎを見つめていると、何とも言えぬ深い安堵感に包まれる。

自然が伝えるメッセージのどれ程を受け止めることが出来ているのだろうか。ただ、この湖の畔で過ごす時間の中で、私は私自身の命を、こよなく愛しいものとして無条件に受け入れていることを自覚する。生きていると言うことに素直に歓びを感じている。多分、私につながる生命・全ての人間、全ての生物の生命への深い共感と共に。

 村上氏は12月7日に固定金属除去手術を無事終え、現在大久保病院に入院中。

これで木村氏と共に晴れて脱サイボーグ。リハビリ中に村上氏は再度チベットへ、木村氏は山岳書の翻訳。・・・脱帽!

   チベット2002計画
    
 チョモカン  7048m北面

チベット・日本合同隊交渉開始

2002年のターゲットは7000m級の未踏ルート。

(期間:7月23日~8月17日)

 ①     ラサ西北西107kmに位置するチョモカン(7048m)の未踏北面ルートと未踏峰ザブラ(6564m)無名未踏峰(6228m)の登頂。
 ②     ラサ南南西110kmに位置するニンチンカンサ(7206m)のガルマ稜の初登頂


 ①で合意しそうである。チベット登山学校との合同チームで日本隊員5名、チベット隊員5名を予定している。スポンサーはスイスのオザック社、日本からはここ連年協賛してくれている企業各社。後援は朝日新聞社、国際交流協会になりそうである。

 現在
TMAと費用について交渉中である。12月14日,登山学校長のニマ氏より電話があり、TMA主催のK2参加を止めて我々との計画に参加したいと意思表明があった。


Next(キラ峰初登頂)

Indexへ