ヒマラヤ登山記録

ニンチンカンサ峰(7206m)東稜初登
                                                    隊長 坂原 忠清


脱出できなければ、ソロのクライマーは死ぬ。
私の意識の中に、当然の事としてプログラムされているその事実が
脚の無事を確認した瞬間に、鋭い痛みを消したのだ。

そう、あれは絶望の痛みだったのだ。

ヒマラヤ登山記録



 ここでは当隊の登山報告書に未収録の坂原,村上の記録を掲載しました。
従って報告書の出ていないチベット登山記録のみが収録されています。
原稿は当隊の会報からコピーしたので書体が不揃いで
読み難い処があります。
タイトル  遠征隊目標山岳  国・地名・実施年度  備考 
Mt Saka  サカ峰(6380m)他3峰の初登頂   中国・チベット・1998年  未踏無名峰報告書 
 カンディスミ峰 カンディスミ峰(6214m)他3峰初登頂   中国・チベット・1999年  未踏峰遠征報告書 
 ソロ・7206  ニンチンカンサ(7206m)未踏ルート・東壁東稜  中国・チベット・2000年  単独初登攀
ガルマ峰  ニンチンカンサ未踏ルート・ガルマ峰(6484m)  中国・チベット・2001年  ニンチンカンサ北方
 キラ峰  未踏無名峰北壁(キラと命名)6103m  中国・チベット・2002年  チョモカン北方
パヌ峰・6455  パヌ峰(ニェンチェンタンラ山脈)6455m他2峰初登頂  中国・チベット・2003年  他の未踏峰も登頂 
人類未踏の嶺への旅  チョー・サブ (7022m)チョ・オユー北西に位置 中国・チベット・2004年   「山と渓谷」初出 
ラクバリ峰  ラクバリ峰(7018m)、チョモランマ・ノースコル(7028m)  中国・チベット・2005年  チャンツェ断念 
カンペンチン峰  カンペンチン峰(7293m)シシャパンマ北方  中国・チベット・2006年   BCに到達出来ず 



  
※ 登頂概念図は以下で見られます。
ニンチンカンサ峰詳細地図
ガルマ峰詳細地図
パヌ峰詳細地図
キラ峰&Mt Saka概念
ラクバリ&チョモランマ概念図

ニンチンカンサ峰(7206m)の未踏域・東面からの初登攀

第3回チベット未踏域遠征隊

派遣母体: 日本教員登山隊、スビダーニェ同人
遠征隊名称: チベット日本教員登山隊2000
後援: 朝日新聞社、川崎市国際交流協会
目的: ニンチンカンサ峰(7206m)の未踏域・東面からの初登攀
隊の構成:   隊長:坂原忠清
   隊員:木村洋一、村上映子(両名共国内登山訓練中に重傷を負い入院不参加)
   連絡官(LO):タシ・ツェリン(32歳)、高所ポーター:タム・ジン(39歳)
 遠征期間:  2000年7月27日~8月17日
遠征結果:  ニンチンカンサ東稜の単独初登攀 

遠征日程概要



4月23日: 隊員の木村が富士山下山中3400mで突風に飛ばされ滑落。重傷を負い御殿場の村上病院に入院。第3回チベット遠征不参加決定。 8月1日:
8月3日:
ナンガツェ→BC(カンボ湖の東)
BC→ABC設営 計3張りの可愛らしいテント村。
5月28日: 続けて隊員の村上が山荘ゲレンデで岩登り訓練中、巨大落石と共に墜落し重傷を負う。3隊員の2名が不参加で坂原の単独が決定。 8月7日:
8月8日:
C1設営 東稜上の5754mⅢ峰手前。
C2設営 東稜上の6374mⅡ峰手前。Ⅱ峰初登頂。
7月27日: 東京→成都 登山ビザが中国登山協会のミスで在中国大使館に届かず、北京、ラサと連絡をとりやっとビザ発行。1週間遅れでこの日坂原1人がラサに出発。 8月9日: C2→登頂→C1 東稜からの単独初登攀に成功。ヒドンクレバスに落下し更に下山ルートを失い危険な下山となる。
7月28日: 成都→ラサ チベット隊員として予定していた登山学校長のニマがフランスに出張でチベット隊員も不参加決定。これで完全に坂原の単独決定。 8月11日: ABC→BC テント撤収、帰途キャラバンの手配を1日で済まし下山。
8月12日: BC→ラサ 9日に連絡官のタシを下らせ車の手配をさせたので待ち時間無し。 
7月31日: ラサ→ナンガツェ(ジープとトラック) 8月17日:   ラサ→成都 更に翌日成都から東京へ。波乱万丈の遠征は終った。

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ソロ
7206

坂原忠清   

(1) 第二信 吐蕃からの書簡

七月三〇日 雨  於ラサ
 冷たい雨が降っています。標高3650m
のラサの朝は、冷たい静寂に満たされています。冷たい静寂の背後に、無数に積み重ねられた生と死がたゆとうています。総てが薄い水の皮膜に包まれ鈍い光を反射し、生と死が鈍い光に滲んでいます。かつて吐蕃と呼ばれたチベットの古都ラサから、心象スケッチを送ります。

 聖なる山、カイラスから流れ出るヤルツァンポ河が、ラサの町に生命の可能性を注いでいるとは言え、酸素の薄い、カラカラに乾いた冷たい褐色の大地は、大気の無い惑星のように生命の存在を拒絶しようとしていることに変わりはない。

 生命を拒絶する茶褐色の大地を、生命を呼ぶ雨の皮膜が覆い、死の上に新たなる生命誕生の試行錯誤を開始する。生命の拒絶を超えて、まだ存在せぬ新たなる生命が、私に囁き始める。ヤルツァンポ河のヤルルン渓谷からやって来たソンツェン・ガンボが築いたチベット王国『吐蕃』。

 
  1300年前のその吐蕃へと連なる古、生命の拒絶と真正面から対峙し、この地にやって来た知的存在の無数の生と死が鈍い光の中で私に語りかけようとしている。この苛酷な大地に惹かれた生命は、生と死のパラドックスの中に、時空を超えた生命の輝きを見い出し、メッセージとしてその輝きを未来に伝える使命を帯びた。   
   苛酷な辺境の
地にこそ
    新たなる生命は宿る。


 『神々のパンテオン、ポタラ宮がこの苛酷な大地に出現したのは、辺境を求める知の必然だったのだ』と冷たい雨が囁いているような気さえする。

 密教の神々は曼荼羅宇宙の中で、生命が時間と空間を超えて、偏く満ちることを予言している。その予言を求めて旅した1986年のブータン遠征が、吐蕃王国よりも更に昔のことであったような、時空の揺らめきを覚える。肉体は時空を超えられぬが、知は自由に時空を旅するのであろう。

 ラサの雨の静寂に一人あって、雨音の背後に潜む映像に想いを馳せる。ソロの7206mの未踏ルート挑戦こそ、吐蕃へと連なる無数の生と死のメッセージ解読の鍵になるのかも知れない。
7名の隊員を想定して出発した第三回チベット計画が5名となり、更に山での 

 事故が続き、参加可能な隊員が私一人となった今回の遠征は、当然、中止又は延期されるべきものであった。
7206mの未踏ルートに、一
人、55歳で挑むことの無謀さは、誰よりも私自身が良く知っている。

 そのことを充分認識しつつ、この不毛な地に敢えて生命を晒そうと決意させたもの、それはちっぽけな私の意志を遥かに超えた、無数に累積された生と死のメッセージによるものだったのであろう。以下、今日までの行動概略を記します。

   七月二八日 雷雨 於成都

 出発予定日の7月23日になってもチベット入国のビザが取れず、ラサと北京に何度も交渉して、27日にやっと成都に向けて出発できた。


 香港で乗り換え予定通りの2時間の
フライトで着陸。乗客の誰もが降りる用意をしたが、そのまま2時間ドアは開かず。
外国人らしき乗客は私一人で、中国語のアナウンスのみ、スチュワーデスに訊いてみると成都は激しい雷雨で着陸出来ず、ここ重慶で
待機とのこと。


 深夜0時過ぎに漸く成都着、
空港のドラゴンホテルに入る。ビザトラブルの次は、天候トラブル。さて次三番目のトラ
ブルは何か?お楽しみに!

 


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 七月二八日 晴  於ラサ

 朝一番6時30分の便、SZ4401で三番目のトラブルの待ち受けるラサへ向かう。ラサのクンガ空港にはニマも、TMA職員も見当たらず、さんざん探し廻り、40分後にやっとニマの代理人に会う。

 代理人(連絡官)タシ・ツェリン32歳。チョモランマ近くのティングリ出身。独身。ここまでは問題無いのだが、この先がいけない。彼はクライミングが出来ない。最高到達点はチョモランマのABC、6500mまでで調理も出来ない。

 登山技術習得に熱心なニマと三回目のザイルを組み、未踏ルートから7206mの登頂を目論んでいた私にとっては、ニマの不参加は、最大のトラブルである。ニマはどうしたのかと尋ねると、今フランスへ行っているとのこと。6月13日付けのTMAからのFAXでニマが連絡官となることの決定があったのに、TMAはその約束を反古にしたのだ。

 ニマがザイルパートナーであれば、7206mの未踏ルートの速攻も夢ではない、と判断し敢えて単身チベット入りしたと言うのに、何と言うことだ。

 

 この三番目のトラブルは、ソロクライミングを余儀なくされる深刻な問題である。ヒドンクレバスと雪崩の頻発が予想される東面の未踏ルートでのソロクライミングが、如何に危険極まりないものであるか!

 TMAの契約違反に抗議するため、6月13日付けFAX文書を日本から取り寄せる。しかし文書が届いたのは、翌29日土曜日の朝。TMAは土日休みなのでなす術なし。結局この日は、三番目のトラブルに会い、デポしてある荷をチェックし、日本へFAXを送っただけで終わった。

七月二九日 晴  於ラサ

 午前中、生鮮食料品の買い物を済ませ、三番目のトラブル解決策を考える。タシにTMAの6月13日付けFAXを見せながら、TMAの責任を問うが、彼にはどうすることも出来ない。

 そこで登山装備を用意するからClまで一緒に登ってみないか、と誘ってみるとOKとの返事。登山装備があっても、技術の無いタシが私のザルパトナーになれぬことは判っているが、ヒドンクレバス落下の危険性をほんの少し減らすことは、出来るであろう。

 即、ニマのスポーツ店へ出向き、タシの登山靴を買う。中古のプラブーツが何と1540元(2万2千円)もする。日本より遙かに物価の安いラサでのこの値段が、如何に破格に高いか。


 それもニマの妻に私が電話して
特別に割り引いてもらった値段である。山ばかりのこの国にあっても、高山を登る為の登山靴は、贅沢品なのである。


 午後は高所順応を行う為、ラサ近郊のブン
ブリ山に登る。血液中の酸素濃度が76%まで下がり、酸素不足で身体中が痺れ、頭痛が生じ高山病が深く進行していくのが、よく判る。


 自らの肉体との避けられぬ闘いが、又始
まったのである。第三のトラブルの充分な解決を見ぬまま、高山病の苦痛で浅い眠りとなるラサ第二夜を迎える。


 七月三〇日 雨  於ラサ

  朝食後、やっと時間を確保し、第二信のレポートを書く。題して「吐蕃からの書簡」。その後、雨の中、不足している生鮮食料品の買い出しを行い、明日出発の準備をTMAの倉庫で行う。午後、二度目の高所順応登山を予定していたが、冷たい雨は止まず中止。

 


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 (2)第三信 黒い湖からの書簡

  八月六日 曇後雪 於BC

 雪が、珍しく静かに降っています。いつもは激しい風と共にテントを叩き、騒がしいのですが、今は不思議な静寂に満たされています。

 標高5100m、天空の湖とチベット人が呼ぶナムツォの黒い湖面に、湿った重いボタン雪が静かに吸い込まれていきます。無数の白い雪片が、ヒラヒラとニンチンカンサの天空から舞ってきて、スゥーと湖面に吸い込まれる様が、哀しい程に美しいのでテントの入口を一部開けて、じっと見ています。

 この一瞬まで、小さな羽を広げた白い雪だったのに、何の疑いも持たず、跡形もなく湖面に消えてしまう。果てしもなく永遠に続く生と死のドラマ。全く同じ様にしか見えない一ひらの雪片ですが、実はそれぞれの喜び、哀しみが込められているのでしょう。

 しかし時空を超えた視
点からは、それらを見ることは出来ません。ただただ連綿と果てしもなく、生と死が続くのです。今Cl(5754m) への荷上げから帰ってきたところです。

 湯を沸かして熱湯にタオルを浸して全身を拭き、今まで身に着け
ていた衣類を洗い、さっぱりしたところで、やっとペンを執る時間を確保しました。

 

 7月31日にラサを出てから今日まで一日も休まず前進を続け、ペンを執る暇はありませんでした。二信後、第四、第五とトラブルが続き、希望の欠如した日々となってしまいましたが、今日の単独荷上げでやっと一縷の望みが見えてきました。

 第四のトラブルとは、BCに着いたもののヤクが、一頭も居ないことが判明したことです。今年の冬は早いとの判断を遊牧民が下して、ヤクは既に下方の村に一頭残さず降ろされていたのです。

 従って、ABCまでの荷を運ぶ手段が無く交渉する遊牧民も居ないため、手の打ちようが無いのです。昨年は我々のトラックとワゴン車がBCのカンボに着くと、遊牧民や尼寺の尼さんたちが、ワッと押し寄せてきたのですが、今年は人っ子一人居ないのです。

 しかたなく一人尼寺に登り、昨年の尼さんとボディーランゲージで挨拶を交わし、暫く暗い尼さんの部屋でチベッタンティーを御馳走になり、荷を運ぶ手段の無い窮状を訴えました。とは言っても、ファックスや電話があるわじゃなく、遊牧民との連絡も取れず、どうすることも出来ません。

 テントに戻ってから
「これは連絡官の仕事だ。私がこの日にカンボに車で入り、キャラバンを組むことをTMAは判っているのだから、その旨を遊牧民に知らせ、運搬手段を確保しておくべきであった。

 『この先進めないから遠征は終わり』と
は何ごとだ」と連絡官に一応抗議しておきました。やや気弱な連絡官は、ただただ
「I'm sorry」を繰り返すのみ。

 遊牧民の一人と連絡を取り、何とかこのキャンプにヤク使いを呼び出すことを伝え、後は待つこと10時間。ヤク使いの一人がテントに現れたのには、びっくりしました。延々と交渉を続けた結果、一番良い方法は下の村に降ろしてしまったヤクを呼び戻すのではなく、馬でキャラバンを組むこと。

 馬で
走って来れば、明後日にはここまで戻れるとのこと。馬六頭、馬方4人でキャラバンを組むことになったが、TMAの予算では、ヤク三頭分しかないので超過分を私に払ってくれと連絡官が言う。

 その上、ヤクは一頭が100kgを
運ぶが馬は20kg程で、馬方が25kg担いでもこの荷を総てABCまで上げることは出来ないと言う。


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 「TMAは国際的な仕事として、世界中の登山隊のアレンジをしている。このような不手際はTMAの責任である」

 そんなことを言っても、連絡官のタシは成す術も無く、ただうろたえるのみ。
「OK、馬六頭と馬方四人。超過分は私が払う。荷も半分にして、明後日、8月3日キャラバンを組もう」
 翌8月2日、タシと二人でABCの設営場所であるガルマ湖(実は後に遊牧民はナムツォと呼んでいると判明)まで偵察。

 高山病に苦しみながらの偵察は毎度のこととはいえ、死んだ方がましだと思う程の苦行である。連日、終日の雨であったが、この日は何故か日中雨が止み、7206mのニンチンカンサが天空の湖・ナムツォの奥に姿を現した。
『この一瞬に出会うため、苦行はあったのだ』と納得できる光景でした。

 これで第四のトラブルは半分解決しましたが、第五のトラブルは、更に深刻なものでした。第三のトラブル(連絡官ニマと一緒に登る約束の反古の結果、登れない、調理だめ、日本語もだめなタシが連絡官になったこと)の解決策が、第五のトラブルを生んだのです。
さて、第五のトラブルとは?

   TMAの開く7月31日(月)の朝、一番にオフィスに乗り込み抗議。
《ニマを当隊の
連絡官とする》と記したTMAの文書を示して、契約違反を語る。未踏ルートでのソロクライミングが、いかに危険であるか述べると、17日間なら1059ドルで、TMAのポーターが雇えると言う。
Clまでなら高所の装備代4百ドルが不
要なので、659ドルになる。

659ドルの内訳は左記の規定とのこと。
日当(Out fit):13.5$×17days
食料代(Foods):×13.5$×17days
保険(Insurance):200$

 びっくりした。こんな規定が共産圏のTMAにあるなんて、考えてもみなかったが、試しに一人雇ってみることにした。

 実はこのポーターが第五の深刻なトラブルになろうとは、その時点では想像すら出来なかった。ポーターはチョ・オユーやニンチンカンサに登頂し、今春のチョモランマで8150mに達し、8000mの登山歴を持っているTMAのプロであると言う。

 外国隊のポ
ーター経験は二回のみ。この交渉の為7月31日のキャラバン出発は遅れ、14時03分漸くナンガツェに向けて走りだすことが出来ました。

 出発が遅くなったので、この日はBCまで行かずナンガツエで一泊し、翌8月1日早朝にカンボBCに車で入ったわけです。そこで第四のトラルに遭遇し、更に次のトラブルへ。
第五のトラブルが出現したのは、昨夜8月5日の夜でした。

 初めてのClへの荷上げを昨
日行ったのですが、Clまでのルートが悪くて、徒渉一回、急峻なガレ場登りと続き、物凄く体力を消耗しました。

 まづ氷河の徒渉を行うと、靴も靴下もしょびしょになり、行動力に制限を受けます。その後のガレ場登りは、濡れたままの靴下で登るため、滑る上に不快で足に豆が出来やすく登高速度が落ちます。

 その夜、翌日の行動をポーターに確認する
と、ルートの苦しさに根をあげたらしく、荷上げはしないと言う。一体これはどう言うことなのか?プロのポーターの台詞なのか?

 この39歳のポーター・タムジンは全く英
語が話せず、常に連絡官タシを通訳として話しをするのですが、いつもタシがポーターの指示を受けています。
上位の連絡官が下位の
ポーターに頭が上がらないのです。多分、タシがチベット人でタムジンが支配民族の漢人だからでしょう。


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 実際彼はTamdingと記すことを認めず「私の名前は担真だ」と漢語にこだわっていました。荷上げをしないと言うだけでなく、装備を見てコッフェルが重いとか、テントが大きいとか、細かいことに文句をつけ、最後にルートが悪いとタシを通して言うのです。

 TMA培養の共産圏のポーターは、ポターの仕事が判っていない。今後ネパールのポーターに学ばねばポーターとして国際的に通用しないでしょう。現在多くの外国隊がチベットで登山する場合、ポーターはネパールから越境させて連れてきます。

 貴重な外貨がみすみすネパールに
持ち去られるのをニマは残念に思い、ネパールに負けないポーターを育てようと、登山学校を昨年作りました。この卒業生が活躍するようになれば、TMA培養のポーターには誰も見向きもせず、消滅するでしょう。

 来年からニマの登山学校の
ポーターが仕事を始めるので、それに期待をしよう。8月4日は朝から38.8度の発熱で動けず、食事も全く喉を通らなかったが、Clまでのルート偵察をせねばならず、高山病をおして湖岸北ルートを偵察しました。

 

 

 湖岸南ルートは体力を消耗するものの、安全であると判断し、南ルートの採用を決定していたが、ポーターは北ルートを主張する。ポーター自身が確かめた結果の判断であれば私も納得出来るが、ポーターはホリデーを主張し偵察しようとしない。

 口先だけのポーター
に翻弄され余分な偵察をせねばならない。偵察の結果、東稜に出る最後のガリーが悪く、落石と滝の連続で荷上げには向いていないと判断。8月4日の夜二人にそのことを告げ、5日の荷上げを南ルートで行う。

 北ルートの自分の主張が通らず、気分を害したポーターは、荷上げには同行したもののその後なにもせず、食事の用意も私が行う。これが8月5日の第五トラブルの襲来だったのです。

 翌六日朝、食事の時間になっても連絡官、ポーターの二名はテントの中でラジオを聴いていて、どうもストライキ中の様子。仕方なく、野菜をたっぷり入れたシチューを作り、テントまで持って行く。

 怒鳴りつけるのは簡単であるが、それでは彼らは動かない。決裂あるのみ。彼らの仕事を私が行い、彼ら自身に誤りを気づかせねば。ポーターと隊長の逆転劇の演出作戦成功するか否か、お楽しみに……‥。

 現在雪が止み、湖面にはガスのかかったニンチン・カンサが映り、揺らめいています。生と死のドラマは終わり、生命相のない次の宇宙年代紀に入ったのでしょう。

(3) 第四信 山頂からの書簡

八月十日 雪 於湖畔テント
 未踏ルート・東壁東稜から3日間で、ニンチン・カンサ7206mの初登撃に、ソロで成功しました。チベットでは有名なニンチン・カンサの東面が、何故未踏域であったのか良く納得できました。

 頂上が何処かわからぬ程なだらかな
西面に比べ、東面は標高差2000m以上に及ぶ急峻な壁になっていました。ABCから仰ぎ見るニンチン・カンサは、白いコンドルが翼を広げたような、美しい迫力で天空に舞っています。

 右(北)の翼を形成する白い稜が、当初ルートに予定していたガルマ稜です。一目でソロでの登撃は不可能と判断し、右の翼を断念しました。左翼を形成する東稜は、ソロ短期速攻には理想的なラインでした。

 8月7日にClを東稜三峰(5754m)に設営。そのまま前進し8日に東稜二峰(6374m)に初登頂し、C2を山頂に設営。


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 8月9日、7時アタックに出発。高所セラック帯の間を抜け、東稜上に出て14時57分登頂。ガスと雷で頂上滞在は、交信のみの2分間、即下山開始。

 山頂直下200300m地点でヒドンクレバスに落下、一瞬気を失う。骨折箇所のないことを確認し、ピッケルとテントのペグをアイスメスにし、深さ5mのクレバスからダブルアックスで脱出。

 グリセ~ドを再開し、
2まで下る。ここでC2の荷を担ぎClへ向かうが、ホワイトアウトの中、二峰直下の雪壁でルートを失う。昨夜積もった50cm程の雪壁上の雪は、雪崩が頻発し極めて危険な状態になっている。ダブルアックスでスピーディーに下降する以外に安全な方法はない。

 スピーディーに下降する為に、生命を守る貴重な荷の半分を捨て、軽身になって下降を続ける。広大な雪壁で全く方向感覚がつかめず、いつ雪崩に襲われるか不安で、絶望的な気分に陥る。

 三峰へ続く生還出来る稜線ルートは、この広大な雪壁の中に、ただ一本の僅かな膨らみを残しているに過ぎない。視界さえあれば直ぐ判るのだが、ホワイトアウトの中で現在位置が確認できない。

 

 

 右へトラバースしたり、登り返したり、白い闇の中で著しく体力を消耗する。15時55分、フラフラの状態でClに着き、安全圏に脱出。翌8月10日、連絡官とポーターの待つABCに着き、ソロ登撃を終える。

 今回の登山の課題は三つに絞られる。
(1) 未踏ルートの登山
 ニンチン・カンサ東面は、外国隊、チベット登山協会を含め、入域の記録が無いため一葉の写真すらない。昨年我々が入ったのが初めてである。山容も判らぬルートをどう登っらいいのか?
(2) モンスーン期の登山
 6000m級の登山は、雨期に2年続けて行い成功したが、7000のモンスーン気象条件は、6000よりはるかに苛酷である。連日降雪で果して7000が登れるか?
(3) ソロ登山
 雪崩、雷、ヒドンクレバス落下等の事故が発生した場合、ソロでは致命的になる。それらの困難を一人でどう乗り切るか?

 以下、登山活動の概要

七月三一日(日) 雨

ラサ→ナンガツェ


 連絡官が登山の素人なので、TMAのポー
ターを一人雇うことに決定。タムジン、39歳。今春のチョモランマを始め、幾つかの8000m峰登山を体験。今回はClまでの荷上げを行うポーターとして採用。

 ポーターの装備代は4百ドルで、Clまでなら2百ドルである。装備は私の予備を提供することにする。Cl高度は6500mと取り決める。雇用期間は7月31日から8月16日までの17日間。

 その外、食器レンタル代の50ドル、ラサ→カトマンズの航空券代の286$(二年前180ドルだったが高騰)等を支払い出発が遅れる。
14時03分ラサ発、ナンガツェ
着18時30分。招待所に泊まる。

 

八月一日(火) 雨

ナンガツェ→カンボ

 連日の雨で全く嫌になる。9時08分招待所を出て、BCのカンボに10時着。ここで第四のトラブル発生。
 今年は雪が早いと判断した遊牧民が、ヤクを下の村に全部降ろしてしまったのだ。去年のカンボで出迎えてくれたヤクや遊牧民は何処にもいない。これではキャラバンが組めない。




 ニンチンカンサ東面概念図

 
 
 

BC
ABC
C1
C2
位置
:未踏峰
:既登頂峰
:登山基地
:前進基地
:第一高所キャンプ
:第二高所キャンプ
:北緯28.9°東経90.1°


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 カンボの尼寺に行き、ヤクドライバーとの連絡を頼む。口コミだけの伝達手段で10時間後には、昨年のヤクドライバーが馬で駆けつけてくれる。

 ヤクは歩くのが遅いので、集めて連れてくるのに1週間はかかる。馬なら1日で連れてこられるとのこと。そこでキャラバンは明後日8月3日出発。馬6頭、馬方4人しか都合つかないので、荷は半分だけABCに上げることで交渉成立。

八月二日(水) 雪後曇
          BC→ガルマ湖往復

 馬を集めるまでの時間を利用し、ABC設営場所の偵察を連絡官のタシと行う。10時45分BC発、ガルマ湖14時14分着、標5100m。地図上ではガルマとなっているが、地元の遊牧民はナムツォ (天空の湖)と呼んでいるとのこと。ラサ北方に位置する巨大な湖と同名である。

 途中、ブルーシープの大群2~30頭に出会う。しなやかな肉体が音も立てず、忍びやかに岩稜を登って行く。昨年は2頭が雪原を走っていたが、こんな大群を目にしたのは初めてである。ガルマ谷に入り湖まで来ると、ガスが晴れ一瞬ニンチン・カンサ東壁の全容が見えた。

 

 標高差2000mの高さで、眼前にそそり立つ姿は、白いコンドルが左右に大きく翼を広げ、来る者を威圧しているようである。まず一目で威圧に押され、登撃の困難さを思い知らされる。右のガルマ稜は岩と氷のミックスが多く時間がかかりそうであるが、良く観察すると左の東稜はソロ短期速攻には理想的なラインになりそうである。

八月三日(木) 曇り時々晴れ 
BC→ABC (ガルマ)

10時48分、BCからABCへ向けてキャラバン出発。13時25分ABC着。ABC設営。メステント1張り、連絡官とポーター用の大テント1張り、私用の小テント1張り計3張りの可愛らしいテント村。

 連絡官をABCに泊まらせると1日につき30ドルの特別手当てを支払わねばならない。BCに戻そうとタシ(連絡官)に告げると「手当てはいらないので、ABCに滞在させて欲しい」との返事。可愛らしいテント村の住人は3人に決定した。

八月四日(金) 晴夜雪
Clルート偵察(北ルート)

 湖の北にルートを取るか南に取るか、ポーターと意見が異なる。ポーターは北ルートを主張するが、何の根拠もなく、自分で偵察をしようとの意欲もない。私は安全第一で南ルートを取りたいのだが、ポーターを説得するには、まず北ルートを偵察せねばならない。

 朝の体温38、8度。高山病の発熱でフラフラするが、ポーターも連絡官も全く動く様子はなく、私1人で偵察に出る。湖の北岸に沿ってトラバースし、ガルマ氷河舌端部を徒渉し、、東稜側壁のガレ場を登り、雪稜直下まで迫る。直下の岩場の状態が悪く、浮き石も多く荷上げルートとしては適さない。私の選んだ南ルートは、最初から川の徒渉があり、その後急峻なガレ場があるものの安全そうである。

八月五日(土) 朝快晴、後雪
 Clルート偵察(南ルート)

 今日はポーターにも偵察に参加してもらおうと声をかけるが、何だかんだと言い訳をして動こうとしない。プライドが高いだけで仕事をしないタムジンは、ポーターとして全く使いものにならない。
共産圏のポーターをどう管理していくか、これが第五トラブルの解決策になるのであろう。


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 だがポーターは英語が通ぜず、タシを通訳にして話すので、よけい関係が拗れ、ポーター管理が困難になる。食事も荷上げも、まず私が見本を示すソフト作戦を立て、どうにか南ルート偵察にポーターを連れだす。

 予想通り南ルートは、体力を消耗するものの安全で、東稜に出てから三
峰(5754m)まで登る。14時12分初登頂。

  この夜、ポーターのソフト作戦を完全なものにするため、私が3人の食事を作り、酒宴の用意をし2人を晩餐に招待する。酒を酌み交わし歓談する。

  TMAの組織について、何故山に登るのかについて話し、歌をうたう。だんだんメートルが上がるにつれて三人共意気投合し、ついにはあのポーターが、「ラサに帰ったら家族揃って歓迎するから、夕食に是非来てくれ」と言いだす。作戦は成功か。

八月六日(日) 曇り後雪

Clへの荷上げ

 10時40分、Cl予定地である東稜三峰のコルに向かう。昨夜の約束通りポー・クーが荷上げすると言うので、25kgの荷を渡す。するとポーターは荷を2つに分け、1つをタシに渡し、一緒に荷を上げるよう指示しているではないか。

 

 ポーターが連絡官に命令しているのだ。私の25kgの荷は私が一人で持つので、彼らの2倍の荷を上げることになる。ポーターと連絡官だけでなく、ポーターと隊員の立場も逆転してしまった。何しろポーターは支配民族である漢民族なのだ。偉いのだ。

 しかし荷を上げる気になっただけでも大した進歩なのだ。私のソフト作戦は今朝も続いている。未だ寝ている二人の為に朝食を作りテントまで持っていってやる。作戦の成果が実を結び、やっと彼は荷を上げる気になったのだ。

八月七日(月) 雪

Cl設営

 高山病に苦しめられ、発熱、頭痛の他、高山性の咳や鼻血も出る。最悪。10時48分ABC発、12時43分Cl着。朝から雪なのにスニーカーで荷上げをしたので、頭の先から靴の中までグッショリ濡れる。これまた最悪。蟻地獄のようなガレ場に雪が積もり、ガレ場ラッセルとなり、一歩前進二歩後退。その上いつも午後やって来る雷が、今日に限って午前中からやって来てドンパチ。

 徒渉で濡れたスニーカーでラッセルした為に、足指が痺れ感覚を無くし凍傷一歩手前。Cl設営後、少し晴れ間が見えたので1人で2ルートの偵察に行く。

八月八日(火) 曇り後雪
二峰初登頂 C2設営

 今日も一人でのラッセルと荷上げを覚悟していたら、何とポーターがABCから上がってきて、ClからC2への荷上げをすると言う。どうやら先日の酒宴での発言は本物らしい。

   C1発9時9分。急な雪壁、標高差600mを登り東稜二峰(6374m)に登頂。ポーターは即下山。この急雪壁は技術的に難しく、ポータ ー1人ではとても登れない。タムジンは何度か
 「ザイルで結んでくれ」
と懇願したが、単独のつもりだったので、ザイルはC1のテントに残したま。

  
 
アンザイレンしてやれず、可哀そうなことをした。最も彼の山行歴からすれば、この程度の雪壁は1人で登下降出来るはずなのだが。降雪で視界は効かないが、トレイルが消えぬ間なら単独下降可能と判断。

 


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八月九日(水) 雪、晴れ、雪

2→登頂→C1

 6374mのC2、初めての夜。チェーンストークスを起こし、一晩中意識的な呼吸を続け大変疲れた。呼吸自動装置が停止する体験も回を重ねると、精神動揺は無い。

 終夜、風と雪がテントを叩き、テントが半分以上雪で埋もれた。テントが潰される心配が出てきたので、勇を鼓してテントから這い出し、コッフェルで除雪する。

 再び外に出る気分にはなれないが、モンスーン期間での登山をやる限り、晴天のアタック日を待つわけにはいかない。4時30分アタックに出る。外は漆黒の闇が咆哮している。チベットは北京時間に合わせているので、7時になるまで明るくならない。ヘッドランプをつけ、ザックを背負い、風と雪の吠える闇の中に飛び出す。

 何も見えない。視界零。せめてコルまで下りようと前進を試みるが、まるで自殺しに行くようなもの。一旦テントに戻り、明るくなるのを待つ。これで3時間近い行動時間が失われ、登頂の可能性が減少する。ABCと交信すると、彼らは私がアタックを止めABCに帰って来ると、勝手に決めこんでいる。

 

 テントにうっすらと光が忍び寄ってきたので、入口の布地から顔を出す。オー、何とガスが晴れ、山頂が目の前に意外な近さで聳えているではないか。

 ルートを目で追う。コルから3本取れそうだ。3つのルートの内、中央のセラック帯を抜け稜上に出るのが、最も早く登れそうだ。問題はラッセルの深さである。昨夜の降雪で膝上までのラッセルとなったら、登頂は不可能である。


 ここから頂上まで800mの標
高差がある。1人での膝上ラッセルで到達出来る標高差を遠に超えている。まずコルまで降りてみる。サッカー場が4面以上取れそうな広さである。だが何と言う幸運、ラッセルは殆ど無い。


 ブリザードがコ
ルの雪を吹き飛ばしてしまったのだ。快調なペースで進む。南から北へ、薄いガスが断続的に飛んでくるものの、予想外の好天気だ。

11時40分、ABCと交信。
「現在、高度計は6950mを示しているが頂上はすぐ目の前。 ABCの黄色いテントが微かに見える」と言うと連絡官のタシが「山頂近くに黄色い点が見える」と言う。

 

 

 私の上下服はゴアテックスの黄色なのだがいくら眼が良くても、まさか人間の小さな点がABCから見えるとは。チベット人は狩猟民族のように遠視なのか。

 純白の山嶺、コンドルの頭が眼前に展開する。北の翼、ガルマ稜は巨大な雪庇が張り出している。今、正に飛び立たんとするかのように、躍動的な力を秘めた翼が、私を威圧しつつ私を招く。

 頭の右のゆるやかな稜から登るか、このまま正面から直上するか一瞬、遽巡する。まだ体力にゆとりがあるので、急な正面から山顛に迫る。ピッケルを打ち込み、アイゼンを蹴り込み純白のコンドルの頭上に、ジリジリと肉薄する。

 苦しさの極致にありながら、登頂寸前のこの瞬間が堪らなく良い。精神と肉体が一点に収斂し、生きると言う営みの最も力強いベクトルが、天空を指し示すのだ。

 山顛に立った途端に頭髪が逆立ち、脇の下が帯電し、南からのガスと風に襲われる。トランシーバーを出すのも恐ろしく、3回ABCをコールするが、応答ないので即、北の緩やかな稜から下降開始。

 登頂時間を見るのを忘れていたので、急いで見る。11時58分。1分前の登頂として登頂時間は11時57分であろう。


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 何度もヒマラヤの登頂を体験しているが、登頂タイムを見る余裕が無かったのは、今回が初めてである。

 12時5分、コンドルの頭から降りた所でABCにコールする。連絡官のタシが出たので、登頂成功を伝える。
 「Congratulation on your success!」 
タシの興奮した言葉を遮るようにして
「今、雷雲に捕まり、危険な状態にある」
と伝え、急いでスイッチを切る。

 雷にやられる恐れが充分にあるので、スピーディーに降りるため、グリセードで下る。50mのスタッカートで、停止点を確認しながら、慎重に滑る。

 5本目あたりでヒドンクレバスに落下。一瞬肉体が大地を失い、宙に浮いたと思った途端、激しい衝撃と共に意識を失う。たぷん後頭部を打ったのであろう。

 意識の回復と共に、頭から足の爪先まで剃刀で裂かれたような、鋭い痛みに襲われる。何処を強打したのか調べてみる。

 手は動く。手を使って右足から、骨折箇所がないか摩ってみる。膝を曲げてみる。曲がる。左足も動く。だが安心出来ない。事故直後はアドレナリンが分泌されるため、痛みを感じない事がある。

 

 大きく膝を曲げてみる。大丈夫だと感じた瞬間、剃刀で裂かれた鋭い痛みが消えた。あの痛みは何だったのか?たぶん意識の回復がまず最初に、致命的な死に至る失敗を認識し、この状況下での生還の可能性のない事を瞬時に判断したのだ。


 反
射的な瞬時の判断を、客観的な事実として理性が受け入れるには、痛みが必要であたのであろう。足が骨折していれば、クレバスからの脱出は、殆ど困難である。

 脱出出来なければ、ソ
ロのクライマーは死ぬ。私の意識の中に、当然の事としてプログラムされているその事実が、足の無事を確認した瞬間に、鋭い痛みを消したのだ。

そう、あれは絶望の痛み。

何と足だけでなく、手や腕も骨折していない。よし、何とか脱出出来るであろう。

 5m上方に直径2m程の穴が開いている。クレバスの壁は氷ではなく、高所特有の登攣し易い堅雪である。アイスバイルの代わり、チベット人テントの大きなペグをザックから取り出し、5mの雪壁をダブルアックスで登る。ヒドンクレバス落下は予想していたので、予めアタックザックに入れておいたのだ。

 不幸にして役にたった。この事態を呪うべきか喜ぶべきか。グリセードで下降することが、怖くなったが南からの雷雲はますます激しく吹きつけ、一刻を争うので、更にグリセードで慎重に下る。


 13時55分、C2着。高速下降と緊張で抑えられていた疲労が一気に爆発し、C2倒れ込みそうになる。休息の誘惑に抗いつつ、急いでテントを畳み、安全圏であるClを目指す。


 C2は山頂
にあるので、雷の直撃の恐れがある。誘惑に負けてここに止まればどうなるか、理性は知っているが、肉体は休息を要求する。疲労が限界を超えると、いともたやすく理性は肉体に降伏し、死が急速に忍びよる。

 
うしても今ここから脱出し、安全圏であるClに戻らねばならない。二峰の東の端まで行き、二峰の雪壁を見下ろすと、至る所が雪崩れている。10m先はホワイトアウトで下降ルートの見通しが全く立たない。


 雪崩とホワイトアウト、最悪のペ
アカードを引いてしまった。この急な雪壁を2人分の重荷を背負ったまま、ダブルアックスで下ることは不可能。


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 命を削る患いで装備の半分を捨て、荷を軽くし下降することにする。テント、エアーマット、レスキューマットを兼ねたテントマット、コッフェル、替え電池8本、食料の総てをデポし、スピーディーに下り始める。

しかしいくら下れども、視界は5m足らずと条件は悪化する。ガスの白と雪の白で完全なホワイトアウト。いつ雪崩に襲われるか恐怖の雪壁上で、三峰へ続く稜線を探し、北へトラバースする。

 二峰直下の垂壁が南方に位置する為、本能的に北へトラバースしたが、これが誤りであった。垂壁の北側のバットレスとして、三峰へ続く稜線が位置するので、垂壁の縁まで迫らねば、稜線には出られないのだ。

 反対方向に進んでいるので、当然ながら行けども行けども、果てし無く雪壁は続く。下方から見た時の二峰の雪壁を思い浮かべる。このまま下り続けると、ガルマ氷河の末端に出る。そこから垂直の岩壁となるため、ザイル無しでの降下は不可能。そこまで下降してしまったら、再び登り返す力は無い。

 誤りに気づかぬまま、南へのトラバース以外に希望は無いと決断する。結果として正しい判断であったのだが、決断への自信は全く無く、雪崩襲来の恐怖に戦々恐々とするのみであった。

 

    最後の望みをかけ、ホワイトアウトの中、逆の左(南)へトラバースを開始する。ホワイトアウトが続けば、下降ルートを発見出来る望みは10%以下、ビヴァークの可能性は90である。

 荷を軽くするため、既にビヴァークを生き延びる装備は放棄しているが、この雪崩の巣では、ビヴァークそのものが無謀である。助かるためには、何としてでもビヴァークは避けねばならない。

 いつものように夕方から激しい降雪となったら、雪崩と共にガルマ氷河に叩きつけられて、それでお終い。絶望している暇はない。行動あるのみ。

 左へ下降しっつトラバースすると岩壁にぶつかり、そこからスパッと切れ落ち、進退極まる。ここが二峰直下の岩壁帯であり、この北の縁が三峰に緩く稜線の派生地点であると認識出来ず、登り返すことを決意する。

 最後の力を振り絞り、登りはじめる。ほんの僅かガスが薄くなり、下部に氷河が一瞬見える。必死になって目を凝らし、見覚えのある地形を探す。もともとモンスーンの為、晴れ間が少なく地形が印象付けられていないので、よく判らない。

 しかしあれがガルマ氷河上部であることに間違いはない。するとこの岩稜に沿って降りて行けば、二峰と三峰を結ぶ稜線に、出られるかも知れない。しかし疲労囲燈している今、判断のミスは死に繋がる。
 
 ガスが晴れることを期待して
20分待つ。ガスは去来し雪壁の全容は見せないが、この岩稜が確かに希望のルートであると信じ、先程登り返した雪壁を下る。ここで詰まったら、もう登り返す力は無い。

 神に祈る気持ちで下降を続ける。雪壁は徐々に緩やかになり、雪稜の様相を帯び始め、生還の光が見えてくる。『このルートに間違いない』と感じた時、雪崩の恐怖から漸く開放される。

 安全な稜線に出てから意識朦朧となり、今自分が何をしているのか、よく判らない。只交互に足を出し前進するのみ。右側から南風の吹雪が、重いスローモーションで蠢く肉塊から体温を奪う。

 天山山脈最高峰のポベーダ下山時と同じ厳しい風雪状況となる。あの時も右側からの風雪で右頬が凍傷にやられ、7439mの山頂からの下山が危ぶまれた。


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 同じ極限状況下に置かれた肉塊は、ポベーダとニンチン・カンサの区別が出来なくなりつつある。今はだれも居ない未踏ルートを単独で下っているのに、誰も居ないと言うことが理解出来ない。

 やっとClのテントが見えた。テントが見えてからの距離が、途轍もなく長い。すぐ目の前に見えるのに、なかなか近づかない。あれほど望んでいたテントに着いても何も出来ない。

「ザックを降ろせ」
「アイゼンを脱げ」
「テントのジッパーを開けろ」
口に出して自分に命じないと何も出来ないのだ。

 お腹には何も入っていない。肉体のエネルギーは、もはや一滴も残っていない。意識のレベルが落ち、肉体と意識が一体化し、意識が肉体を保護すべき高い存在にない。でも気持ち良い。死に近づく時、肉体と意識はカオスに戻るのであろう。


 テントに倒れ
込みテントを閉める。15時55分、2度の死の危機を脱し、ついにClのテントに生還した。トランシバーを1日中開局して、私を見守ってくれた2人を思い出し、ABCを呼び出す。

 

 

 「とても疲れた。もう動けない。でも今Clに着いたから大丈夫」2人はとても興奮して、喜びの英語とチベット語をわめき散らし、祝いの歌をうたってくれた。ポーターのタムジンは、意味不明な日本語で 『北国の春』、タシはチベットの歌の中に《サカバラサン》を入れて歌った。
 泣けた。どうしようもなく泣けた。

八月十日(木)  雪後曇り

Cl・→ABC

 正体不明のままこんこんと眠り続ける。またもや雪が降りしきる。テントが潰れぬようにテントを叩き、積もった雪を落とす。雪をコッフェルに取り水を作り、まず水分を胃に入れる。ほんの少しアルファ米を食べて、消化剤を飲む。
 
 水分摂取さえ不安で消化
剤を飲んだのは、初めてである。朝の交信でタシとタムジンが、初めて自ら荷降ろしの仕事を申し出た。「Clのテント、私達で降ろします。心配しないで下さい」

 私のソフト作戦は、やっと実を結んだのだろうか。二人の優しさに甘えることにし、個人装備のみザックに入れてABCを目指す。10時12分、Cl発。11時17分、ABC着。生きて帰れた。

 

八月十一日(金)  みぞれ後曇り

ABC・→BC

 馬3頭、馬方2人とタムジンが12時半にBCから上がって来た。昨夕、馬の手配にBCに下ったタムジンが頑張って、夜の問に馬方と連絡をつけ、帰路キャラバン隊を引き連れてきたのだ。

 テント撤収。荷が少ないので、再梱包は短時間で済んだ。荷積みは馬方とタムジンに任せ、先にABCを出る。ゆっくりと一歩一歩を噛みしめ、大地の感触を楽しみながら下る。この広大な雪と氷に囲まれた緑の大地に、独り生きてあることが無性に嬉しい。2時間の満ち足りた散歩の後、16時にBC着。

八月一二日(土)  雨後曇り

BC→ラサ

 10時22分、BC発。
ラサ着16時半。
香巴拉(シャンバラ)ホテル8221号室に入る。遠征は終わった。


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