初登頂チョー・サブ

チョー・サブ(7022m)

初登頂の記録

[山と渓谷] №836より




2004年7月
チベット日本教員登山隊は、7000㍍未踏峰チョー・シャブをめざして出発した。

つねに「死」を意識せざるを得ないトライのなかで、
宇宙船ディスカバリー号との、時空を超えた運命的な出逢いをする坂原隊長・・・・・。

雪面下に潜むヒドンクレバスの恐怖と、雪崩の危険性を孕むルートでの、
飽くなきラッセルの果てにつかんだ、登頂の記録である。



人類未踏の嶺への旅


坂原忠清・日本教員登山隊=文と写真

緊張の糸 チョー・シャブ周辺図
 昨夏2人死んだ。
 1人はクレバスに落ち、もう1人は岩壁に宙吊りになり息絶えた。
 2人共ナンガ・パルバット峰(8125m)で私と一緒ににザイルを組んだ隊員である。
 ヒマラヤの死に例外はない
体力抜群の隊員が疲労死し、卓越した技量を持つクライマーが岩壁で墜死し、理性的で慎重、経験豊かなベテランが雪崩にやられる。
 「俺は死なない」と豪語するヒマラヤニストが、しばしばクレバスに落ち高山病で息を引き取る。

 私にとってヒマラヤへの挑戦は、隊員の死の塁積との対峙そのものであった。
 ヒマラヤへの挑戦を続ける毎に、死の塁積の中に私が加わる日は近づく。
 今年で33回目となる高峰登山への出発を目前にして、緊張の糸は切断寸前まで張り詰め、肉体に潜む「老い」を脅迫する。
 脅迫された「老い」は、日々のトレーニングで痛み傷ついた足を借りてモノローグする。
 「左のアキレス腱がもう限界だ。切れるぞ」
 「膝の半月板の痛みが山頂で爆発したら、お終いだぞ」
 etc・・・。
 精神に潜む若いオプチミストが答える。
 「ナーニ、心配ない。チベットは涼しいぞ。たっぷり本とテープを用意して、読書と音楽三昧に耽ればいいさ。避暑だと言えばアキレス腱も半月板も謀反は起こさないさ」
 若いオプチミストの声に騙されて2004年、第7回チベット遠征7022mの未踏峰への旅は、避暑と名目を変え決定した。
 AC・クラークの「3001年終局への旅」をはじめとする17冊の文庫本と、20時間分のカセットテープに収録したジャズクラシックやオーボエの音色を、登山装備と共にザックに詰め込んだ。
 こうして夏休み初日の7月21日、肉体に潜む「老い」と、精神に潜む若いオプチミストの葛藤に、身を裂かれつつ、私はチベットへと旅立った。



フランク
フランクとの出逢い
  ポーターのピンゾーが両腕を伸ばし叫ぶ。 「Finish!」
 氷河上の堆石の窪みにひっそりと、それは」横たわっていた。顔の半分は風雪に削られ、太陽に焼かれ綺麗に白骨化し、下半分は腐乱している。傍らにステンレスのカップとコッフェルが1つずつ転がっている。白のセーター、ベージュのズボン、アディダスのヤッケ。これがフィニッシュの残された総て。ピンゾーの死のポーズが、言葉以上に死を実感させる。
 ザックがあれば中身から、死者の身元に繋がる何かが見つかるかと、白骨頭蓋に手を掛け遺体の移動を試みる。予想外に重く右体側を下にした遺体はびくとも動かない。ザックは遺体の下に在るのか、それとも動物に持ち去られたのか? 遺体の下半分は腐乱状態なので、移動すると崩れてしまう恐れがあり、ザックの捜索を断念。
 雪線を超えた標高5835mのこの寒冷な地で、白骨化するのにはどれ程の年月を要するのか? 下半分の腐乱は、凍結していた肉体が、真夏のこの短い日中にのみ解凍し、再び凍りつくまでの間に、生じた現象なのだ。
 
従って腐乱しているからと言って死亡時期が最近と判断することは出来ない。ツンドラで発見されたマンモスの肉体は、数万年の時を経て、我々の前に姿を現している。白骨頭蓋から手を離そうとした瞬間、微弱な電磁波でもなく弾性波動でもない微かな揺らぎが、手に流れた。
 《フランク・プールはめざめた》
 クラークの「3001年終局への旅」のプロローグが、白骨頭蓋の揺らぎに重なる。人類未到の木星に向かって、2001年、フランクは宇宙船ディスカバリー号に在った。白骨頭蓋の彼も又、未踏峰チョー・シャブへの途上にあったとの、突然の確信に襲われる。
 揺らぎが彼の未踏峰への意思に由来するものなら、白骨頭蓋に触れることにより彼の意思は甦り、私にバトンタッチされたのかも知れない。私の肉体を借りてフランクが、1000年の刻を超え、再生されたような幻惑に襲われる。  白骨頭蓋の彼の名はフランク。 未踏峰への孤独な挑戦者・フランクからの揺らぎが、切断寸前まで張り詰めていた緊張の糸を緩め、肉体に潜む私の「老い」をゆるゆると霧散させる。数分にして私の肉体は、20代と思われるフランクの肉体に取って代わった。
 既視感のなかで、3日後にチョー・シャブの山巓に立つ私自身が見える。フランク・プールは目覚めたのだろうか?
 



 3  CBC
(チョ・オユーBCへ)


チョー・シャブの北壁は絶望的であった。頂上からバルン氷河に一気に落ち込む壁は、黒々とした急峻な岩壁と氷で構成され、壁全体が雪崩の通路であることを示している。北壁へのアプローチには氷河横断があり、ヤクキャラバンを組めそうにない。
 となると此処からは見えない反対側の南西面に、登攀ルートを求めるしかない。
 翌7月30日、バルンのキャンプを撤収し、予定していたチョ・オユーのBC(ベースキャンプ)へ向かった。朝、ほんの少し晴れ間が見え、さてはブレーク・モンスーンの好天周期かと期待したが、午後から再び雪。雪のちらつくCBCは深い雪に閉ざされ、山も氷河も見えない。
 登山シーズンには200張りものテントで埋め尽くされるのだが、今は唯1つのテントも無く寂しい。ポーターの作った石積みのチョルテンが、白い霧のヴェールに墓石のような影を幾つも投ずる。
CBCの隊長テント
標高5640mのCBCは、チョー・シャブから北西に伸びる尾根の南西面にある。チョ・オユーへは、ここからギャラク氷河をトラバースして取り付く。 チョー・シャブへはギャラク氷河の右岸に沿って進む。その先は全く判らない。北壁より厳しい山容をしていれば、登攀ルートを見出すのは難しい。  雪の降る暗く寂しいCBCで希望を紡ぎだすのは容易ではない。2日後に予定しているルート偵察で、ルートが見出せず撤退を決意する自分が見えてしまう。
 連日の雨や雪の中で一体どうやってルートを探せというのか?  希望の欠如を癒す術は無い。こんな時はトランペットの振動に身を委ねるのもいい。
 久しぶりにニニ・ロッソの音色でテントを満たす。
 シャブ氷河  
        4C1(キャンプ1)

ルート偵察と荷上げを同時進行する。短期速攻するには、偵察後、ルートを見極めてから荷上げするなど悠長なことは、やってられない。偵察の結果、絶望しか見出せなければ、重い荷をそのまま持ち帰ればいいだけのこと。
 ギャラク氷河右岸のモレーンにルートを取り、坂原、村上、ピンゾーの3名で、未だ見えぬチョー・シャブの南西面を目指す 3時間登ると氷河は、チョ・オユーの北西稜によって2つに分かれる。南の氷河はチョ・オユーの西面に食い込み、北の氷河はチョー・シャブの南面に大きく展開する。北の氷河をシャブ氷河と呼ぶことにする。
 幸い雪は止み、雲底も7000mを超え、チョー・シャブの稜線が姿を現す。南東から北西へと左右対称のピラミッドを描き、チョー・シャブ南西面が、初めて我々の前に全容を見せた。南面は雪をとどめず黒々とした岩が露出し、西面は厚い雪と氷に覆われている。チョ・オユーとチョー・シャブを結ぶ稜線は、深く切れ込み、チョー・シャブが、チョ・オユーの姉妹峰ではなく、独立峰であることを示している。

    右に落ちる南東稜にルートを取ると、ずたずたに裂けたクレバスのある
氷河がアプローチになる。左に落ちる北西稜に入るには、チョー・シャブ西面の垂直に切れた、下部氷河と対決せねばならないようだ。
 一見すると雪崩、ヒドンクレバス落下の危険性は高いものの、南東のコルへ出て南東稜を登頂ルートにした方が良さそうである。
 そうなると、C1はシャブ氷河をトラバースした、チョ・オユー北西稜下部にすべきだ。そこだけが雪崩を避けることの出来る唯一のポイントのように見える。
 北西稜へのアプローチは不明瞭なので更に登り、北西のコル下部の状態を偵察する。氷河分岐点で恐れた、西面の垂直に切れた下部氷河は、予想外に規模が小さく容易に通過出来そう。ルートは決まった。
 北西のコルに最終キャンプを設営し、北西稜からピークを攻めよう。ルートは決まったが、さしあたりC1の安全な設営場所を探さなければならない。 6596m峰の南面下部のモレーン丘を乗り越え、北西コルに到る谷に入る。
 直径数㍍の小さな氷河湖が、谷の段差を形成し、僅かな平地を生んでいる。テント設営にはラッキーな平地だが、氷河舌端部はゴルジュ(喉)となっているので、氷河崩壊があったら、ひとたまりも無くテントは飛ばされる。 ザックを置いて更に上部に登り、安全な設営地を探す。先行したピンゾーが手を振る。両手で丸を作っているどうやらテントサイトを見つけたらしい。
 ザックを背負って再び上り始める。高所順応の出来ていない肉体が反乱を起こし始め、前進を拒む。
 低酸素に肺が痛み、脳細胞が膨張して頭痛が酷い。高度5960mの垂直氷河舌端に着いたのは、14時。CBCから4時間。ここをC1とする。シャブ西面氷河が垂直に切れ落ちた氷崖の近くに、テントを張った。
 氷崖そのものは、そう大きくなく危険性もあまりなさそうにみえるが、雪崩の通路であることに変わりはないようだ。しかい、これより上部にテントサイトが見つかるとは、到底考えられない。
 サボイア氷河の巨大雪崩が、ベースキャンプを吹き飛ばす光景が浮かぶ。K2遠征で広大なサボイア氷河に幕営し、スキルブルム峰の支稜を我々が試登したのは、1994年。
 その3年後に同じサボイア氷河に幕営した広島隊は、K2からの巨大雪崩でベースキャンプが吹き飛ばされ、多くの隊員が死んだ。
 そのニュースがガッシャブルムの遠征中にポーターからもたらされた時、私は言葉を失った。あの広大な氷河を横断する雪崩があるなんて、信じられなかったのだ。ヒマラヤの雪崩に例外は無い。
 このC1幕営地は、サボイア氷河に較べれば遥かに危険度は高い。暗い予感に襲われるが、私の理性は私の判断を支持する。ヒマラヤの未踏峰を登るには「危険の甘受無しにはあり得ない」と理性は述べる。これを理性と呼べるのだろうか?
 


C2(キャンプ2)
登攀ルート1・2
 フランクと別れてからアタックの為の重い荷に喘ぎつつ、再びC1に入る。 前回抱いていたC1に対する暗い予感は、何処を探しても無い。むしろ反対に、初めてピクニックに来た少年のように、心が躍る。
 肉体も精神も、希望に満たされている。トランペットの音色に身を委ねざるを得なかったあの日の絶望は、完全に影を潜め、未踏峰アタックへの興奮にフランクが拍車をかける。
 白骨頭蓋のフランクに逢ったその夜テントの外に出てみると、なんと星が出ているではないか!今遠征で初めて見る星空に、フランクの目標である木星を探したが、考えてみたらこの時期、木星は昼の空にある。
 多分、星空はフランクの2度目のエールなのだろう。少年の心をプレゼントし、星空で未踏峰シャブを覆い、明日のC2偵察を実現させ、フランクは私と一緒にアタックするつもりなのだ。
 翌8月4日、坂原、村上の2名でC2偵察のため北西稜のコルへ向かう。 シャブ峰の西面氷河と6596m無名峰の東面モレーンに挟まれた谷を、モレーン側に巻いて登る。氷河からの雪崩と無名峰からの落石に注意して登れば、危険なルートではない。
  モレーンから氷河に移る手前で、やや傾斜の増した濡れたスラブが立ちはだかり、再度、無名峰側を巻く。  かつては万年氷河の下にあり、光を浴びることの無かったスラブが、地球温暖化による氷河後退で姿を現したのだ。
 8月下旬には冬が始まり、もうすぐこの小さなスラブは、雪の下で眠りにつく。この氷河の下で眠るフランクも、再び永い凍結に入り、もしかすると2度と姿を見せないかもしれない。
 コンピューターHALの反乱によって、宇宙船ディスカバリー号から真空の宇宙へ放り出され、永劫の死の彷徨を余儀なくされたフランク。
 それから1千年の刻を経て、海王星の軌道の外側で、昨日フランクは私に発見された。 背後に忍び寄るフランクの気配をふと感じて、振り返る。  やはりフランクは私と一緒に登っているのだろうか? 昨日のフランクの発見場所が見えないかと、目を凝らす。シャブ氷河とギャラク氷河の広大なうねりの上に、雪と氷を纏った巨大なチョ・アウイが直立する。
 7351mの高さを誇るその神々の建造物は、雪を大量に孕んだモンスーンの雲をドレスのように靡かせ、深遠な宇宙への旅立ちを待つ。
  ディスカバリー号だったのか!
 キャラバンを開始し、初めてその直立する巨大な建造物を目にした時、奇妙な親しさに戸惑った。降雪の合間を縫ってチラリと姿を見せる度、その親しさの由来を思いあぐねていたが、心象風景の宇宙船ディスカバリー号だったのだ。
 氷河の広大なうねりの手前にあるモレーンに、フランクは身を横たえているのだが、いくら目を凝らしても見えはしない。
 
   小さなスラブを越えてから、シャブ西面氷河に出る。目の前に北西のコルが迫る。山頂付近のガスが薄れ、シャブ頂稜が徐々に全容を現す。
 フランクの眠る下部氷河で仰ぎ見た山容と、大きく異なる。放物線のように左右対称な曲線の頂点は、シャブの山頂ではなかった。曲線の頂点から北東に向かって雪稜が暫く続き、その突端が雪と氷のミックスしたオベリスクになっている。そこより高い所は無い。
 13時00分、呆気なく北西稜のコルに着いてしまった。昨年のパヌ峰での、垂直の黒い氷河との悪戦苦闘とは、比べものにならない。多分ここからオベリスまでの広大な雪壁が、シャブ登頂の鍵を握るのであろう。
 眼下にバルン氷河が横たわり、北方彼方にティンリ高原が広がる。もしコルが鋭利な氷稜だったらC2設営は断念せざるを得ないと心配していたが、心配は無用であった。
 コルは数張りのテントが充分に張れるスペースがあるが、シャブ西面の広大な雪壁からの雪崩には、要注意である。コルの無名峰側は岩稜が所々露出し、予想していたよりも難しい登攀になりそう。
 14時00分、岩稜に荷上げ品をデポし、C1に下降。コルの恐ろしさは翌8月5日になって、初めて判明した。



北西コルのC2
  ピンゾーを加えて名で再度C2への荷上げ。
 坂原が先にコルに達し、テント設営場所をチェックし、雪踏みをしながら後続を待つ。大分平らになったが、4人用のテントを張るには未だ狭い。南側をもう少し広げようと、足を一歩踏み出した途端、右足が吸い込まれた。  底無しの深い穴がポッカリ。 ヒドンクレバス(亀裂の表面が塞がれたクレバス)だ!
  おかしい。
 コルは風の通り道。雪は風に飛ばされ、積雪量は少ないはず。ヒドンクレバスが生じるには、数㍍から数十㍍以上の積雪と傾斜が必要である。コルには充分な積雪量も亀裂を生む傾斜も無い。
 それなのに何故、このコルにヒドンクレバスがあるのか? 
 多分、モンスーン期の連日の降雪が生み出した、規模の小さい僅かな雪の空洞であろうと判断し、雪踏みを続ける。そうだ!この穴をキジ場(トイレ)にすれば、トイレ造りの手間が省けるなどと楽観。 
 
後続の2人が上がって来たので、3人揃ってテントサイトの仕上げにかかり、更に強く雪を踏み固めた瞬間、雪面が大きく陥没。
 ヒドンクレバスの上で雪踏みをしていたことに気づき、即撤退。無名峰側の岩稜の露出地点まで戻り再びテントサイト造りを行うが、一抹の不安が残る。
モンスーン期のコルの恐ろしさは、膨大な積雪量にあったのだ。
 コルでこれだけの積雪量があり、ヒドンクレバスが発達しているということはこの先、シャブ頂稜までのルートは推して知るべし。
 
  チョ・アウイ・7351m 
              6アタック

 8月6日(金) 雪後曇り
 動脈血中酸素濃度(SPO)63%
 起床安静心拍数59
 起床安静時体温35.6度
 高山病自覚症状5段階の2(5が最悪)
 北西稜のコルは標高6350m、シャブ山頂が7022m、その差672m。ビバークせずに充分アタック出来る標高差であるが、問題はヒドンクレバスとラッセルである。
 昨夜も雪が降り続いたので、雪崩の恐れもあるが、これはルートを西壁の中央にある小さなリッペ(岩壁の凸部)にとり、避ける以外に術は無い。  坂原、村上、ピンゾーの順でザイルを組み、明るくなった9時30分、C2を出る。出だしは膝までのラッセルで、予想外にピッチが上がる。明け方まで降っていた雪も止み、時々チョ・オユーの北壁が、雲間から現れる。
 
 北西コルのC2を眼下に  
   西壁の中央にあるリッペに出るまでは、雪崩の脅威に晒され続けるので、全力を尽くしスピードアップする。
 体力の消耗を最低限に抑えるよう、ラッセルの回数を減らし、歩幅を大きくする。後続する村上が、この大きな歩幅についていけず、悪戦苦闘することは分かっているが、ザイルのトップの体力消耗は後続の比ではない。
 登頂までの長いスパンで体力配分をしなければ、トップは続かない。2時間のラッセルでリッペ下部に達する。 ここから傾斜がきつくなり、ラッセルは腰までの深さになり、
    表層雪崩の恐れが一層増して緊張が続く。

 雪がふわふわになり、プレス出来ない。上半身を前に倒し雪を両腕で固め、更に膝打ちし最後に登山靴で足場を作り、右足の体重をかけた途端、右足が吸い込まれた。
 右足を抜こうと左足に力を入れると、身体全体が沈み込み始め恐怖が込み上げる。
 両腕を前に投げ出し、思い切って体重を前方に移す。頭を前面に突っ込むようにして、落下を食い止める。ヒドンクレバスに捕まったのだ。左上にルートを変更し、何とか底無し雪から脱出。
 リッペに積もった雪に、ヒドンクレバスが発達することはあり得ない。するとこの膨らみは、大量に積もった雪が自らの重さに耐えかね、ぶつかり合い競り上がった結果なのだろうか。
 もしそうであるならば、この一帯はヒドンクレバスの巣窟になっているということだ。雪崩から安全かと思って選んだリッペは、とんでもなく危険な死の地帯であり、一刻も早く脱出せねばならない。 
 後続する村上が叫ぶ。振り返ると腰から胸まで雪に塗れ、前進出来ないと言っているようだ。ラストのピンゾーが大声でさけぶ。
 「Go down ! Too much dangerous」
 ピンゾーはこれ以上登るのは危険だからC2に戻ろうと訴える。登れないと言っている2名に無理強いするわけにはいかない。
 「Ok!Separate your rope. I will go up only one」
 ピンゾーは危険性を強調し、今日は撤退し再度アタックしようとザイルを解かない。村上は1人で下れるから、ピンゾーと2人で登ってくれと言う。
 

無名峰・6734m
 ヒドンクレバスの巣窟上を村上1人で下らせるなんて、あまりにも無謀。 今ラッセルして来たトレールをそのまま辿って下るとしても、トレールがヒドンクレバス上に無いとは言い切れない。
 あの急雪壁さえ乗り越えれば、頂稜まで困難な場所は無さそうに見える。 1人で下るよりもザイルを組んで登り続けるほうが、遥かに安全である。 村上に再度登高を促し、ザイルを引く。引っ張り上げるつもりで、ザイルを肩絡みにして全身の力を込めて引く。
 足掻きもがき、何とか前進を試みるが、村上の身体は柔らかい雪に沈み込んだまま動かない。これ以上雪面を刺激すると、ヒドンクレバスの入り口が拡大し落下の危険もある。
 
     「無理です。登れません」

 「よし、この下にプラトーがある。あの平坦部分で、トランシーバーをオープンにして、待っていてくれ。ピンゾーも下っていいぞ」
 ピンゾーは暫く逡巡したが、登高続行を決意。
 村上がプラトーに下降したのを見届けてから再び地獄のラッセルを開始。 傾斜はやや緩くなってきたが、やけにザイルが重い。振り返ると、何とピンゾーがアンザイレンしているザイルを引っ張りながら登っているではないか。
 固定ザイルと勘違いしているのだ。重いはずである。
 トップを交代して、この先の長丁場に備えて、体力の温存を図る。ところがザイルに頼って登っていたピンゾーがトップに立つと、俄然スピードアップし、体力の温存どころかラッセルに着いていくのが精一杯。



チョー・シャブ山巓
 ピンゾーはザイルのラストを務めながら、充分に体力を温存し、トップの出番を待っていたのだろう。セカンドになってみて、ザイルに頼りたい気持ちがよく分かる。雪が深いので、セカンドのラッセルも半端ではないのだ。
 時々ガスが晴れ、頂稜部が見え隠れするものの、相変わらず雪がちらつき眺望は悪い。南北に延びる頂稜中央に向かって一直線にラッセルを切るピンゾーは、高山牛のヤクそっくり。
 そういえばピンゾーの高所食は、いつもヤクの干し肉とツァンパ。昨夜も我々と一緒にアルファ米の五目御飯を食べた後、ニコニコしながら、嬉しそうにヤクの干し肉を食べ続けていた。
 勧められて食べてみたが、そう美味しいものではない。ピンゾーのヤクのように強烈な体力が、ヤクの干し肉に起因するなら、今度は真面目に食べてみようかな。
 

 頂稜に出ると、ガスの切れ間にチョ・オユーの北壁が迫る。頂稜を北に折れ、最高点のオベリスクを目指す。このまま体力が続けば1時間ほどで山頂に達する。高度計を見る。6930m。あと標高差100m程である。
 時刻は14時30分、明るいうちに登頂出来ると判断。いつもヒマラヤのスケールの大きさに騙されているのに、又もや甘い観測をしてしまったことに気づく。
 いくら頂稜を辿れど、山頂は見えない。希望に陰りが混じり始めると、登高スピードが落ち、急激な疲労感に襲われ足が鉛のように重くなる。
 緩やかな頂稜のラッセルが果てしも無く続く。さすがのピンゾーもヤクパワーが切れたのか、ザイルが延びない。



チョー・シャブ頂稜直下
 2度、3度、ガスと雪の境界が
最高点らしき様相を見せる。
その地点に立つと
更に頂稜はその先に上昇し
嘲笑うがごとく雪が舞う。
5度目の雪稜の手前で
高度計を見る。
7040m。
地形図の山頂は7022m。
今度こそ山頂に間違いない。
雪稜の上に立ち
村上とベースキャンプを
トランシーバーで呼び出す。
「16時、標高7040m
多分頂上だと思います。
このままガスが晴れるのを
待って頂上であるか確認します」



チョー・シャブ頂稜
数点の写真を撮り
行動食をテルモスの湯と共に
流し込み
ガスの晴れるのを待つ。
南の一陣の風が一瞬
雪とガスを追い払い
目の前に山頂のオベリスクを
出現させた。
やはりここが山頂だったのだ。
ピンゾーが叫ぶ。
「Summit!Sakaharasan.
Congratulation!」



ギャラク氷河
 3日前に出逢った下部氷河の白骨頭蓋・フランクが
見せてくれた既視感映像は
正しかった。
切断寸前まで張り詰めた
緊張の糸を緩め
《3001年終局への旅》へ
誘ってくれたフランクに
感謝せねばならない。
下部氷河で出逢い
チョー・シャブの山巓まで
同行したフランクが
ゆるゆると私の肉体から
消失していく。
私の肉体を離れてフランクは
何処へいくのだろう。

彼にとって
目の前のオベリスクは
宇宙船ディスカバリー号から
放たれたスペースポッド
なのかも知れない。
多分、彼はオベリスクに乗って
再び宇宙の虚空へ
旅立つのだ。

別れの時が来たのであろう。
あと2ヶ月で還暦を迎える老いた肉体にとって
フランクとの旅が
極上な旅であったことは言うまでもない。
「さようならフランク!
ありがとう」



チョー・シャブ北壁
チョー・シャブ》 プロフィル

位置
  チョ・オユー(8201m)の北西5㌔。
北にバルン氷河、南にギャラク
氷河を従えている。

高度
7022m

 記録
 
 未踏峰。TMA(チベット登山協会)には試登記録無し。

名称
欧米の地形図にはPalung Ri、
TMAの地形図にはQow Xabと記録。

概要
 8千㍍峰の中では容易に登れる山として人気の高い山の1つであるチョ・オユーに隣接。チョ・オユーのBCからも近く、当然登られている山であると思っていたが、TMAの回答では未踏峰であるとのこと。
 尚、TMAで出版している「雪域神山」にチョー・シャブとして掲載されている写真はチョ・オユーのものであり、間違いである。



雪崩れる雪壁を前に
さかはら・ただきよ

1944年、埼玉県生まれ。
日本教員登山隊代表。
1975年のヨーロッパ遠征をスタートにパキスタン、チベット、ロシア等の
高峰に登頂。
1981年ムスターグアタ北峰(7427m)の初登頂や
83年にナンガ・パルバット(8125m)
’87年に同西壁の登頂に成功する。
’98年以降はチベットの未踏、無名峰の登攀に力を注ぎ
Mt Saka(6380m)をはじめ
数多くの山を命名している。



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