仙人日記
 
 その111の22015年  如月

2月2週・・きれいにすきとほつた風をたべ

蔓梅擬きに届けられたのダイアモンド
2月9日(月)晴 奥庭

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、
いちばんすばらしいびろうどや羅紗らしやや、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
・・・・・
≪注文の多い料理店・序文≫

  大正十二年二月二十日
宮沢賢治



ログの森も真っ白

山荘の野菜も雪の下
またまた雪だ!
2月8日(日)雪

観てしまったかい?
雪が融けて、
未だ少し気泡を残しつつ
透明なダイアモンドになって
光を発しているのを!
あの光がずーんと
胸に響いて
あんまり嬉しかったもんだから
その光の言葉に
耳を傾けて、
一心に聴いてみたんだ。

でもやっぱり、聴こえて来たのは
あの宮澤賢治の
注文の多い料理店・序文。
如何なる言の葉も
あの序文には及ばないね。

ボンシルバーも雪まみれ

雪に眠る奥庭



雪のダイアモンドに届けられた真の宝石
2月9日(月)晴 奥庭

きれいにすきとほつた風を、賢治がたべた2月20日と云えば、丁度今の時期。
雪の野に出た賢治は、枝に積もった雪が融けて次々とダイアモンドに変わっていくのを
きっと観ていたんだろうね。

91年前の1924年、賢治28歳。
春4月20日に初めての詩集・「春と修羅」を、心象スケッチとして自費出版同様にして出す。
当時の世間一般には受け入れられず、大半が売れ残ってしまう。
売れない詩集を自ら引き取り、岩波書店の学術書と交換するよう岩波茂雄に、依頼した書簡が残っているとか。

しかし全く評価されなかった訳ではなく、餓死したダダイストの辻潤(当時39歳)が読売新聞に
≪この詩人はまったく特異な個性の持主だ≫と評価。
更に詩人の草野心平は「春と修羅」を一読後、その新鮮さに瞠目し、感銘と激賞の文を賢治に送り、
心平が自ら主催する『銅鑼』同人に勧誘する。


きれいにすきとほつた風をたべ
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
(前庭:山法師に絡む雪)

その7か月後の12月1日には
童話≪注文の多い料理店≫を
再び自費出版。

盛岡高等農林学校の1年後輩の
近森善一を発行人とし
近森の出版業を手伝っていた及川四郎と
賢治の3人で
1000部印刷するが売れず
200部を賢治自身が買い取る。

近森の資金繰りが悪化し
及川も売れ残った本を買い取り、
近所の子どもたちにかけっこをさせて
順位に関係なく配ったりしたとか
(参照:wikpedia)

売れなかった理由は幾つかある。
「春と修羅」が辻潤、草野心平によって
評価されたとは云え
特異で難解気味である賢治の童話が
当時の文壇や社会に
受け入れられることは無かった。

2つ目の理由として1円60銭と云う値段。
確かに装丁も金箔で
立派な作りではあるが、些か高い。
当時の映画入場料が
30銭程なので
現在に換算すると6千円位になる。

初版本レプリカ
ツヤっとした紺色の地に
金の箔押し
背表紙には猫
自費出版同様に1000部を出版
 大正13年12月1日発行  1円60銭

挿画は、画家の菊地武雄
レプリカですら中々目に出来ず
初版本が何冊残っているかも不明な今、
近所の子供たちに配られた
無償の初版本には一体どれほどの値が
付けられるのであろうか?

この2度の出版の試みの後、
自分の膨大な作品が
未来で高く評価されることを堅く
信じていた。にも拘わらず、
決して再度の出版を試みることはせず、
唯ひたすらに作品を書き続けた。
9年後に賢治は、生まれた岩手県
花巻町にて37歳で死す。

1896年6月15日に発生した「三陸地震津波」
の約2ヶ月後に生まれ
誕生から5日目の同年8月31日には
秋田県東部を震源とする「陸羽地震」に襲われ
死の6か月前1933年の3月3日には
「三陸沖地震」発生。

大地の裂ける音と共に生まれ
大地の呻吟する声と共に
去った賢治は、書かざるをえなかったのだ。
「春と修羅」、「無声慟哭」、
「雨ニモマケズ・・・」を始めとする
あの膨大な作品群を。

大地の呻吟を肉体に刻み付けた賢治で
あったからこそ、静かなる大地で
きれいにすきとほつた風を
たべ
ることが出来たのだと、ふと思う。


テラスも真っ白 2月9日(月)晴 

前庭の雪テーブル
惰眠洞妄語 
辻 潤

宮沢賢治という人は
何処の人だか、
年がいくつなのだか、
なにをしている人なのだか
私はまるで知らない。
しかし、私は偶然にも近頃、
その人の
『春と修羅』という詩集を手にした。
 近頃珍しい詩集だ。
私は勿論詩人でもなければ、
批評家でもないが
私の鑑賞眼の程度は、
若し諸君が私の言葉に促されて
この詩集を手にせられるなら
直ぐにわかる筈だ。
 私は由来気まぐれで、
甚だ好奇心に富んでいる
しかし、
本物とニセ物の区別位は
出来る自信はある。


 私は今この詩集から沢山の
コーテェションをやりたい
慾望があるが。
 
わたしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
というのが序の
始まりの文句なのだが、
この詩人はまったく
特異な個性の持主だ。
芸術は独創性の異名で、
その他は模倣から
成り立つものだが、
情緒や、感覚の新鮮さが
失なわれていたのでは
話にならない。
若し私が
この夏アルプスへでも
出かけるなら
『ツァラトストラ』を忘れても
『春と修羅』を携えることは
忘れはしないだろう。

≪惰眠洞妄語≫
辻潤の読売新聞連載のエッセイより
大正十三年七月十三日

2階テラスの左に富士山

里もすっかり雪景色 
 
水晶峠からの日の出


さあ、それでは冬駐車場オープンを祝して歌ってあげよう!
山荘専属歌手・四十雀(シジュウガラ)が歌うアリア 2月9日(月)晴 奥庭

賢治が放った2つの衝撃

心象スケッチと名付けられた膨大な詩作群と童話作品の中で、生前出版されたのは
僅か2冊、「春と修羅」、「注文の多い料理店」だけだった。
それも自費出版同様であったことを考えると、
当時の文壇や出版業界が、賢治の投げかけた衝撃に対して如何に鈍感であったか!

強烈な衝撃を秘めた膨大な作品群を抱え、出版されることなく
ほぼ無名の作家として死んでいった賢治。
文壇権威者の誰もが、気づくことの出来なかったその最初の衝撃を、
辻潤は、草野心平はどのように受け止めたのか?

長年意識下で探していた、その最初の衝撃をキャッチした≪惰眠洞妄語≫を
いとも簡単にネットで見つけ
小躍りして歓び、早速当HPに載せてみた。
実は宮沢賢治→辻潤→伊藤野枝→竹久夢二→辻まこと→
竹久不二彦→笠井彦乃→坂原冨美代と
一筋の細い糸で結ばれていたとは、お釈迦様でもご存知あるめえ。




冬の日本は 15年ぶりであります


どさっとがやって来た。

「9日に成田空港に着いたら、そのまま特急で
山荘に直行するので
夜の8時58分には塩山に着きます」

と直前になってメールが入る。

出来るだけ早く
山荘滞在の日程を知らせるようにと予め
伝えておいたのに
まさか帰国早々のその足で山荘に来るとは
まったくの想定外。

8日にはたっぷり雪が降り、
雪に閉じ込められる前に帰京しようと
準備をしていたが
急遽変更し、雪掻き開始。

大変だ!雪掻きしなくちゃ!
2月8日(日)雪 冬の駐車場

ご無沙汰しております。 年賀状を受け取りました。
ありがとうございます。
たまたま急な事なのですが、
2月に日本に行く予定を入れたところでありました。

2月9日から21日までです。
いつも日本に行くのは
梅雨の蒸し暑い時期ばかりだったので、
なんと冬の日本は15年ぶりであります。

栗田


先ず車の雪から

次に車の出路を確保せねば

メールで日程変更を促してもいいのだが
直前のメールなので
最早、陽介君は機上の人で、PC操作不可能。
何としてでも除雪して
冬の駐車場まで車が登れるようにせねば。

雪の降る中、先ずは山荘下の
冬駐車場まで降りて
車の除雪から始め、農道へと進む。
問題は数百メートル下の農道の急な入口である。
この急坂に雪があると
スタッドレスであろうが、チェーン付きであろうが
全く受け付けない。
タイアは唯、空転するのみ。

ある程度の積雪があっても下るだけなら何とか
可能だが、車での登坂は無理。
冬タイアを装着しても、山荘の急坂をFF車で
登ることは出来ないのだ。

重い荷を持って下の里からラッセルしつつ
山荘に登るなんてのも悪くはないが
ザックでなく大きなトランクを持って、となると
こりゃ大変!

車で登るには、せめて冬の駐車場だけでも
雪掻きしておかないと
車を出すことも出来ないのだ。

 
さあ、これでけるか?
里に降りて山荘路への雪掻
2月9日(月)晴 福生里

此処が問題の急坂なのだ。
此処の雪を除かねば、山荘の冬用の駐車場にさえ行くことが出来ない。
だが、この農道の先には山荘しかないので、当然誰も雪掻きなんかしない。
朝から夕刻まで陽の当たる南面路なので、数日陽に当てれば
冬タイアが効力を発する程度には、雪が融けるのだが
今日、陽介君が来るとなると、悠長に待っている訳にはいかない。今朝の雪掻きは避けて通れないのだ。

≪ようすけのためなら、えーんやこーら!≫


JAFの出現じゃ!

ボロボロの冬タイア
山荘の愛車は
冬タイアの摩耗度を示す
プラットフォームが消えてしまう程
走り込んでいるので
この急坂には手も足も出ない。

「陽介来る」のメールを受けた直後
東京から直ぐホンダに電話し
山梨の駐車場に置いてある
車のタイア交換を依頼。
従って、現在は新品の冬タイア。
雪掻きさえすれば
何とか登れるのでは?

そこで翌9日は朝起き出すと同時に
スコップを担いで農道に出向き
再度、雪掻き開始。
さて本日快晴予定の太陽が
残りの雪をどこまで融かしてくれるかが、
陽介君の命運を決める。

あれ!JAFが登場してるけど
これどうしたの?
実はね、冬タイアに替えたのを
過信してハンドル操作し
脱輪してしまったらしいんだ。
さてさてこんな調子では
この先どうなるのかね?

新品冬タイア175/70R13東洋G4

脱輪現場 ハンドルを左に切るだけで脱輪解除

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